王城 - masquerade -



 ゲアハルトやレオと接触出来た翌日、アイリスは書類を抱えて長く広い廊下を歩いていた。近衛兵団に異動となってから既に二週間近く経っているということもあり、さすがに仕事や環境にも慣れて来た。未だに嫌がらせなども続いてはいるが、アイリスが然程相手にしないということとほとぼりも冷めて来たらしく、異動当初の頃よりも随分とましになった。
 少なくとも回復魔法を使わなければならないほどの怪我を負うこともなければ、好奇の視線を受けることも随分と少なくなった。無論、未だしつこく嫌がらせを繰り返す者もいるが、大半は既に飽きたらしく、アイリスが傍を通ろうとも気にした素振りは見せなくなった。
 アイリスは書類を運びながらこれからどうするのか、自分の行動について考えていた。ゲアハルトからはルヴェルチの行動を可能な限り探るようにと言われている。しかし、この数日の間、彼の姿を城内でちらりとも見かけたことがなく、人の話題にも上っていなかった。もしかしたら城に出仕していないのかもしれない――とは言っても、バイルシュミット城は広く、動き回っているであろう特定の人物の行方を捉えることは容易なことではない。


「どうしよう……わ、っ」


 何かいい方法はないだろうか、と考えていた矢先、廊下の柱の影から突然人が飛び出して来た。それに気付くのが遅れたアイリスは避けられず、抱えていた書類を磨き抜かれた床に撒き散らしてしまった。やってしまった、と思いつつも、ぶつかった相手は平気だろうかと「すみません、前方不注意でした。大丈夫ですか?」と声を掛けるも、返って来た返事は言葉ではなく押し殺した笑い声だった。
 書類を拾わなければと視線が床へと向いていたアイリスは聞こえて来る笑い声に戸惑いながら、視線をぶつかって来た人物――城仕えのメイドらに向けた。その表情は苛立ちと嫉妬と嘲りの綯い交ぜになったものであり、一目で自身を快く思っていない者たちであるということが伺えた。
 相手にしていられない、とアイリスは視線を外すと、床に散らばった書類を集め始めた。手早くそれらに手を伸ばして集めつつ、なくなっているものがないか後で確認しなければとこっそり内心溜息を吐く。面倒な相手に捕まってしまったことを今更ながらに悔やみながら、床に散らばったままの書類に手を伸ばした。だが、それを引き寄せるよりも先にかつん、という音と共に書類を汚れのない黒い靴が書類を踏みつける。


「……退けてください、足」


 強引に引っ張ろうものなら書類は破れてしまう。かといって、わざと書類を踏みつけている女を退かせようとすれば、暴力を振るわれたなどとでっち上げられるだろう。アイリスは顔を顰めながら、相変わらず顔を見合わせて自身を嘲笑っている城仕えの女たちを見上げた。
 彼女らに構っている時間はアイリスにはない。早く書類を届け、ルヴェルチの行方を探りたいのだ。まだ方法は見つかってはいないが、それでも彼女らに割いている時間はない。アイリスは苛立ちに柳眉を寄せながら再度、足を退けるように言おうとした矢先、「そこで何をしている」と冷ややかな声が彼女の耳に届いた。
 それと同時にそれまでアイリスを嘲っていた女たちは書類から離れ、背筋を伸ばして一礼する。それを横目に振り向きながら立ち上がれば、すぐ近くには数人の文官や武官を引き連れたシリルが立っていた。彼と会うのは国葬以来ではあるものの、すっかりと彼に対して苦手意識以上の感情を抱いているアイリスは自然と表情が険しくなる。
 そんなアイリスの反応を鼻で笑ったシリルは視線をアイリスを含むその場にいた城仕えの女たちへと向け、「此処で何をしていた」と問い掛けた。次期国王である彼に問われたならば、何をしていたかは答えなければならない。面倒は次から次にやって来るものだと思いつつアイリスは口を開くも、言葉を発するよりも先に「実は、」と心配げな声が隣から聞こえて来た。


「アイリスさんが書類を落としてしまわれたので私どももお手伝いしようとしていたところなのです」


 白々しいほど、困り果てた様子で言う女にアイリスはぎょっとした表情になる。そういったことを言うであろうとは予想していたものの、その作り込んだ声音や表情、それに同調して頷く女たちにはさすがに驚いた。無論、彼女らが口にしていることは事実無根であり、寧ろ、アイリスが書類を撒き散らしてしまう原因だ。
 その上、「そうですよね、アイリスさん」とまで彼女らは言う。向けられる視線は刺々しく、頷かなければどのような嫌がらせをされるか分かったものではない。かといって、このまま頷くことも癪であるアイリスは柳眉を寄せながら「シリル殿下、」と声を掛ける。途端に向けられる視線は鋭利さが増すも、彼女は躊躇わず口を開く。だが、それは嘘だと説明するよりも先に「ほう……それでは私が見たのは幻覚か何かか」と同じく白々しい口振りでシリルが口にした。


「私は書類を持って歩いていたアイリスに故意にぶつかり、あまつさえ拾い集めている書類を踏みつけているところを見たのだが……」
「そ、そのようなことは、そのようなことは決して……!わ、私たちは書類を落としてしまったアイリスさんを見つけて手伝おうと駆け寄って……!そうよね?ねえ、アイリスさんも!」


 仲間内で頷き合い、彼女はアイリスにも同意を求めて来る。しかし、今更何を言ったところでシリルの口振りからも彼が一部始終を見ていたことは明らかだ。現場を見られているのに言い訳も何もないだろう、とアイリスが考えていると、「では、その足元の汚れた書類は何だ?」とシリルは靴の跡が付いた書類を指差した。
 たとえ磨き抜かれた床であっても、多少の汚れはある。その証拠に城仕えの女が踏みつけた書類にはくっきりと靴の跡が残っていた。彼女らの顔は見る見るうちに青くなるも、それでも言い訳を止めようとはしない。


「拾おうとした時につい踏んでしまったのです。シリル殿下、断じて私どもは、」
「もういい」
「お、お待ち下さい、殿下!私どもは殿下がご覧になられたということは決して……!」
「ならば、私が見たものは一体何だったというのだ。私が嘘をでっち上げているとでも言いたいのか?立ちながら眠り、夢でも見ていたと言いたいのか!」
「そのようなことは……!」
「ならば何だと言うのだ。貴様ら、城仕えの下女の分際が私に嘘を吐くのか!」


 荒げられた声音が廊下に響き渡る。アイリスはその声量に思わず一歩引いてしまった。しかし、シリルの口の動きが止まることはなく、彼が言葉を発する度に彼女らの顔は青くなっていく。それを見ていることしか出来ないアイリスは何とも言えない表情を浮かべながら、これで少しは自分への嫌がらせが減ればいいのに――とシリルの叱責を聞いていると、「貴様らには暇を取らせる」という言葉が耳に届いた。途端に彼女らの顔色に焦りが加えられ、それだけはご容赦を、という懇願の声が聞こえ始める。


「どうか、どうかそれだけはご容赦ください、シリル殿下!」
「貴様らの代わりなどいくらでもいる。早く荷物をまとめて城から出て行け」
「殿下、どうか!お許しを、」
「くどいぞ、貴様ら。私に同じことを二度言わせる気か」


 冷やかなその言葉に彼女らは息を飲み、きゅっと唇を噛み締めると深く頭を下げた。これ以上、食い下がろうものなら斬り捨てられていたかもしれない。頭を垂れた彼女らはそのまま逃げるようにしてその場を立ち去った。シリルはその背を鼻で笑うと、「あの下女らが城を出たかどうか確認しろ」と背後に控えていた文官に声を掛ける。
 彼は一つ頷くと、足早に彼女らが立ち去った方向へと歩き出した。恐らくは城仕えの者の詰所に向かっているのだろう。後を追う文官に視線を向けながら、アイリスはさすがに暇を出すのはやりすぎだろうと柳眉を寄せ、「殿下、やりすぎではないでしょうか」と口にした。


「ほう、いじめられていた貴様がそれを言うか」
「……助けて頂いたことには感謝しています。けれど、暇を取らせるほどのことではなかったはずです」
「解せんな、貴様があの女どもを庇う理由はあるまい。……まあいい。だが、私は撤回しない。あのような女どもが城にいると思うと気分が悪い」


 暇を取らすには十分な理由だ。
 シリルはそう言うと、「貴様も書類を撒き散らすようなへまは二度としないことだ」とだけ言い残して足早に歩き出す。アイリスはその背を何とも言えない表情で見送った。
 何故、彼が自分を助けたのか――その理由が分からなかった。自分に手を出した理由はあくまでもレオを公の場に引き摺り出す為だろう。レオが言っていたことではあるものの、アイリス自身もそのように感じていた。彼はレオから王位継承権を剥奪したいらしいということは、先日の国葬のことを思い出すと明らかだった。
 ならば、もう自身の役目は終わったはずだ。シリルにとって自身はレオを引き摺り出す為の餌に過ぎず、その役目を果たした今、敢えて助ける必要もない存在のはずだ。それがどうして、と不思議でならなかった。しかし、いつまでも立ち去ったシリルの背を見送っているわけにもいかない。
 アイリスは床に散らばったままの残りの書類を回収して汚れを払うと、足早に届け先へと向かった。そして、今頃ルヴェルチは何処にいるのだろうかと彼がいそうな場所を考え始めた。

 





 その後、ルヴェルチの居所の手掛かりさえ掴むことが出来ないまま夜になった。最初は逃げ場にしていた夕食後の鍛錬も、今は逃げ場というよりも日課となっていた。時間は確実に進み、暑く寝苦しい夜も少なくなり始めている。少しではあるものの、涼しい風も吹くようになり、鍛錬にも丁度よくなりつつあった。
 そんな中、今日も鍛錬を終えたアイリスはそろそろ休もうと宿舎へと戻り、玄関に差しかかったところでそこに数人の人影があることに気付いた。こんな夜に誰だろうかと不思議に思う反面、そこにいた人物らの顔を見ると最早溜息しか出なかった。玄関で待ち構えていたのは、アイリスが異動になってからというもの、彼女にちょっかいを出し続けている近衛兵団所属の女性兵士だった。
 苛立ちを露にした整った顔立ちは冷やかで、身なりからしても貴族出身であるということは明らかだった。その中でもとりわけ、冷やかにアイリスを見つめ、柳眉を寄せている女が「ちょっといいかしら」と視線と同じぐらいに冷やかな声音で口にした。


「何でしょう」


 無視したいところだが、行く手を阻まれているということもあり、致し方なくアイリスは応じた。出来る限り、相手にすることも絡まれることもないようにと気を付けていたのだ。それでも、こうして相手側に待ち伏せされたとなれば、避けることは難しい。今日はツイていない――今更ながらにそんなことを考えていると、「貴女、やってくれるじゃない」と苛立たしげに彼女は口を開いた。一体何のことだろうかと考えるまでもなく、指摘されていることは昼間の一件であるということにすぐにアイリスは気付いた。


「あの子たちに暇を取らせるようにシリル殿下にお願いでもしたのかしら」
「そのようなことをした覚えはありませんし、あのことは殿下ご自身のご命令です。お話はそれだけならこれで失礼します」


 恐らくはあの城仕えの女たちと親しい間柄だったのだろう。仮に親しくなかったとしても、自身を疎んじているという点では同じだ。そういう意味では彼女らは仲間であり、暇を取らされたという文句を口にしていてもおかしくはない。厄介な相手に絡まれたものだと内心溜息を吐きながらも、当初よりも幾分も対応に慣れているアイリスは話を打ち切って脇を通り抜けようとした。
 しかし、数歩も行かぬうちに「待ちなさいよ!」と鋭い声が投げ掛けられ、半ば乱暴に手首を握られる。その痛みに顔を顰めながら足を止めたアイリスは「離してください」と努めて冷静な声音で言った。しかし、それが余計に面白くなかったらしい彼女らは一様に顔を顰める。しかし、すぐにその整った顔立ちは侮蔑を含んだ笑みを形作る。


「さすが仲間を見捨てて逃げ伸びた方は違うわね。自分の所為で誰が暇を取らされようと全く気にしないんだから」
「……、」
「貴女のこと、調べさせてもらったわ。先日のライゼガング平原で戦った時、仲間を一人、置き去りにしたらしいじゃない」
「それは……」


 どうしてそのことを知っているのか、と目を見開くも、それ以上に脳裏に過ったアベルの最期の光景に心が苦しくなる。それまであくまでも冷静だったアイリスの表情は脆く崩れ去り、悲しみと苦しみと後悔が混ざり合った複雑な表情へと変わった。
 しかし、ライゼガング平原でのアイリスら小隊の工作任務はあくまで公式には秘された任務であり、知る者は少ないはずだ。どうしてそれを彼女が知っているのだろうかと思うも、その口振りからしても決して全てのことを知っているというわけではない様子だった。恐らくは、アイリスが所属していた小隊の一人がライゼガング平原で戦死したということを知ったのだろう。
 アイリスは何も言うことが出来なかった。置き去りにしたという言葉が胸に突き刺さるも、その通りだとも彼女自身、思っていることだった。自分はアベルを置き去りにした、見殺しにしたのだ。その考えが一気に先ほどの言葉で心の奥底から引き摺り出され、心を圧迫し、鈍い痛みで満たしていく。


「酷いことをするのね、騎士団って。仲間を平気で見捨てるような女のどこを殿下は気に入られたのかしら」
「……」
「戦争孤児だっていうし、鍛錬ばかりで色気もなければ汗臭いだけ。掌だってこんなに汚いのに」


 強引にアイリスの掌を広げた彼女はそこに出来た肉刺を見るなり顔を顰め、触りたくもないとばかりの投げ捨てるようにアイリスの手を離した。吐き捨てるように罵られたアイリスは悔しげに顔を唇を噛んだ。
 戦争孤児であるということも、鍛錬ばかり積んでいることも決して恥ずかしいとは思っていない。そして、肉刺が出来ている掌も、それは自身の努力の証拠であり、アイリスの自信に繋がる大切なものだ。それをそのように言われるなるとやはり腹立たしく、所属は違えど同じ兵士としてその発言はどうなのかとさえ思えてならなかった。


「……仮にも兵士なら、貴女方だって鍛錬を積むべきでしょう。王家の方々をお守りするのが近衛兵団の務めのはずです」


 睨むような目で彼女らを見据えながら口にすると、彼女らはきょとんと目を瞬かせた後に互いに顔を見合わせ、噴き出した。その笑いは次第に大きなものへと変わり、玄関には嘲笑が響き渡った。
 決して間違ったことをアイリスが口にしたわけではない。近衛兵団の存在理由は王家の人間を守ることにある。そのためにも鍛錬を積むことは必要不可欠なことのはずだ。しかし、先ほどアイリスの手を握っていたその手には傷もなければ、肉刺もなく、兵士にも関わらず剣など握ったことはないのではないかとさえ思えて来るほど綺麗な手だった。


「鍛錬?どうして私たちがそのようなことをしなければならないの?」
「どうしてって……」
「だって、どうせこの城まで敵が攻め込んで来ることなんてないじゃない。そのための騎士団でしょう?」


 然も当然とばかりに吐き出された言葉にアイリスは眩暈がした。自分たちはこれまで、そのようなつもりで戦って来たわけではない。無論、王家を守らなければという気持ちがないわけではない。だが、それを最優先に考えるのではなく、ベルンシュタインという国を守りたい一心でこれまで戦って来たのだ。
 その為に傷つけた者がいた、死んでいった者だっていた、命を繋いでくれた者もいたのだ。そんな彼らのことさえ、彼女らに侮辱されたように思えたアイリスに対し、「騎士団が私たちの盾として私たち貴族と王族を守らずしてどうするのよ。ただの一介の兵士が王家と貴族を守れるのだから、光栄に思いなさいよ」と嘲笑った。その言葉に、ぷつんとアイリスの中で何かが切れる音がした。
 気付いた時には手を振り翳し、痛みなど気にせず、後先さえも考えず、アイリスはその手を迷うことなく目の前で騎士団を嘲った女の頬に振り下ろした。乾いた音が玄関に響き、掌はじんじんと痛んだ。


「な、何するのよ……!」
「……わたしたちは、貴女方を守る為に戦って来たわけじゃない。この国を守る為に、騎士団のみんなは戦って来ました!貴女方の為に戦ったことなんて、一度たりともなかった……!」


 自分一人を侮辱されるのであれば、まだ我慢は出来た。けれど、騎士団に所属する全ての兵士を馬鹿にされて黙っていられるほど、アイリスは冷静ではなかった。声を荒げる彼女に女性兵士らは顔を見合わせ、目を見開いていた。今まで抵抗らしい抵抗をしていなかっただけに、まさかアイリスが声を荒げ、手を上げるなどとは考えていなかったのだろう。
 さすがに先ほどからこうして騒いでいれば、宿舎で生活している近衛兵団の兵士らも集まってくる。さすがに居辛くなったアイリスは未だ目を見開いたまま言葉を発することさえ出来ない彼女らの横を通り過ぎ、そのまま宿舎を飛び出した。逃げるような形になってしまったが、どうしてもあの場にいたくはなかったのだ。
 胸はどうしようもなく痛み、今更ながら、目元が熱くなった。つんと痛むそれはじんじんと痛みを訴える掌と同じ熱さと痛みだった。


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