王城 - masquerade -



「そうか、エルンストとは連絡が取れていないのか……」


 互いに幾分か落ち着きを取り戻した頃、アイリスは現状を報告した。何が起きているのか、どのような動きがあったのかを伝え、時折ゲアハルトから尋ねられることに分かる範囲で答え続けた。そして話はこの数日の間、一切連絡が取れていないエルンストのことに移った。
 考える素振りを見せるゲアハルトを前に彼女は落ち着かない気持ちになった。自分とはなかなか連絡は取れないかもしれないが、彼の隠れ家を知り、連絡方法のあるレックスでさえも連絡が取れない状況なのだ。何かあったのではないかと考えるのが普通だろう。しかし、その話を聞いてもゲアハルトの表情は変わることなく、落ち着いたものだった。それがアイリスには不思議でならず、堪らず「あの……」と声を掛けてしまう。


「エルンストのことなら心配は要らない」
「でも、」
「あいつのことだ、もしも拉致などされても、それが伝わるように何らかの方法は考えているはずだ」
「……そうかもしれませんが……」
「だとすると、意図的にあいつが連絡を断っていると考えるのが妥当だろう。この数日に限って連絡が一切取れていないんだろ?だったら、あと二、三日もすればあいつの方から接触してくるさ」


 だからそんなに心配するな、とゲアハルトは微苦笑を浮かべる。エルンストのことは彼の方が余程よく知っているのだということは分かっている。また、ゲアハルトの説明にも納得はいくが、だからといって胸に巣食った不安が全て解消されるというわけではない。アイリスの表情はなかなか晴れず、それを見たゲアハルトは困ったように笑うばかりだった。


「それにしても、レックスまで入り込んでいるとは思わなかった」
「ヒルダさんの手引きだそうです。元々、ヒルダさんの親戚の方が警備兵として入隊されるはずだったのですが、その方の代わりに」
「なるほど。確かに今の時期なら予てより決められていた者以外の入隊はいくらバルシュミーデ家でも推挙するのは難しいだろうからな。目を付けられているシュレーガー家など以ての外だ」
「……あと、レックスの他にも第二の何人かは先日の戦いで死んだことにして待機しているそうです」


 エルンストのことが脳裏に過るも、アイリスはそれを首を振って思考を切り換えて報告を続ける。まとまった戦力とは言えないものの、今も何らかの理由を付けて少しずつ信頼出来る兵力を外に逃がしているのだということはレックスからつい先日聞いたばかりだ。その手筈を整える為に先に出された数人の兵士が尽力しているらしい。
 ゲアハルトは一つ頷くと、「だが、あまり無理はしないように伝えておいてくれ。ルヴェルチに勘付かれるようなことがあれば、あいつらも無事には済まない」と僅かに眉を下げて言う。アイリスは伝えておきます、と頷くも、こうしてゲアハルトの元に来ていることがルヴェルチに知れればと思うと、背中には冷たい汗が伝う。


「アイリス?顔色が悪いが……」
「いえ、大丈夫です。此処が少し肌寒くて……司令官は大丈夫ですか?」
「俺はさすがに慣れたよ。だが、もうそろそろ君も戻った方がいい。身体は冷やすものではないからな」


 やんわりと戻るように言うゲアハルトにアイリスは軽く首を横に振り、「その前に渡すものがあります」と目的の一つを口にする。軍服の下から携行食糧や水を取り出して牢の中に置きつつも、見つからないだろうかという不安もある。もしも警備兵に見つかれば、と思うと本当に渡しても大丈夫だろうかと考えていると、それが顔に出ていたらしく、ゲアハルトは「平気だ」と口にした。


「警備兵は中までは入って来ない。奥の影に隠しておくよ」
「それならいいのですが……それから、これも」


 ほっと安堵しつつも、アイリスは軍服の下から更にナイフを取り出す。小型のもので、隠すには最適なサイズだろう。それを手渡すと、ゲアハルトは軽くナイフを振って感覚を確かめる。振る度に耳障りなじゃらじゃらという鎖の音が聞こえるも、手錠を嵌められていたとしても、その動きは特に問題はない様子だった。
 いざという時のことを思えば、反撃出来るように武器を隠し持っている方がいいということは分かっている。だが、それは見つかればどのような目に遭うか分からない諸刃の剣だ。見つからないことを、それを使用することにならないことを祈りながらアイリスは「あの……」と口を開く。


「どうした?」
「……これからレオのところにも行こうと思ってるのですが……その、どういう顔をして会えばいいのかなって」


 ゲアハルトもレオもそれほど違う立場にあるというわけではない。どちらも自身の本来の身分を隠していたという点は同じであり、敵国の皇子であることを思えば、ゲアハルトと顔を合わせることこそ、戸惑いや躊躇いがあってもおかしくはない。だが、アイリスの場合はレオと顔を合わせることの方がずっと戸惑いや躊躇いがあったのだ。
 それは恐らく、キルスティやシリルとレオのやりとりが頭に残っているからだろう。特にキルスティのレオに対する暴言が忘れられず、それを浴びせ掛けられたレオの様子を思い返すと何と声を掛けていいのかが分からない。何かを言ったとしても、それが彼に伝わるかも分からない。不用意に自身が触れていい問題ではないということも分かっている為、自分に出来る最善のことが何であるかも分からなかった。


「……いつも通りの顔で会えばいい。何か言おうとしなくていい、傍にいてくれるだけで十分なことだってある」
「……そうでしょうか」
「ああ。多分きっと、君にだって同じ経験があるはずだ。……それより、首の怪我は平気か?」
「首?」


 唐突に変わった話題にアイリスが目を瞬かせていると、じゃらりという音と共にゲアハルトの指が鉄格子越しに伸びて来た。そして軽く触れられた首筋に僅かに身体を硬直させるも、「俺が斬り付けた傷のことだ」と心配げな顔で告げられ、アイリスははっとした表情になる。
 ルヴェルチを斬ろうとした彼の前に立ちはだかった時、振り下ろされた刃が浅くだが彼女の首筋を裂いていた。その時のことを言っているのだということは明らかであり、アイリスは改めてその時、刃が触れた箇所に手を伸ばす。浅い傷であり、状況も状況であった為、これといって手当などはしていない。薄らと傷は今も残っているだろうが、この薄暗さではいくらゲアハルトであっても気付くことはないだろう。


「大丈夫ですよ。これぐらいの傷、何てことはありません」
「痕は?」
「平気です」
「そうか……、それが気がかりだったんだ。痕が残ったのなら責任を取って貰い受けなければと思っていたから」
「……そういう冗談が言えるぐらいにはお元気な様子で安心しました」


 何てことを言うのだとアイリスは僅かに顔を赤くしながらもそう言うと、ゲアハルトは苦笑を浮かべる。そして、「いつものように顔を真っ赤にして慌てると思ったのに」と口にした。少しは言うようになったじゃないかと付け足されれば、アイリスはうっと言葉を詰まらせる。
 しかし、ゲアハルトに特に気分を害したという様子は見受けられず、ほっと安堵の息を吐く。アイリスは「それではそろそろ行きます」と声を掛ける。そろそろレオがいる牢に向かわなければならない。あまり時間を掛けている余裕はないのだ。


「ああ。気を付けてな」
「司令官もお気を付けて。また折りを見て来ますね」
「だが、無理はしないでくれ」


 これぐらいの無理をさせてくれたっていいではないか、と内心思いつつ、アイリスは小さく頷くとゆっくりと立ち上がった。そしてゲアハルトに一礼すると、そのまま足早にレオが幽閉されている地下牢へと急ぐ。階段まで戻るも、周囲には人の気配はなく、耳を澄ませても足音一つ聞こえない。
 アイリスはちらりと地上へと続く階段を見上げるも、すぐに視線を更なる地下へと続く方向へと戻し、足早に階段を下り始めた。









「ただいま、戻ったよ」


 与えられている居室に戻った少年は薄暗い部屋の中、ベッドで眠っている自身の弟に声を掛けた。ベッドの脇に腰掛け、痛々しく包帯の巻かれた腕を取り、そっとその手を両手で握る。触れたその手は温かく、その温もりに少年は頬を寄せた。耳を澄ませば、とくんとくんと小さく鼓動が聞こえて来る。
 それは生きている証だ。自分と同じく、心臓が脈を打っている音だ。だからこそ、この手は温かいのだ。弟は生きている。硬く瞳は閉ざされたままだが、それでも彼は生きている。そのことが嬉しくもあり、自身と同じ色をした瞳に自分自身が映らないことが寂しくもあった。
 それでも、これまで長く離れていたことを思えば、こうして触れられる距離にいるということはこの上なく幸せなことだった。これからはずっと一緒にいられるのだと思うと、離れていた間の寂しさなど消え失せてしまうほどだった。だが、その幸せに水を差されそうにもなった。そのことを思い出した少年は、それまでの穏やかな表情から一変して酷く苛立ちと怒りに満ちた表情へと変わった。


「……どういうつもりでカーサはあんなこと……いくらカーサでも疑うなんて許せないよ」


 苛立たしげに呟いた少年は、柳眉を寄せながら静かに眠り続ける弟の顔を見つめる。左目を覆うように巻かれた白い包帯は薄暗い部屋の中でも浮いて見えた。そこを指先で撫でながら、少年は顔を歪める。どうしてこんな目に遭わなきゃいけないんだ、と囁いた声音は涙に濡れていた。
 少年にとって弟は血を分けたたった一人の、かけがえのない兄弟だ。だからこそ、傍から見れば異常だと思われるほどに弟のことを溺愛して止まない。しかし、彼からしてみれば自分の家族を大切に思っているだけのことだ。そう、ただ、その大切さの方向性が他者とは大いに異なっているというだけのことだ。


「だけどもっと許せないのはベルンシュタインの奴らだ。……お前をこんな目に遭わせたあいつらを、ボクは絶対許さない」


 ボクが全員殺してやる。
 痛々しく目に映る白い包帯に唇を寄せ、少年は酷く優しい顔で囁いた。爛々と輝く黒曜石の瞳は殺意に彩られ、その背後では床を這っていた大蛇が彼の殺意に反応するかのように鎌首を擡げ、紅い舌をちろちろと出していた。



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