悪夢 - traitor -



「ねえ、どうかしたの?ずっとそわそわしてるみたいだけれど」


 翌日、傍に控えていたアイリスに対し、エルザは微苦笑を浮かべながら口にした。一晩ゆっくりと休んだからか、エルザの顔色も幾分とよくなっていることに安堵しつつ、彼女は何でもないと首を横に振った。下手な嘘など吐くべきではないと思うのだが、それでもアイリスはこの場を離れて王立美術館に行かせて欲しいと言うことが出来なかった。
 今は何よりエルザの安全を優先するべき時だ。それは彼女の身を守ることが任務だからだとか、そういった義務感からではなく、エルザのことを守りたいとアイリス自身が思っているからだ。けれど、それと同じぐらい、見かけたアベルの所在のことが気に掛かって仕方ないのだ。ただの見間違いだということさえ分かればそれでいい。だが、それを確かめようにも今この場を離れるわけにはいかないのだ。


「アイリス、」


 何があったの、とでも続くであろう言葉を遮るようにエルザの居室の扉がノックされた。そのことに心の中で安堵しながらアイリスは誰何の声を掛けた。すると、告げられた用件はエルザに対してではなく、アイリスに向けられたものだった。何だろうかと目を瞬かせながらエルザの了解を取ってから扉を開けて用件を聞くと、どうやらシリルから昨日の一件についてを報告するようにとのことだった。
 アイリスはすぐに行くという旨を伝えると同時に、居室の外で警備に当たっていた近衛兵にエルザの傍を離れることを伝える。それから「何かあった?」と声を掛けて来るエルザに事の次第を伝えると、彼女は眉を下げて申し訳なさそうな表情を浮かべた。


「シリルに何か言われたら言って頂戴ね。貴女に落ち度はなかったのだから」
「いえ、招待客の確認を徹底出来なかった責任はわたしにあります。叱責を受けることになるのも当然です」
「でも……」
「指揮官はわたしでしたから。怖い思いをさせてしまって申し訳ありませんでした」


 改めてアイリスは謝罪の言葉を口にすると、エルザに対して頭を下げた。途端に彼女は慌ててすぐに頭を上げるように言うも、アイリスはすぐには頭を上げなかった。それは単純にエルザに対して申し訳なく思っているからではなく、今でも彼女の護衛としてエルザの安全を第一に考えることの出来ない後ろめたさがあったからだ。
 漸く頭を上げた頃には、エルザは困り切った顔をしていた。そのような顔をさせてしまったことに申し訳なさを改めて感じるも、今はシリルを待たせている身であり、すぐに報告に向かわなければならない。アイリスは「何かありましたら部屋の外の近衛兵にお声掛けください」と伝え、なるべく窓には近付かないようにと言い添えると足早に居室を後にした。


「近衛兵団所属、アイリス・ブロムベルグです。先日のエルザ殿下のご公務の件でご報告に伺いました」
「伺っております。居室にお通しするように仰せつかっております、こちらへ」


 シリルの執務室へと向かったアイリスは、彼に仕えている初老の文官の男へと声を掛けた。てっきり執務室で政務に取り掛かっているとばかり思っていたのだが、どういうわけか居室に通すようにと命じられていたらしい。どうして私的な空間で報告しなければならないのだろうかとアイリスは僅かに眉を寄せるも、執務室でいいと言うわけにもいかない。たとえ言ったとしても、先導している彼を困らせることにしかならない。
 程なくして足を止めると、文官の男は此方です、と近衛兵が警備に就いている一室の前で足を止めた。エルザの居室よりも豪華な造りの扉を見上げていると「殿下は中でお待ちですのでどうぞ」と声を掛けられる。そして、案内は終わったとばかりに文官の男は足早に持ち場へと戻ってしまい、その場にはアイリスと警備の近衛兵だけが残った。
 アイリスは一度深呼吸をして緊張を解し、軽く握った拳で扉を叩いた。「近衛兵団所属のアイリス・ブロムベルグです。ご報告に伺いました」と声を掛けるも、返事がない。どうしたのだろうかと思いつつも、再度ノックを繰り返すのだが、やはり応答はなかった。


「シリル殿下は中にいらっしゃるんですよね?」
「ええ、外出されていません」
「そうですか。……シリル殿下、失礼致します」


 嫌な予感が脳裏を過る。アイリスは意を決して扉を開くと、慎重に足を踏み入れた。エルザだけでなく、シリルも命を狙われる可能性はある。だからこそ、警備は普段以上に厳重に敷かれている。特にシリルとキルスティの身辺警護は通常時の倍以上にも上り、近衛兵団の宿舎が空っぽになるほどの人員が回されているのだ。それを考えると、シリルの身に何かあったということは考え難い。
 それでも何もないという確証もまた、ないのだ。アイリスは慎重に室内を伺いつつ、いつでも杖を取り出せるように気を配りながら執務机へと近付いたところでいつもシリルが着ている上着が椅子に掛けられていることに気付いた。白に豪奢な金糸の刺繍が施されたそれを一瞥し、アイリスは居室の奥から聞こえて来る音に溜息を吐いた。


「……わたしが来ると知ってるのに入浴なんて、あの人は何考えてるの」


 思わず脱力してしまうも、アイリスはすぐにはっと顔を上げた。その視線は椅子に無造作に掛けられているシリルの上着へと向けられている。彼女は変わらず聞こえて来る浴室の水の音を確認すると、素早く上着に手を伸ばした。そして、上着のあらゆるポケットを探り始める。
 そして、程なくしてアイリスは内側の胸ポケットから金の鍵を取り出した。大きさからして金庫などではなく、扉の鍵であるということが伺える。一見して複雑な造りのものであり、豪華さは違えどエルザの居室と同じ造りの扉であることを考えると、この部屋の鍵ではないことが分かった。


「レオの牢の鍵、かも……」


 確証はない。寧ろ、誰からもレオを遠ざけようとしているシリルがこのように鍵をポケットに入れたまま上着を投げ出すとは考え難い。それでも、可能性がないわけではない。アイリスは手の中の金の鍵を一瞥すると、すぐにこの数日、持ち歩いていた粘土をポケットから引っ張り出した。そして、しっかりと型を取ると、何事もなかったように鍵を胸ポケットに戻して上着を椅子に掛けた。その後、粘土を慎重にポケットに戻すと、あたかも今来たところであるとばかりに執務室の前に戻った。
 そして、「シリル殿下、アイリスです。ご報告に伺いました」と浴室の方に声を大にすると、程なくして「少しそこで待っていろ」という返事が戻って来た。彼女は思いもよらない機会が巡って来たことに内心喜びながらも、エルザの元を離れていることに少なからず焦りも感じている為か、少しばかり落ち着かない様子で居室をぐるりと見渡した。


「……あれは……」


 何枚もの絵画が飾られていたが、その中でもアイリスの目を引いたのは肖像画だった。飾られている壁へと近付いて改めてよく見てみると、それがシリルやエルザ、そしてレオを含めた幼い三人の肖像画であることに気付く。幼い頃の三人は今よりも顔が似ていたらしいが、特にエルザとレオはとても似た顔立ちをしていた。髪の色も目の色も同じだからだろうか――そんなことを考えていると、「私だけは母上に似ているからな」という声が聞こえて来た。


「シリル殿下……」
「その絵を見れば、寧ろ私の方が妾腹のようだろう」


 返す言葉が見つからないアイリスにシリルは微かに笑うと、「報告を聞かせてくれ」と唐突に本題へと話題を移した。それは有り難くもあったが、いつもの彼らしくない雰囲気にアイリスは戸惑いの表情を浮かべた。しかし、報告こそが本題であり、それを終えなければエルザの護衛に戻ることも出来ない。彼女は先ほどの上着を掛けたままの椅子に腰かけ、エルザやレオとは違う濡れた茶色の髪を拭くシリルの前に立った。
 先の出来事の顛末と現状で分かっている手掛かりについて報告すると、それを聞き終えたシリルは「面倒なことになったな」と一言呟いた。ベルンシュタインに属していたカサンドラが裏切った以上、此方の内部事情が全て漏れていることは想像に難くない。ゲアハルトが司令官に就任した二年前からは指揮系統なども一部変わってはいるものの、彼と同じ部隊に所属していたことを考えれば、どのような手を打って来るかといった性格的な面もよくよく把握されていることだろう。
 アイリスは視線を伏せながら、カサンドラのことをゲアハルトにも伝えなければと考えていた。彼にはまだエルザが襲われたことも報告出来ていないのだ。あまり彼女の元から離れているわけにはいかないものの、帰る前に少し地下牢にも顔出すことを決めると、「ご苦労だった。姉上に大事がなかっただけでも十分だ」という労いの言葉がシリルの口から出た。


「え……」
「どうした?ああ、叱責されるとでも思ったのか?確かに帝国の人間に襲われはしたが、被害は最小限に留まった。姉上も無事、どこにも叱責する理由はないだろう」
「……でも」
「それとも何か叱責を受けるようなことがあるのか?」


 その言葉にアイリスはやや間を置いてから首を横に振った。特に何かあるというわけではない。ただ、アベルの姿を見たことは口にしなかったため、やはり後ろめたさがあったのだ。だが、シリルに話したところでどうなるということではない。彼はアベルという兵士がいたことさえ知らないだろう。それを思うと、一人の兵士の死は目の前に座しているシリルの命よりもずっと軽いように思え、何とも言えない気持ちになった。
 顔を曇らせるアイリスに対し、シリルは溜息を吐いた後に「何か気になることでもあるのか?」と口にした。聞いたところで彼女が何か言うとも特には思っていないのだろう。形式的な問いでしかなく、答えることのないアイリスを責めることもなく、彼は淡々とした口ぶりで言う。


「何か気になることがあるのなら、それを優先するべきであると私は思うがな」
「……だとしても、わたしにはしなければならないことがあります」
「姉上の護衛のことなら誰かに代わってもらえばいいだろう。必ずしも貴様でなければならない理由はない」
「ですが……」
「寧ろ、そうして何か気掛かりになって気も漫ろな状態で護衛が就いていても失敗するだけだろう」


 その方が余程迷惑だ、とはっきりと言ってのけるシリルにアイリスは眉を寄せる。けれど、彼の言う通りでもあった。アベルのことに気を取られて護衛が疎かになれば意味がない。そちらの方がずっとエルザを危険な目に遭わせているようなものなのだ。ならば、先に気掛かりになっていることを解決してしまった方が余程いい。
 アイリスはご指摘の通りです、と素直に頭を下げた。ちゃんと事情を話せば、エルザならば分かってくれるだろう。彼女の元に戻ったら一度相談してみようと決めたアイリスは、頭を上げると「それでは、これで失礼致します」と一礼する。そして、踵を返すのだが、足を踏み出すよりも先に制止の声が掛けられる。


「これを預かっていて欲しい。中身は見るな、……そうだな、一週間後に返してくれ」
「それは構いませんが……」


 差し出されたものは白い封筒だった。何が入っているのかは知れないものの、とても軽く、アイリスは戸惑いの表情を浮かべた。預かっていて欲しいと言われるぐらいなのだから何か大切なものであるということは分かる。しかし、それを自分になど預けてもいいのだろうかと考えていると、「誰にも見せるなよ、預かったことも誰にも言うな」と念を押される。アイリスは戸惑いながらも首肯し、それを軍服の内ポケットへとしまった。


「だが、何かあったらその中を見ろ」
「何かあれば、ですか?」
「ああ。例えば、それを返す相手がいなくなった時だな」
「……御冗談が過ぎます、殿下」


 返す相手がいなくなったということは、シリルが行方不明になったか死亡したか、そのどちらかになったということだ。それはさすがに本人が言ったことであっても冗談で言っていいことではない。アイリスは柳眉を寄せて苦言を呈すとシリルはわざとらしく肩を竦めた。
 そんなシリルにアイリスは溜息を吐きついていると、「そう言えば、私の即位式がの日取りが決まったことは知っているか」とシリルが口を開いた。勿論、エルザや周囲から話には聞いていたものの、いざこうして本人の口からその話題が出るとなると自然と背筋が伸びる。それも、彼は常々、レオに会わせて欲しいのだと言うと即位式を終えればと言っていたからだ。


「日取りのことだが姉上の一件で早まった。三日後に執り行う」
「三日後!?そんな急に、」
「先ほど変更になった。数日早まっただけのことだ、周囲は大慌てだったがな」


 事も無げに言うシリルは心底興味が無い様子だった。そんな彼が三日後には即位し、ベルンシュタインの王になるのだと思うも、実感は沸かなかった。アイリスにとって彼は厄介な相手であり、よく分からない人物でしかない。次期国王に対してこのように考えることは不敬だということは分かっているのだが、如何せん、第一印象が悪い為、そのようにしか思えないのだ。


「……御即位なされたら、レオを解放して頂けるんですよね」
「ああ、王位継承権を剥奪した上で解放する、と私は言ったはずだが」
「覚えておられるなら結構です。そのお言葉、お忘れなきようお願いします」


 失礼致します、とアイリスは一礼すると足早にシリルの居室を後にした。以前から彼自身が口にしていたのだ。即位すればレオの身柄は解放する、と。予定通りに事が進み、無事に即位式を終えれば三日後にはレオは解放される。けれど、どうにも引っ掛かりを覚えてならないのだ。
 レオは既に第二王子――三日後には王弟だが――であるということを周囲の人間に知られている。とは言っても、既に王位継承権を剥奪する手続は取られている為、彼が政治の表舞台に立つことはない。レオ自身、表舞台に立つことは望んでいない為、そのことについては問題はないのかもしれない。だが、周囲も同じであるとは限らない。
 シリルの即位は強引なものだ。レオの擁立を防ぐ為に彼を幽閉し、王位継承権を剥奪した。特に軍部からの反発は強かったという。それを思うと、何事もなく以前と同じようにはいかないだろう。王位継承権を剥奪されていても、レオの立場は変わらないのだ。何より、継承権を取り戻すことだって不可能なことではない。レオが望んでいなくとも、それを望む者はいくらでもいる。


「……どうしよう」


 アイリスは足を止め、溜息を吐いた。レオのことだけでなく、シリルから預けられた封筒の中身も気になる。それに、三日後には解放するという約束を交わしてはいるものの、何の備えもしないわけにはいかない。シリルの上着から見つけた鍵の型取りをした粘土をどうにかエルンストに届けなければならない。
 このまま一度、レックスの元に行ってからゲアハルトの元に行くべきだろうかと考えていると「アイリスじゃないか」と背後から声を掛けられた。慌てて振り向くと、そこには久しぶりに顔を合わせるヒルデガルトの姿があり、お久しぶりですと彼女は目を細めて笑った。


「こんなとろこでどうした?」
「さっきまでシリル殿下に昨日の件をご報告していたんです。……あ、そうだ。申し訳ないのですが、エルンストさんに渡して頂きたい物があるんです」
「ああ、それなら私もアイリスに預かって来た物があるんだ」
「わたしに?」


 一体何だろうかと思いつつも、アイリスは一先ずポケットから取り出した鍵の型取りをした粘土をヒルデガルトに手渡した。レオが幽閉されている牢の鍵かもしれないということを伝えると、途端に彼女の表情は引き締まった。エルンストから移送されたことも教えられていたのだろう。けれど、そこに心配の色は一切なく、ヒルデガルトは「あいつなら大丈夫さ」と笑みを浮かべて口にした。


「そんな簡単に心が折れるような奴じゃない」
「……ヒルダさん」


 そうですよね、とアイリスは彼女の言葉に深く頷いた。誰もがレオは簡単に心が折れてしまうような人間ではないと口を揃えて言う。たとえ、折れたとしてもそこから再び立ち上がることの出来る人間なのだから、それを信じて待てばいいのだとアイリスは心の中で考えると、先ほどシリルから告げられた即位式の日取りが早まったこととレオが三日後には解放されるはずだという旨を伝えた。
 ヒルデガルトの元にもまだ日取りの変更の知らせは届いていなかったらしく驚いていたが、「恐らく正妃が早めたはずだ」と溜息混じりに言った。エルザの一件でシリルにも害が及ぶことを心配したキルスティが強引に日取りを早めた、というのが彼女の考えだった。そして恐らく、それは間違っていないともアイリスは考えていた。


「まあいい。このことはエルンストにも伝えておくよ。ああ、それからこれが預かっていた物だ」
「鍵……もしかして、司令官の……」
「ああ、手錠の鍵も完成したと言っていた。これはアイリスが持っているようにって」
「分かりました」


 受け取った銀色の鍵をポケットに仕舞い込んでいると、「ちゃんと使えるか試して欲しいとも言っていたぞ」とヒルデガルトは思い出したように付け足した。丁度、今からゲアハルトのところにも報告に行こうと思っていたアイリスはポケットの上から鍵に触れ、「それじゃあ今から行って来ます」と口にした。
 それに驚いた顔をするヒルデガルトに丁度行くつもりだったのだということを告げると、途中まで共に行くことになった。キルスティやルヴェルチと地下牢で遭遇して以来、何度か訪れてはいるものの、やはり心細さはあった。そのため、こうして誰かと共に行く方が心強く、アイリスは僅かに緊張を緩めながら北の地下牢へと向かった。
 そしてあともう少し、というところで「ちょっと待て」とヒルデガルトの制止が掛かる。彼女は足を止めたアイリスの腕を掴んで近くの柱の影に身を隠すと、そっと北の地下牢の方へと視線を向けた。それに倣ってアイリスもそちらへと視線を向け、僅かに目を見開いた。


「……ルヴェルチが、どうして……」
「分からないな。だが、今は近付かない方がいい。アイリス、君はエルザ殿下のところに戻った方がいい、此処は私が見張ってるから」
「でも……」
「いいから。エルザ殿下付きの君があまり彼女の傍を離れているのも風聞が悪い」


 そう言われてしまうと、これ以上は何も言えない。アイリスは「後はお願いします」と一礼すると、足早にエルザの居室へと向かって歩き出した。ルヴェルチが北の地下牢に何の用なのだろうかと不安は募る。ゲアハルトに何かするつもりなのではないかと思うと心配になるが、だからと言って引き返すわけにもいかない。ヒルデガルトが見張っていてくれるのだから大丈夫なはずだと自分自身に言い聞かせ、アイリスはエルザの元へと急いだ。


「あ、戻って来たのね。おかえりなさい」
「遅くなってしまってごめんなさい。特に何もありませんでしたか?」
「大丈夫よ。……ごめんなさいね、アイリスにも迷惑掛けてしまって。貴女だって他にしなきゃいけないこともあるのに」


 エルザの居室へと戻ると、変わらずそこには彼女がいた。当たり前とも言えることではあるが、それでも変わりない様子にほっと安堵の息を吐くぐらいには神経質になっているのだということが自覚できる。申し訳なさそうに謝るエルザにアイリスはそんなことはないと首を横に振るも、彼女の言うようにゲアハルトへの報告やレオやルヴェルチの様子を探ることなど、そういったエルザの元を離れなければならないことは進んでいない。
 しかし、だからといってその間にエルザの身に何かあってはどうしようもない。その可能性が少なからずある以上は、警戒するべきなのだ。それでも、彼女の身の安全を思うのであれば、気に掛かることは先に払拭してしまう方がいいとシリルと話していて思った。どのように切り出そうかと言葉を探す彼女の様子に気付いたエルザは「どうしたの?」と声を掛け、アイリスに座るようにと促した。


「シリルに何か言われたの?」
「いえ、……あの、実は……少し気になることがあって……」
「気になること?」
「昨日の、その……王立美術館に集まっていた貴族の方々の中に……行方不明になっている仲間の姿を見たような気がして……」
「貴族の中に?」


 アイリスの言葉にエルザは目を瞬かせるも、すぐに「それなら昨日の出席者名簿を取り寄せて、」と口にするも載ってはいないはずだと首を横に振る。アベルの出自は貴族層ではなく、招待客ではない。どのようにしてホールに入り込んだかは分からないが、そもそも彼が本当にいたという証拠さえないのだ。誰か似ている招待客と見間違えた可能性の方が高い――アイリスがそう言うとエルザは相好を崩し、「探しに行きたいのね」と優しい声音で言った。


「行方不明になっていた仲間がいたかもしれない……手掛かりが欲しいのよね、貴女は」
「……はい」
「いってらっしゃい、アイリス。見間違いなら残念だけれど、何か手掛かりあるかもしれないのだもの。私のことは気にしなくていいから、そうね……夜にこっそり行くといいわ」


 エルンストに見つかると厄介だものね、とエルザは微苦笑を浮かべる。身を案じて心を砕いてくれている彼には申し訳なさもあるのだろう。アイリスもエルンストに対しての申し訳なさでいっぱいになるが、それでも、気遣って送り出してくれる彼女の気遣いが有り難かった。
 一度だけだ。何の手掛かりも見つけられなければ――見つけられない可能性の方がずっと高いが――諦めがつく。似ている誰かを見間違えただけ、それだけだ。その可能性を潰す為にエルザの護衛を抜けることは申し訳なく思うも、アイリスは送り出してくれる彼女の優しさに甘え、なるべく早く戻ると約束した。


「納得がいくまで手掛かりを探して来ればいいわ。でもね、無理だけはしないで頂戴ね」
「はい、……ありがとうございます、エルザ様」


 送り出してくれるエルザに改めて感謝しつつ、せめて夜になるまでの間は安心して過ごしてもらえるようにしっかりと護衛をしなければとアイリスは気合を入れ直す。夜になれば、手掛かりを探すことが出来る。何かあるかもしれないし、何もないかもしれない。それでも、行く価値はあると思ったのだ。たとえ、アベルに関する手掛かりでなかったとしても、鴉に関する手掛かりが残っているかもしれない。
 身勝手な行動であるということは分かっている。本来ならば、ゲアハルトやエルンストに相談するべきであるということも分かってはいるのだ。けれど、彼らに話しても、きっと許してはくれないだろう。彼らはそこまで甘くない。アベルのことを気に掛けてはいるのだろうが、生存している可能性の低さから既に生きてはいないと考えているはずだ。そのように考えることに対して、不満があるというわけではない。軍全体を指揮する立場からしてみれば、一人の兵士の死に囚われているわけにはいかないのだ。
 それでも、いつも傍にいた人間までそのように割り切れるというわけではない。それでは駄目なのだということはアイリス自身も分かってはいるのだ。だからこそ、これで最後にするつもりだった。アベルのことを気に掛け、そして動く機会はもうない。そう決めてしまわなければ、いつまでも引き摺ってしまう。どのような結果であれ、それを受け入れることを決めたアイリスは夜空に月が昇った頃、気を付けてねと送り出してくれるエルザに対して深く一礼すると彼女の居室を抜け出した。


「急がなきゃ」


 エルザは時間のことは気にするなと言ってはいたが、だからといって時間を掛け過ぎるわけにはいかない。それなりに既に顔が周囲に割れている為、細心の注意を払わなければエルザの傍を離れていることが知れ渡ってしまうのだ。アイリスは宿舎に戻ると手早く騎士団に所属していた頃に着ていた衣服に着替え、白いローブのフードを被った。
 そして、昼間のうちに目星を付けていた城門へと急ぐ。そこは、エルザを退避させる時に使用した王立美術館の方面へと続く道に繋がる城門であり、この門を使って出入りする関係者が多い。丁度今は一日の務めを終えて帰宅しようとしている者も多く、アイリスはその中に紛れ込むとフードで目深に被り直した。
 彼女と同じような格好をしている者は少なくなかったが、やはり若い女という点では目を引く。城仕えの下女は基本的には城内の宿舎で生活する者が多く、自宅に戻る者は多くない。しかし、何とか呼び止められることなく、城の外に出ることに成功したアイリスは人混みの中に紛れながらも足早に王立美術館へと急いだ。


「……立ち入り禁止、か」


 王立美術館に到着するも、アイリスは近くの路地の影から美術館を覗き見ていた。近付こうにも、立ち入り禁止のロープが張り巡らされ、近付こうにも近付けないのだ。軍服を着ていれば近付くことも中に入ることも容易ではあるのだが、今はその身分を使うことは出来ない。このような状況であるということは知ってはいたのだが、いざ忍び込もうとするとやはり難しいものがある。
 元々、アイリスはその手の訓練を積んでいたわけではない。白兵戦の経験はあるものの、こういった侵入の経験はないのだ。しかし、それも承知の上で此処まで来たのだ。どうにか王立美術館の中に入り込まなければと方法を考えていると、不意にとんとんと肩を叩かれた。今の今まで何の気配も感じず、物音さえも何も聞こえて来なかった。アイリスはびくりと肩を震わせながらも警戒心を露に素早く振り向き、咄嗟に杖を取り出して振り被ったところで「オ、オレだって!」と押し殺した声が聞こえて来た。


「レックス……!何で此処に、」
「それはオレの台詞。お前が何で此処にいるんだよ、エルザ殿下の護衛はどうしたんだ」
「……それは……」


 レックスの疑問は尤もだ。エルザの護衛であるはずの自分が王立美術館の近くに一人でいたとなれば、不審に思わないはずがない。しかし、それは彼にも言えることだ。レックスもエルザが公務の最中に襲撃を受けたことは既に知っているのだろうが、だからといって此処にいることはおかしい。


「レックスはどうして此処にいるの?」
「お前が城門から出て行くのが見えたから追いかけて来た。丁度、オレの警備時間が終わって詰所に戻るところで見かけたから」


 エルザ殿下が襲われたことは聞いてたから、多分此処だろうと思って。
 溜息混じりに言うレックスにアイリスは何とも言えない表情になった。よりによって彼に見られているとは思いもしなかったのだ。細心の注意を払ってはいたつもりだが、自分の注意は甘かったのだと彼女は溜息を吐いた。
 レックスの様子からしても、先の襲撃の一件に彼の復讐の相手である鴉と呼ばれる帝国軍の特殊部隊が関与していることは知らないらしい。知らないのであれば、敢えて言う必要はないとは思う。復讐相手が関わっているとなれば、レックスはどのような無茶でもするだろう。普段は理性的であり、規律を重んじる彼だが、故郷と家族を奪った相手を前にして平然としていられるような人間でもない。
 何と説明するべきだろうかと悩んでいると、「単独行動は禁止だろ」とレックスは呆れた様子で溜息を吐き、アイリスの頭を小突いた。そして、「仕方ないからオレも手伝うよ」と口にした様子から、恐らくは先の襲撃のことを気にして手掛かりを求めに来たと思われたようだった。強ち間違ってもいない為、アイリスは申し訳なさと後ろめたさを感じながらも小さく頷いて見せた。


「それで、どうするつもりだ?美術館の中に入るならお前の身分を明かせばすぐに、」
「それは駄目。エルザ様の許可は得てるけど、お傍を離れてることを知られたくないの」
「だったら忍び込むしかないけど……お前だって警備に穴がないのは分かってるだろ?」
「分かってるけど……でも、」


 それでも何とかしなきゃいけないのだと言おうとした矢先、アイリスは美術館のすぐ近くに佇む人影に気付いた。向かい側の路地の近くから美術館を見上げているその姿はよく見えなかった。しかし、月を隠していた雲が晴れ、ゆっくりと月明かりが青白く地上を照らし出し、露になったその姿を見たアイリスは目を見開いた。
 視線の先、向かい側の路地の傍に佇んでいたのは黒いローブを被った小柄な少年だった。短く彼の名前を呼んだアイリスは、「おいっアイリス!」と慌てて呼び止めるレックスの制止を振り切ってすぐに駆け出した。夜も更けているということもあって人通りはなく、突然駆け出した彼女の姿は王立美術館を警備していた兵士の目にも留まった。
 すぐに制止の声が響くも、それを気に留める余裕はなく、アイリスは路地へと駆け込んだ少年の背を追いかけた。彼がアベルならばどうして逃げるのか、それを疑問に感じもしたが、彼がアベルでなかったとしてもこのような時間帯に事件のあった美術館付近に姿を現す者が怪しくないはずがない。何より、アイリスの見間違いでなければ、追いかけている少年は美術館のホールにもいたはずなのだ。


「待って、……待って、アベル!」


 それでも、やはりアイリスには彼がアベルに見えて仕方なかった。走るその後ろ姿がいつかの彼の背中に重なり、じわりと目頭が熱くなった。まだアベルだと決まったわけではない。それでも、彼である気がしたのだ。彼であって欲しいという願望にも似た想いで胸がいっぱいになったのだ。
 だからこそ、アイリスは手を伸ばした。距離が詰まらず、指先さえも届かないと知りながらも手を伸ばした。アベル、と呼ぶ度にどうかその名前で振り向いて欲しいと彼女は願い続けた。そして、ふと追いかけていた背中との距離が詰まり、走り続けていた目の前の彼が足を止めた。それに続いてアイリスも足を止め、僅かな距離を保ったまま、彼女は乱れた呼吸を整える。


「アベル……ねえ、アベルだよね?」


 そうだよね、とアイリスは一歩を踏み出す。違ったならば、その時は不審者として捕縛すればいい――それはまるで自分に対する言い訳のようだった。そう思えば、仮にアベルでなかったとしても少しは落ち込まないのではないかという、とても些細な予防線だ。
 そして、伸ばした手が彼の背中に触れた。それと同時にくるりと身体を反転させた彼に伸ばしていた手を掴まれたアイリスはそのまま引き寄せられるも、月明かりを背にした彼の顔を見てじわりと涙を浮かべた。そして、アベル、と名前を呼んだところで不意に違和感を感じた。


「……どう、して」


 焼けつくような痛みがあった。けれど、それ以上の衝撃にじわりと浮かんだ涙はすうと引いていく。紫の瞳は釘付けになっていた。黒い髪と同じ色をした黒曜石の瞳、色白の肌に華奢な身体。どれを取ってもアベルと同じにも関わらず、その頬に刻まれた黒い鳥の刺青。それを認めると同時に、脳裏にはその刺青の持ち主が何者であるかを口にしたエルンストの声が蘇っていた。
 少年は笑う。アベルが浮かべていた微かな笑みを。けれど、どこか歪んだ嘲笑を。ずぷり、とアイリスの腹部に突き刺していたナイフを引き抜けば、そこからは赤い血が滲み、ぽたぽたと刃先から血が滴っていた。刺されたのだと認識すると、途端に腹部からこれまで感じたことがないほどの強烈な痛みが身体を襲い、アイリスは身体を折るようにしてその場に膝をつく。それでも尚、アイリスは視線を逸らすことが出来なかった。アベルと同じ顔をした、憎悪と嘲笑が綯い交ぜになった冷えた色を湛えたその目から視線を逸らすことなど出来るはずもなかった。
 夢だと思いたかった。こんなことは悪い夢で、朝になって目が覚めれば何事もなく、またエルザの護衛に就くのだと。けれど、それを否定するように腹部から流れる熱を持った血は指先を濡らし、絶えず痛みを訴える。これは今、確かに目の前で起きている出来事であり、夢ではないのだということを訴え続ける。突きつけられた事実は、まさに悪夢のようだった。



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