悪夢 - traitor -



「あー……だりぃ、疲れた」


 どさり、と深々とソファに腰掛けたブルーノはそのまま身体を横たえる。行儀が悪いわよ、と向かい側のソファに腰掛けながら注意するカサンドラの顔にも疲労の色が濃く、ふうと溜息を吐いた。そんな彼女の横に腰掛けた少年はやけに元気な様子で「二人とも情けないなあ」と言いつつ、せっせと茶の準備に勤しんでいた。
 ゼクレス国からベルンシュタイン王国王都ブリューゲルへの侵入に成功した彼らは郊外のとある邸に身を落ちつけていた。彼らが到着したのは夜も更けた今し方である。殆ど休みなく移動し続けたのだから疲れて当然だろうとブルーノは信じられないものを見る目で少年を見つつ、溜息を吐く。


「で、これからどうすんだよ。つか、アウレールは?」
「アウレールはヴィルヘルム殿下から別命を受けて行動中。私達はルヴェルチ卿が用意したこの隠れ家を拠点にそれぞれ諜報活動よ」
「諜報活動、ね……。具体的には何をすればいいんだよ」
「貴方たちは三人でクレーデル邸を調べて頂戴」
「クレーデル邸を?あそこはもう何度も調べてるよね、カーサ」


 どうして、と少年は紅茶を淹れたカップを配りながら問い掛ける。以前までは険悪な雰囲気だった二人も今は以前と変わらず口を利くようになった。それまでの間、ずっと板挟みの状況であったブルーノとしては漸く気苦労がなくなり、ほっと安堵に息を吐く。そしてカップを両手で持ち、ふーっと息を吹きかけつつ、「何度も調べてるのに三人も割いて調べる必要があんのか?」と疑問を口にした。
 鴉に入隊してからそれほど長いわけではないものの、これまでの活動についてはカサンドラやアウレールから話を聞いていた。それ故、直接的には知らないが、コンラッド・クレーデルが何者であるのか、彼が何をしていたのかということはブルーノも聞いていた。そして、幾度か彼の邸も調査していることも知っている為、限られた時間と人員を割いてまで調査する必要があるのかと思ったのだ。


「あるから言ってるのよ。よく考えてもみなさい、彼が研究していた白の輝石の研究内容はほんの僅かにも見つかっていないのよ、おかしいとは思わないの?」
「ゲアハルトが持ってるんじゃないのか?エルンスト・シュレーガーとか」
「だとすれば、彼らは白の輝石について何かを掴んで行動に出ているはずよ。二人の行動についての報告は、いつも白の輝石を捜索しているというものばかり。……つまり、彼らもコンラッド・クレーデルの研究を見つけられていない、と考えるべきよ」


 それに、ゲアハルト司令官が捕縛されてから彼の部屋はくまなく捜索されたもの、とカサンドラはお手上げだとばかりに溜息混じりに言う。黒の輝石が手元にある為、輝石と呼ばれるモノが何であるのかを鴉の面々は既に知らされている。しかし、研究資料があるのであれば、それを手に入れたいと考えるのは決して間違ったことでもない。
 ブルーノはその説明を聞きつつ、面倒そうに溜息を吐いた。クレーデル邸に侵入することは無論のことだが、それ以上に目の前の少年とその弟の面倒を見ることの方が余程骨が折れるように思えたのだ。しかし、カサンドラの決定に異を唱えたところで、代替案があるというわけでもない。一人だけヴィルヘルムの別命を受けているアウレールを羨むも、ヴィルヘルムから直接命令を受けたいとも思えず、結局は溜息を吐くしかないのだ。


「お前はどうすんだよ」
「私はバイルシュミット城に潜入するわ。正妃様が本当に白の輝石を所有しているのか調べなきゃ」
「ふーん……見つけたら奪うのか?」
「すぐには奪わないわ。何事も手順と段取りが必要なのよ。ルヴェルチ卿にも言ったことだけれど、こういうことは見せ方が大事なの」


 何でも奪えばいいってものでもないの。
 カサンドラはそう言って少年の淹れた茶を喫する。もう後がないというのに、形振り構わず奪いに行かないところが彼女らしくもあるが、ブルーノはじれったそうに舌打ちした。彼女の身に万が一があれば、困るのは彼自身だ。そうならない為にも出来るだけ手堅く白の輝石を奪取したいと考えている。
 ブルーノの表情から彼の考えに気付いたらしいカサンドラは「心配しなくとも大丈夫よ。正妃様はシリル殿下を王位に就けるまでは絶対に白の輝石を手放さないから」と口にする。無論、それはキルスティが白の輝石を本当に所有していた場合のことである。所有していなければ、そもそも話にもならないのだ。しかし、シリルを王座に就ける対価として最初にそれを提示したのはキルスティであり、ベルンシュタインの正妃ということもあって国宝であった白の輝石に触れる機会はいくらでもあったことを考えると、所有している可能性は高い。


「ふーん……まあそういう難しいことはどうでもいいけど、そもそもルヴェルチの奴も何でそんな取引しようと思ったんだろうな」
「あの人の場合、単純に上に立ちたかっただけじゃないの?ゲアハルトを見返したいとか」
「そんなところでしょうね、あの方は小物だから。正妃様にシリル殿下の即位の話を持ち掛けたところ、白の輝石なんてものが交換条件に提示されたものだから私たちに接触をしてきたわけだけれど……こういう時の運って案外すぐ尽きるものよね」
「おいおい、やめろよ。ベルンシュタインの主だった協力者はあいつなんだ。あいつがこければこっちもこける……縁起でもねーこと言うなよ、カサンドラ」


 迷惑を被るのは真っ平御免だ、と眦を吊り上げるブルーノはカサンドラは「平気よ」と肩を竦めて見せる。しかし、平気だと言われてもすぐに、はい、そうですか、と言えるわけもない。そもそも、カサンドラは何事にも見せ方があり、そのために無理に白の輝石を強奪するわけにはいかないのだと言うが、何に対して見せ方を気にしているかが分からない。ブルーノがそれを問い掛けると、彼女は紅を差した唇の端を持ち上げて笑みを浮かべる。


「勿論、この国に生きる人間に対して」
「随分とでかく出たな」
「大したことではないわ。どの道、白の輝石を入手した後、この国はヒッツェルブルグ帝国の植民地になるもの。より簡単に統制出来るように、一度の機会で叩き壊した方が効率がいいでしょう?」
「……いつやるんだよ」
「シリル殿下の即位前夜。何だか物語みたいで素敵でしょう?」


 カサンドラはまるで子どものようにはしゃいだ声音で言う。しかし、仮にも一国の王子を、それも即位を控えた次期国王を暗殺するというのだ。素敵も何もないだろう、とブルーノは溜息を吐き、「そんなこと知るか。つーか、はしゃぐなよ」とカサンドラを窘めると、「別にいいと思うけど、ボクは。女の子みたいで」と少年は笑う。


「アホか。女の子、なんて歳でもねーだろ、こいつ。女の子っつーのはもっとこう……」


 脳裏を過った笑顔があった。それに気付いたブルーノはぱちりと橙色の瞳を瞬きして言葉を切る。以前、王都ブリューゲルを訪れた時、道案内を頼んだ彼女のことを思い出したのだ。どうしているだろうかと思う反面、殺すなと言われている相手であるということもあって誰にも殺されてはいないはずだ。無論、戦場に出て運悪く命を落としていては別だが、そのような報告はブルーノの元に届いてはいない。
 黙り込んだブルーノを前に二人は顔を見合わせ、「ほらほら、どうしたの?ブルーノ。好み教えてくれるんじゃないの?」と少年は足をぶらつかせながらからかうように口を開く。その言葉に現実に引き戻された彼は「アホか」と舌打ちし、じろりと橙色の不機嫌な視線を少年に向ける。


「誰がんなこと言ったんだよ」
「だって女の子についての講釈を垂れようとするから」
「講釈じゃねーよ、一般論だっつの。つか、あのおっさん、来ねーのか?」
「ルヴェルチ卿なら来られないわ。御子息の捜索でお忙しいらしいから」
「は?御子息?」


 いつまで経っても姿を現さないルヴェルチを訝しむブルーノに対し、カサンドラはカップをソーサーに戻しながら事も無げに口にした。捜索、ということは彼の息子の身に何かあったのだということは分かるものの、今はルヴェルチの権勢であり、彼の息子に手を出す人間がいるのだろうかという疑問が湧いたのだ。


「そう、御子息。ルヴェルチ卿も頭が弱くいらっしゃるわね。御子息を動かせば、真っ先に敵対している人間に狙われるなんて明らかなことでしょうに。もう生きてはいないかもしれないわね」
「……でも、仮にも代理執政官の息子に手を出すような奴がいるのか?」
「こういうことが得意な人間は一人よ、この状況下でさえ動くような人間もね」


 その口振りから以前から何度か名前が挙がっているゲアハルトの腹心の男によるものだということが伺える。ブルーノは興味なさげに「へぇ」とだけ言うと、そいつもよくやるぜ、と内心溜息を吐いた。見るからにルヴェルチという男は執念深い性格をしている。そんな男の息子に手を出したのだ。地の果てまで追いかけられそうなものであり、ルヴェルチを殺すまでは落ち着いて眠ることも出来ないのではないかとさえ思えたのだ。
 そんなことを考えていると、「それではこれで解散。各自、ゆっくり休んで疲れを取ってから行動に移ることにしましょう」言うと、カサンドラは宛がわれている自室に向かうべく部屋を後にした。こつこつという足音が完全に聞こえなくなってから、ブルーノは肩の力を抜き、ソファにより身を沈める。


「なあ、あいつってベルンシュタイン出身だろ?王族を殺すとか、この国を植民地にするとかさ、何とも思ってねーの?」


 それはブルーノにとってずっと疑問に感じていたことだった。彼の印象では、ベルンシュタインの人間は愛国心の強い者が多く、国の為にと戦う者が多いというものだった。そんな中、祖国を裏切ってヒッツェルブルグ帝国に寝返り、ベルンシュタインを植民地にすることさえ厭わないカサンドラの存在はあまりにも異質だった。
 疑問を口にするブルーノに対し、その場に残っていた少年は「カーサは何とも思っていないと思うよ」と然も当然とばかりに言う。ベルンシュタインのことを何とも思っていない――その言葉をブルーノはすぐに理解することが出来なかった。自分の生まれた国であり、出奔するまでの間、生活していた場所だ。何の思い入れもないとは思えなかったのだ。それを言うも、少年は首を横に振り、同じ言葉を繰り返した。


「何故なら、カーサにとって大切なモノは恋人以外にないから」
「は?恋人?」
「そう、ブルーノだって見たことあるでしょ。ほら、たまにカーサが連れてる彼」
「……彼って、あいつ、死体だろ?」
「そういう性癖もあるってことだよ」
「げっ……」


 顔を引き攣らせるブルーノを前に少年は「そんな顔しなくてもいいのに」と可笑しそうに笑う。しかし、反応としては間違ってはいないはずだ、と彼は笑う少年を前にして考えた。寧ろ、そうして受け入れている彼の方が余程可笑しいとさえ思ったのだ。
 少年はことりと音を立てて手にしていたカップとソーサーをテーブルに置き、「あのね、カーサがベルンシュタインを裏切った理由はね、」と口を開く。今まで彼女が寝返った理由を聞いたことのなかったブルーノは寝返りを打って少年の方を向き、先ほどまでの引き攣った表情とは打って変わって興味深々な表情を浮かべている。


「彼を、ギルベルト・シュレーガーを生き返らせる為だよ」


 その言葉にブルーノは目を瞠った。死んだ人間を生き返らせる為に国を裏切り、ヒッツェルブルグ帝国に付いたというのか、と驚きを隠せず、しかし、だからこそカサンドラがあれほど黒の輝石の研究に執着しているのだという理解も出来た。それと同時に、やけにエルンストのことを気にしている理由も何となく察することが出来た。
 しかし、漸く驚きが落ち着いたところで、「ブルーノはその過程で実験材料にされたんだよ」という言葉が告げられ、頭を鈍器で殴りつけられたような衝撃が走った。それでも、漸くその言葉で自分の境遇が理解出来た。それまで自分の身に起きたことを考える度に、どうしてと考えていたが、その理由に漸く気付くことが出来たのだ。
 だが、理解出来たからといってすぐに受け入れられることではない。暫し黙り込むブルーノを前に少年は足をぶらつかせながら口を開く。


「カーサはね、エルンスト・シュレーガーの兄で当時所属していた騎士団の部隊長のギルベルトさんに恋をしたんだ。でもね、相手はベルンシュタイン随一の名家の子息。カーサは辺境に所領を持つ没落貴族の娘、同じ騎士団に所属していても釣り合わない身分だった」


 それに、その頃にはギルベルトさんには婚約者がいたんだって。
 カサンドラから話を聞いているらしい少年はカップを手に取り、紅茶で喉を潤しながら唇を滑らせる。本人のいないところでこれ以上聞いてもいいものかと悩むも、このような機会は滅多にないということもある為、ブルーノは「それで?」と話を促した。


「それでもどうしてもカーサは彼のことを諦められなくて、それで……殺したんだ」
「殺した?ギルベルトを?」
「違うよ。彼と仲良くした女性兵士を拷問にかけて、次から次に殺したんだ。だけどさすがにそれがバレて、カーサは最後に自分を捕縛しようとしたギルベルトさんを殺した」
「……」
「その結果、ベルンシュタインにはいられなくなって出奔。元々没落していた実家はそのことがきっかけで一気に没落して今は誰も生き残っていないみたい」


 カーサの愛情ってすごいよね、と少年は笑みを浮かべて言う。しかし、ブルーノからしてみれば俄かに信じ難くもあり、そのように笑うことが出来る話ではなかった。ほぼ、一方的な想いの果てに周囲の人間を嫉妬心から殺し、最終的には想い続けた相手さえその手で殺したのだ。
 それだけならまだしも、未だその愛した男の死体を手元に置いているのだ。普通ではない、と今更ながらにカサンドラの知らなかった一面に背筋が冷えた。自分に対してそのような感情が向けられることはまずないだろうが、あまりにも末恐ろしく思えたのだ。しかし、話していた少年の顔色が変わることはなく、自分が可笑しいのかとさえ思えてきたブルーノは自身を落ちつけるようにゆっくりとした呼吸を繰り返した。


「だからね、ボクは心配なんだ」
「……何がだよ」
「カーサが先走ってエルザさんを殺さないか」
「エルザ……第一王女か。でも何でそいつが……」
「察しが悪過ぎるよ、ブルーノ。カーサはまだ憎くて仕方ない彼の婚約者を殺していないんだ」


 つまり、ギルベルト・シュレーガーの婚約者であった第一王女のエルザを手に掛けて漸く、カサンドラにとってはギルベルトが自分だけのものになるのだ。そして、彼女がこれから侵入するのはエルザがいるバイルシュミット城であり、あれだけ演出がどうの、とこだわっているカサンドラが先走ってエルザを暗殺しないかが少年は気がかりだと言ったのだ。
 行かせるべきではないのかと思う反面、そのことをカサンドラに意見する勇気はブルーノにはない。特に今のような話を聞いた後ならば、尚更である。顔色を悪くさせるブルーノに対し、少年は首を傾げながら「大丈夫?」と声を掛ける。


「……お前は何とも思わねーのかよ」
「そこそこ付き合いも長いからね。それにそういう性癖もあるってことだよ」
「どういう人生歩んで来てんだよ、お前は」
「カーサと同じぐらい、胸糞悪い人生とでも言っておこうかな」


 それだけ言うと少年はカップを置いてソファから立ち上がった。「ボクも部屋に戻るよ。弟に付いててあげなきゃ」とだけ言い残し、部屋を出て行った。それを見送ったブルーノは深い溜息を吐き出し、何とも言えない表情で、とりあえず寝て落ち着こうと目を閉ざす。しかし、硬く目を瞑り、身体も疲れているにも関わらず、なかなか睡魔が襲って来ない。ブルーノは舌打ちして寝返りを打ちながら、聞くんじゃなかったと今更ながらに後悔した。








「シ、シリル殿下!」
「煩いぞ、何事だ」


 夜更けの執務室、シリルが書類に目を通していると慌てた様子で側近の文官が執務室に駆け込んで来た。一体何事だと騒々しさに眉を寄せながらも視線は書類に落としたまま問い掛けると、文官は姿勢を正して口を開いた。


「先ほど、エルザ殿下から正妃様が、その……」
「母上がどうした」
「その……、幽閉されているレオ殿下を、暗殺」
「母上がレオを暗殺したのか!?」
「いっいえ!み、未遂に終わったとのことですが……!」


 それまで興味なさげに聞いていたシリルは側近の口から出た暗殺、の二文字に椅子をひっくり返さんばかりの勢いで立ち上がった。そのあまりの驚きように側近の男は肩を震わせるも、すぐに首を横に振りながら言い直す。
 一先ずは未遂に済んだことに安堵の息を吐きながらも、まさかそのような強硬手段に出るとは思いもしなかったシリルは苛立ちを隠さず、「あの方は一体何をしているんだっ」と言葉を吐き出す。そして執務机に両手をついて身体を支えながら、苛立たしげに頭を掻いた。


「それで、詳しい状況は?」
「は、はい。正妃様がレオ殿下を暗殺しようとしたところ、近衛兵団のアイリス・ブロムベルグが止めに入ったのですが……」
「どうした」
「その……正妃様の逆鱗に触れたようで、……」
「……彼女に回復魔法士の手配を」


 どのような目に遭わされたのかは想像に難くなく、シリルは渋面を作り、溜息混じりに側近に命じる。気に入らないことがあれば、すぐに手を上げるところがあり、その被害に遭っている者を目にしたことは決して少なくなかった。酷い怪我ではないと良いが、と少なからず自分自身にも原因があるという自覚のがるシリルは溜息混じりに考える。
 しかし、今はそれ以上に気になることがあった。「それで、あいつはどうなのだ」と問い掛けると、側近は背筋を大袈裟なほど伸ばしたまま、「レオ殿下はお変りないとのことですが、やはり随分と気持ちが沈まれているとの様子です」と答えた。それも無理のない話である。命を狙われるだけでなく、親しい間柄の人間が目の前で傷つけられるのだ。少々優し過ぎるところが見受けられる義弟の性格を思えば、落ち込むだけでは済まないだろうとシリルは頭の片隅で考えていた。


「……あいつにはまだ死なれては困る。私の予定が狂うからな」
「それでは、如何致しましょう」
「そうだな……」
「シリル殿下、失礼致します」


 どうしたものか、と考えていた矢先、こんこんと扉を叩く音が聞こえた。入室を促せば、数枚の書類を手に足早に別の側近が執務机まで駆け寄って来た。その男は、予てより特別牢の建設を一任していた者であり、先日も完成が予定よりも遅れるということで急かしたばかりだった。
 また何か問題が起きたのだろうかと自然と柳眉を寄せていると、「建設は八割方終了し、早ければ今週中には完成します」という途中報告だった。差し出された資料を受け取り、完成している箇所と今後の予定が記載された内容を一瞥しつつ、シリルは考え込む素振りを見せた。


「……内装は後回しでも構わない。外壁と出入り口は既に完成しているのだろう?」
「は、はい。内装を後回しにするのであれば、今からでも一応使用は可能です」
「鍵は?」
「こちらに」
「結構だ。ならば、今すぐあいつを特別牢に移せ。……これ以上、母上にちょっかいを出されて殺されては敵わん。あいつには私の目的が達成するまでは生きていてもらわねばならないからな」


 執務机の引き出しの中から命令書を取り出すと、そこにレオを移送する旨を書き連ね、印を押す。それをぺらぺらと指先で抓んで乾かし、シリルはキルスティの一件を知らせに来ていた側近にそれを差し出す。「今すぐあいつを東の塔の特別牢に移送しろ。なるべく誰の目にも付かぬように」と命じた。
 側近は命令書を受け取ると、深々と頭を下げ、すぐに踵を返して歩き出した。それを見送りつつ、「外壁は何があっても破られないだろうな」と再び書類に目を通しながらシリルはそこに一人の残った側近に問い掛ける。


「実験済みとのことです。殿下のご注文通り、攻撃魔法をも弾く特別製ですから。……しかし、どうしてそのような牢を特別にお造りになられたのでしょうか、殿下」
「私の願いを叶える為に必要なものだからだ。無駄話はいい、貴様も特別牢に行ってすぐに受け入れる準備に取り掛かれ」
「は、はい。失礼致します、シリル殿下」


 側近の男は深々と頭を下げ、足早に東の塔に建設された特別牢へと向かった。その足音が聞こえくなったところでシリルは溜息を吐くも、その目には苛立ちがはっきりと浮かび、乱暴に執務机に乗っていた資料を腕で払って床へと落とした。そのまま握り締めた拳を執務机に叩きつければ、掌にはじんと痛みが走る。
 勝手なことを、と微かに震える声で呟くそれには確かな怒りが含まれていた。キルスティが全て自身の即位のことを思って行動しているということは分かっていた。しかし、そのようなことを頼んだ覚えも、そもそも王位を望んだことさえもないのだ。キルスティのそれはただの押しつけでしかなく、シリルはそれに対して苛立っていた。
 そのまま深く椅子に腰かけ、務めてゆったりとした呼吸を繰り返して自分自身を落ちつける。しかし、キルスティに滅茶苦茶にされたというアイリスのことを考えると、どうしようもない苛立ちがまた胸の中に湧き上がり、それをぶつける先もないシリルは募る一方の苛立ちを持て余し、自分自身を傷つけるように爪が食い込むほどに拳を握り締めることしか出来なかった。



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