王城 - masquerade -



 エルザの元に一度戻ったアイリスは、ゲアハルトとレオが北の地下牢に幽閉されていることを伝えると、彼女は安堵と緊張、そして不安と心配の綯い交ぜになった表情を浮かべた。漸く掴めた居所に安堵する反面、無事なのかと不安に思っているのだろう。そんなエルザに対して「必ず助け出してみせますからご安心ください」と言うと、表情を緩めるものの、やはり心配げな顔をする。
 貴女に無茶をして欲しくないのよ、と言われたところで、漸くエルザの心配する表情の意味に気付いたアイリスは顔を綻ばせた。バイルシュミット城に来てからというもの、このような言葉を掛けてくれるのはエルザだけだ。それを思うと、自身が普段、どれだけ周囲の人間に恵まれているのかということを改めて実感する。
 アイリスは無事に戻って来るという約束をエルザと交わし、すぐに用意を整えると北の地下牢へと向かった。北の地下牢に幽閉されていると聞いたのは昨日のことであり、レックスが裏取りしたのは昨夜だ。今は昼を過ぎた頃であり、ゲアハルトとレオを他の地下牢に移す時間は十分過ぎるほどにある。敢えて流された情報であるのならば、北の地下牢には何らかの罠が仕掛けられていることだろう。それを思うと、不安が脳裏を過る。


「……きっといる、大丈夫」


 自分に言い聞かせながらアイリスは北の地下牢へと足を進めていく。たとえ場所を移されていたとしても、ゲアハルトであれば何らかの手掛かりを牢に残しているかもしれない。ならば、二人がいるにしろ、いないにしろ、北の地下牢に向かう意義はある。
 急いでいるように見えないよう、努めてゆっくりと歩きながらアイリスは軍服の下に隠した食糧や水、ナイフなどが見つからないように背筋を伸ばす。努めて表情を変えないように気を付けつつ、頭では地下牢に入るまでに警備兵に尋ねられるであろうことの受け答えや地下牢で誰かに出会った時の誤魔化し方などを考えていた。
 しばらく回廊を歩いたところでぽっかりと地下に続く階段が見えて来た。そこを少し下がったところに警備兵が詰めているのだということはレックスから聞いていたアイリスは、階段の前で足を止めるとゆっくりと呼吸を繰り返した。心臓は早鐘を打ち、緊張に掌は汗ばむ。夏だというのに涼しささえ感じる北の地下牢への入り口は、一度足を踏み入れれば、そのまま帰って来れなくなるのではないかというほど、底冷えのする冷たさを放っていた。


「止まれ!この地下牢は現在、立ち入りを制限して……失礼、近衛兵団の方でしたか。先ほども申しましたように、現在は許可のない方の立ち入りは制限されています」


 階段を下りていくと、突然怒鳴り声が響いた。びくりと身体を竦ませながらもゆっくりと階段を更に下りていくと、目を丸くした警備兵と目が合った。そして、アイリスが纏う深紅の軍服を見るなり、姿勢を正して敬礼した。そして、先ほどまでとはまるで違う丁寧な口調でこれ以上は先に進めない旨を言う警備兵にアイリスは眉を寄せた。
 しかし、いつだったか近衛兵団には貴族の子女が多いという話を聞いたことを思い出し、だからだろうと警備兵の変わり様には納得がいった。しかし、このまま踵を返して戻るわけにもいかないアイリスは立ち去ることなく、一歩進み出て「許可なら頂いてます」と先ほどまで考えていた受け答えの一つを口にする。


「それは何方にでしょうか」
「シリル殿下に地下牢の出入りは自由にしていいという許可を頂戴しています」
「……失礼ですが、お名前は?」
「アイリス・クレーデルです」


 そう言うと、警備兵は「クレーデル……」とアイリスが名乗った姓を反駁した。ブロムベルグの姓を名乗るよりも、この城では余程力があるはずだと思ってクレーデルの姓を名乗ったのだ。早鐘を打つ心臓に気付かれないようにアイリスは表情を崩さないように努める。ここで少しでも怯えや不安といった表情を浮かべれば、警備兵に警戒されるかもしれない。アイリスはゆっくりとした呼吸を心掛けていると、「おい」と奥からもう一人の警備兵が出てきた。
 奥から出てきた警備兵はアイリスをちらりと一瞥すると、応対していた男に耳打ちする。しかし、「ほら、国葬でシリル殿下が……」という言葉が漏れ聞こえ、彼女は眉を寄せた。国葬での出来事は、出来れば思い出したくないことだ。耳打ちされた警備兵もアイリスがどういった立場の人間であるのかを理解したらしく、男の目の色が変わった。
 アイリスの嫌う好奇に満ちた視線を向けられ、彼女は不快感に思わず顔を顰めそうになる。それを何とか耐えたアイリスは「ゲアハルト司令官とレオ殿下はどちらですか?」と早口に尋ねた。


「ゲアハルト元司令官は地下二階、レオ殿下は地下四階です。ご案内しましょうか?」
「結構です」


 それだけ言うと、アイリスは足早に階段を下りていく。先ほどまでは渋っていたにも関わらず、やけにあっさりと牢の場所を教えてくれたことに違和感を感じ、罠ではないかと周囲に警戒する。もしかしたら後ろから付けて来ているのかもしれないとも思うものの、シリルの許可を得ているという時点で既に彼らに止める気はなかったのかもしれない。
 どちらにせよ、自分のすることは変わらないのだということを思い直したアイリスは念の為にと杖を取り出し、それを手にしながらまずは地下二階にあるゲアハルトが捕えられているという牢へと急いだ。階段を下りていくほどに気温が下がるようで、薄暗いそこは夏にも関わらず涼しかった。かつんかつんと自分の足音しか聞こえないことを確認しながら、アイリスは地下二階の牢へと続く踊り場で足を止め、重々しい扉をゆっくりと押した。
 がこんという音と共に扉は軋みながら開いていく。中は階段同様薄暗く、所々、壁に取り付けられている松明だけが唯一の光源だった。ずっとこのような場にいれば、身体を悪くしてしまいそうだと不安に思いつつ、アイリスは奥まで続く牢へと近付いた。ゲアハルトはこの地下二階の牢のどこかにいるのだということは分かっている。しかし、何処にいるのだろうかと空室が続く牢に焦りを感じながら歩いていると、「……誰だ」という懐かしい声が通り過ぎ掛けた牢の奥から聞こえて来た。


「司令官!わたしです、アイリスです」
「アイリス……どうして君が此処に……それに、その軍服は……」


 牢の前に戻ったアイリスはひんやりと冷たい鉄格子を掴みながら、薄暗闇の中、ゆっくりと動いた影に向かって声を掛けた。松明の光が届くところまで出て来たゲアハルトは酷く驚いた顔をしていた。無骨な手錠を嵌められた彼の顔色は悪く、扱いが悪いことが伺える。それでも、暴力を受けた形跡はなく、そのことにアイリスはほっと安堵した。


「色々あって近衛兵団の所属に異動になりました」
「異動?だとしても、近衛兵でも此処までは来れないはずだ。一体どうやって……」
「無理矢理、突破して来たわけでもこっそり潜入しているわけでもありません。シリル殿下の許可は得ているので此処まで普通に入れました」
「殿下の許可を?」
「司令官が捕縛されてから色々ありましたから」


 その色々が何であるかを自分の口からゲアハルトに言うことは出来なかった。腑に落ちないと言わんばかりの顔をする彼にアイリスは誤魔化すように「わたしがクレーデル家の養女だということもバラされちゃいました」と肩を竦めて見せれば、ゲアハルトは柳眉を寄せた。
 ゲアハルトが捕縛されて既に一週間以上が経過し、状況は刻一刻と変わっている。今現在の状況を早く報告しなければと口を開くも、彼の顔を見ると言葉が出なかった。思い出したのだ、ゲアハルトが捕縛されることとなった理由を。彼がヒッツェルブルグ帝国の皇子であるという話は真実なのかどうか、アイリスはその答えをまだゲアハルトの口から直接聞いていない。
 聞いてもいいものだろうかと明るい青の瞳を見返しながら、言葉に悩む。率直に聞くことも憚られる話題であり、アイリスは宙に視線を彷徨わせながら言葉を探していると、「俺のことだろう」とぽつりと彼の声が耳に届いた。


「……はい」
「……ルヴェルチが言ったことは、事実だ」


 何度か口を開閉させ、言い淀みながら彼はその言葉を口にした。ルヴェルチがゲアハルトは敵国ヒッツェルブルグ帝国の皇子だと言った。そしてそれを彼はアイリスの前で事実であると肯定した。
 そうかもしれない、とは彼女自身、思っていたことではある。エルンストに尋ねた時、彼は言葉を濁した。だが、その濁したという行為こそが、普段ならばはっきりとした物言いをするエルンストらしからぬものであり、答えだった。
 顔を伏せるゲアハルトを見つめ、アイリスは何と声を掛けようかと考える。だが、こういう時に限って言葉とは浮かんで来ないものだ。大丈夫、などと気安く声を掛けられるような問題ではなく、だからといって黙っているわけにはいかない。ゲアハルトに何か言葉を掛けたいと思うのに、気の利いた言葉は何も浮かんではくれなかった。
 その間にも時間は刻一刻と進んでいく。限られた時間の中、伝えなければならないことは山ほどある。アイリスは顔を伏せるゲアハルトへと手を伸ばし、手錠で拘束された手に触れた。思っていることをそのまま伝えるのが一番いい、と彼女はひんやりと冷たい手を軽く握りながら口を開いた。


「貴方が帝国の皇子でも、わたしにとっては司令官です。冷たくて、それでいて優しくて……ちょっと不器用で頑固で、時々意地悪な……わたしの大事な仲間です」
「……だが、俺は……帝国の人間で……」
「生まれる場所は選べません。ただ、貴方が生まれたのが帝国の皇子という場所と立場だっただけのことです」


 本当はずっと隠しているつもりだったのだろう。そうでなければ、然るべき時に自身の口で公表するつもりだったに違いない。それをあのような形で明らかにされたのだ。捕縛されている間、ゲアハルトは一体何を考えていたのだろうかと思いつつ、アイリスは少しでも自分の言葉と体温が彼に伝わればいいと冷え切ったままの手を握り続ける。


「わたしはこの半年、司令官のことを見てきました。半年なんて短い期間で一体何が分かると思われるかもしれません。……でも、いつだってこの国を守る為に戦われて来た姿もホラーツ陛下とお話されている姿も、決して嘘はなかったと思います」
「……」
「司令官はいつだって、この国に生まれた人よりもずっとこの国とホラーツ陛下のことを思われてきました。そのことを、わたしは少しだけど知ってます」


 その気持ちに嘘はないと思うから、だからわたしは貴方を信じます。
 ゲアハルトに会えたら、伝えようと考えていたことは山ほどあった。けれど、それらはまるで思い出せず、代わりにじわりと涙が目の端に浮かんだ。ベルンシュタインに生まれた人間よりもずっとこの国のことを思っている彼が、ヒッツェルブルグ帝国の皇子だからという理由でこのような仕打ちを受けていることが辛かった。
 敵国の人間であるということも、皇子だということも分かっている。本来ならば相容れないはずであり、倒すべき相手だということも分かっているのだ。けれど、何か理由があるからこそ、ゲアハルトはこの国にいるのだろう。その理由を知っているからこそ、ホラーツも彼のことを気に掛けていたはずだ。
 だが、ゲアハルトを庇護していたホラーツはもういない。ルヴェルチによって今まで味方だった周囲は敵へと変貌し、そんな中に一人放り投げられたような危機的状況に追い込まれてしまった。いくらゲアハルトでも、そのような窮地を簡単に覆せるはずもない。


「司令官、……ライルさん。多分きっと、これまで経験されてきた戦いの中でも一番きつい戦いになると思います。それでも、ライルさんのことを受け入れてくれる人もいます。わたしもエルンストさんもレックスもレオも、ヒルダさんやエルザ様だって……ライルさんが帝国の皇子だとしても、それでも変わらず受け入れてくれます」
「……アイリス」
「だから、こんなところで下を向かないでください。今だってみんな、ライルさんとレオを助ける為に、シリル殿下とルヴェルチ卿を止める為に必死に動いてます。……だから、だから……」


 込み上げてくる感情に喉がひりつき、上手く言葉にならない。堪え切れなかった涙が頬を伝い、ぽたりぽたりと地下牢の床に弾けて散った。辛さや苦しさ、怒りといった感情が綯い交ぜになり、胸が苦しかった。それでも、今自分がしなければならないことはゲアハルトに今の状況を伝えることだ。
 いつ警備兵が様子を見に来るとも知れない。早く伝えて物資を手渡さなければと思っていると、不意に耳にじゃらりと金属がぶつかり合う音がした。何の音だろうかと考えるよりも先に乾いた指先が頬に触れた。その度にじゃらじゃらとなる音は眼下で揺れる鎖の音であり、それはゲアハルトの手錠に付いているものだった。
 頬を伝う涙を拭う手は以前と変わらないものだったが、今は先ほどのようにひんやりと冷たくはなかった。


「……泣かないでくれ、アイリス。今はちゃんと、涙を拭ってやれないから」


 その声音は優しく耳に届き、視線を上げると確かな意志の宿った明るい青の瞳と重なり合う。いつもと同じ瞳だと、そのことにアイリスは安堵しながら小さく頷き、頬を伝う涙を拭った。そして自分自身を落ち着かせるように深い呼吸を繰り返す。
 そして、幾分か気持ちが落ち着いたところで、アイリスは「司令官……」と声を掛ける。一つだけ、どうしても伝えておきたいことがあったのだ。何だ、という声はいつもと変わらぬもので、そのことに安堵しながらアイリスは真っ直ぐにゲアハルトを見つめた。


「一つだけ、忘れないで欲しいことがあります」
「……ああ」
「たとえこの国の人間が貴方を裏切り者だと謗ったとしても、わたしは貴方の下で戦います。貴方が一人きりになったとしても、わたしは貴方の剣とも盾ともなって、最後まで戦い抜きましょう」


 それは誓いにも似た言葉だった。
 ゲアハルトは目を瞠り、言葉を失っている。そんな彼の様子を珍しい、と思いつつも、嘘偽りない気持ちをそんな風に驚かれるとは、と小さく苦笑を浮かべた。そんなに驚くほどのことではないだろうと思っていると「どうしてそんなに……」と信じられないとばかりの呟きが耳に届いた。


「わたしは貴方の下で戦いたいからです。だって、わたしにとっての司令官はこれまでも、今も、これからも、ライルさんだけだから」
「……」
「だから、ご命令を。司令官、わたしはこの国の為に戦いたい。大切な人たちを守りたいのです」


 その為にはゲアハルトの存在は必要不可欠だ。そしてそれだけでなく、ベルンシュタインが戦争を終わらせる為にも彼の存在は欠かせない。だからこそ、ゲアハルトにもそのことを知って欲しかった。周りは敵だらけだとしても、決してそれだけではないということも、彼のことを必要としている者もいるのだということを。
 少なくとも、アイリスにとっては彼はかけがえのない存在だ。レックスやレオ、エルンストといった仲間と同じように、大事な存在なのだ。この国のことを本当に大切に思っている彼の下でこそ、戦いたいのだということを伝えると、ゲアハルトは僅かに目を瞠った。そして顔を伏せ、きゅっと唇を噛み締めているのが伺える。


「……ああ、分かった」
「……」
「下を、向いている場合ではないな」


 絞り出すような、それでいていつもと変わらない声が聞こえる。それでも、目の端から伝ったらしい雫を隠すことは出来ず、床に弾けるそれに気付かぬふりをして、アイリスは「司令官には下を向く姿なんて似合いませんよ」と努めて明るい声音で口にした。



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