悪夢 - traitor -



「いい加減、軍部を抑えるのも限界だ」


 月も中天から傾き始めた頃、医務室ではヒルデガルトの押し殺した声が空気を震わせていた。ぼんやりと室内を照らし出す蝋燭の灯りを囲うように、医務室には彼女の他にエルンストとメルケルの姿があった。ゲアハルトとレオが捕縛されてからというもの、ヒルデガルトがエルンストに代わって軍部を抑え、メルケルが騎士団内で動き、彼らに代わって秘密裏に指示を出していた。
 しかし、エルンストがルヴェルチの息子であり、監察官として派遣されたテオバルトを捕縛して以降も状況は変わらず、寧ろ、ルヴェルチによって難癖を付けられた軍部の貴族らが怒りを募らせる一方だった。難癖を付けられた貴族の中には、領地の没収や私兵の解散、子息や令嬢といった家族を人質に取られた者さえいる。シュレーガー家やバルシュミーデ家も例外ではなかった。
 そんな彼らのルヴェルチに対する怒りはそのまま彼を代理執政官に任じたシリルに向かい、第二王子であるレオを担ぎ上げようとする動きが活発化していた。何とかヒルデガルトが中心となってバルシュミーデ家が働きかけて抑えてはいた動きだったが、バルシュミーデ家自体も反ルヴェルチに傾倒しつつあるということもあって抑えが利かなくなりつつあるという現状だった。
 このままでは最悪の場合、ベルンシュタインという国が割れることになる。そうなると、鴉――延いてはヒッツェルブルグ帝国の思う壺であり、何とかそれだけは避けなければならないところだった。しかし、打てる手は限られている為、どうしても後手に回らざるを得ない状況でもあった。


「分かってる。……でも、もう少し頑張って」
「頑張ってるさ。だが、我がバルシュミーデ家も領地の半分を没収され、母や妹たちを人質に取られている。……父の怒りも相当だ」
「……バルシュミーデ団長」
「だろうね。うちだって同じようなものだよ」
「その割に随分と落ち着いてるじゃないか、エルンスト」


 肉親を人質に取られているということもあってか、ヒルデガルトは酷く苛立っている様子だった。いつになく落ち着きのない彼女に対し、同じ状況だというエルンストの様子は常と何ら変わらない。寧ろ、苛立つヒルデガルトを冷やかに見てさえもいるその様にメルケルは底知れない寒気を感じていた。


「大したことじゃないでしょ、人質なんて。俺たちが真に守るべきは家なんかではなく、この国そのものなんだから」
「……エルンスト、お前」
「国の前に人間の命なんて高が知れたものだ。……俺が家族の情なんて持ち合わせてるとでも思ってるの?ヒルダ」
「……」


 深い青の瞳はどこまでも冷え切り、その目に情なんてものは感じられなかった。冷やかな視線を受けたヒルデガルトは唇を噛み締め、視線を逸らした。エルンストの言うことが分からないわけではないのだろう。軍人として優先するべきは国であり、人ではない。ここでルヴェルチの思い通りにさせたなら、レオが担ぎ上げられるようなことになれば、人質の人数以上の被害がこの国に及ぶのだ。それが分からない彼女ではないからこそ苦悩しているのだろうが、エルンストにしてみればヒルデガルトは甘さの捨て切れない人間でしかなかった。
 ヒルデガルトも彼女の部下であるメルケルも人が善すぎるのだ。だからこそ、エルンストは心配でならなかった。いざというときの判断が鈍るのではないか、と。国の為にと何かを切り捨てることが出来ないのではないか、と思えてならなかったのだ。しかし、そこまで考えてエルンストは内心、自嘲した。国の為、ベルンシュイタンの為と、まるでこれでは自分がこの国のことを愛して止まないようではないかと思ったのだ。
 ベルンシュイタンの為にと口にするほど、彼はこの国のことを想ってはいない。エルンストの目的は、カサンドラの目的の阻止であり、彼女の奪われたものを取り戻すこと――彼女を手にかけること、ただそれだけだ。国を守らなければと思う理由も、偏にカサンドラの思い通りにしたくはないというだけであり、それ以上の理由はない。――が、それは本当だろうかと、ふと心の中に疑問が生じた。本当に、ただそれだけの為に自分はあらゆる手を尽くしているのだろうか、と。
 しかし、一瞬浮かんだ疑問もすぐにエルンストは瑣末なことであると打ち消し、顔を歪めて視線を逸らしているヒルデガルトに意識を向ける。そして、兎に角何としても軍部の動きを牽制するように言い聞かせようと口を開いた直後、耳が微かな鳥の羽ばたきを捉えた。窓へと視線を向けると、そこには窓が開くのを待つ宵闇に紛れる鷹の姿があり、エルンストはすぐに窓へと駆け寄った。それはレックスらに貸し与えている隠れ家に置いている連絡用の鷹だったからだ。


「レックスからか?」
「そうだよ。……」


 鷹の足に括りつけられている手紙を解き、エルンストはすぐさまそれを開き、書かれている暗号文に目を通し始めた。しかし、読み進めるにつれて彼の表情は険しくなる一方で、椅子から腰を浮かせていたヒルデガルトとメルケルの顔には心配の色が濃くなる。何かよくないことが起きているのではないかと互いに顔を見合わせている彼らを横目にレックスからの手紙を読み終えたエルンストは舌打ちし、手紙をぐしゃりと握り潰した。


「何と書いてあったんだ?」
「……レオがクソババアに暗殺されそうになった上にアホ殿下の指示で移送された。現在の幽閉場所は不明」
「そんな……!いくらあの方でも暗殺なんて……」
「されかけたんだよ。何とか途中で阻止出来たらしいけど」
「……だが、移送はそれほど悪くはないだろう。行方はまた捜索しなければならないが、これで一応はレオを担ぎ上げようにも身柄を取られることはない」


 言葉を濁しながらヒルデガルトは苛立ちを隠しきれていないエルンストを見た。手紙を握り潰した彼が苛立っている理由は決してレオが移送されたことではない。寧ろ、行方が掴めなくなったことは気掛かりではあるものの、担ぎ上げようとする動きがあった手前、場所を移してくれたことは有り難くもあった。
 エルンストの苛立ちの理由はアイリスがキルスティによって痛めつけられたということだ。彼女の性格からしても、そのことはレックスに隠していたに違いない。何かの拍子に露呈して、仕方なく彼に話したのだろうということは想像に難くない。本当はレックスもアイリスにこのことは誰にも言うなと口止めされていたのだろうと思うと、こうして報告してくれた彼には感謝の念さえ抱いた。
 無論、ヒルデガルトにはこのことは話せるはずがなかった。アイリスを殊更可愛がっている彼女のことだ、アイリスが殺されかけたなどと言えるはずもない。キルスティに言い様のない殺意にも似た苛立ちを感じながら唇を噛み締めていると、「あの、他に報告はなかったのでしょうか」というメルケルの控えめな声が聞こえて来た。


「あったよ。……クソババアが自分やアホ殿下の護衛を倍以上に増やして近衛兵団も警備兵もほぼそっちに回されて城内は手薄。しかも、エルザの護衛も減らされた」
「おい、この状況でエルザ殿下の護衛を減らすなんて、」
「あのクソババアの考えてることなんて俺には分からないよ」


 兎に角、急いでエルザの護衛を増やすことが先決である。レックスからの手紙には、近々公務で城の外に出ることになっているということも書かれていた。さすがに公務であれば、通常通りの護衛が付けられるだろうが、キルスティが何を言い出すかなど分かったものではない。
 公務の旨をヒルデガルトとメルケルに伝えると、彼らも同様のことを考えていたのか表情が曇った。現状、エルンストやヒルデガルトが自由に動かすことの出来る兵力は限られている。何より、人質を取られているのだ。いくら二人が私兵を動かそうとしても家の人間が黙ってはいないだろう。
 どうするべきだろうかと考えていると、「アイリスに今すぐエルザ殿下の護衛に就くように伝えるというのはどうでしょう」とメルケルが口を開く。エルザの預かりであり、近衛兵団所属であっても指揮系統が異なるアイリスはこの状況でもエルザの護衛に就くことが可能だ。ヒルデガルトも心配ではあるのだろうが、エルザのことを捨て置くことも当然出来るはずもなく、そうするべきだと頷く。


「それは駄目だ。あの子は無茶しかしない」
「だが、」
「アイリスちゃんを護衛に就かせるにしても、朝になってからの方がいい。夜中にいきなり動き出したとなれば、こっちと繋がってることを自分で言い触らしてるようなものだからね」
「……それではどうするつもりだ。さすがに朝までエルザ殿下をお一人にするわけには、」
「アイリスちゃんが来るまでは俺がやる。ついでに公務の詳細も聞いて来るよ」


 そう言うなり、エルンストは握り締めていたレックスからの手紙を蝋燭に火に近付ける。手紙に移った火は少しずつそれを燃やし、彼は灰皿の上にそれをぽとりと落とした。消し炭になったことを確認してから着ていた白衣を脱ぎ過ぎて、薬棚へと近付く。その奥深くに隠していた深紅の軍服を引っ張り出してそれを着替え始めると、「お前、人目をもう少し気にしろ」というヒルデガルトの呆れた声が聞こえて来た。


「隠すほどのものでもないからね。それより、エルザの公務には騎士団を動かす。外でやるからだとか何とか理由付けて動かす用意をしておいて」
「分かった。……というか、お前、ローブまで着込んで暑くないのか?」
「暑いに決まってるでしょ。だけど、夜中に近衛兵団の人間が城外で動いてる方が怪しいんだから仕方ないじゃない」


 着込んだ深紅の軍服の上から宵闇に紛れる漆黒のローブを纏うエルンストに対してエルザは溜息混じりに言う。暑いことは暑い。しかし、何者かに見つかるとその方が余程面倒なのだから背に腹は代えられない。エルンストは目深に被った軍帽の上からフードを被り、医務室の裏口のドアノブを握る。
 朝まではエルザに付いているつもりだ。しかし、あまり医務室を抜けるわけにはいかない。ルヴェルチが動き出さないことを願いながら、「それじゃあ後は頼んだよ」とヒルデガルトらに声を掛け、彼は音を殺して扉を開くと、雲に隠れた月夜の下、荘厳に佇むバイルシュミット城へと駆け出した。









「あ、カーサ!おかえりー」
「ぶふ……っ」
「ええ、ただいま。あら、ブルーノ、噴き出すなんて失礼ね」
「い、痛っ!ちょ、離せよ!」


 ドアノブを回して宛がわれている隠れ家の談話室へと足を踏み入れると、カサンドラの格好を見るなりブルーノは飲んでいた珈琲を噴き出した。彼女はそんな反応に眦を吊り上げると、汚いな、と少年に睨まれている彼の鼻を赤く塗り上げられた爪で容赦なく抓り上げた。
 途端に暴れるブルーノからさっと手を離せば、「貴方が失礼な態度を取るからでしょう」とふんと顔を逸らす。そんなカサンドラの格好はバイルシュミット城に仕える侍女の服装だった。それがブルーノの度肝を抜いたわけだが、理由はその服装が似合わないだとかそういうものではなく、傲岸不遜な態度が多々見受けられるカサンドラが城仕えの人間の格好をしているということだ。
 とはいっても、纏っている香水の香りも赤く塗り上げられた爪もきっちりと惹かれた赤い口紅も侍女らしからぬことこの上なく、やるなら徹底的にやれよ、とブルーノはこっそりと溜息を吐いていた。


「ところで、白の輝石は確認出来た?」
「実物は確認出来なかったけれど、正妃様がお持ちなのは確かみたい。シリル殿下にお見せになっていたようだから」
「だったらその場で奪っちゃえばいいのに!」
「駄目よ。今はまだその時ではないもの。少なくとも本国からの応援が到着しなきゃね」
「本国からの応援?そんなの必要かよ」


 首を傾げるブルーノに対し、カサンドラは呆れたように溜息を吐いた。「必要に決まってるでしょ、皆殺しにするのではなくなるべく傷つけずにベルンシュタインを手に入れる必要があるんだから」とカサンドラは言いつつ、ソファに腰掛ける。すかさず紅茶の用意をする少年を横目に、「どういう意味だよ」と問い掛けて来るブルーノに彼女は呆れた表情を向ける。


「植民地にするのよ、この豊かな国をね。街にしろ、人にしろ、傷つけずに手に入れられる方がいいじゃない」
「そりゃそうだろうけど……」
「それにはやっぱりそれなりの兵力が必要なの。白の輝石は正妃様の元にあるのは分かってるのだから、その気になればすぐに奪えるわ」
「……失敗したらどうするんだよ。もう後はねーんだぞ」


 ブルーノの言うことも尤もだった。既に一度、最重要防衛拠点の橋を落とされているのだ。二度の失敗は許されない。だからこそ、慎重に事を運ぶべきであり、少しでも確実に白の輝石を奪取するべきでもある。カサンドラ自身、彼の言うことは尤もだと思っているし、危険な橋を渡りたいわけではないのだ。
 けれど、より効果的にベルンシュタインを陥落させて手中に収めることも視野に入れなければならない。その為には機会があったとしてもすぐには手を出さず、来るべきときに一気に攻め落とすべきでもあるのだ。そして何より、ただ白の輝石を手に入れただけでは、この命令を下したヴィルヘルムは満足しないだろう。


「白の輝石を入手することも大切よ。でもね、それだけでは駄目なのよ」
「……どういう意味だよ」
「それだけではヴィルヘルム様はお喜びにはならないということよ。……あの方は白の輝石だけでなく、この国を手に入れることをお望みよ」


 一度失敗し、信頼は失っている。それを回復させるには、白の輝石だけでなくベルンシュタインというこの国そのものを手に入れなければならない。そうでなければ、失った信頼を再び得ることは出来ない。カサンドラとしては、信頼の回復にそれほど執着はないものの、ヴィルヘルムの信頼がなければ輝石の研究から外されかねないのだ。
 輝石の研究はカサンドラにとっては何より重要なことでもある。輝石を研究することが出来なければ、彼女の悲願は遂げられない。これまでの努力も何もかもが水泡に帰すのだ。だからこそ、これ以上の失敗は許されず、ただ白の輝石を奪取するだけでは駄目なのだ。そうなると、嫌でも危険な橋を渡るしかない。
 

「シリル殿下の御即位まであと僅か。王位継承が成されるその日が、ベルンシュタインの終わりよ」


 王家の人間は皆殺しにされ、城は紅に染まり、王都は悲鳴に包まれる。それがカサンドラの書いた筋書きであり、彼女の望むものである。けれど、望みはそれだけではない。かつて自身の手で拷問に掛けた数多の女性兵士と同様の目に遭わせなければならない者がまだ一人残っているのだ。
 彼女を捕え、四肢を拘束し、少しずつ少しずつ痛めつけていけば、彼女は一体どのような顔で泣き、声を上げるのかがカサンドラにとっては愉しみでならなかった。想像しただけでも背筋が震え、口元には歪んだ笑みさえ浮かんでくる。助けを、許しを乞うのだろうか。跪いて頭を下げ、這いつくばって許しを乞うその様が見たくて見たくて仕方なかった。
 堪え切れず笑みを漏らすと、その場にいたブルーノと少年はぴくりと肩を震わすも何も言わず、視線を逸らした。浮かべられた歪んだ笑みの中の確かな狂気に当てられまいと、彼らはそっと息を潜め、次第に大きくなる彼女の笑い声だけがその部屋を満たした。


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