悪夢 - traitor -



「ねえ、見た?!あの時の貴族の引き攣った顔!みんなきゃーきゃー騒いで走り回ってぶつかって押し合ってる姿!」


 自分さえ助かればいいっていう愚かしくて汚らしい本心が見え見えだったよね。
 少年は先ほど自身の目の前で起きた光景を思い出し、催した笑いを我慢することが出来ないとばかりに腹を抱えて笑っていた。そんな彼に対し、せっせと紅茶の準備をしていたブルーノは呆れた表情で「あのな、」と口を開く。


「シャンデリアを落とすこっちの身にもなってみろよ!大変だったんだからな!」
「はいはい、お疲れ様ー」
「もう少し労えよ!」


 ホールに集まっている多数の貴族らの頭上からシャンデリアを落とせば、どのような大惨事が起きるかなど想像するまでもないことではある。しかし、それを実際に実行したブルーノは特に何も感じていないらしく、寧ろそれをしたことに対して労いさえ求めていた。常識的な人間が聞けば卒倒してもおかしくはない会話が続く中、それまで黙っていたカサンドラが口を開く。


「そうね、ブルーノはよくやってくれたわ。ああいう力仕事はアウレールの方が向いているけれど、彼は今外しているから」
「あのおっさん、いつ戻って来るんだよ」
「そろそろよ。シリル殿下の御即位までには戻ることになってるから、この三日以内には戻るわ。……それにしても、よく反応したわよね、落下するシャンデリアに」


 その時のことを思い出しつつ、カサンドラは湯気の立つカップを手に取る。シャンデリアの落下に要した時間はそれほど多くはない。すぐに落とせたわけではない為、対応する時間を与えたことには変わりはないものの、迅速で的確な判断だったと彼女自身、感心さえしていた。
 指示を出すのではなく、自分自身が動かなければ防ぐことは出来なかっただろうと考えていると「落ちて貴族が潰れてたら面白かったのに」と少年は頬を膨らませる。惨状を好んで見たがる彼にブルーノは何とも言えない表情になるも、カサンドラは微苦笑を浮かべた。彼女としては、先の一件が成功しようが失敗しようが結果はどうだってよかったのだ。先のことはカサンドラにしてみれば、ただの挨拶でしかなかった。
 自身がこの国に戻って来たのだと、そのことを恐らくは護衛任務に参加しているであろうエルンストに対して教えてやりたかっただけなのだ。そのついでに貴族の数を減らすことが出来れば上々、その程度の考えでの行動だった。


「いいじゃない、勝手に死ぬところを見るよりも自分の手で殺す方がいいでしょう?」
「それはそうだけど……」
「それに、見苦しく汚らしい人間の本性が露になったことの方が貴方は楽しんでいたでしょう」


 そういうところを見るのが好きだものね、とカサンドラは頬を膨らませていた少年に笑いかける。彼は醜いものが好きだ。人間が隠している醜悪な本性が曝け出された瞬間が、我が身可愛さに大切だと何だと口にしている者を差し出すその選択が、彼はとても愛しいのだと言っていた。
 少年はカサンドラの指摘に先の一件での慌てふためき逃げ惑う貴族らの姿を思い出し、うっとりとした様子で相好を崩した。そんな彼をブルーノは溜息混じりに一瞥すると「それより、お前は弟に付いててやらなくていいのか?」と声を掛ける。隠れ家に戻って来た時から体調が優れないらしく、自室に引きこもってしまっているのだ。しかし、いつもならばべったりと傍に付いている彼は居間にいる。それを不思議に思ったのはカサンドラもだった。


「どうかしたのかしら」
「一人でゆっくり休みたいんだって」
「お前がいつもべったりで休めないからだろ」
「うるさいな!ボクらは二人で一つなんだから一緒にいて当たり前なの!」


 ブルーノには分からないよ、と少年は頬を膨らませる。その様だけは可愛らしいのだが、先ほどの発言を思い出すと可愛らしく見ることは出来そうになかった。カサンドラは「もう少ししたら様子を見に行ってあげるといいわ」と宥めながら、これからどう動くかを考え始める。
 エルンストは既に自分たちが動き始めていることに気付いている。しかし、今の彼に騎士団を動かせるほどの力はなく、かと言って、保守的であるシュレーガー家の私兵を自由に動かすことも難しい状況にある。エルンストの性格を考えれば、単独行動に出る可能性も高い。しかし、一人で動けばそれだけエルザの身に危険が及ぶ可能性が高くなるということも彼はよく分かっているはずだ。
 どのように動くだろうかとカサンドラは冷静に考えながらも、もうすぐ自分たちの手で引き起こすベルンシュタインという国を舞台にした盛大な祭に気持ちは自然と昂揚していく。失敗を恐れる気持ちはそこにはなく、ただ、祭を前にした昂揚感だけが彼女の心には満ちていた。白の輝石を、コンラッド・クレーデルが残した研究資料を手に入れれば、ヴィルヘルムの命令を完遂することが出来る――それ以上に、自分自身の長年の願いが成就する。そのことで、カサンドラの頭はいっぱいだった。









 扉をノックする音が聞こえ、エルザを座らせて休ませていたアイリスは顔を上げて警戒するように扉を一瞥した。先ほどまで部屋にいた文官は状況確認の為に走り回っているのだが、それにしては戻りが早過ぎる。誰だろうかと思いつつも、アイリスが扉に向けて誰何を問えば、「第十騎士団のペーニッツです。ご報告に伺いました」とエルンストの声が扉の向こうから聞こえて来た。
 アイリスはほっと安堵の息を吐き、緊張を解くと扉を開けて軍帽を目深に被っているエルンストを居室へと招き入れた。軍帽で殆ど隠れてしまっている為、彼が今どのような表情を浮かべているのかは知れないものの、雰囲気から追っていた鴉の人間を逃したのだということは伺えた。


「エルンスト、被害は……」
「怪我人が出てるけど、死人は出てないよ。今のところだけど」


 対処が間に合わず、今後死者が出る可能性がある。それは決して珍しいことではなく、戦闘行為の後には少なからず出てくる事例ではある。それでもエルザは表情を暗くして視線を伏せてしまう。彼女にしてみれば、国民とは守るべき存在だ。それを目の前で無差別に傷つけられたのだ。エルザの性格からしても、平然としていられるはずもなかった。
 それに対してエルンストは余程取り逃がしたことが悔しいらしく、苛立ちを露にしていた。このような苛立ちなどの感情を露にしている彼を見たことがなかったアイリスは戸惑いながらも「エルンストさん、現状を教えてください」と控えめに声を掛けた。その為にエルンストもこの場に来ているのだ。そろそろ本題に移らなければと話を振れば、彼は気を取り直して口を開いた。


「怪我人はさっきも言った通りだけど、今回の一件は帝国軍の特殊部隊、鴉の仕業だ」
「鴉?」
「そう、身体のどこかに黒い鳥の刺青を彫った連中だよ。……そこにカサンドラもいる」
「そんな……彼女が……」


 微かなその声音を耳にしたエルザは途端に血の気の失せた顔色に代わり、アイリスはぐらりと身体を傾がせる彼女を支えた。一体どうしたのだろう、何があったのだろうかと思うも、おいそれと口を挟んでいいことには思えず、アイリスは口を閉ざしてエルンストの言葉に耳を傾ける。


「この目で確認した。あいつはあのホールにいた」
「……どうして、」
「お前を殺す為だよ、エルザ」


 あいつはお前の命を狙ってる――エルンストの口から吐き出されたその一言にアイリスは目を見開いた。王族とは本人がたとえどれほど優れた仁徳者であったとしても、政敵に邪魔者であると判断されれば命を狙われる存在だ。それは分かっていたことではあったが、いざこうしてエルザの命を狙って来た者がいるのだということを目の当たりにするとどうして、と思わずにはいられなかった。
 アイリスからしてみれば、エルザは決して命を狙われるような人間ではない。それは自分だけでなくエルンストや彼女の周囲の人間にとっても同様だろう。顔を伏せるエルザにアイリスは掛ける言葉が見つからず、ひんやりと冷えてしまっている膝の上に置かれた手を握ることしか出来なかった。


「あいつはまたお前の命を狙ってくる。……しばらくはこの部屋から出ずに大人しくしてる方がいい」
「……駄目よ、それじゃあシリルにレオのことを問い質せないわ」
「そうだとしても駄目だ。お前にもしものことがあれば、俺は兄さんに顔向け出来ない」
「……」


 それだけ言うと、エルンストはエルザから顔を逸らした。相変わらず表情をはっきりと捉えることは出来なかったが、居心地の悪そうな様子だということは雰囲気から伝わって来る。全ての事情を知っているわけではない為、口を挟むことの出来ないアイリスだが、エルンストが言うことは尤もだと思った。
 命を狙われている以上、不必要な外出は避けるべきだと思うのだ。たとえどれだけ護衛を増やしたところで、白昼堂々とあのような大勢の人が集まった場所で無差別に人を傷つけることを厭わない相手にとっては意味を為さない。ならば、確実に守ることの出来る場所から動かない方が余程得策と言える。
 アイリスはエルザの手を握ったまま、「エルザ様、しばらくはこのお部屋にいてください」と努めて優しい声音で告げた。アイリスまで何を言うのか、と途端に彼女の表情は歪むものの、その顔色は決して良くはない。恐怖していないわけではないのだ。それでも、弟であるレオの為にと自身に出来ることをしようとしているのだということが痛いほど伝わって来る。
 だからこそ、無理をして欲しくはないとも思うのだ。エルザがレオのことを思うように彼もまた、彼女のことを姉として大切に思っているはずだ。そんな相手を自分を助ける為にとは言え、危険に晒すようなことはレオならばきっと許さないだろう。それが分かっているだけに、アイリスもエルザには危険な真似をして欲しくなかった。母を亡くし、父を亡くし、その上、姉であるエルザまで亡くしたならレオは一体どうなってしまうのか――それを考えると、どうしようもなく怖くなったのだ。


「レオのことはわたしとエルンストさんで何とかします。必ず助けてみせますから、エルザ様は今はご自身の御身のことだけお考えください」
「アイリス……」
「彼女の言う通りだ。とにかく今は自分のことだけ考えて。最悪の場合、城からの退避も考えてるから」


 エルンストはそう言うと、少し休むようにとエルザを促す。顔色は悪く、とにかく一度横になった方がいいとアイリスはゆっくりと立ち上がった彼女を支えて奥の寝室へと足を踏み入れた。いつもならきびきびと動くエルザも今日ばかりはそうもいかないらしい。普段は気丈に振る舞っているエルザだが、やはり実際の戦闘状態など見たことはなかったのだろう。
 ベッドに腰掛けたエルザはもういいと言うように横になるまで手伝おうとするアイリスを手で制し、「エルンストと相談もあるでしょうからもういいわ。少し休ませてもらうわね」と微かな笑みを浮かべる。今は笑わなくともいいのに、と思いながらもアイリスは何かあればすぐに呼ぶようにとだけ言い残すと、一礼の後に寝室を後にした。
 寝室を出ると、そこにはまだエルンストの姿があった。エルザが腰掛けていたソファに座り、軍帽を脱いで黒髪に指を通していた。彼の顔色はエルザ以上に悪く、そうして動いていられることが不思議なほどだった。ますますやつれているのではないかと不安になりながらもエルンストの傍まで行くと、「どうぞ」とぽんぽんと自身の隣に座るようにソファを叩かれる。


「……失礼します」
「まあ、これは俺のソファではないんだけどね。……君には色々と話しておかなきゃいけないなと思って。聞いてくれる?」


 溜息混じりに言うエルンストにアイリスはこくりと頷いた。聞かずとも、こうして彼から話してくれるとは思っていなかった彼女はそんな彼の変化に内心驚きながらも、言葉を選ぶエルンストをちらりと盗み見た。何でも思ったことを口にしている彼らしくない沈黙であり、それだけ重要なことなのかと考えていると「俺の兄とエルザが婚約してたってことはもう知ってると思うんだけど、」とエルンストは切り出した。
 当時、第一騎士団に所属していたエルンストやゲアハルト、ヒルデガルトらは小隊として活動し、その部隊長がエルンストの兄であるギルベルト・シュレーガーだった。ギルベルトは攻撃魔法や防御魔法、回復魔法に秀でた才を持ち、それだけでなく剣術や体術といった兵士としての素養に恵まれていたのだという。


「そんな兄を俺は羨ましくも思ってたんだけどさ……ああ、これは勿論、身内の贔屓目無しに言ってるよ。でもね、性格だって兄はよかったんだ。優しくて頼もしいというか……まあ、俺は昔は疎遠だったからそれほど二人で何かしたということもないし、兄だからといって兄らしいことをされたこともないんだけど」


 そんな兄は当時の騎士団内ではすごく人気があったのだとエルンストはその当時を思い出し、眩しそうに目を細めていた。けれど、すぐにその目は冷え冷えとした光に満ち、淡々とした声音で続きを彼は語る。


「三年前のことだよ。兄さんが殺されたのは」
「……」
「それよりも前から兄さんはエルザと婚約してたんだけど、そろそろ結婚しようというところで殺されたんだ。……俺たちの仲間だったカサンドラに」
「カサンドラ……」
「同じ部隊の攻撃魔法士だった。あいつは兄さんのことが好きだったんだ。その挙句、兄さんに近付いた……いや、違うな。兄さんと接した女性兵士を次から次へと拷問に掛けて殺していったんだ」


 その言葉にアイリスは目を見開き、言葉を失った。エルンストの兄であり、当時の第一騎士団部隊長だったギルベルトに好意を抱いたカサンドラは、彼に近付く女性を悉く排除した挙句、自分自身の手で彼を手に掛けた。手に入らないならば殺してしまった方がいいのだと、そうすれば誰にもギルベルトを奪われることはないのだとカサンドラは口にしたのだという。
 そして、カサンドラはベルンシュタインを裏切ってヒッツェルブルグ帝国に寝返った。その上、帝国の特殊部隊に所属し、先ほどエルザの命を狙って来た――その理由は考えるまでもなく、彼女がギルベルトと婚約していたからであり、そのことを改めて考えると背筋が凍るようだった。
 まさかそんなことで、と呟いたアイリスにエルンストは肩を竦め、疲れ切った表情で笑いながら「そんなことで、あいつは俺たちとこの国を裏切ったんだ」と口にした。けれど、生まれ育ち、自分自身の手で守って来た国を捨てるだけの理由に成り得るのかは、アイリスには納得がいかなかった。この国に居られなくなったということ間違いないが、だからといってヒッツェルブルグ帝国に寝返る必要はあるだろうか。それが彼女には疑問だった。


「……でも、おかしくはありませんか?エルンストさんのお兄様がお亡くなりになっている以上、たとえエルザ殿下にその、復讐をしていないとしても、周りの人を手に掛けるほど愛しているのなら後を追って自殺する方が納得がいくのですが」
「そうだよね、普通は後追いすると俺も思うよ。でも、カサンドラはまだ生きてる。……多分、兄さんの死体を持ったまま」
「死体を……?」
「……そう、死体を。カサンドラが兄さんを殺した日に俺や司令官、ヒルダが調査していた女性兵士の連続殺人の犯人がカサンドラだということに気付いた。だから、すぐにあいつのところに急いだんだ」


 でも、遅かった――不快感を露にするエルンストにアイリスは声を掛けようとするも、それよりも先に告げられた真実にアイリスも吐き気にも似た何かが込み上げ、思わず口を手で覆った。カサンドラは、既に事切れていたギルベルトと情事に耽っていた。それを目の当たりにした当時のことを思い出したのか、エルンストは顔を伏せて口を押えた。
 アイリスは慌ててその背を擦りながら、もういいですと早口に言う。そこまで話が聞けたなら、後はどのような顛末を辿ったかは明らかだ。カサンドラはギルベルトの死体を持ち逃げし、ヒッツェルブルグ帝国に寝返った。恐らくは何かしらの目的があっての行動だろう。そして、エルンストらは今もカサンドラを追いかけている。特にエルンストにしてみれば、実兄の遺体を取り戻したいという気持ちが強いのだろう。
 呼吸を荒くするエルンストの背を擦りながら、アイリスは顔を伏せている彼から視線を逸らした。女性嫌いは本当だったのだということに気付いたのだ。平気だと自分に言ったことこそが嘘であり、女性嫌いであることが真実だった。目の前に突き付けられたカサンドラと事切れた実兄の情事など、見せられたものなら女性嫌いに繋がっても何らおかしいことはない。三年という時間を掛けて漸くこうして普通に会話出来るまでになったのだろう。


「お話してくれて、ありがとうございました」


 そう声を掛けながら、アイリスはもういいのだとエルンストが落ち着くまでその背を擦り続けた。こうして何があったのかを打ち明けてくれたということは、それをしてもいいと思うぐらいには信頼してくれているということなのだろう。それを嬉しく思う反面、エルンストの抱えていた苦しみや嫌悪に気付くことが出来ず、背中を擦ることしか出来ない自分の力の無さを痛感した。それでも、少しでも彼が楽になればいいとその気持ちだけで頼りなく微かに震えるエルンストの背を擦り続けた。
 暫くした後、漸く落ち着いたエルンストは「ごめん、迷惑掛けちゃったね」と申し訳なさそうに笑うと、エルザの傍から離れないようにと言い残すと、どこか頼りない足取りで居室を後にした。結局、アイリスは王立美術館の騒ぎの中でアベルの姿を見かけたということを伝えることは出来なかった。伝えられるような状況ではなかったのだ。
 気掛かりではあるものの、どの道、今はエルザの傍を離れることは出来ない。彼女の護衛に集中するべきであり、アイリスはそちらに集中しようとする。けれど、エルンストによって明かされたことや、アベルの姿が耳や脳裏に蘇り、エルザの護衛に集中出来そうになかった。







 夜、シリルはキルスティの居室を訪れていた。顔を見せて欲しいと言われ、彼女の居室へと足を運んだのだ。さすがにエルザが命を狙われたということもあり、彼女に就けられている護衛兵はエルザの元へと戻されたのだろう。いつもよりも廊下や居室前に配置されている護衛兵が少なかったのだ。
 政務が立て込み、シリルも未だ確かな情報を得てはいないものの、昼過ぎにエルザが公務中に襲われたという話は聞いていた。自身の代理として公務に赴いていたということもあってやはり気になってしまうのだ。彼女は無事であるということは既に耳にしているのだが、実際に顔を合わせたわけではない。
 後日、落ち着いた頃に顔を見に行くべきだろうかと考えている間にもキルスティは「やっぱりあの公務には行かなくてよかったわ!」と心底から安堵している様子だった。


「もしも貴方に何かあったら、この国は終わりだもの。貴方の身はもう貴方一人のものではないのだから」
「……」
「本当に、貴方でなくてよかったわ」


 心底からほっとした安堵の息を共に吐き出された言葉にシリルは目を瞠った。然も当然とばかりに口にされた言葉はともすれば聞き逃してしまいそうなほど何気ない一言だったが、シリルにしてみれば捨て置くことなど出来るはずもなかった。
 手にしていた紅茶のカップをソーサーに叩きつければ、かちゃんと耳障りな陶器のぶつかり合う音が響き、キリスティは目を真丸にしていた。一体どうしたのかと言わんばかりの様子にシリルは苛立ちを露にした。


「私でなくてよかった?ならば、姉上であればよかったと仰るのですか」
「そ、そんなことは言っていないじゃない」
「いいえ、そういうことでしょう。先日から姉上の護衛兵を此方に回したりしている時点で、姉上のことを何とも思っていないことは明らかです」
「それは!今この時は貴方にとってもこの国にとっても大切な時期だからこそ、」
「だとしても、母上、貴女の言葉は不愉快だ」


 失礼します、とシリルは吐き捨てるように言うと、「待って頂戴!」と大慌てで彼を呼び止めようとするキルスティの声を無視し、彼は居室を後にした。しかし、苛立ちはなかなか収まることはなく、寧ろ一歩進めば進むほどに苛立ちが増しているようにさえ感じられた。
 キルスティにしてみれば、自分やエルザは政治の道具でしかない。しかし、シリルにしてみればエルザは大切な姉なのだ。そんな彼女を実の母親が蔑ろにしたとなれば、黙っていられるはずがなかった。シリルは苛立ちのままに握り締めた拳で壁を殴りつけた。じんじんと指先が痛み、赤くなった。しかし、それを無視した彼は強く強く拳を握り締め、爪が皮膚を裂くことさえ厭わなかった。


 
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