王城 - masquerade -



 ヴィルヘルムがいるという貴賓室に案内されたカサンドラは扉の前で足を止め、深く呼吸を繰り返す。そして身なりを改めて整えつつ、浮かべていた憂鬱な表情を消し去った。表情を引き締め、意を決して扉をノックすると、すぐに入室を促す声が聞こえて来た。「失礼致します」と声を掛けた後、ちらりと背後に控えるブルーノを一瞥してからカサンドラはゆっくりと扉を開いた。
 豪奢な調度品がそれぞれを引き立てるように配置される中、部屋の中央にその男は座していた。ゆったりと椅子に腰かけた暗い銀色の髪の男は伏せていた瞼を持ち上げ、その碧眼とカサンドラの紅い瞳が重なり合う。


「お待たせして申し訳御座いません、ヴィルヘルム殿下」
「構わん。急に来たのは私だ」


 だが、私が来た理由は既に分かっているのだろう。
 冷やかに告げるその言葉と向けられる視線にカサンドラは息を飲んだ。分かっていないはずがなかった。ヒッツェルブルグ帝国の第一皇子であるヴィルヘルムがわざわざこのような場所にまで来るのだ。先の橋や本隊壊滅の件でないはずがない。向けられるその冷やかな視線から僅かに目を逸らしつつ、「存じ上げております」と口にする。
 喉はいつの間にかからからになっていた。普段は暑いと思う気温も今は何も気にならない。向けられる冷たい碧眼を前にすれば、気温など瑣末なことだった。本国から滅多に出ることのないヴィルヘルムを南方のゼクレス国にまで呼び寄せることとなったのだ。彼の怒りがどの程度のものであるかは想像に難くない。


「貴様に預けた兵士の八割が死亡、その上、最重要拠点の一つである大橋も落とされる。……一体どのようにして責任を取るつもりだ?カサンドラ」
「……申し訳御座いません、殿下」


 下手な言い訳など口に出来るはずもない。だったら、何も言わない方が余程いいように思え、カサンドラは深くヴィルヘルムに対して頭を下げた。そんな彼女を一瞥した彼は「まあ、いい。どのような状況だったのかを聞かせてもらおう」と口にすると、ちらりと視線がカサンドラの後ろに控えていたブルーノに向く。
 すぐ傍から息を飲む気配が伝わり、カサンドラはブルーノに冷やかな視線が向いているのだということに気付く。ヴィルヘルムの瞳はいつもとても冷やかなものだ。氷の刃のようなそれを向けられると、喉がからからと乾いてしまう。その証拠に、自身が見た現状についての報告を求められたブルーノの声はとても掠れたものだった。


「その、……俺、……私がダールマン指揮官と別れた時は、あのようなことをするようにはとても……」
「普段のダールマンであれば、奪取した兵糧を調理させて食すような、そんな愚かなことはしないだろう。するとすれば、自己顕示欲を満たす為……誰かに自尊心を甚く傷つけられた時だ」


 あの男は指揮官に任命されたことを甚く喜んでいたからな。
 ヴィルヘルムはその時のことを思い出すように目を細めながら遠くへと視線を向ける。生唾を呑む気配が伝わって来たカサンドラはブルーノに心当たりがあるのだということに気付いた。元々、彼が指揮官となる以前のダールマンの部隊に所属していた兵士であったということは知っていた。恐らくは、本隊が駐屯しているテントに赴いた時に顔を合わせ、ブルーノがダールマンを挑発したのだろう。
 カサンドラは要らぬことをしてくれたものだと内心舌打ちしていると、「まあいい。たとえどのような理由であれ、あの男は指揮官には向いていなかったということだ。それを見抜くことが出来なかった私にも落ち度はある」とヴィルヘルムは口にする。その言葉にほっと安堵するブルーノだったが、次の瞬間には再び冷やかな視線が向けられ、彼はびくりと身体を震わせた。


「だが、要らぬことは二度とするな」
「……肝に銘じます、殿下」
「その言葉、努々忘れるなよ。カサンドラ、貴様も部下の指導は、」


 しっかりと、というヴィルヘルムの苦言を遮るようにばたんと勢いよく後方の扉が開いた。頭を下げていたカサンドラとブルーノは何も前触れもなかったということもあり、咄嗟に身構えるも、部屋に駆け込んで来たのはいつになく上機嫌の少年だった。彼の後に続いて入って来たアウレールはヴィルヘルムに対して一礼すると静かに開け放たれたままだった扉を締める。
 対する少年はカサンドラとブルーノの前を駆け抜けると、ヴィルヘルムのすぐ傍で足を止めた。色の白い頬は紅潮し、その声は喜びでいつもよりも高いものだった。「お久しぶりです、ヴィルヘルム様!」と常とはまた違う満面の笑みを浮かべながら言う少年にそれまで冷やかな表情だったヴィルヘルムも僅かに表情を緩める。


「久しぶりだな、元気そうで何よりだ」
「ヴィルヘルム様もお元気そうで安心しました。言って下さればお迎えに行ったのに……どうやってこちらまで来られたんですか?」
「西の迂回路を使った。お陰でいつもの倍以上の時間が掛かったがな」


 吐き出される言葉にカサンドラはびくりと肩を震わせる。それ以上は何も言われなかったが、この一件によって自身の評価が急激に下がっているということは明らかだった。黒の輝石の研究から外されない為にも何とかしなければと思うも、要らぬことをして不興を買うわけにもいかない。カサンドラは唇を引き結び、依然として会話を続けている二人へと視線を向けた。


「そう言えば、弟も帰還したと聞いた。此処には来ないのか?」
「実は橋の崩落に巻き込まれて……怪我で具合がよくないのです。弟もヴィルヘルム様にご挨拶するべきなのに、ごめんなさい」
「いや、挨拶ぐらい構わん。怪我か……そんなに酷いのか」
「……片目を失いました。……あいつらがあんな作戦を実行するから……!」


 燃え上がり、崩落する橋を思い出したのか、少年は苛立ちを露にする。ヴィルヘルムの前ということもあり、常のように口汚く罵るようなことこそしないものの、ぎらりと光る黒の瞳は殺意に染まっていた。彼にしてみれば、橋を落とされたことも弟を傷つけられたことも決して許すことが出来ないのだろう。
 カサンドラはその背を黙って見つめていると、「丁度いい。橋が落とされた時のことを聞かせてくれ」とヴィルヘルムは口にした。報告書は全て提出しているものの、実際に話を聞けるのであれば、聞かずにはいられないのだろう。そんなことを考えているうちに彼の説明は始まった。
 夜中に突然、橋の近くにベルンシュタインの小隊が現れたということ、そこから橋には防御魔法が展開され、次々と火薬や魔法石が橋にばらまかれた。そこで、現在実験が行われている特殊な弓矢をアウレールに与えたのだというとと兵を差し向けようにも敵小隊には捕縛対象のアイリス・ブロムベルグがいた為、満足に兵を動かすことが出来なかったのだということを告げると、「そうか」とヴィルヘルムは一つ頷いた。


「ライルらしい作戦だな。自軍本隊でこちらの気を引き、その隙に少数の部隊を送り込む……余程、こちらに送り込む部隊に信頼がなければ実行出来ない作戦だ」


 甘ったるくて反吐が出る。
 微かに緩められていた表情が一変して心底不快感を露にしたものへと変わった。ゲアハルトが立案した作戦は、失敗する確率の方が余程高いものだった。ごく少数の人数で帝国領の奥地を目指し、ゼクレス国間際の橋を落とす――傍からすれば無理難題を押しつけ、死地へと向かわる非道な作戦でしかない。けれど、実際に作戦は実行され、橋は作戦通り落とされ、結果的には成功となった。この部隊ならば成功するというゲアハルトの信頼とその信頼に応えようと奮戦した部隊による成功だ。
 だが、ヒッツェルブルグ帝国の者からしてみれば、信頼の上に成り立つ作戦など、有り得ないという考えが普通だった。ベルンシュタイン王国以上に謀略と駆け引きが行われているこの国において、信頼関係など成り立つはずもない。現にこうして顔を合わせている鴉の面々にとっても、互いに信頼しているとは言えない。全ては互いの打算の上に成立している関係だ。それぞれが叶えたいこと、得たいものの為に、手を結んでいるに過ぎないのだ。


「せっかく司令官の座にまで上り詰めたのに政敵を討ち取らなかったが為にかつて追いやった男に引き摺り下ろされる。我が従兄ながらあいつは甘すぎる。こちらに残っていたとしても、あの男では帝国をまとめることなど出来ないだろう」
「とっくに廃嫡されて、皇統もヴィルヘルム様の側に移ってますからね!」
「ああ。あいつがどうにか幽閉を解かれたとしても、司令官の座に戻れたとしても、もう遅い。……黒の輝石の完全覚醒は近いからな」


 囁くように吐き出された言葉にカサンドラは微かに目を見開く。暫く帝都を離れていたということもあり、研究は他の者らが行っていた。その報告も届いてはいた為、黒の輝石の完全覚醒が近いということも知ってはいた。しかし、それを改めてヴィルヘルムの口から聞くと、より実感が湧いて来たのだ。
 それと同時にちらりとヴィルヘルムの青い瞳を向けられ、カサンドラは表情を消し去る。そして口を引き結んでいると、「だが、黒の輝石が完全覚醒したとしても、帝都から軍を動かすには時間がかかる」と溜息混じりに彼は言った。話は再び落とされた橋の件に戻され、じわりと嫌な汗が背中を伝った。


「カサンドラ、貴様ならばライルの作戦を見抜けたはずだろう。かつて奴と共に兵士としてベルンシュタインに属していた貴様なら」
「……申し訳御座いません、殿下」
「謝罪の言葉を聞きたいわけではない。貴様を部隊の指揮官に任じたのは、貴様がベルンシュタインの兵士であったから、ライルの作戦を見抜くことの出来る頭脳があると判断したからだ。……だからこそ、私は貴様を受け入れ、貴様の願いを聞き入れた」
「分かっております、殿下。此度の失敗は必ず挽回してみせます」
「当然だ。挽回出来なければ、貴様は除隊、黒の輝石の研究からも外す。……そのことを努々忘れるな、カサンドラ。貴様の代わりはいくらでもいる」
「……承知しております、殿下」


 告げられた言葉にカサンドラは唇を噛み締める。鴉から除隊されるぐらいならばまだいい。だが、黒の輝石の研究から外されることだけは避けなければならない。そうでなければ、自分の願いは叶うことはないだろう。手掛かりは掴めているのだ。あともう少しで、抱き続けた願いは成就される。成就されれば、後は除隊されようが何だろうが構わない。それまでの辛抱だ、あと僅かな間、この場にいられればそれでいい――カサンドラは自分自身に言い聞かせながら、爪が食い込むほどに拳を握り締めた。


「ところでヴィルヘルム様、帝都から軍を動かすのに時間がかかるなら今から動かしてはどうですか?」
「それはまだ早い。ベルンシュタインでは……確か、ルヴェルチといったか。その男が正妃が所有しているという白の輝石を入手するのだろう?それが確実になるまでは此方も動くわけにはいかない」


 下手に動けば、ルヴェルチも代理執政官としてベルンシュタインの国軍を動かさなければならなくなる。もし彼が何の手も打たなければ、代理執政官としての地位が揺らぐだろう。そうなると、ルヴェルチが白の輝石を入手する交換条件である第一王子シリルの国王即位にも影響が出かねない。即位が実現しなければ、正妃キルスティも白の輝石を手放さないだろう。
 手段を選ばなければ、それこそ今すぐにでも白の輝石を奪取することは出来るだろう。だが、白の輝石は完全覚醒間際の黒の輝石を管理下に置く為には必要不可欠なものだ。白の輝石に何かあってはならず、それを思えば、より安全で確実な手段を選ぶしかない。それが、ルヴェルチがキルスティより交換条件で受け取る、というものだった。


「だが、ルヴェルチだけに任せておくには不安がある。……よって、これより貴様らには王都ブリューゲルに潜入、白の輝石奪取を命じる」
「ヴィルヘルム様、その作戦にはボクの弟も連れて、」
「いいえ、それは駄目よ」


 爛々と瞳を輝かせて言う少年の言葉をカサンドラは厳しい声音で遮った。ぴしゃりと言い放たれた言葉に彼は顔を歪め、「どうして駄目なの?カーサ」と彼女を振り向く。ありありと苛立ちを露にする少年を前にしつつ、カサンドラは彼の背後で黙しているヴィルヘルムへと視線を向ける。
 少年とその弟はヴィルヘルムのお気に入りだ。虐げられていた幼い少年らを助けたのがヴィルヘルムであり、それ以来、彼らの面倒を見ているのだと聞いている。下手なことを言えば、少年だけでなくヴィルヘルムの叱責を受けることになるだろう。しかし、これ以上の失敗が許されないカサンドラにとっては、失敗するよりもこの場で受ける叱責の方が余程ましだった。


「彼は怪我をしているし、何よりこの数カ月間、ベルンシュタインに潜入していた彼からの報告は途絶えがちだったわ」
「何それ。ボクの弟が生温いベルンシュイタンの奴らに絆されたとでも言いたいの?」


 いくさカーサでも怒るよ、と少年は眉を寄せ、眦を吊り上げる。今にも飛びかかって来そうな少年の様子に背後に控えていたブルーノが心配げに「おい、大丈夫かよ」と囁く。カサンドラはそれには答えず、真っ向から少年の向こうにいるヴィルヘルムを見つめる。


「その可能性も無きにしも非ずでしょう。殿下、白の輝石を奪取する為にも不安要素は排除するべきです」
「……なるほど。確かにカサンドラの言い分も正しいか」
「待ってください、ヴィルヘルム様!ボクの弟がそんな、あんな奴らに絆されるわけがないです!ヴィルヘルム様から受けた御恩をまだボクたちは返せていないのに、そんな恥知らずなことが出来るはずない!」
「私は疑っているとは言っていない」
「でも!……でも、そんなことを言えば、カーサだって元はベルンシュタインの人間です。だったら、」
「騒ぐな」


 煩い、とヴィルヘルムは柳眉を寄せ、その一言に少年もカサンドラも口を閉ざした。一気にしんと静まり返る室内には彼の深い溜息がやけに響いて聞こえた。カサンドラは汗の伝う嫌な感覚に唇を噛み締めながらヴィルヘルムの言葉を待つ。


「カサンドラ、貴様があいつの見張りをしろ」
「そんなっ見張りなんて!」
「それで白黒はっきりするだろう。絆されたのか否か、カサンドラが見張れば貴様らも気が済むだろう」


 ベルンシュタインに潜入していた少年の弟を疑っているのはカサンドラだ。そんな彼女が見張り、何事もなければそれはカサンドラの勘違いだったという話で済む。わざわざ他の誰かに任せ、彼女が納得しなければ話はいつまでも終わらない。そう言われると、二人もそれ以上は何も言えなかった。
 少年は苛立ちに満ちた視線をカサンドラに向ける。常とはまるで違うその視線を受けるも、彼女は顔色一つ変えることなく、「分かりました。ヴィルヘルム様のご提案通りにさせて頂きます」と口にする。少年だけが納得していない様子だったが、それまで黙していたアウレールもブルーノも特に何も口にしない。彼らにとっては然程興味のないことなのだろう。


「話は以上だ。準備が整い次第、王都ブリューゲルに向かえ。そして必ず、白の輝石を手に入れろ。これ以上の失敗は許さない」


 底冷えのする声音はかつて共に戦った男とよく似た顔から吐き出された。こんなにも似ているのに性格はまるで違うことを思い出しつつ、カサンドラは深く頭を垂れた。



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