悪夢 - traitor -



 地下牢での一件から一夜、アイリスは疲れ切った表情を浮かべながら重たい足取りで宿舎を出た。あの後、アイリスは戻って来たエルザと彼女が信頼している近衛兵に連れられて地下牢を出た。さすがに王女であるエルザが宿舎まで付き添うことは憚られ、彼女とは程なくして別れた。その後は身体を支えられながら宿舎に戻り、夜になってからシリルが遣わせた回復魔法士の治療を受けるまではベッドで横になっていたのだ。
 治療を受けてからも横になって過ごたのだが、相変わらず気分は優れなかった。怪我こそ回復魔法によって治癒してはいるものの、怪我を負う前の状態に戻せるというわけではない。怪我を負ったという事実は変わらず、受けたダメージまで治癒されることはないのだ。
 本来ならば、安静していなければならない。実際、エルザからもよく休むようにと休暇を与えられているのだ。顔色や気分の悪さ、吐き気は頭を何度も打ちつけられたことが原因であり、それらがなくなるまでは横になっているべきだという診断だった。それでも、レオのことが気がかりだったアイリスはベッドを抜け出して来たというわけだ。エルザに知れれば、咎められることは必至だが、何があったのかを知っている彼女が黙ってベッドに横になっていられるはずもなかった。
 何より、一人で部屋にいたくはなかったのだ。一人になれば、地下牢でのことが思い出され、今更ながら背筋が凍り、冷や汗が伝って身体が震えるのだ。エルザがあと少しでも到着が遅れていれば、自分は死んでいた。それを思うと、誰にも会わずにじっとしていることなど出来そうになかった。


「おい、顔色悪いぞ。大丈夫か?」
「え、……あ、レックス。おはよう、ちょっと体調悪いだけだから平気だよ」


 一先ず、エルザの元に行って助けてくれたことの礼を言わなければと思い、それからレオの様子を見に行き、ゲアハルトにも報告することにしたアイリスに唐突に声が掛かった。いつの間にか伏せていた視線を持ち上げると、いきなり視界に映り込んで来たレックスにはっと息を呑んだ。しかし、いつもなら朗らかに挨拶をする彼もアイリスの顔色の悪さに気を取られたらしく、柳眉を寄せ、挨拶よりも先に気遣う言葉が口から出たらしい。
 アイリスは大したことはないと首を軽く横に振るも、その拍子にぐらりと視界が揺らいだ。足を踏ん張って何とか持ちこたえた彼女にレックスは「どこが平気なんだよ」と心配げに言いつつ、アイリスの肩を掴んで身体を支える。それを有り難く思いつつも、彼の様子から昨日の一件が知れ渡っていないことに気付いた。
 キルスティがレオを暗殺しようとしたことも、アイリスに対して行ったことも何もかもが伏せられているらしい。もしかしたら、レックスの元にまでまだ届いていないだけで、既に上層部では知れ渡っているという可能性もある。しかし、一国の女王が血は繋がっていないとはいえ、第二王子を暗殺しようとして失敗したのだ。そのような醜聞を、キルスティが握り潰さないはずがない――アイリスは「もう平気」とレックスから半歩身を引きながら考えていた。


「平気って、自分の顔色見てから言えよ。……というか、体調悪いってだけじゃないんだろ?」
「え?」
「だってお前、今すっごく不安だ、って顔してる」


 思いもしなかったレックスの指摘にアイリスは返す言葉が見つからなかった。そのようなことを彼に言われるとは思わなかったということもあったが、そこまで顔に不安感を出していた自分にも驚きを隠せなかったのだ。
 レックスが言うように、確かに今、不安を感じている。何があったかを吐き出したいのに、それをすれば彼を危険に巻き込むかもしれない――それを思うと、吐き出したいのに吐き出せず、胸の中は不安でいっぱいになったままなのだ。


「何かあったのか?嫌なこととか、オレでよければ話聞くから」
「……レックス」
「言いたくないことなら言わなくてもいい。でも、オレにはそれぐらいしか出来ないから」


 ごめん、とレックスは眉を下げて笑うと、手を伸ばして顔を伏せてしまっているアイリスの頭を軽く撫でた。そのちょっとした行為にすら痛みを感じるも、彼女はそれを押し殺して「ありがとう、レックス」と口にした。
 ゆっくりと撫でられたそこは痛みを訴えている。けれど、決してそれは不快ではなかった。痛みを感じるということは、自分は確かにまだ生きているということでもあった。その実感に、僅かではあるものの抱いていた不安が軽くなり、強張っていた表情を緩めて僅かな笑みを作るぐらいの余裕が生まれた。


「それで、話せそうなのか?」


 話せばレックスを巻き込んでしまうかもしれない。しかし、これは彼にも知らせておくべきことではある。キルスティがもう二度とレオの命を狙わないとも限らない。その時に自身がまた間に合うとも限らない。ならば、レックスにも伝えておくべきことだと考えたアイリスは「実は、」と口を開くも、それを遮るように「ロルフ!」と苛立ちを含んだ声がその場に響いた。
 レックスは溜息を吐くと、肩越しに「今行きます!」と返すと、警備兵をまとめている隊長が来ているのだということをアイリスに囁いた。そんな相手に近衛兵である自分といるところを見られるのは拙いのではないか、と彼女は身を小さくして隠れるところはないかと辺りを見渡す。すると、頭上からは微苦笑が漏れ聞こえてきた。


「大丈夫、上手く誤魔化すから。ごめんな、話そうとしてるって時に。後で時間作ってまた来るから」
「ううん。待ってるね」
「ああ。……それにしても、髪下ろしてるところ、見慣れてたはずなのに新鮮に感じる」
「……うん、今日はちょっと、非番だから」
「だったらうろつかないで部屋で大人しく寝てろよ。倒れるぞ」
「エルザ様にお伝えしなきゃいけないことがあったんだけど忘れちゃって……用が済んだらちゃんと休むから」


 近衛兵団に異動となってからは髪を結い上げていた為、レックスから贈られた髪飾りはいつも使っていた。暗にそれを使っていないことを指摘されたように感じたアイリスは何でもない様子を取り繕いながら口にするも、言い訳は苦しいものだった。
 しかし、レックスも彼女が何かを抱えているということには気付いているらしく、今は時間もないこともあって深くは追求しなかった。そのことにほっと内心、安堵しつつ、「行かなくていいの?」と後方でレックスの合流を待っているらしい警備兵の隊長を一瞥する。


「ああ、うん。そろそろ行く。今日になっていきなり正妃が警備を増員するように言い出したんだ。それで、うちと近衛兵団とで人員調整することになってさ」


 オレは丁度空いてたから隊長のお供に来たけど、お前がふらふら歩いるのを見たから来た。
 その言葉に傍から見ても、それだけ危なっかしいのだということが分かり、気を付けなければと自身に言い聞かせる。「オレはもう行くけど、お前も早く用を済ませて戻れよな」とだけ言うと、レックスは心配げな表情のまま、踵を返して駆け出した。暫し、その背を見ていると、警備兵を束ねている隊長の元に戻った彼が叱責を受けている様子が伺える。それを申し訳なく思っていると、隊長を任せられている壮年の男はすぐに歩き出し、レックスもそれに続いて歩き出した。
 その時、アイリスの方を向いた彼は気にするなとばかりに軽く手を上げ、笑みを浮かべていた。まるで反省していない態度であり、見つかったら拙いだろうと彼女は慌てるのだが、そんなことを気にしないとばかりに颯爽と歩く彼にアイリスは眉を下げて困ったような笑みを浮かべて見送った。


「失礼致します」


 その後、アイリスはエルザの居室を訪れていた。宿舎で休んでいるとばかり思っていたらしいエルザは彼女の訪問に目を見開き、「寝てなきゃ駄目じゃない!」と予想していた通りの反応を見せた。そのことに微苦笑を浮かべながらも、アイリスは平気だと口にする。しかし、怪我人を立たせているわけにはいかない、とエルザは彼女の手を掴むと、椅子に座らせた。
 さすがに同じ目線で会話することは憚られ、アイリスは慌てて立ち上がろうとするのだが「座ってなさい」と肩を押えて言われると、それ以上は断ることが出来なかった。実際のところ、こうして座っている方が幾分か楽である為、本心ではエルザの気遣いは有り難いものだった。
 アイリスの向かい側に座ったエルザは渋面を作りながら、どうして此処まで来たのか、と問い掛けて来た。礼を言いに来たのだと言えば、そんなことはいいから休んでいなさい、と言われることは明らかであり、「レオの様子が気になってしまって」と口にした。それも決して嘘ではない。そのように自分自身に言い聞かせていると、どんどん嘘を吐くのが上手くなっているようにも思え、アイリスは何とも言えない気持ちになった。


「レオのことが気になるのは分かるけれど……そうよね、じっとしていることなんて貴女には無理よね」
「申し訳ありません」
「いいのよ。私こそ、分かっていたことなのだから誰かを行かせるべきだったわ。でも、レオのことは心配ないはずよ。貴女を送った後、地下牢に戻ったのだけれど、取り乱しているわけではなかったわ」
「そうですか……よかった」
「それにお母様がまた手を出して来ないとも限らないからレオとゲアハルトの牢には警備兵を置くことにしたの。……でも」
「でも?」


 そこまで口にしてからエルザは言葉を濁し、表情を曇らせた。その芳しくない様子にアイリスは不安げな表情を浮かべつつ、何かあったのだろうかと考える。そして、先ほどまで顔を合わせていたレックスから聞いた話を思い出した。


「お母様がご自身とシリルの警備を増強したいと言い出したらしくて、地下牢の警備に人員が割けるか分からないのよ」
「そんな……」
「ごめんなさいね、力不足で。どうにかしてみるつもりではいるのだけど……」
「いえ、エルザ様の所為ではありません」


 そのことに関して、エルザには非がない。申し訳なさそうに頭を下げるエルザにアイリスはとんでもないと椅子から腰を浮かし、頭を上げるようにと促す。一国の王女がそう簡単に一介の軍人に頭など下げてはならないのだと口にすると、エルザは微苦笑を浮かべつつ、「力不足は事実だもの。それに身体を張って弟を守ってくれた方に対して頭を下げるのは当然でしょう」と言う。
 しかし、その言葉にアイリスは何も言うことが出来なかった。結果的にレオを守ることは出来たものの、それはエルザが間に合ったからこそだ。彼女が間に合わなければ、自身もレオも死んでいただろう。再び背筋を伝う冷たい汗に身を縮ませながら、アイリスは自分は何もしていないと痛みがない程度に軽く首を横に振った。


「わたしは時間を稼いだに過ぎません。エルザ様が来られたからこそ、レオもわたしも今も生きているんです。……そう言えば、どうしてあの時、エルザ様は地下牢に来られたんですか?」
「貴女の帰りが遅かったからよ。いつもなら戻って来てる時間なのにいつまで経っても戻らないのだもの。おかしいって思うでしょう?」


 念の為に近衛兵を呼んでおいて正解だったわ、と口にしたエルザは表情を引き締めると、「あのね、アイリス」と改まった口調で切り出した。その変化を前にして、彼女が次に言わんとしていることが何であるかは容易に想像がついた。
 エルザは昨日、地下牢で何が起きたのかを教えて欲しいのだと言った。そして、眉を下げながら思い出させてしまってごめんなさい、と心底から申し訳なさげに口にする。そんな彼女に対して、それを予想していたアイリスは平気だと微かな笑みを浮かべ、順を追って昨日の地下牢での出来事について話し始めた。
 初めはゲアハルトに報告していたこと、その時にキルスティがレオが幽閉されている地下牢に向かうところを見たこと、それを追いかけると、キルスティがレオに対して毒を飲ませようとしていたこと――自身の身に起きたこと、そして、エルザが助けに来たこと。それを改めて整理しながら口にすると、自身がどれだけ無茶なことをしたのかが理解でき、もっと冷静になるべきだったと今更ながらに後悔した。


「……母が申し訳ないことをしたわ。ごめんなさい。謝って済むことではないけれど、」
「いえ、わたしも自分が無茶をした自覚はあります。冷静に対処すべきことでした。自業自得なところはあるので、エルザ様が謝られることはありません」
「そうはいかないわ。いくら何でもレオを暗殺するとは考えていなかった私の甘さも悪かったのよ」


 そう言って頭を下げるエルザにアイリスは眉を下げ、「頭を上げてください、エルザ様」と立ち上がって近付くと、彼女の肩に遠慮がちに触れた。アイリスは彼女に感謝していた。今もこうして生きているのはエルザがおかしいと感じて助けに来てくれたからである。彼女が来てくれなければ、昨日のうちに死んでいたのだ。それを思えば、礼を言うことはあっても謝られることはない、とアイリスは思うのだ。


「それにわたしは生きてます。怪我だって生きていれば治るんだから、大丈夫です」
「……アイリス」
「エルザ様、わたしは助けに来て頂いたことを本当に感謝してます。エルザ様が来て下さったからわたしは今もここにいます。助けて下さって本当にありがとうございました」


 顔を上げたエルザに対し、アイリスは腰を折って頭を下げた。慌てて「そんな、助けただなんて私は何もしてないわ」と言って彼女は頭を上げるように言う。何度も促され、漸く頭を上げた頃にはアイリスは急に込み上げて来た吐き気に口を押えてしまい、「だから早く上げるように言ったのよ!貴女、自分が怪我人だという自覚があるの!?」とエルザに注意されてしまった。
 支えられるままに椅子に座り直したアイリスに用意した水を差し出し、エルザは溜息を吐いて呆れたような笑みを浮かべた。そして、「皆が貴女を放っておけない理由が分かったわ」と苦笑混じりに口にし、アイリスはその言葉に何とも言えない表情を浮かべつつ、もっと気を付けて冷静に行動しなければ、と心の中で誓った。


130327


inserted by FC2 system