王城 - masquerade -



 冷たい水で顔を洗い、エルンストは肺に溜まった空気を全て入れ替えるようにゆっくりと呼吸を繰り返す。真新しい衣服に着替えていつもの白衣を羽織ると、幾分か気分もましになった。それでもこの数日の間で染みついた血のにおいはなかなか取れそうになく、エルンストは自身の手に鼻を寄せて顔を顰めた。
 改めて石鹸を手に取ると、入念にそれを泡立てて手を洗う。それでも、石鹸のにおいに紛れて落ちることのない血のにおいは残っていた。エルンストは溜息を吐くと、仕方がないとにおいを落とすことを諦めてタオルで手を拭く。そして、医務室を占領している三つの担架を一瞥する。
 そこには既に寝かされた者の上に布が広げられていた。その布の下が誰であるのか、知っている者は決して多くはない。それらを無感動な瞳で眺めていると、コンコンと控えめなノックの音が聞こえて来た。誰何の声を上げると、扉の向こうにいる者らが先ほど呼び寄せた第二騎士団の残留出来た兵士だということが分かった。


「入って」


 そう声を掛けると、滑り込むようにして六人の兵士が入って来た。誰もが顔を引き締め、てきぱきとそれぞれの担架を持ち上げ始める。彼らはこの布の下に誰がいるのかを知っている。そして、彼らに対してエルンストが何をしたのかも知っていた。
 それでも尚、顔色一つ変えることなく担架を持ち上げるのは、彼らにしてみれば怒りの対象だからだろう。自分たちの特に近しい仲間を虐げた相手であり、決して許すことの出来ない人物らだ。エルンストもそれを分かっているからこそ、彼らに声を掛けたのだ。


「馬車の準備も出来ています、シュレーガー先生」
「移送先にも連絡済みです」
「了解。ご苦労だったね。あともう少し、移送が完了するまでよろしく頼むよ」


 さすがにこの場では出来ることは限られている。出来得る限りのことはしたが、それでもやはり医務室では設備も不十分なのだ。だが、移送することも決して簡単なことではない。誰にも見つからずに運び出さなければならず、だからこそ、エルンストも慎重に事を進めていた。
 エルンストは持ち上げられた担架に近付き、被せている布を僅かに捲る。そして、露になった寝かされている男の顔を一瞥し、酷く不快げに顔を歪めた。


「……売国奴はどっちだよ」


 ぽつりと呟いたエルンストはそのまま布を元通りにすると、扉を開け放ち、「運んで」と告げる。まだ起床時間間もないということもあり、それほど宿舎で生活している者も起き出してはいない。人目につかない方がいいが、だからといって誰もが寝静まった真夜中に動けば、あらぬ疑いを掛けられることは分かり切っていた。
 だからこそ、エルンストもこうして当たり障りない時間帯に動くしかなかった。既に国葬から十日ほど経過しているものの、相変わらず自身に付けられた監視が外される気配はない。いい加減、そちらもどうにかしなくてはと思いつつ、エルンストは担架を運ぶ兵士の前を歩いていた。


「おや、こんな朝早くから何事ですか?」
「そちらこそ、こんな朝早くからどうして此方に?ルヴェルチ代理執政官」


 玄関まで来たところで、エルンストは足を止めざるを得なくなった。部下を引き連れたルヴェルチが丁度宿舎にやって来たのだ。最も出くわしたくなかった相手に遭遇したことで一瞬エルンストは顔を顰めるも、すぐににこやかな顔で対応する。質問を質問で返されたルヴェルチは眉を寄せ、「質問しているのはこちらです」と口にする。


「見ての通り、死亡した兵士を移送するところです。先日、怪我人の報告書を提出したはずですが」
「ああ……あれですか」
「何なら遺体を確認しますか?」


 見たのか見ていないのか分からない曖昧な態度を取るルヴェルチに対し、エルンストは担架の布を軽く捲り上げる。露になる足元は傷だらけで、とてもではないが見られたものではなかった。すぐさま顔を歪めて視線を逸らすルヴェルチとその部下をエルンストは内心鼻で笑った。
 見せなくていいから早く行けとばかりに手を振るルヴェルチに一礼すると、「行くよ」とエルンストは肩越しに兵士らに声を掛ける。そしてルヴェルチの脇を通り抜けて玄関から出ようとした矢先、「そう言えば、」と足を止めてエルンストは口を開いた。


「先日、俺のところにテオバルト監察官が来られましたよ。どうやら俺の失脚材料を探しているらしい」
「……それで?」
「また来ると言われていたのにいつになっても来られないのでどうしたのかと思っただけですよ」
「監察官としての仕事は貴方の件以外にもいくつもあります」


 それだけだと言わんばかりにルヴェルチは部下を引き連れて歩き出す。エルンストはそんな彼を鼻で笑い、同様に外で既に待機している馬車へと向かって歩き出した。だが、やはりルヴェルチの動向が気に掛かる為、兵士らに馬車に担架を積み込むようにだけ言うと、踵を返して宿舎へと戻った。
 程なくして廊下からはルヴェルチらに声が聞こえ、「テオバルトは必ずこの宿舎の何処かにいるはずだ。探し出せ!」という声が聞こえて来た。壁に背を預けてその会話を聞いていたエルンストは口の端を吊り上げると、そのまま音もなく壁から背を離し、玄関へと向かって歩き出す。
 馬車まで戻ると、既に積み込みは終了していた。エルンストは待機していた兵士らを労うと、「ルヴェルチが宿舎内を捜索させてる。適当に追い払っておいて」とだけ言って自身も馬車へと乗り込んだ。了解しました、という返事に対して緩い敬礼を返す。昼には戻るという旨を伝えると、馬車は緩やかに動き出した。


「……今更宿舎の中を探したって遅いのに」


 息子が戻らないことを気付いた時点で探すべきだったのだとエルンストは幕を下ろしながら呟く。そして、薄暗くなった馬車の中、被せられている布をずらせば、そこには硬く目を閉ざしたテオバルトの顔があった。薬品によって眠らされたその顔は傷だらけであり、血の気も悪い。それを一瞥したエルンストは布を掛け直すと、壁に背を預けて彼を捕縛してからのことを思い出す。
 知っていることを全て話させなければ、とエルンストはテオバルトとその部下に対して尋問を行った。無論、医務室で行えるだけの手は尽くして、だ。自白剤を始めとする薬物の投与や刃物や暴力も用いた。それでも当初はなかなか口を割らず、エルンストも手こずっていた。しかし、その意地の張り合いも、時間が経つにつれてテオバルトは劣勢となり、結果的には口を割った。


「まさか白の輝石をあのクソババアが持ってるなんて……探しても見つからないはずだ」


 白の輝石の譲渡を条件にシリルを国王の座に付ける――それがキルスティとルヴェルチの間で結ばれた約定だった。そして、テオバルトの口からルヴェルチが鴉と繋がっているのだということも明らかになった。しかし、それ以上のことになると、未だ口を割ろうとはしない為、より尋問の設備が整っている専門の場所に移すことにしたのだ。
 ルヴェルチも今はテオバルトの捜索に意識が向いている。尋問はシュレーガー家の私兵に任せれば、多少ではあるがエルンスト自身が動く余裕も出来る。今ならば、それに気付いたとしてもルヴェルチに気に留める余裕はないだろう。宿舎内を捜索されても何一つとして証拠は出ないはずだ。
 エルンストは深い溜息を吐き出す。この十日ほどの間、まともに休めた日はない。寝不足による頭痛は酷く、身体は酷く重たい。少しは休まなければ、とさすがにエルンスト自身が思うほどの疲労感が身体を襲う。緩やかに揺れる馬車のそれは疲れた身体には心地よく、瞼は急激に重たくなる。到着まではまだしばらく時間はある。その間だけでも休もうとエルンストは壁に背を預けると、そのまま泥のように眠りについた。









「アイリス!」


 昼頃、アイリスは城内の回廊の片隅にいた。そこでレックスと落ち合う約束をしていたのだ。控えめな声で名前を呼ばれたアイリスが振り向くと、そこには急いで来たらしいレックスが僅かに呼吸を乱しながら歩み寄って来るところだった。黒く染められた髪や普段とは違う軍服にも慣れ始めたアイリスは僅かに表情を緩め、周囲を伺った。


「当たりだ。司令官とレオは北の地下牢に幽閉されてる」
「本当に?」
「ああ。間違いない、昨日先輩を酔わせて喋らせた」


 その言葉に僅かに眉を下げながらも、漸く掴めたゲアハルトとレオの居場所にアイリスは表情を引き締める。昨日、昼食の際に食堂に立ち寄った時、ふと耳に飛び込んで来たのだ。北の地下牢に配置されている警備兵らがゲアハルトとレオのことについての話をしていたところに通り掛かったのだ。話し声は微かだったものの、ゲアハルトやレオが幽閉されている為、気を遣って疲れるという内容を耳にしたアイリスはそのことをすぐにレオとエルザに伝えたのだ。
 北の地下牢はバイルシュミット城に存在する地下牢の中でも最も奥まったところにあり、警備も厳重だ。特に今はゲアハルトとレオを幽閉しているということもあり、警備の厳重さは通常の比ではないだろう。しかし、だからといって行かないわけにはいかない。一先ず、彼らの会話が本当かどうかの裏取りをすることになり、レックスが行うこととなったのだ。


「けど、どうする?あそこは警備も厳重だぞ」
「……真っ向から行くしかないんじゃないかな、やっぱり」
「真っ向からって、そんな」
「大丈夫。わたしは近衛兵だし、シリル殿下の許可はあるもの」
「殿下の許可が?」


 それが近衛兵団への異動の条件だと言うと、レックスは何とも言えない表情で溜息を吐いた。「そういう交換条件をちゃっかり出してるところ、エルンストさんみたいだ」と言われ、アイリスは微苦笑を浮かべる。相変わらず、エルンストとの連絡は取れないままだ。さすがに一週間近く取れずにいる為、彼のことを思うとどうしようもなく不安になる。
 出来ることなら、北の地下牢に向かう前にエルンストに連絡を入れておきたいところだ。だが、今は時間が惜しい。今現在は北の地下牢に二人は幽閉されているが、いつまでもそこに幽閉されているとも、彼らの身に何もないとも限らないのだ。ならば、異動する前に出されている指示通りに動くしかない。


「……アイリス、やっぱりオレも一緒に」
「だめだよ。怪しまれて、レックスが入れ換わってることが知れたらヒルダさんたちにも迷惑がかかるから」
「それは……」
「レックスには牢と手錠の鍵の型取りをお願いしたいの。わたしは地下牢に入れるけど、さすがに鍵まで触れないから」
「……ああ、分かった。こっちは任せてくれ」


 エルンストから届けられていた粘土を差し出すと、レックスはこくりと深く頷く。互いに無茶をすれば立場は悪くなる。そして、それはそのままエルザやバルシュミーデ家の立場にも影響するということもあり、無茶なことは出来ない。それはレックスも分かっているのだろう。深い溜息の後に彼は「絶対に無茶だけはしないでくれ」と呟いた。


「うん、分かってる」
「危ないと思ったらすぐに戻って来ること。……いいか、絶対だぞ」
「約束するよ」
「……破ったら許さないからな」


 歯痒げに顔を歪めるレックスにアイリスは努めて笑顔を浮かべて見せた。自分に出来ることを精一杯するだけだ。無茶をしたところでどうにもならないことも、エルザを始めとする周囲の人間に迷惑を掛けるだけだということも分かっている。アイリスは「また明日、報告するね」と言うとレックスもそれ以上は何も言わなかった。
 明日の落ち合う場所を決めると、アイリスはレックスと別れて一度エルザの元へと向かった。ゲアハルトやレオに手渡さなければならないものを取りに戻る必要があり、また、彼女にこれから北の地下牢に向かうことを伝える為だ。アイリスは漸く掴んだ居場所に安堵する反面、二人は無事だろうかという不安で胸がいっぱいになる。自然と早くなる足取りは次第に一歩が大きくなり、気付けば駆け出していた。



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