王城 - masquerade -



 聞いたわよ、昨夜のこと。
 エルザの元を訪れたアイリスは、挨拶の後に渋面を作った彼女にそう切り出された。報告は行くだろうとは思っていたが、一晩でエルザの耳にまで届くとは思いもせず、アイリスは驚きを隠せなかった。そんな彼女に対し、エルザは「苦情が来たのよ、私のところに」と微苦笑を浮かべた。
 酷い挑発をされたのだろうけれど、こちらから手を出しては駄目よ――昨夜、レックスに言われたことと同じことをエルザにも言われてしまった。冷静になった今となっては、まさしく二人の言う通りであるとも思う。放っておけばよかったのに、それを捨て置くことが出来なかった自身の甘さゆえの結果だ。
 しかし、だからといってエルザに迷惑を掛けるべきではなかったとアイリスは反省した。何を言われても、もう気にしないようにしなくてはと自身に言い聞かせつつ、「今回は私が処理しておくから心配しなくていいわ。けれど、今度から気を付けて」と眉を下げて言ったエルザに対して心の中で感謝した。


「……ルヴェルチ卿を探さなきゃ」


 いつまでも昨夜のことを引き摺っているわけにはいかない。アイリスは頭を軽く振って思考を切り換えると、足早に広く長い廊下を進む。
 昨夜、アイリスはレックスに付き添われて宿舎へと戻った。とは言っても、顔見知りであるということは避けなければならない為、宿舎の近くまでという僅かな距離だった。その間に元々レックスが彼女を訪ねて来た用件を彼は口にした。いくつか報告しなければならないことがあってレックスは来ていたのだ。
 それは連絡が途絶えていたエルンストから連絡があったこととアイリスが先の橋での一件で持ち帰った矢のことだった。彼女の防御魔法を打ち破ったそれはエルンストに預けられ、彼の手によってどのようなものであるのか、何故防御魔法を打ち破ることが出来たのかが調べられていた。レックスもそれほど詳しい説明を受けたわけではなかったようだが、「エルンストさんが言うには、魔力を無効化する特殊な石が使われてたらしい」とだけ説明してくれた。
 本当に魔力を無効化する特殊な石など存在するのだろうかと思う反面、エルンストが言うのだから確かだろうともアイリスは思っていた。彼に会った時に詳しいことを聞けばいいと半ば自身を納得させた彼女が次に気にしたのはエルンストのことだった。何故、連絡が途絶えていたのかが気になったのだが、どうやらレックスも何も聞かされなかったらしい。彼も恐らくはエルンストに連絡を断っていた理由を聞いたのだろうが、それでも彼は何も言わなかったのだろう。アイリスもどうして、と気になってはいるものの、今はしなければならないことが多いこともあり、考え込む暇もなかった。


「また後でエルンストさんのことは確認するとしては今は……」


 ルヴェルチがいそうな場所となるといくつか候補が挙げられるものの、城内全域にその候補が散らばっているということもあり、そう簡単に見つけることが出来ずにいた。足を使って探すだけではなく、今の彼が代理執政官という重役に就いていることを考えれば、護衛がいるはずであり、それが近衛兵団から派遣されているかもしれないという可能性も考えた。
 しかし、実際に現在任務に当たっている近衛兵はシリルの護衛が中心であり、アイリスが知る限りではルヴェルチの護衛に就けられている者はいなかった。だが、たとえ近衛兵団から人が割り当てられていなくとも、ルヴェルチが誰一人として護衛を付けずにいるとは考え難い。護衛を連れて歩いているとなるとそれだけで目立つ為、見落とすはずがないとも考えていた。
 早く見つけれしまわなければ――アイリスは足早に候補の一つである文官らが出入りすることの多い一室を目指していた歩を進めた。そんな矢先、丁度通り過ぎようとしていた廊下に等間隔に配置されている太い柱の影からにゅっと腕が飛び出して来た。咄嗟に立ち止まり、アイリスは反射的に身を竦めるも、伸ばされた腕は彼女の肩を掴む。そのまま強引に薄暗い影に引き摺りこむと、声を出さないようにと手で口を塞がれた。


「……っ、!」


 身を捩って抵抗するも、アイリスの腕ごと身体を拘束するその腕を振り払うことが出来ず、そのままずるずると引き摺られてしまう。一体何者なのかと思うも、早くこの拘束を振り解かなければとアイリスは抵抗を強める。身を捩り、引き摺られながらも足をばたつかせるも、拘束はなかなか緩まらない。背後からは何か囁く声が聞こえてくるも、早く逃げなければという焦りでいっぱいいっぱいのアイリスの耳にはそれさえも届かない。
 どれだけ身を捩っても振り解けない拘束にアイリスはきゅっと奥歯を噛み締めると同時にぶわりと自身の魔力を放出する。それは次第にぱちぱちと小さな音を立て始め、静電気を引き起こす。昨夜、問題を起こしたばかりであることを思えば、このような実力行使には出たくはなかったものの、身を守る為には仕方がないとアイリスは自身を未だ拘束する相手に向けて攻撃魔法を発動すると「ちょ、待って」と慌てた声が耳に届いた。


「アイリスちゃん、ちょ、待ってっ」


 そこで漸くしっかりと耳に声が届く。しかし、アイリスがその声の主に気付いて攻撃魔法を止めるよりも先にばちりと一際大きな音と共に彼女が纏っていた静電気が白い閃光と共に爆ぜた。拘束が解けたアイリスは慌てて吹き飛ばしてしまった自身を拘束していた相手――エルンストの元に駆け寄った。
 幸いにも怪我はないらしく、溜息を吐きながら彼は床に手を付いていた。どうやら直前で防御魔法を展開した為、特に怪我を負うことはなかった様子だが、力加減の一切ない近距離での攻撃魔法ということもあり、その勢いを殺すことが出来ずに吹き飛ばされはしたらしい。


「久しぶりの再会だっていうのに随分な挨拶だよね、アイリスちゃん」
「ご、ごめんなさい!大丈夫ですか?」
「まあね。……とりあえず場所を移そう」


 誰かに見られたら困る、とエルンストは床に落ちていた深紅の軍帽を拾い上げ、それを目深に被るとアイリスの腕を掴んで素早く歩き出した。幸いにも廊下には人がいなかったものの、先ほどの爆発音を誰かが聞いていたかもしれない。人が集まる前に場所を移した方がいいことは明らかであり、アイリスは慌てて足を動かして彼の隣に並んだ。
 腕は掴まれたまま、引っ張られている彼女はちらりと視線を持ち上げてすぐ傍を歩くエルンストを見上げた。いつも羽織っている白衣ではなく、今の彼が纏っているのは自身が着ているものとよく似た近衛兵団の軍服だった。どうしてそれをエルンストが着ているのかは不思議でならなかったものの、変装しているのだと思えば納得もできた。
 とはいっても、もっと目立たない服装もあっただろうとも思うのだ。レックスが着ている警備兵の格好ならば、顔の露出も少ない。そんなことを考えていると、「どうかした?」と小声で尋ねられる。ともすれば聞き逃してしまいそうなほどの声量である為、アイリスは意識を集中させながら近衛兵団の深紅の軍服を纏っている理由を尋ねた。


「ああ、それは……確か、此処か。入って」
「あ、はい」


 理由を答えようとした矢先、エルンストはとある一室の扉を開け、中を伺った後に入るようにと促した。言われるがままに室内に入ると、後から彼も部屋の中に身を滑り込ませ、音もなくそっと扉を締めた。掃除こそ行き届いてはいるが、誰も使用していない会議室ほどの広さの部屋だった。カーテンは締めきられている為、朝だというのに室内は薄暗かった。
 光を取り込もうとアイリスは窓に近付こうとするも、足を踏み出すよりも先に腕を後ろに引かれ、体勢を崩すのと同時に背後から抱き竦められる。いきなりどうしたのかと彼女は目を見開いて身体を硬くするも、何も言わずに肩に頭を擦り寄せられると開きかけた口は自然に閉ざされた。
 何も声を掛けることが出来なかった。被っていた軍帽が足元に落ちても気にすることなく、エルンストはただアイリスを抱き竦めて肩に頭を押し付けていた。されるがままになりつつも、アイリスは自身の身体に回る腕にそっと触れた。軍服の上からでも分かるほど、その腕は細くなっていた。先ほど見た横顔も疲労の色が濃く、少しやつれているようでもあった。一目で無理をしているのだということが分かる姿に、アイリスは唇を噛んだ。


「……少し、痩せたみたいだね」
「それはエルンストさんの方です。……ちゃんとお休みになってください」


 暫くして漸く聞こえた声は掠れていた。自身のことを棚に上げた発言をするエルンストにアイリスは頭を振りながら答える。彼の言うように、多少は心労などの理由で痩せたかもしれないが、それはエルンストの比ではない。しかし、彼は何てことはないとばかりに笑みを滲ませた声音で「平気だよ」とだけ言うと、ゆっくりとアイリスから身体を離した。
 そして、床に落ちていた軍帽を拾い上げ、それを指先に引っかけて振り回す。そのまま近くの椅子を引いて腰掛けると、「そう言えば、これを着てる理由だっけ。まあ一言で言えば、身分証明が楽だからだよ」とエルンストは肩を竦めながら言った。話をすり替えられたことは明らかだったものの、アイリスはそれを指摘することはせずに微かに眉を寄せるに留める。


「これさえ着ていれば、近衛兵団所属ってことで特に身分を明かさずとも城の中を動けるからね」
「でも、城自体の出入りは厳しいはずですが……それに軍服の偽造だって簡単には……」
「そこはまあ何とでも。そんなことより、時間は限られてるから本題に入ろう。レックスから聞いたけど、司令官とレオの居場所が分かったんだってね」
「あ、はい。北の地下牢でした。それぞれ別の階層に幽閉されていました」


 ゲアハルトとレオの話題に変わると、さすがに気を引き締めなければならない。アイリスが近衛兵団に異動となる前に受けたエルンストからの命令は全て終えた状態にある。こうして彼が此処まで自ら赴いたということは何かしら新しい命令があるのかもしれない、とそう思ったのだ。


「時々様子を見に行ってね。さすがにあんなところに長期間閉じ込められるとなると気がおかしくなるかもしれないから」
「気がおかしく……」
「まあ、司令官のことはそれほど心配してないけど、問題はレオの方だよ。あれで意外と脆いところがあるからね」
「……」
「時々でいいから様子を見てあげて。ただし、通い過ぎると地下牢への出入りが厳しくなるだろうからそこだけ注意してね」


 エルンストの言葉にアイリスはこくりを頷く。いくら心配であったとしても、頻繁に地下牢に出入りすることは控えなければならない。これで地下牢への出入りが禁じられでもすれば本末転倒であり、自身が城内に留まっている理由もなくなる。


「それからレックスから鍵の型取りをした粘土を受け取って今は鍵を作ってるところ。もうすぐ出来るよ。完成したら念の為にそれをアイリスちゃんとレックスに預けるから」
「念の為、というと……」
「不測の事態に陥った時、それを使って二人を牢から出して逃がして欲しい。勿論、そういう事態にならずに済む方がいいけれど、念の為だよ」


 何が起こるか分からない場所だからね、とエルンストは目を細めながら言う。何かが起きるかもしれないという予想でもあるのだろうかと思うも、彼の言葉の続きを待ってもエルンストはそれ以上はその件に関して何も言うことはなかった。
 二人の間に沈黙が流れる。普段ならば気にならないそれも、常とはあまりにも現状が違い過ぎるということもあり、アイリスは落ち着かない気持ちだった。結局、沈黙に耐えることの出来なかった彼女は「今まで何をされていたんですか?」と連絡が途絶えていた間のことを問い掛ける。
 しかし、エルンストは「秘密かな」とはぐらかすばかりで答えるつもりは一向にない様子だった。アイリスも全てのことを教えられるとは思ってはいないものの、こうして何もかも秘密にされるとなると、自然と顔を顰めてしまう。そんな彼女の様子を見たエルンストは困ったような笑みを浮かべるばかりだった。


「エルンストさん、」
「そんなことよりも聞いたよ、アイリスちゃん」
「え?」
「昨日の夜のこと」
「……どうしてそれを、エルンストさんが……」


 少しは教えて欲しいと言おうとした矢先、それを遮るように彼は口を開いた。一体何を聞いたのかと柳眉を寄せていたアイリスはエルンストが知るはずもない昨夜の出来事について既に耳にしていることに驚きを隠せなかった。レックスから話を聞いたのだろうかとも思うも、「此処は王城だからね」とエルンストは口にした。
 要は噂になっているということなのだろう。詳細までは伝わってはいないのだろうが、エルンストが耳にしたということは細かなところまで全て既に知っているはずだ。アイリスは気まずげに視線を逸らし、口を噤んだ。そんな彼女に対してエルンストは「レックスから聞いてると思うけど」と常と変わらぬ声音で話しかける。


「橋で防御魔法が破られたのは、君の所為じゃないよ」
「……聞きました。でも、」
「たとえどれだけ魔力を込めていたところでどうにもならない。それは俺が自分で試したから確かなことだよ」


 アイリスが持ち帰った矢をエルンストは細かく検分し、実際に用いてもみたらしい。彼が言うには、どれだけ防御魔法を分厚くと強固なものにしても、多少、破られるまでの時間が前後するだけであり、結果は全て同じだったという。だから、いくら気にしたところで、あの矢が用いられた時点で防御魔法は用を為さなくなってしまうのだ。
 そう説明されるも、だからといって簡単に納得することも出来なかった。エルンストが言うように、自分が何かをしたところで結果は変わらないかもしれない。それでも、もっと何か自分に出来たことがあるはずなのだという思いが消えないのだ。アベルを置き去りにしたことも、彼を失ったことを当たり前のように受け入れ、アベルのことをだんだんと考えなくなる自分が怖くて怖くてどうしようもない。
 けれど、それをエルンストに対して言うことは出来なかった。震えそうになる唇を噛み締め、アイリスはぎゅっと拳を握り締める。それは偏に、彼が言ってくれたからだ。強くなった、と。そう言ってくれた相手の前で、そのような泣き言を言うことなど出来るはずもなかった。


「……アイリスちゃん、そうやって耐えて我慢することだけが強さじゃないと思うよ、俺は」


 口を閉ざしたアイリスにエルンストはぽつりと呟いた。その言葉に伏せていた視線を持ち上げれば、深い青の瞳と視線が重なる。少しだけ困ったように笑いつつ、彼は「色んな強さがあるんだよ、きっとね」と口にした。
 耐えて我慢する強さも勿論ある。けれど、決してそれだけではなく、前を向き続ける強さも誰かを信じ抜く強さもある。一人きりで立ち続けることだってその一つだろう。様々な状況や場合によって強さは異なり、人の持つ強さも人によって異なるものだ。それが強さだと思えば、その者にとってはそれが強さということであり、決して一つだけの形をしているわけではない。
 君には君の強さがあるはずだよ、とエルンストは言いながらも視線を伏せて申し訳なさそうに笑った。どうしてそのような顔をするのかとアイリスが声を掛けようとするが、それよりも先に彼が口を開いた。


「俺の言葉が、君を追い詰めた」
「そんなことありません、嬉しかったんです。わたしは、エルンストさんに強くなったと言ってもらえて」
「……そうだとしても、同じぐらい苦しくなったはずだよ」
「それは……」


 強くなったと言われたことは嬉しかった。やっと自分も認めてもらうことが出来たのではないかと思ったのだ。その期待に応えたいとも思い、その言葉を支えに異動してから今まで耐えて来た。けれど、彼が言うように苦しくもなった。エルンストが掛けてくれた言葉に自分は見合っているのか、と。本当に強くなれているのか、強くなったと言われたのにどうして自分はこんなにも不甲斐ないのか、と何度も感じ、思って来た。
 口を閉ざすアイリスにエルンストはやっぱり、とばかりに眉を下げて笑った。「あの時の言葉は本心だけど、……言うべきじゃなかった」と耳に届く微かな声にアイリスは顔を俯けた。取り消すなどと言われたわけでも、幻滅されたわけでもない。期待を裏切ったというわけでもないのだろうが、それに似た気持ちでいっぱいになり、胸がずしんと重くなる。
 エルンストが自分のことを思って言ってくれているのだということは分かっていた。心配してくれているのだということも伝わっている。けれど、言うべきではなかったとまで言われたことは、堪えた。


「これからのことだけど司令官から何か指示はあるの?」
「……ルヴェルチ卿の行動を調べて報告して欲しい、と言われています」
「そっか。無理のない程度でね。それから時々二人の様子を見に行ってあげて、食料を持って」
「分かりました。……それで、二人はいつになったら外に出られるのでしょうか」


 顔を伏せたアイリスに対してエルンストは常と変わらない様子で今後の話をし始めた。慌てて顔を上げた彼女は伝えられる言葉に頷くも、依然と変わり映えのしない内容に視線を伏せた。出来るだけ早く二人を外に出すべきであるとアイリスは思っていた。それも、あのような劣悪な環境に長期間に渡って置かれているとなると、身体を悪くしてしまうからだ。
 そのことを心配するアイリスに対し、エルンストは首を横に振りながら「今はまだ無理だよ」と言う。それはどうしてなのかと問うと、僅かに迷う素振りを見せた後、彼は小さく溜息を吐いた。これぐらいは教えてもらわなければという彼女の気迫に負けたのだろう。


「レオを担ぎ上げようとしている動きがあるからだよ」
「レオを……」
「そう、アホ殿下の即位を望まない連中がね。担ぎ上げられでもすれば、それこそレオと殿下の王位継承権争いは決定的になる。そうなると国が割れる」
「……その隙に帝国が攻めて来るかもしれない」
「可能性としては十分に有り得る話だ。他にも色々と理由はあるけど、変にレオを守るよりは人の出入りが制限されている地下牢にいてくれる方が俺としても安心、ということだよ」


 そう言われてみると、確かに地下牢に幽閉されている方が身を守ることが出来ると思う。問題なのはあくまでも環境であることを思うと、次に地下牢を訪れる時には防寒することが出来るものを持って行った方がいいだろうかという考えに至った。しかし、次にいつ地下牢に行けるだろうかと考えていると、なかなかすぐには難しいものがあった。
 ひとまず、寒さを凌げるものを用意しなければと考えていると「それじゃあアイリスちゃんはそろそろ行った方がいいよ」とエルンストが口を開く。時間は然程経過してはいないものの、その口振りからエルンストに他の用事があるのだということが伺えた。


「ちゃんと食べて休んで、気を付けて過ごしてね。また様子を見に来るから……あ、それから司令官に探し物の行方が掴めたって伝えてくれるかな」
「探し物の行方が掴めた……ですか?」
「司令官にそのまま伝えたら多分伝わるだろうから。他言はしないでね、当然だけど」
「了解しました。それでは、エルンストさんもお気を付けて」


 アイリスは椅子から立ち上がり、扉まで見送りに来るエルンストに一礼すると周囲を気にしながら部屋を後にした。周囲を見渡すも、誰も近くにはいないらしくほっと安堵する。目立つ行動は控えるべき状況にある為、つい数歩歩いては周囲を気にしてしまう。この方が余程怪しい、と自分自身でも思いつつ、アイリスは努めて自身を落ち着かせるようにゆっくりとした呼吸を繰り返しながら廊下を歩いた。
 それでも、これから先のことは暫くの間、考えることが出来そうになかった。アイリスは不甲斐なさに唇を噛み締めながら、エルンストが口にした強さについてを考えていた。






 廊下を歩き出すアイリスの背を見送っていたエルンストはちらりと視線を傍の柱の影に向ける。「もういいよ」とそちらに向けて声を掛ければ、程なくして渋面を作ったヒルデガルトが姿を現した。しかし、一人ではなく、彼女はある人間を拘束した状態だった。
 ヒルデガルトに拘束されている城仕えの下女は目を大きく見開き、助けを求めるようにくぐもった声を上げていた。しかし、力強く口を押えられている為、その声は言葉にはならぬまま、あたりにも響くことなくただの音でしかなかった。エルンストは先ほどまでアイリスと共にいた部屋の扉を開け、ヒルデガルトに中に入るようにと促した。


「それで、その人は?」
「お前とアイリスの会話を盗み聞きしていた。全く、どうしてこんな場所を指定したんだ、お前は」
「此処だと目立たないかと思って」


 そう言いつつエルンストは未だ拘束されたままの下女を一瞥し、「まあ、見つかったからには記憶は消させてもらうけど」と言って下女の目を覆うように頭部に手を翳した。ぶわりと広がる魔力が手を翳した箇所から彼女の中に流れ込んでいく。最初のうちは身を捩っていた下女も次第に身体から力が抜け、そのままヒルデガルトに支えられて気を失った。
 ヒルデガルトは彼女を床に寝かすと、溜息を吐く。その様子からも今目の前で起きたことをあまり快くは思っていないのだということが伺える。そこがヒルデガルトの甘さだとエルンストは思っていた。


「別に手荒なことをしてるわけじゃないんだからいいでしょ」
「それはそうだが……」
「殺してないだけ褒めて欲しいよ、俺は。まあいいや、そんなことよりも軍部はどうなってるの?」


 下女の話は終わりだとばかりにエルンストは状況報告をヒルデガルトに求める。その程度のことであれば、普段のエルンストならば容易く手に入れられる情報であり、操作することさえ可能だ。しかし、今現在はシュレーガー家はルヴェルチらによって監視対象とされている為、満足に動くことは出来ない。
 寧ろ、下手に動いて弱みを握られるような危険性を生み出すぐらいならば今は大人しくしているべきだという声がシュレーガー家内部から聞こえるようになっていた。エルンストからしてみれば、彼らは極めて保守的な性質をしていると言えた。今の地位をいかに守り抜くかに固執しているのだ。
 そのことを思い出し、エルンストがうんざりとしていると「現状は以前と変わらず、レオを担ごうとしている」とヒルデガルトは溜息混じりに答えた。先ほどまでアイリスに話していたことと重なる話に、彼は先ほどアイリスが浮かべていた表情を思い起こした。強くなった、と言わなければこんなに追い詰めることもなかったのにと思いつつ口にした言葉に、彼女は酷く驚き、そして悲しげに目を伏せていた。その表情が頭から離れず、ふとした瞬間に脳裏を過ったのだ。
 今はそれを気にしている場合ではないと強く自分自身に言い聞かせつつ、「軍部はどうにかバルシュミーデ家が抑えてよ」と口にすると、ヒルデガルトは無理を言うなとばかりに眦を吊り上げた。


「うちだけで抑え切れる勢いではなくなってきてる。抑え切れなくなるのも時間の問題だぞ」
「そこをどうにかしてって言ってるんだ。抑え切れなければ国が割れる」


 それはヒルデガルト自身、分かっていることでもある。しかし、いくらバルシュミーデ家が軍部を取り仕切ることが出来得る立場にあっても、シリルやルヴェルチに対する反感まで統率出来るというわけではない。何より、彼らはシリルやルヴェルチだけでなく、ゲアハルトに対しての不信感や苛立ちといった感情も抱いている。そんな彼らが一丸となれば、いくらゲアハルトで言葉を重ねたところで不信感を拭い去ることは出来ず、彼らを抑えることは出来ないだろう。
 そうならない為にもヒルデガルトが軍部の動きを抑えているのだが、それにも限界がある。エルンストやシュレーガー家が動けば話はまだ幾分か抑えも利くだろうが、元々保守的だということに加えて監視対象とされているということもあり、抑えに動くとはエルンストもヒルデガルトも思えず、期待は出来ない。


「とりあえず、司令官もレオも下手に表に出すよりは地下牢にいてもらった方が安全だ。……それまでに何とか片を付けるさ」
「どうするつもりだ?」
「ルヴェルチが帝国と手を結んでるとあいつの息子のテオバルトが口を割った。恐らく、鴉と手を結んでる」


 その証拠を押えることが出来れば、俺たちの勝ちだ。
 エルンストは指先で軍帽をくるくると回しながら口にした。しかし、口で言うほど簡単なことではない。ルヴェルチも鴉と手を結んでいるということは何が何でも隠し通そうとするだろうし、簡単に証拠を残す様なこともしないだろう。何より、証拠を掴んだとしても、それをルヴェルチの失脚に追い込めるほどに周囲を納得させなければならない。バルシュミーデ家が軍部を抑え切れなくなるのとエルンストが証拠を見つけ、周囲を納得させてルヴェルチを失脚させるのとどちらが早いかなど、考えるまでもない。
 しかし、現状、国を割ることなく、ゲアハルトが以前と同じ程度に周囲を統率するにはルヴェルチが鴉と手を結び、ホラーツの暗殺に加担したことを明らかにする必要がある。そうでなければ、ヒッツェルブルグ帝国の第一皇子であることを暴露されたゲアハルトの信用を回復させることは困難だ。


「……だが、証拠なんて簡単に……」
「いくつか方法はあるよ。打てる手は既に打ってる。後はどうにか理由を付けてエルザの護衛を増やすぐらいかな」
「エルザ殿下の?」
「ああ。鴉にはカサンドラがいるからね」


 その声音は冷やかなものだった。底冷えのする青の瞳は宙を睨み、忌々しげに口元を歪めた。彼の口から出たその名前にヒルデガルトは目を瞠った。その名はよく知るものであり、かつて共に戦った仲間のものだったのだ。


「待て、エルンスト。カサンドラが鴉に所属しているなんてそんなことは、」
「確定情報ではないけど、まず間違いないだろうね。あいつが鴉にいると考えると、色々と辻褄が合う。強化兵のことも矢のことも、……それからコンラッドさんを拷問したのも。コンラッドさんの遺体はあいつが出奔する前に拷問して殺した兵士と同じ状態だった」
「……」
「あいつは必ずエルザを狙って来る。兄さんの婚約者だったエルザを殺しに来る。それさえ押えて自白させれば、ルヴェルチとの関係も明らかになるはずだ」
「……だが、あいつはそう簡単に口を割るのか?それにカサンドラが鴉に属している確定情報はない。エルザ殿下を危険な目に遭わせるわけにも、」
「だからこその護衛の増員だよ。……今、最も確実な方法がこれだ。他の鴉の人間のことなんてもっと分からないんだから」


 ルヴェルチを調べることは勿論だが、それ以外に可能な方法となると限られてくる。エルンストの言うことも分かるヒルデガルトは渋面を作りながらも、「エルザ殿下の護衛の件は私が近衛兵団に話を通しておく」と口にした。今はエルンストが働きかけるよりも彼女の働きかけの方が余程事が進むのだ。そのことを改めて実感したエルンストは肩を竦めながら「よろしくね」と口にした。
 そして、そろそろ自分も動き出さなければと軍帽を被って立ち上がり、「それじゃあまた連絡する」とだけ言い残して扉に向かうも、その手がドアノブを掴むより先に名前を呼ばれる。


「エルンスト、お前はアイリスに何を言ったんだ」
「……別に何も。気を付けて、とかそれぐらいだよ」
「嘘を吐くな。……この部屋を出た時の顔、泣きそうだったぞ」
「……」


 背を向けられていたエルンストにはその時にアイリスがどのような顔をしていたのかなど知りもしなかった。告げられたその言葉にヒルデガルトに背を向けたまま、彼は目を見開いていた。しかし、その表情にヒルデガルトは気付かぬまま、「お前が何を言ったのかは知らないが、」と言い置いて口を開く。


「お前の、お前たちの優しさがあの子を弱くする。……私はそう思うよ」
「……」
「アイリスのことを思ってだということは分かってる。でも、今のアイリスは誰の手も借りずに一人で乗り越えることが必要ではないのか?」


 あの子は、アベルの死を今でも受け入れることが出来ずにいるのではないのか。
 ヒルデガルトの指摘にエルンストは何も言うことが出来なかった。その通りだった。アイリスは未だ、アベルの死を受け入れることが出来ていない。それ以上に、コンラッドや孤児院で見てきた彼らの死を受け入れることさえ出来ていないだろう。平静を装っているだけで、本当の意味で彼らの死に向き合ったことなどないはずだ。


「コンラッドさんがただの戦死でないこともあの子は知らないんだろ。どれだけ遺体がめちゃくちゃに傷つけられていたのかも、」
「ヒルダ、それはあの子には言うな」
「だが、」
「……知らなくていいんだよ。知らなくていい。あんな酷い姿のコンラッドさんを見せるわけにはいかなったんだから」


 エルンストやヒルデガルトでさえも目を覆いたくなるような凄惨な遺体だった。それをアイリスや家人に見せるわけにはいかないと魔法で幻を見せたのだ。死因も何もかもを伏せて、ただの戦死として処理したのもその為だ。その事実を、彼女はこれから先も知るべきではないとエルンストは思っていた。
 何も知らない方がいいことだってあるのだ。その方がいいに決まってる。それは自身の押しつけであるということも分かっていたが、ヒルデガルトはそれを否とした。
 彼女の主張することも分かっているのだ。自分がアイリスの成長を阻害しているということも、優しくすればするだけ、守ろうとすれば守ろうとしただけアイリスを弱くするということも。強くなったと言いながら、矛盾しているということも分かっていた。けれど、そう簡単に割り切ることの出来る気持ちでもなかった。強くなって欲しいと思いながらも、守ってあげたいと、優しくしたいと思う気持ちは。


「……俺だってあの子には何があっても一人で生き抜くことが出来るぐらい、強くなって欲しいって思ってる」


 けれど、それと同じぐらいに思うのだ。全てが終わるその時まで、傷つくことがないように守りたいと。たとえそれが彼女を弱くするとしても、確かにそう思っているのだ。傷ついて欲しくない、泣いて欲しくない。それは紛れもない彼自身の本心だった。


「でも、同じぐらい……守ってあげたいって思うんだ」
「……エルンスト」
「らしくないってことぐらい、分かってるけどね。俺がこんなことを思うなんて、本当にらしくないってことぐらい」


 それに、と心の中でエルンストは言葉を付け足す。出来ることなら、全てが終わったその時に、自分の傍にいて欲しい――そう願うのだ。叶わないかもしれない、叶わない可能性の方が高いかもしれない。ただでさえ、人の恨みを買うような生き方をしているのだ。全てが終わるその時まで、自分自身も生きているかどうかは知れない。明日だって生きているかどうかの確証さえないのだ。
 それでも、出来ることならと願わずにはいられない。そんな風に自分が思う日が来るとは思いもしなかったエルンストはそんな自分自身の考えにさえ戸惑いを覚えるも、その気持ちは嘘や偽りの一切ない、本心だ。


「……お前も変わったな。出来ることなら、真っ当に生きて欲しいよ」
「それは無理かな。……汚い仕事だって誰かがやらなきゃ何も変わらないんだから」
「エルンスト、」
「さっき言ったことは本心だよ。でもね、これまで俺がやってきたこともこれから俺がやることも、全て俺が選んで受け入れてやって来たことなんだ」
「……」
「心配してくれるのは有り難いよ。だけど、それだけだ」


 俺自身が変わっても、俺のすることは変わらない。
 最優先するべきはベルンシュタインという国のことであり、自身の感情ではないと言うエルンストにヒルデガルトは何とも言えない表情を浮かべた。ごく当たり前のことを口にしたにも関わらず、そのような顔をする彼女に内心驚きつつ、「愛国心溢れる君でもそういう顔をするんだね」と口にした。


「愛国心はお前の方が溢れてるだろ、エルンスト」
「俺のは違うよ。……俺はただ、カサンドラに奪われたものを取り返したいだけだ。蹴りを付けたいだけだからね」


 奪われたものを取り戻さねば、自分も周りも進めない。そのことだけがエルンストの目的であり、それ以上もそれ以下もない。その目的を前にすれば、自身の感情など些細なものでしかないのだ。けれど、そう言い聞かせている最中もふとした瞬間に脳裏を過る人影があった。だが、それには気付かぬふりをして、エルンストは「それじゃあ俺はもう行くから」と今度こそドアノブを回し、部屋を後にした。
 目深に軍帽を被り直し、エルンストは一人廊下を歩き出す。こつこつという靴音を響かせながら歩くその背はぴんと伸び、深い青の瞳は冷やかに廊下の先を見据えていた。



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