悪夢 - traitor -



「何だ、忙しそうだな」
「シリル殿下……どうして此処に」


 エルザの居室へと急いでいると、曲がり角から予想外の人物が飛び出して来た。何とか足を止めることができ、衝突は免れたものの、曲がり角から姿を現したシリルにアイリスは目を見開いた。エルザの居室のすぐ近くの場所であることを考えれば、彼女の元を訪れたのだということが伺える。一体、どのような用事だったのだろうかと考えていると、「私の代わりに公務に出られるのだから挨拶ぐらいはするだろう、普通」とシリルは呆れた表情で口にした。


「挨拶……」
「私が姉上に挨拶してはおかしいか?」
「いえ、そのようなことは……」


 そのような律義さがあるとは思っていなかったから驚いた、などとは口が裂けても言えない。視線を逸らすアイリスに対し、シリルは変な奴だなとばかりに溜息を吐くと、「まあいい」と話題を打ち切った。彼も恐らくは急いでいるのだろう。アイリスも出立時間が迫っていることもあり、すぐにエルザの元に戻らなければならない。
 それでは失礼します、とアイリスは一礼してシリルの脇を通り抜けるも数歩と行かぬうちに「アイリス」と名前を呼ばれた。何かあるのだろうかと足を止めて振り向くも、彼は前方を向いたままで表情を伺うことは出来なかった。


「姉上を頼んだぞ」
「は、はい。お任せください」


 思いもしなかった言葉に面食らいつつも返事を返すと、シリルはすぐに歩き去ってしまった。その様子からも彼がエルザを大切に思っていることが伺え、ますますシリルという人物のことがよく分からなくなった。エルンストを始めとする周囲の彼の評判は決してよくはなく、寧ろ冴えない盆暗王子だと言われ続けている。
 しかし、実際に言葉を交わしてみると決して凡愚というわけではないようにも思えるのだ。とはいっても、ルヴェルチと手を結んでいることを考えれば、決して賢い王子だとも思えない。何か目的があるかもしれないが、それを知るにはあまりにも関わった時間が少なかった。
 アイリスは気を取り直してエルザの居室へと急ぎ、通い慣れた扉をノックした。すぐに聞こえる誰何の声にアイリスは自身の名を名乗ると同時にドアノブを回した。失礼します、と居室に足を踏み入れると、エルザは式典の資料に目を通していた。彼女にもレオの居場所が凡そ特定出来たという旨を伝えなければと思っていると、「さっき、そこでシリルに会ったでしょう?」と資料から顔を上げてエルザは口にした。


「お会いしました。エルザ様にご挨拶にお越しになられたとのことでしたが」
「そうなのよ。あの子らしくない殊勝な態度でね。何か拾い食いでもしたのかしら」
「……普段はお越しになられないのでしょうか」
「そんなこともないわよ。けれど、そうね……少なくとも普段はもっと騒がしい様子ではあるわね」


 エルザは微苦笑を浮かべつつ答えると、「そろそろ時間ね。行きましょうか」と資料をテーブルに置いて立ち上がる。今日は公務ということもあり、見た目にも涼しい青いドレスを彼女は纏っていた。よくお似合いです、と賛辞の言葉を贈ると、エルザは少し恥ずかしそうに笑みを浮かべて「ありがとう。そう言ってくれると嬉しいわ」とはにかむ。
 すると、丁度扉がノックされ、彼女に仕える文官の男が定刻だと扉越しに告げる。エルザはそれに返事をすると「今日はよろしくね、アイリス」と口にした。今回の公務におけるエルザの護衛の責任者はアイリスであり、失敗は許されない。経験が浅いからと辞去したのだが、彼女にどうしてもと言われて引き受けることになったのだが、過程は兎も角としても責任者になったのだから気を引き締めなければならない。
 全力を尽くします、とアイリスが一礼すると、エルザは微苦笑を浮かべながら「そんなに改まることもないわ。きっと大丈夫だもの」と言うも、だからといって気を抜くわけにもいかない。曖昧に笑うアイリスにエルザは肩を竦めながらも苦笑を深め、お早くと急かす文官の男に返事を返した。


「ご予定の確認ですが、王立美術館への到着後は美術品の観覧の後、百周年記念の式典にご参加。そこでご挨拶を頂戴し、式典終了後に城にお戻りになります」
「式典の進行に変更はないの?」
「今のところ、そのような報告は届いていません」


 馬車へと乗り込み、アイリスは文官の男に最終確認したエルザの予定を彼女に伝える。彼女は分かったわ、と一つ頷くと手元に用意した挨拶の原稿へと目を通し始めた。アイリスはなるべく音を立てないように立ち上がると、一度馬車から下りて周辺に集まっていた今回の式典で護衛に就く兵士らの部隊長らに声を掛ける。


「近衛兵団所属、エルザ殿下付きのアイリス・ブロムベルグです。今日はよろしくお願いします。早速ですが――」


 王立美術館までの経路や美術館には既に兵士が配置され、この場には既に配置されている兵士らをまとめる部隊長や馬車と並走する騎馬隊が集められていた。その中には第十騎士団の団長に扮したエルンストの姿もあったが、顔を隠す為に軍帽を目深に被っていた。それでも、騎士団から今回の護衛任務に参加している者が見ればすぐに彼がエルンストであるということは分かるだろう。だが、騒ぎ立てる様子がないところを見ると、既に話は通していることが伺える。
 抜かりの無さが彼らしいと思う反面、騎士団はエルンストがまとめているのだろうかとも思う。ゲアハルトが司令官を解任されるも、かと言って新しく誰かが司令官に任じられてもいない。だが、エルンストはルヴェルチから目を付けられているのだから彼が表立って騎士団をまとめられるとも思えない。裏で動いている可能性は十二分にあるが、それにしてもゲアハルトがいた頃と変わらない統率された様子にアイリスは違和感を覚えていた。
 ゲアハルトのことを信頼しているからだろうかとも考えたが、敵国の第一皇子であるという事実はその信頼を裏切るものでしかない。騎士団の中には反感を抱く者だっているはずなのだ。普通ならば噴き出すはずの不満がないことこそが違和感の正体であると気付くも、だからと言って護衛任務に参加している騎士団の兵士らにゲアハルトのことをどう思っているのかなど聞けるはずもない。何かしら思うところはあるのだろうが、ゲアハルト自身の口から真実を聞きたいというのが騎士団の兵士らの総意なのかもしれない――アイリスはそう考えながら、最終確認を進めていく。


「王立美術館からの緊急時の退路は五か所設けてます。どの経路を使うかは式典の進行次第ですが、エルザ殿下が美術館に到着した後、該当部隊は緊急退路への移動をお願いします。それから――」


 頭に叩き込んだ作戦内容を諳んじるも、元々一人で立案した作戦ではない。大枠の部分はアイリス自身が考えたものではあるが、細かなところはエルザに仕える文官やエルンストの指示に従ったものである。さすがに入隊してから半年余りの彼女が一人で王族を護衛する作戦を立てられるはずもなく、改めて作戦立案の難しさを感じたものだった。
 最終確認を終えると、それぞれが配置に向かうべく移動し始める。それらを見送ると、アイリスはエルザが既に乗り込んでいる馬車へと近付き取り出した杖に魔力を集中させた。そして、馬車全体を覆うように防御魔法を展開すると、馬車へと乗り込んだ。まさか自身が王族の馬車に同乗することになるとは夢にも思わなかったアイリスは少し居心地の悪さを感じていた。
 しかし、アイリスの思いとは裏腹に馬車は緩やかに走り始める。バイルシュミット城から王立美術館までは少し時間も掛かる為、今のうちにレオのことを伝えるべきだと隣で原稿に目を通しているエルザに申し訳なさそうに声を掛けた。


「先ほど、レオが移送されたと思われる場所が分かりました」
「何処だったの!?」
「バイルシュミット城の、東の塔です」
「東の……それじゃあ、やっぱりシリルがレオを移したのね。あの塔はあの子の管轄だもの」


 どうして、と柳眉を寄せるエルザにアイリスは答える言葉がなかった。しかし、まだ可能性が高いというだけであり、レオの姿を実際に確認したというわけではない。そのことも言い添えるが、エルザは間違いなくあの子のところにいるわ、と言い切ってしまう。何か心当たりがあるのだろうかと思うも、彼女の様子からはそういうことではないことが伺えた。
 シリルの姉だからこそ分かるのだろうかと考えると、幼い頃の三人がどのような関係であったのかが気になってきた。エルザの様子から決して不仲であったというわけではなようだが、シリルとレオの仲がどうだったかは定かではない。国葬の時のことを思うと、シリルはレオのことを疎んでいる様子だった。しかし、彼と関わるようになって、シリルのことを知る度にそれだけではないように思えてならないのだ。


「シリルがレオを移送したのかどうか、そのことは私が直接あの子に問い質すわ」
「ですが……」
「平気よ。姉として弟が何処にいるのかを問い質すだけだもの。外に出すことが出来なくとも、場所だけは聞き出してみせるわ」


 そうしてくれると有り難いことに変わりはない。しかし、この一件がキルスティの耳に届いてしまわないかが気掛かりだったのだ。シリルは王位継承権の剥奪を終えるまではレオの命を保障すると言っていた。だが、だからといってキルスティの行動を抑えるとは言ってはいないのだ。エルザが表立って動くことでキルスティにもレオの居場所が知れてしまうことを思うと、やはり不安は尽きない。
 それが顔に出ていたらしく、どうしたのかと尋ねられたアイリスは思ったことをエルザに伝えた。すると、彼女自身もレオとキルスティを会わせたくはないらしく、「そうね。気を付けて行動するべきよね」と眉を下げる。決してエルザの提案を無碍にしたいわけではないのだとアイリスが慌てると、彼女は微苦笑を浮かべてそれは分かってるのだと口にした。


「でも、話をするだけなら平気だと思うの。姉と弟だもの、話ぐらいするものだからお母様だって話すだけなら何も言わないはずよ」
「それならいいのですが……」


 不安がるアイリスに対してエルザは苦笑を深めると、「こんなにレオのことを心配してくれるなんて、あの子は幸せ者ね」と口にした。その言葉に、アイリスは目の前で殺されかけていたのだから当然であり、仲間なのだから心配するのも当然だと言うとエルザは嬉しそうに笑った。


「それでもやっぱりレオは幸せ者よ」 
「そうでしょうか……」
「当たり前じゃない。でもね、心配ばかりしなくてもきっと平気よ、あの子ならね」
「え?」
「だってレオはへこたれていつまでも落ち込んでるような子ではないでしょう?男の子だもの、目の前で貴女が傷つけられたのに、ずっとべそを掻いてるはずがないわ」


 あの子だってお父様の子なんだから、とエルザは安心させるように明るい笑みを浮かべた。その笑顔はレオとよく似たものであり、目を細めて笑うそれに彼の面影が重なった。久しく見ていないレオの笑顔を取り戻すことが出来るのだろうかと思いつつも、エルザが言うように彼が自分の力で立ち上がることを今は信じるしかない。
 レックスだって同じことを言っていたのだ。こんなところで黙って蹲って下を向いているような彼ではない、と。だからこそ、自分たちはレオが立ち上がった時に外に出すことが出来るようにすることを考えなければならないのだ――その言葉を改めて思い出し、アイリスはこくりと深く頷く。
 そして幾度が深呼吸を繰り返して自身の気持ちを落ち着かせると、思考をエルザの護衛任務へと切り換える。今、集中するべきは彼女の護衛として公務を終えるまでエルザを守り抜くことだ。何もないかもしれないが、何かあるかもしれない。気を引き締めて任務に当たらなければと気合を入れ直していると、隣からはくすくすと小さな笑い声が聞こえて来た。


「エルザ様?」
「何でもないわ。頼もしいなと思っただけよ」


 その言葉にアイリスは恥ずかしげに頬を赤くすると、からかわないでくださいと唇を尖らせた。そんな彼女の様子にエルザは笑みを深くする。
 そうしている間にも馬車は順調に王立美術館へと向かって走り続ける。窓の外には一目でもエルザを見ようと集まった民衆で賑わい、原稿から顔を上げた彼女は手を振る民衆に笑みを向けるとそっと手を振り返していた。


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