悪夢 - traitor -



 時は少し遡りエルザの挨拶が始まって中盤に差し掛かった頃、壇場のすぐ近くで警備に当たっていたエルンストは鋭い目つきでホールに集まっていた貴族らを観察していた。この式典には本来であればシリルが出席するはずであり、そのように貴族らにも伝えられていた。変更が決まったのは一週間ほど前のことであり、そのことを招待客である貴族らには伝えられることはなかった。
 だからこそ、シリルの命を狙った者がこの場を訪れていても何らおかしなことはないのだ。本来の標的でありシリルがいないとなれば、計画を断念するかもしれないが、彼がいないならば代わりにエルザを、ということにならないとも限らない。だからこそ、厳重な警備態勢が敷かれているのだが、それに決して穴がないとも言い切れない。
 警備の穴がないように細心の注意を払っても、それを越えて侵入して来る者だっているのだ。現に先ほどから視線の動きが定まらず、周囲をやけに気にしている挙動不審な男がいる。それに気付いたエルンストは控えている部下に無言で合図を出した。すると、頷いた部下の兵士は静かに動き出し、挙動不審な行動を繰り返している男の元へと辿り着くと、二言三言、耳打ちしてホールから男を連れ出した。


「……何人目だよ、これで」


 エルンストが気付いただけでも既に四人目である。エルザに直接的な危害が加わっていないからいいものの、入場確認している警備兵は何をやっているのだと呆れるしかない。無論、単純に行動が挙動不審なだけでエルザに害意があるとは限らない。しかし、こういう場において、エルンストは疑わしきは罰せよを基本としている。何ら問題がなければ謝罪して釈放すればいいだけのことであり、そうでなければやはり罰しなければならないのだ。
 ならば、何か行動に出られるよりも先に拘束してしまった方が被害は最小限に済む――エルンストは微かな溜息を吐き出しながらエルザの挨拶に耳を傾けている貴族らへと視線を戻した。その直後、彼の身体に緊張が走った。どくん、と心臓は大きく脈打ち、身体を巡る血液が一気に沸き上がるような感覚に陥る。
 彼の視線の先には紅い瞳をした女がいた。貴族のような豪奢なドレスを纏った、赤みを帯びた紫の髪の彼女は紅を塗った唇の端を持ち上げて笑みを浮かべる。けれど、その紅い瞳はどこまでも冷たく、そして狂気を内包し爛々と輝いていた。エルンストは彼女から視線を逸らすことが出来ず、自身の衝動を堪えるように唇を強く噛み締めた。
 途端に血の味が口内に広がった。しかし、それにさえ構わずにエルンストは睨むように紅い瞳の彼女を睨みつける。視線を逸らしてはならない。逃がしてはならない。彼女はこの手で拘束し、そして必ず殺さなければならない――エルンストの頭にはそれらだけが駆け巡った。


「カサンドラ……っ」


 絞り出すようなその声音が誰かの耳に届くよりも前に、エルンストの視線の先で微笑んでいた彼女――カサンドラは大きくゆっくりと口を動かした。何を言っているのだとその唇の動きを読み取ろうと目を凝らしたエルンストは、カサンドラが口にした言葉を自身の唇で反駁した瞬間、はっとした表情で頭上を見上げた。
 しっかりと固定され、決して動くはずのないホールの天井を飾る豪奢なシャンデリアが微かに揺れていた。目を凝らせば、そのシャンデリアの上に何者かが立っている姿も確認でき、エルンストは舌打ちする。カサンドラはあのシャンデリアをこのホールに落とす気でいる――それに気付くなり、彼は睨むように視線を変わらず美しくも冷たい微笑を湛えているカサンドラへと戻した。
 ふざけるな、と叫びたくなる衝動を抑え、彼女を捕縛するべく駆け出そうとした矢先、まるでそれを遮るようにぶらりと大きく揺れたシャンデリアからは硝子同士がぶつかり合う耳障りな音がホールに響いた。さすがにその音が聞こえるほどに揺れれば、貴族らも頭上へと視線を投じ、揺れて今にも落ちて来るのではないかというシャンデリアの存在に気付く。途端にその場は悲鳴と怒号で埋め尽くされ、エルンストのいる壇場付近からこの事態を引き起こしているカサンドラが立っている場所の間は大きく貴族らが蹲り、駆け回り、とてもではないが近付くことなど出来なかった。


「ペーニッツ隊長!」
「エルザ殿下の退避が先だ!攻撃魔法を使える奴はいつでも撃てるように準備、落下してきたシャンデリアを破壊する」
「しかし、それでは破片が……!」
「それなら、」


 大丈夫だと言うよりも先に視界には逃げ惑い、蹲り、その場から動けなくなっている貴族らを守るように展開された防御魔法が映った。誰が、などとは考えるまでもなく、この場でホール全体を覆うほどの広範囲の防御魔法をすぐに展開出来る人物は限られていた。視線を向けるよりも早く、「エル、……ペーニッツさん!」とアイリスの声が聞こえた。どうやら、彼女も落下してくるシャンデリアから貴族らを守る為にはどうしなければならないのか、考えていることは同じらしい。
 エルンストは微かな笑みを浮かべ、自分自身の苛立ちや怒りを抑えると「分かってる。上出来だよ」とアイリスを労う。しかし、彼女が優先するべきはこの場に集まっている貴族ではなく、エルザである。視線を逃げ惑う貴族らの中、一人だけ悠然と立っているカサンドラへと向けながらアイリスの傍に移動したエルンストはすぐにこの場を離れるようにと彼女を促す。
 どういうつもりでカサンドラがこのような行動に出たのかは知れない。しかし、彼女がこの場にいるうちにエルザを逃がさなければならない。エルザの身に万が一のことがあれば、その責任を追及されるのは今回の護衛任務の指揮官であるアイリスだ。そうなると、カサンドラの他の仲間が暗躍していないとも限らないが、この場から逃がして早急にバイルシュミット城に戻るべきであるとエルンストは判断した。
 そして、アイリスに事の事情を手早く説明すると、彼女はすぐに駆け出した。その矢先、大きく揺れていたシャンデリアがついに落下した。エルンストは号令を出すと同時にぶわりと巻き上がる魔力を込めた炎の攻撃魔法をシャンデリアを破壊するべく、翳した手から放出する。同時に様々な方面からぶつけられる攻撃魔法にシャンデリアは壊されていくものの、ぶつかり合う攻撃魔法によって爆煙が立ち上り、それに煽られた貴族らの悲鳴や怒号が飛び交う。そんな中、それまでたった一人、動くことなく微笑を湛えていたカサンドラの姿が消え、エルンストは苛立ちに顔を歪めて舌打ちする。


「……っこんなところで逃がして堪るかっ」
「隊長!」
「追撃する、一個小隊は俺に続け!残りはこの場を任せる!」



 エルンストはそれだけ言うと、すぐに壇上から飛び降りて阿鼻叫喚のホールを駆け抜ける。ぶつかり合いながらもエルンストは逃げ惑う貴族らを押し退けてホールから飛び出すと、入口の周辺も騒ぎを聞きつけた民衆で溢れていた。元々、エルザを一目見ようと集まった者も多かったのだろう。エルンストはそれに舌打ちしながらもカサンドラの姿を探すべく、周囲へと視線を向けつつ、その場の警備に当たっていた兵士に半ば掴み掛りながら彼女の特徴を伝え、姿を見なかったかを聞き出す。
 しかし、赤紫の髪の女は見かけていないと答えるばかりで一向に手掛かりを得ることは出来なかった。すぐに周辺を捜索したものの、やはり手掛かりは見つからず、エルンストは被っていた軍帽を地面に叩き付け、苛立ちを露にした。


「……やられた」


 絞り出すような声音は怒りと苛立ち、そして、憎悪に満ちていた。深い青の瞳は怒りに揺れ、周囲に集まっていた部下の兵士らは互いに顔を見合わせ、困惑した表情を浮かべていた。しかし、今のエルンストに彼らを気に掛ける余裕はなく、自身の内の苛立ちを抑え込むことに集中しなければ、今にも暴れ出しそうなほどの衝動で溢れていた。
 今回のことは、カサンドラらにとってはただの脅しであり、顔見せ程度のつもりだったのだろう。しかし、もし一瞬でも判断が遅れていたのなら大惨事になっていた――否、今のこの状況も怪我人は少なからず出ているのだから決して大惨事でないとは言えないが。
 だが、それ以上にエルンストにとってはカサンドラを捕縛することが出来る機会をむざむざと無駄にしてしまったのだ。形振り構わず駆け出していたのなら、あるいは彼女を捕縛することも出来たかもしれない。それはあくまでも可能性の話ではあるものの、少なからず可能性があるのなら貴族らを守るのではなく、カサンドラの捕縛を優先するべきだったのだ。
 それでも、気付いた時には守らなければと身体が動いていた。アイリスに声を掛けられるよりも早く、シャンデリアを破壊しなければと思ったのだ。自分らしくもない行動に今更ながらに気付きながらも、今は何故そのような判断をしたのかを考える余裕は彼にはなかった。ただ、苛立ちのままに地面を睨みつけることしか出来ない自分が酷く情けなく、無力な存在に思えてならなかった。








 周囲を騎馬兵に囲まれながら、馬車は嘗てないほどの速度で市街地を駆け抜けていた。先に伝令を出していたということもあり、馬車が通る為の道は確保されていた為、特に障害もなく走り抜けることが出来る。上手く退路が機能していることにほっと安堵するも、追撃されないのも限らないことから油断は出来ない。
 だからこそ、今は気を引き締めなければならない時だった。けれど、どうしてもエルザを無事に帰すことだけに集中することが出来なかった。先ほど、美術館を出る直前にホールでいるはずのないアベルを見たことが気になって仕方ないのだ。
 アベルが戻って来たのかもしれない――そう思う反面、遠く離れていても目に鮮やかなほどの爆発に巻き込まれて崩れた橋と共に彼は姿を消したのだ。きっと生きているはずだと信じていても、頭のどこかで生存が厳しいということは分かってもいたのだ。それでも、アベルのことを忘れてしまうことが恐ろしく、彼のいない日々に慣れていく自分に戸惑いながらも、何とか前に進み始めていたのだ。
 自分が心の何処かで会いたいと思っていたその気持ちがよく似た誰かとアベルを錯覚させたのだろうか。アイリスはそう考え、先ほど見た人物はアベルではないのだと自身に言い聞かせる。そうでなければ、せっかく歩き出した足が止まってしまいそうに思ったのだ。何より、生きていたのならあのような場所に現れずに宿舎や軍令部などに姿を現すはずだ。そうでないのなら、やはり他人の空似、自身の心が見せた幻だと考えていた矢先、「顔色、悪いわよ」と控えめな声が聞こえて来た。


「……エルザ様だって、お顔の色が優れません。城までまだ少しありますが、必ずお守りしますからご安心ください」


 守るべき相手に心配させてしまうなんて、とアイリスは自身を情けなく思いながら首を軽く振って心配げな顔をしているエルザに何でもないのだと笑みを浮かべて見せる。何度か実際にヒッツェルブルグ帝国との交戦状態を経験しているアイリスからしてみれば、今回の一件そのものに対しては特に恐れなどを抱くことはなかった。
 慣れてしまったというよりも感覚が麻痺しているのだろう。人を傷つけることも傷つくことも変わらずに嫌悪してはいるものの、手足が震えるということも逃げたいと思うこともなく、冷静に判断し、行動することが出来るようになった。それはこれから先、生き残る為には必要不可欠なことではある。けれど、いつか自分は仲間の死さえ、淡々と受け入れるようになってしまうのではないかと思うと、そんな自分に恐ろしさを感じずにはいられなかった。


「平気よ、私は……貴女が付いてくれているもの」
「……エルザ様」


 青い顔のまま彼女は気丈にも笑う。そんなエルザを前にして、自身のことばかりを考えていられるはずもなくアイリスはひんやりと緊張と恐怖で冷えてしまっている彼女の手を握った。強張っていた手もアイリスの掌の温もりが伝わることでゆっくりと緩まり、エルザも落ち着いては来た様子だった。
 目の前でシャンデリアが落ちるということよりもあのような命の危機に晒されたことなど今までなかったのだろう。怖い思いをさせてしまったことを申し訳なく思う反面、自身の力不足を悔いていると「誰があんなことをしたのかしら……」とエルザはぽつりと呟いた。彼女にしてみれば、命を狙われる覚えはないのだろう。アイリスからしても、エルザは何者かに命を狙われるような人間とは到底思えなかった。
 何かしら理由があるのか、それとも本来壇上に上がるはずだったシリルを狙ったのかは知れないものの、エルンストが別れ際に口にした言葉を思い出し、アイリスは僅かに眉を寄せた。彼は今回の一件はヒッツェルブルグ帝国の特殊部隊による仕業だと言っていた。身体のどこかに黒い鳥の刺青を彫った鴉という特殊部隊――その特徴である黒い鳥の刺青の話に、アイリスは聞き覚えがあった。


「……まさか、レックスの……」
「アイリス?どうかしたの?」
「あ、いえ。もうすぐ城門ですが、最後まで気を抜けないなと思って」


 アイリスは慌てて取り繕いながら周囲を伺うように視線を巡らせる。しかし、考えていたことはシュプケ砦での戦闘中にレックスから聞いた彼の入隊理由のことだ。レックスは彼の故郷であるクナップを襲った帝国兵に復讐する為に入隊したのだと言っていた。そしてその男の特徴は、腕に黒い鳥の刺青が彫られていたと確かに口にしていたのだ。
 レックスには伝えるべきだろうかと彼女は悩む。その男が今ブリューゲルに潜んでいる可能性があるということを告げれば、間違いなく彼は飛び出すだろう。だが、エルンストが危険だと判断するような集団なのだ。いくら鍛錬を積み、力を手に入れたとしても簡単に勝てるような相手ではない。白昼堂々と無差別に人を傷つけようとするような者の集まりだ。伝えない方が良いだろうと判断したところで、馬車は開かれていた城門の中に滑り込むように入り、その後ろでは通り過ぎた城門がすぐに閉められていた。
 何とか無事に帰還出来たことにアイリスは心底から安堵しつつ、ゆっくりと速度を落とした馬車が完全に停止してから扉を押し開けた。すると、知らせを受けてその場で待っていたらしいエルザに仕える文官の男が青い顔をしたまま「エルザ殿下!」と駆け寄って来た。余程心配していたらしく、その顔色はまるで王立美術館でその場を目撃していたのではないかと思えるほどに青褪めていた。


「平気よ、アイリスや他の護衛の兵士の方々がしっかりと守ってくれたもの」
「ご無事で何よりです、殿下……」
「エルザ様、此方はまだ外ですからお早く城内にお入りください」


 顔を歪めている彼にもアイリスは周囲を伺いながら早く城内に入るように促した。城にいるから安全だというわけでもない。それでも、外にいるよりかは幾分も守りやすいことは確かだった。兎に角、今はエルザを休ませなければと居室へと向かって歩き出すも、無事に帰還することが出来たというのにアイリスの表情は一向に晴れることはなかった。




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