悪夢 - traitor -



 レオが移送され、行方が掴めなくなってから数日が経ち、アイリスはエルザの公務に随行する為、慌ただしく準備をしていた。このところ、近衛兵や警備兵の殆どキルスティやシリルの元に集められていたが、その状況は殆ど変わらぬままだった。しかし、公務に出るということもあってさすがに本来、エルザの護衛に就くはずの兵士らは戻され、アイリスは久々に彼らと顔を合わせた。
 キルスティやシリルの警護がどうであったのかを尋ねると、人が余っている状況であり、特に何もすることもなく暇を持て余していたのだと彼らは溜息混じりに答えた。エルザの影響を受けているのか、生真面目な性格の者が多い彼女の近衛兵はどうやら居心地の悪さを感じる数日間だったらしいことが伺える。
 そんな中、アイリスは今回合同でエルザの護衛に就く騎士団と移動経路や配置などの最終確認をする為に会議室へと向かっていた。そこに既に護衛任務に就く騎士団の団長が待機しているのだということをエルザに仕えている文官の男から知らされたのだ。彼が言うには、第十騎士団の団長らしい。しかし、第十騎士団と言うと、先のライゼガング平原での戦闘において団長だったベーデガーが戦死している。つまり、新しい団長が決まり、その者が会議室にいるということである。だが、誰が団長に就任したかを聞いていないアイリスにしてみれば、寧ろゲアハルトが捕縛され、監察官が騎士団に派遣されるといった騒動の中、よく団長を選出し、任命する余裕があったものだと不思議に思えてならなかった。


「すみません、少々よろしいでしょうか」
「え?……レック、」
「しっ、黙って」


 一体誰が新しい団長なのだろうかと考えながら歩いていた矢先、唐突に背後から声を掛けられた。アイリスは足を止めながら振り向くも、そこにいたのは兜を押し上げて顔を覗かせるレックスであり、彼女はきょとんとした表情を浮かべる。どうしてそんなに他人行儀なのだろうかと思いつつ、名前を呼び掛けるも、慌てた様子の彼に声を遮られてしまった。
 そうして辺りに視線を向けるレックスを見て、漸くこの場には他にも多くの人間が歩いているのだということに気付く。彼と普段、顔を合わせる時はなるべく人通りの少ない場所を選んでいたこともあってつい油断してしまったのだ。ごめん、という表情を作りつつ、「何でしょう」とアイリスはあくまでも他人行儀な声音で口にした。


「先日、お尋ねになられていた件ですが、やはり予想通りの結果でした」
「そうでしたか。お手数をお掛けしてすみませんでした」
「いえ。エルザ殿下の日々の安全の為にも警備体制は万全でなければ。それでは、私はこれで」


 さり気なく差し出されたメモを受け取り、アイリスはそれを袖口に隠すと敬礼するレックスを見送った。先日の件――バイルシュミット城のどこかにレオを幽閉するべく新たに造られた牢に関係しているであろう南区の大工らから情報を得ることが出来たのだろう。予想通りの結果であったということは、城内にシリルの指示で牢を造ったということであり、その場所も聞き出せたはずだ。その場所が書かれているであろうメモを今すぐこの場で確認し、すぐにその場に向かいたい心境に駆られる。
 しかし、エルザの出発が迫っている今、それを捨て置くわけにはいかない。アイリスは逸る気持ちを抑え、メモを失くさないようにしっかりと握ると足早に会議室へと向かって歩き出した。


「失礼致します。近衛兵団所属、エルザ殿下付きのアイリス・ブロムベルグです」


 扉をノックすると、すぐに入室を促す声が聞こえて来た。アイリスは扉を開けると、頭を下げて所属を名乗った。誰が新しい団長に任命されたのかは知らないものの、今の彼女は近衛兵だ。それも、王女であるエルザの預かりであり、自身の失敗はそのまま彼女の顔に泥を塗ることになる。そうなると、たとえ知り合いかもしれない相手であっても礼儀は通さなければならない。
 しかし、顔を上げてそこにいる人物を見るなり、アイリスの顔に浮かんでいた緊張は一気に抜け落ちた。そこにいたのは、先日も顔を合わせたばかりのエルンストであり、彼女から視線を逸らしながら口元に手をやって笑いを噛み殺していた。


「エ、エルンストさんが、第十の団長だったんですか!?」
「違うよ。というか、まだ決まってすらないから、第十の新しい団長は」
「それじゃあどうして此処に……」
「丁度、団長死亡で空席だったから。今回の護衛には第十と第十一が就くことになってる、ついでに言うと第十一の団長も戦死してね。まあ、エメリヒ団長は戻って来てはいたんだけど怪我が悪化してつい最近、亡くなったんだ。二人も団長が亡くなって再編成にてんてこ舞いだよ」


 そう言ってエルンストは肩を竦めるも、騎士団を束ねる団長が戦死したというのに何ら気に留めた様子がなかった。こういうところがあるということは知ってはいたものの、改めてそれを目の当たりにするとその冷たさに背筋が冷えた。
 しかし、今はそれを考えるべき時ではない。第十騎士団、第十一騎士団の団長だったベーデガーとエメリヒが戦死したということは初耳だったが、ホラーツが討ち取られたことで撤退を余儀なくされ、状況は混乱を極めていただろう。それを思うと、致し方がないのかもしれないとも思った。だが、そう思う反面、致し方ないの一言で片付けようとした自分自身も恐ろしく、人の死というのもにすっかりと慣れているように思えてならなかった。否、慣れているのだろう。アベルを失った痛みも、今ではすっかりと薄らいでいた。


「ああ、そうだ。任務中はペーニッツって呼んで、その偽名で通してるから」
「分かりました。……でも、ルヴェルチ卿に気付かれることはありませんか?」
「それは平気。あのおっさんには一切の書類を回してないから」
「え?」
「団長の任命書もベーデガーとエメリヒの死亡診断書も何もかも回してない。言って来ないからその存在も知らないんじゃない?」


 言われたら出すけどね、と呆気羅漢とした口振りにアイリスは脱力した。しかし、提出しないエルンストもエルンストだが、何も言って来ないルヴェルチもルヴェルチである。仮にも代理執政官なのだからもう少し自身の職務を全うするべきではないのかとさえ思ってしまう。無論、だからといって本当にしっかりと職務を全うされたのならば困る為、今のままで構わないのだが。
 脱力するアイリスに対してエルンストは飄々とした様子で「それじゃあ本題に移ろうか」と事も無げに言う。この場にはエルザが公務として訪れることになっている美術館の警備配置や到着までの経路の警備など、そういった警備の最終確認の為に訪れていたのだ。テーブルの上に広げられている配置などが書き記された様々な地図へと視線を向け、アイリスは表情を引き締めると「それではまずは経路の警備から、」とバイルシュミット城から王立美術館までの経路が描かれた地図を取り出した。


「特に警備については変更なし、でよさそうだね」
「恐らくは。後は適宜様子を見つつ、ということでいいと思います」
「そうだね。それにしてもアイリスちゃんとこうして作戦行動の打ち合わせをすることになるとは思わなかったな」


 初実戦の時とは大違いだね、と数か月前のことを思い出して笑みを漏らすエルンストにアイリスは顔を赤くして眉を寄せた。確かに笑われても仕方がない体たらくだったということは自覚している。しかし、今それを思い出さなくてもいいではないかと唇を尖らせずにはいられないのだ。


「そ、それより……さっきレックスと会って、レオが幽閉されている場所が分かりました」
「何処だって?」
「南区の大工がシリル殿下に雇われて、東の塔に特殊な牢を造ったことを自供したそうです」
「東の塔……アホ殿下の私的空間であり管理区域、まあ、レオを閉じ込めるならそこぐらいしか考えられないか。でも、幽閉されてるかどうかは自分の目で確かめるまでは分からないよ、アイリスちゃん」


 そこに幽閉されてると思わせる為に敢えて空っぽの牢を造らせたのかもしれない。
 その言葉にアイリスは言い返すことが出来なかった。エルンストの言う通りであり、現段階ではあくまでもレオが幽閉されている可能性が高い場所、でしかない。しかし、可能性が高いと分かっている以上、すぐに確認したいところではあった。だが、時間に余裕もなく、また、エルンストの渋るような顔を見ると迂闊に手を出すべき場所ではないのかもしれないとも思う。


「とりあえず今は行かない方がいいよ、簡単には入れないところだからね。侵入も難しいから」
「侵入も?」
「そう、出入り口は一か所だけ。窓もある程度、地上から離れたところにしかないし、その周囲に木もない。攻撃魔法を組み合わせれば何とかならなくもないけど、こんな明るい時間帯にやることではないからね」


 とにかく、今は公務が先だよというエルンストにアイリスは後ろ髪を引かれつつも頷いた。レオの安否が気に掛かるものの、エルザの護衛を蔑ろにしていい理由にはならない。今は彼女の護衛に集中しなければと思いつつ、一先ずは戻る前にゲアハルトの元にも立ち寄ろうと決める。
 ルヴェルチと遭遇してから一度だけ様子を見に行ったことがあったものの、立ち寄ることの出来なかった間に起きた出来事を話すと随分と叱れてしまったのだ。無茶をし過ぎだと今までになかったほどに叱られ、酷く心配もされてしまった。暫くの間は来ないようにさえ言われてしまったのだが、今日は報告しなければならないこともあるのだ。だから、立ち寄ってもいいはずだと半ば言い訳のような心境になりながらも、アイリスはふとあることに気付いた。


「エルンストさん、鍵はどうなったんですか?」
「鍵?ああ、司令官たちの手錠と牢のか。レオのは使い物にならないからいいとしても、司令官の牢の鍵はもう殆ど出来てるんだけど手錠がなかなかね」
「難しいんですか?」
「みたいだよ。ほら、あの人って普通の手錠を掛けたぐらいじゃ拘束出来なさそうでしょ?壊しそうというか……そのせいで特に硬くて鍵も複雑な特別製の手錠を嵌められてるから鍵を造るのも難しいみたい」


 困るよね、とエルンストは肩を竦めながらも手早くテーブルの上の地図を片付け始める。アイリスも手伝おうと手を伸ばすが、それよりも先に「いいから、アイリスちゃんは司令官のところに行って来なよ」と彼は言った。時間が迫ってはいるものの、レオのことやエルザの公務の件などを知らせておいた方がいいと言うエルンストの言葉に甘え、アイリスは今日はよろしくお願いしますと頭を下げた。
 そんな彼女の様子にエルンストは微苦笑を浮かべながらぽんぽんと頭に軽く叩き、「こっちこそよろしく」と言うとやんわりとアイリスの背を押して早く行くようにと促した。アイリスはもう一度だけ頭を下げると会議室を出て、急いで北の地下牢へと向かった。
 地下牢の付近は相変わらず人が少なく、また此処でルヴェルチと遭遇したらどうしようかという不安が湧き上がる。しかし、足を止めている時間が惜しく、アイリスは挨拶もそこそこに警備兵の脇を抜けて階段を駆け降りた。一気にゲアハルトが幽閉されている階層まで下り、扉を押し開くと中は普段と変わらぬ静まり返った様子でひんやりとした冷気が肌を刺した。


「司令官、おはようございます」
「おはよう、アイリス。今日はエルザ殿下の公務だろ?急がなくていいのか?」
「急がなきゃいけませんが、報告もありますから」


 最後に訪れた時にエルザの公務が迫っている旨を伝えはしたが、どうやら幽閉されてからも未だ時間の感覚は失われていないらしいことにアイリスは僅かに目を瞠った。食事の時間も定かではなく、日光も届かぬ地下牢に何日にもわたって幽閉されていれば、いい加減、精神的にも辛いはずだ。
 けれど、一言も弱音を吐かないその様は漸く幽閉された地下牢を見つけて再会した時の様子とはまるで違っていた。ゲアハルトはまだ諦めてはいない。それは真っ直ぐな明るい青の瞳を見れば明らかだった。アイリスは鉄格子の傍に膝を付くと、掻い摘んで先ほどエルンストにも報告したレオの幽閉場所のことを伝える。


「東の塔か……あそこに侵入するのは難しいな」
「エルンストさんもそう仰っていました。……やっぱり正面から行くしかないのでしょうか」
「だからといって強行突破はやらないように。君は変なところで強引だからな……肝が冷えるからレオの時のような無茶はしないでくれ」


 いいな、と鉄格子越しに手が伸ばされ、指先で軽く額を突かれた。どうやらレオを庇った一件からゲアハルトの中ではアイリスが時折とんでもない無茶をする人間だという認識に至ったらしい。決して間違ってはいないものの、そうやって何度も釘を刺されると居た堪れない気持ちにもなる。
 アイリスは突かれた額を抑えながら、ふと視線をゲアハルトの手を拘束している手錠へと向けた。エルンストも言っていたが、確かにそれは普通のものよりも大きく、頑丈なものであった。明らかに目立つ異物であるにも関わらず、今の今まで気付かなかったことを情けなく思いながら彼女はそれに手を伸ばした。


「アイリス?」
「エルンストさんが言ってました。この手錠の鍵は造り難いって……頑丈な特別製の手錠だから。これぐらいしっかりとした手錠を付けないと司令官なら壊しちゃうからって」
「大袈裟だな。さすがに手錠を引き千切るほどの力はないさ」


 あいつはまたそんな馬鹿なことを言ってるのか、とゲアハルトは微苦笑を浮かべた。けれど、その微苦笑の中に安堵感も見え隠れし、エルンストが軽口を叩ける程度には元気にやっていることに安心している様子が伺える。エルンストはすぐに無茶をする。それこそアイリス以上に、彼は自分の命を顧みずに駆け出してしまう。それがゲアハルトにとっては危うく見えて仕方ないのだろう。
 無論、アイリスにとってもエルンストの自身を顧みないところは危うく見えて仕方ない。もっと自分を大事にして欲しいと思うのだ。けれど、それを言ったところで分かったよ、と彼は笑って自身に見えないところで動き続けることも分かっていた。エルンストはそういう人間だということは、この半年ほどの時間でよくよく分かっていた。


「アイリス、エルザ殿下をよろしく頼む」
「はい、お任せください」
「だからといって自分を危険に晒さないように。自分の身も大事にしてくれ」


 王族の警護なんて荷が重たいかもしれないが、落ち着いて動けば大丈夫だ。
 ゲアハルトはそう言って不自由ながらも伸ばした手でアイリスの頭を軽く撫でる。その手は以前よりも細くなったように見え、はい、と頷きながらも胸が痛くなった。早くゲアハルトを地下牢の外に出したいのに、思いとは裏腹に自身に出来ることは食料と情報を持って来ることだけだ。
 地下牢にいた方が安全だということもある。特に今はシリルとルヴェルチが権勢を振るっているのだ。それを考えると、ヒッツェルブルグ帝国の第一皇子であることが白日のもとに晒された彼が表に出れば、何らかの理由を付けて処断に乗り出すはずだ。たとえシリルらが何の手を打たなかったとしても、民衆がそうならないとは限らない。寧ろ、民衆を煽り立てて、処断することこそが国民の総意だとばかりに彼らは動き出すかもしれない。
 それを思えば、不自由だろうとも人目に付かない地下牢にいた方が安全ではある。けれど、こうして少しずつ少しずつ弱っていくゲアハルトを見ていることは辛く、アイリスは顔を伏せた。もっと自分に力があれば、彼の為に何か出来るかもしれないのにと思っていると「どうした?」とすぐ近くから優しい声音が聞こえてくる。


「……いえ、ちょっと緊張して来て」


 苦しい言い訳だ。勿論、エルザの護衛を任されて以来の大役なのだから決して嘘ではないものの、それだけが理由でないことが分からない彼ではない。しかし、「そうか」と一つ頷いたゲアハルトはそれ以上は何も言わずにアイリスに向けて手を差し出した。何だろうかと思いつつ顔を上げると、彼は微かな笑みを浮かべて手を差し出すようにと口にした。
 おずおずとアイリスが手を差し出すと、ゲアハルトはその手を両手で握った。冷たいとばかり思っていたその手に包まれると、じんわりとした温かさが冷え切っていたアイリスの手を温めた。その温もりに少し、泣きそうになった。


「大丈夫、上手くいく」
「……はい」
「エルンストも一緒に行くなら万が一のこともないさ。……それに、今がどれだけ辛くとも、それ以上に幸せだと思える時がいつか来る」


 だから、もう少しだけ頑張れ――その言葉にアイリスは小さく頷いた。結局、彼には自分が考えていることなどお見通しらしい。何も出来ないことを歯痒く、辛く思っていても、今はそれに耐えなければならない時だ。それを終えればきっと、今よりも少しでも幸せだとか楽しいだとか、そんな風に考えられる時が来る。掛けられた言葉と手の温もりに少しだけ目頭を熱くしながら、アイリスは笑みを浮かべて顔を上げると、「いってきます、司令官」とこれから始まるエルザの公務に向けて、頭を切り換えた。




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