崩壊 - the fall -



 どくどくと心臓が脈打つ度に刺された腹部からの出血は続いた。アイリスは傷口を押えながら回復魔法を掛けつつも、視線は目の前の彼へと釘付けになっていた。口の端を歪めて笑うその顔は確かにアベルだった。けれど、アイリスの知る彼はそんな笑い方をする人間ではなかった。
 一体何があってアベルは変わってしまったのか。操られているのだろうかと考えながらもアイリスが声を掛けようとした矢先、後方からはレックスの怒号と何かがぶつかり合う鈍い音、それから地を這うようなずるずるという音と共に空気を震わせるしゃーっという奇妙な音が聞こえて来た。
 すぐに合流しなければとアイリスは視線を外さずにゆっくりと立ち上がろうとするも、既に塞がっているはずの腹部の傷が予想以上の痛みを訴える。顔を顰めてその場に再び座り込んだ彼女を見た彼は冷えた笑みを浮かべた。アイリスは唇を噛み締めると、ぬるりと生温い血で濡れた傷口へと視線を向け、柳眉を寄せた。傷口は青紫に色を変え、一目見てナイフに毒が塗り込まれていたのだということが伺えた。
 しかし、以前にも一度、帝国軍が使用している毒が塗りつけられた矢で怪我を負ったことがあった。彼女は極めて冷静に腰に付けているポーチからエルンストから余分に貰っていた解毒剤を取り出すとそれを一息で飲み下した。効果があるかどうかは知れないものの、「何だ……解毒剤持ってたんだ」と眉を寄せるアベルの顔を見ていると、どうやら特殊な毒ではないことが伺えた。ならば、今口にした解毒剤が効果を発揮してくれるはずだとアイリスは足に力を入れ、痛みを堪えながらゆっくりと立ち上がった。


「……アベル、どういうことなの」


 声も一緒だった。顔も同じ、背格好も同じとなると、答えは一つだけだった。決して信じたくも認めたくもない答えだ。けれど、彼のその姿から導き出せるものはそれだけであり、アイリスの目にはじわりと涙が浮かぶ。アベルは裏切っていたのだと、噂の通り、ルヴェルチの手の者であり、彼もまたヒッツェルブルグ帝国に通じていたのだということが現実のものとなった。
 決して認めたくはない、信じたくはない。目の前のアベルはアイリスの知る彼ではなく、別人であると思いたかった。だが、それを否定するだけの材料が彼女にはなかった。これまで共に戦って来たことも、彼と過ごした時間も、自分の生い立ちを打ち明けてくれたことも、全て嘘だったとは思いたくはない。それでも、自身の腹部を穿った血の滴るナイフを手に立つ彼は、アイリスが生きていて欲しいと、会いたいと願っていた彼そのものだった。
 レックスと合流するべきだということは分かっていた。彼もまた何者かに襲われている。アベルが裏切っていたと分かった以上、無理に捕縛するのではなく、すぐにエルンストらに報告するべきだということも分かってはいるのだ。それでも、今ここでアベルに背を向けることはアイリスには出来なかった。
 震える声でやっとその一言を口にするも、彼は口の端を歪めて笑うばかりだった。嘲った笑みを浮かべ、殺意に満ちた視線を向けられる。その表情に、少し困った風に優しく笑って頭を撫でてくれたアベルの顔が重なり、胸が痛くなった。あの笑みは何だったのか、彼の優しさは嘘だったのか、そんなことさえ思えて来るも、アイリスは唇を噛み締めながら杖を構えた。


「どうもこうも、お前の目に映ってることが事実だよ」
「……」
「ボクはヒッツェルブルグ帝国の、」
「……違う」


 自身の頬に刻まれた黒い鳥の刺青に触れながら、彼はどこかうっとりとした恍惚の表情を浮かべて言う。そんな彼を前にして、アイリスはぽつりと口にした。
 違う、そう思ったのだ。それは直観的なものであり、何かしら確かな根拠があるというわけではない。けれど、確かにそう思ったのだ。アベルではない。アベルならばこのようなことは言わない。脳裏に過るアベルの姿を思い描きながら、アイリスは再度、はっきりとした声音で「貴方はアベルじゃない」と言い切った。


「違うよ、アイリス。ボクはアベルだよ」
「貴方はアベルじゃない。……アベルはお前なんて言わない、わたしのことだって簡単に名前で呼んだりしない」
「……」
「アベルはそんな、人を馬鹿にしたような笑い方だってしない。馬鹿にするようなことは言っても、嘲ったりなんてしない」


 呆れた顔をして溜息を吐いて、だけど少しだけ楽しそうにする。それがアイリスの知っているアベルであり、そんな彼を近くで見てきたのだ。だからこそ、今ならばはっきりと言い切ることが出来る。目の前にいるアベルはこれまで一緒に戦って来た彼ではない。アベルの顔をした他の人間なのだと。
 杖を突き付けて言い切るアイリスに対し、僅かに目を見開いていた彼は暫しの後に顔を伏せ、肩を震わせた。押し殺した笑みは次第に漏れ出し、声を上げて嗤う彼の声音が路地の壁に大きく反響した。その狂ったような嗤い方にアイリスは不安を覚えつつも、相変わらず痛みを訴え続ける傷口に触れた。血でそこは濡れてはいたが、既に傷自体は癒えている。解毒剤も効いてはいるのだろうが、やはり気分の不快さや身体の倦怠感や痛みまですぐに収まるということはない。
 無理はするべきではない――そう思うも、アイリスはその場から動かなかった。否、動くことが出来なかった。狂ったように彼は嗤っている。けれど、そこに隙はなかった。逃げ出そうものなら彼が手にしているナイフが空を切り、切りつけられることは明らかだった。何より、この身体の状況で逃げ切れる可能性は低い。後方から聞こえるレックスの怒号も相変わらずであり、彼も苦戦を強いられていることが伝わって来る。
 今更ながらに、レックスを巻き込んでしまったことへの申し訳なさが募った。巻き込まれる前に戻るべきだった。否、単独行動などやはりするべきではなかったのだ。エルンストの言う通りにエルザの護衛に集中していたのなら、レックスを巻き込むこともなかった。自身の行動の浅はかさを悔いながら、アイリスは肩で呼吸を繰り返しながら、「貴方は誰なの」と問い掛ける。すると、ぴたりと彼の嗤い声が止んだ。


「ボク?ボクはアベルだよ」
「違う、貴方はアベルじゃない」
「アベルだよ。ボクはアベルだ」
「貴方は、」


 アベルじゃない、と言おうとした矢先、ふわりと目の前の彼が動いた。酷くゆっくりとした動きに見えたものの、一瞬で間合いを詰められたアイリスは眼下で鈍く光る血に塗れたナイフに気付いた。咄嗟に防御魔法を展開しようとするも、それはばりんと音を立てて崩れる。すぐに振り被られたナイフが自身の防御魔法を破った矢と同じ素材で造られているものであるということに気付き、アイリスは振り下ろされるナイフの一撃を防御魔法ではなく杖自身で受け止めた。
 耳障りな金属音が響くも、何とかその一撃を凌いだアイリスは咄嗟に後方へと飛び退る。しかし、身体を動かせば刺された腹部から痛みが駆け廻り、姿勢を崩した彼女はその場に膝を付いた。その隙を逃すことなく間合いを詰めた彼は苛立ちと憎悪と殺意に満ちた黒曜石の瞳でアイリスを睨みつけ、「殺してやる」と苛立ちに満ちた低い声音が耳に届く。彼女は咄嗟に相手の動きを一瞬でも止めようと防御魔法を展開してそれを反転させて拘束しようとするも、それさえも容易く突破されてしまう。


「知ってるよ、それ。見たことあるから」
「え、」


 思いもしない言葉に目を見開くも、ここで死ぬわけにはいかなかった。迫る彼を前にアイリスは全身に魔力を行き渡らせる。ばちりという小さな音と共に青白い燐光が彼女の身体が纏い始める。以前、エルンストに対して使った攻撃魔法であり、アベルが教えてくれたものでもある。アイリスは迫るナイフを目の前にしながらも僅かな間でも彼の触れる為に手を伸ばした。一瞬で触れられれば、彼の身体に電流を通して気絶させることが出来る。その一瞬に賭けてアイリスが迫る刃にさえ形振り構わず手を伸ばした矢先、ぶわりと視界を赤い炎が埋め尽くした。


「……っ」


 指先に触れたその炎の熱さに咄嗟に手を引っ込めたアイリスは腕を翳して熱風に耐えながら目を凝らすと、炎の向こうでは彼も視界を庇いながら後退していた。しかし、すぐに「何で邪魔するの、アベルっ」という苛立ちに満ちた怒声が聞こえ、アイリスは目を瞠った。
 炎はすぐに掻き消え、周囲はまた月明かりだけが光源の薄暗闇に戻る。アイリスは明る過ぎる炎で焼けた目を凝らしながら目の前から後方へと飛び退っていた彼が睨みつける方向へと視線を向けた。薄暗闇の中、肩で呼吸を繰り返しながらも、確かにそこには彼がいた。


「……アベル……」


 目の前にいる彼と同じ、黒い髪と黒曜石の瞳をした華奢な少年がそこにいた。しかし、アイリスの記憶に残る彼とは異なった姿ではあった。頬に鴉の所属を示す刺青はない。けれど、その顔には目に痛々しく映る白い包帯が巻きつけられ、彼の片目を覆い隠していた。それでも、自分が探していたアベルが彼であるということだけはアイリスにはすぐに分かった。
 ちらりとアイリスに隻眼を向けたアベルはすぐに視線を逸らし、自分と同じ顔をした少年へと視線を向ける。そして、彼らしくないほどに呼吸を乱したまま、口を開いた。


「……何してるの」
「見たら分かるだろ?それより何で邪魔したの?ねえ、何で?何でその女を助けようとしたの?ねえっ!」


 狂ったように声を荒げる彼を前にアベルは呼吸を整えながら、僅かに眉を寄せた。アイリスはその様子を息を殺して見守ってはいたものの、状況を上手く飲み込むことは出来なかった。どうしてアベルと同じ顔をした人間がいるのかが分からない。彼の兄弟だろうかとも思ったが、その片方の人間が鴉に所属しているらしいということが余計に事態を混迷させていた。
 アベルに似たこの少年が帝国に与していることは間違いない。だが、アベルはどうなのかが分からない。彼も帝国に与しているのか、自分たちを裏切っていたのか――事実を認識しようにも、そうあって欲しくはないという感情を抑えることが出来ない。裏切られていたなど、思いたくはないのだ。どうかそれを否定して欲しい、そう心底思うのに、その期待さえも裏切られてしまう。


「アベルはボクたちの仲間なのに!ねえっどうして邪魔するの、アベル!」
「……っ」
「この女がいるから、アベルはずっと辛い顔ばっかしてるんだよね。あっちでヨルと戦ってる男だってそうだ、こいつらがいるから、」
「カインっ」


 頬に鴉の刺青を刻んだ少年――カインは鋭くアベルに名を呼ばれ、口を噤んだ。しかし、その表情は苛立ちに満ち、ぎろりと視線はアイリスへと向けられた。アベルと同じ顔をしているというのに彼は酷く憎悪に満ちた歪んだ表情を浮かべていた。その目を見るだけで自分にどれほどの恨みや憎しみを向けているのかが伝わり、彼女の背に冷たい汗が伝った。
 逃げなければ、と本能が叫ぶ。この少年、カインは危険であると全身がそう叫ぶのだ。けれど、今更になって足が震えて動けなくなった。何より、すぐそこにアベルがいるのだ。彼は生きていた。その事実は単純に嬉しいものではあったが、どうして彼が帝国の人間と行動を共にしているのか、カインと顔が瓜二つであるのかが分かっていない。
 今ここで、逃げるわけにはいかない――アイリスは震える足を叱咤してゆっくりと立ち上がろうとするも、それと同時に間合いを取っていたカインも動き始める。


「お前がいるからアベルはおかしいままなんだ。せっかくボクのところに戻って来たのに、ボクらがまた二人一緒になったのに、アベルがおかしいのはお前らがいるからだ!」
「戻ってきたって、アベルは、」
「そうだよ、戻って来たんだ。ボクとアベルは二人で一人。世界でたった二人だけの兄弟だよ!」


 声高に叫ぶカインの言葉にアイリスは目を見開いた。それを確かめるべく視線をアベルへと向ければ、彼は顔を伏せていた。強く拳を握り締めながら、唇を噛み締めている様子だった。その様子からも、カインとアベルが兄弟であるということは紛れもない事実であるということが伺える。
 つまり、少なくともアベルはカイン同様に帝国に与する人間であったということでもある。裏切られていたのは自分たちの方だったのだとアイリスは愕然とした。目を見開く彼女を前にカインはその表情を嘲った。「そうだよ、アベルは帝国の人間だよ。こんな生温い国の、お前らみたいな人間とは違うんだ!」と彼は叫ぶ。


「ボクたちはこの国を壊す為に来たんだ。アベルはその為にずっとこの国で内通者をしていただけだよ。仲間じゃないんだ、アベルの仲間はボクたちだ。お前たちじゃないんだよ」
「……でも、っ」
「裏切られたんだよ、お前は!ずっとずーっと!最初から!アベルはお前たちを仲間だなんて思ったことなんてなかったんだ!」
「……違う」
「……アベル?」


 愕然とした表情で地面へと視線を落としていたアイリスを詰っていたカインに対し、ぽつりとアベルは声を漏らした。それはとても小さなもので、ともすれば風に溶けて消えてしまいそうなものだった。けれど、それは確かにアイリスとカインの耳にも届いていた。
 違う、という小さな否定にぴたりと顔を伏せているアイリスへと足を進めていたカインの動きが止まる。訝しむような顔でアベルへと視線を向けたカインは「何が違うの?ボク、何か間違えたかな?」と首を傾げる。その様は先ほどまでの彼とはまるで違う様子であり、不安感さえ覚えてしまう。
 顔を伏せて黙り込むアベルに対し、「ねえ、どうしたの?」とナイフを手にしたまま歩み寄るカインに嫌な予感を感じたアイリスは咄嗟に「アベルっ」と彼の名前を叫んだ。ともすれば、手にしたそのナイフでアベルのことをカインが傷つけるのではないかと思ったのだ。アイリスの声に弾かれるように顔を上げたアベルはすぐに目を見開いて、声がすると同時に彼女へと視線を戻したカインへと手を伸ばした。


「カイン、」
「気安くボクの弟の名前を呼ぶなっ!」


 アイリスがアベルの名前を呼んだことが彼の逆鱗に触れたらしく、カインは踵を返すと彼女に向けてナイフの切っ先を向けた。避けなければと足に力を入れるも、ずるりと足は滑ってしまう。迫る血に濡れても尚、鈍く光るナイフを前に短く喉を鳴らした矢先、視界を黒い影が過った。
 それが何かを確認するよりも先にすぐ傍まで迫っていたカインの腕を握り締める人物が唐突にその場に現れた。何の気配もなく、いきなり現れた黒いフードを目深に被ったその人物にアイリスは警戒心を露にする。一瞬、レックスが来てくれたのかとも思った。しかし、彼の誰かと戦っている最中らしく、絶えず怒声が聞こえている。一体何者なのかとカインと彼の腕を掴んでいる人物へ視線を向けたまま、アイリスはゆっくりと後退した。


「は、放してよ、ブルーノ!」
「放したらあいつを殺すだろ、お前は」


 ブルーノと呼ばれた青年は呆れ返った様子でカインを窘める。しっかりとカインの腕を握るその腕は細く、何処にそのような力があるのかは知れないものの、一先ずは助かったことに安堵した。だが、ブルーノの口振りからも彼がカインの仲間であるということが伺えるが、そんな彼がどうして自分を助けたのかが分からなかった。
 何かしら理由があるのかもしれないが、どういうつもりなのだろうかと二人の様子を伺っているとふと目深に被ったフードの影から橙色の瞳と目が合った。ちらりと見えた首元には目に鮮やかな赤い布が巻かれている。ブルーノは視線をアイリスから視線を逸らすと、相変わらず暴れているカインに対して溜息混じりに言った。


「アイリス・ブロムベルグの殺害許可は下りていない。勝手なことをするとカサンドラに叱られるぞ」
「でもっ」
「勝手に単独行動までしやがって。……お前も、あっちにいる蛇連れて来い。帰るぞ」


 尚も抵抗するカインを羽交い締めするように押さえ込みながらブルーノは顎でレックスらがいる方をアベルに指し示す。ブルーノの口から出た蛇、という単語に困惑しながらも、彼らが撤退しようとしているということだけは分かった。このまま逃がしてはならないとアイリスは激痛が走り、ふらつく身体を叱咤して何とか立ち上がると、「待って!」と叫んだ。
 ぴくり、と歩き出していたアベルの肩が震え、足が止まった。このまま何も言わずに、何も言えずに、行かせてはならないと思ったのだ。生きていた、そのことが分かっただけでも十分ではあるが、どうしてアベルが鴉の人間と行動を共にしているのか、カインとはどういう関係なのか、本当に裏切っていたのか、彼の口から直接聞いてはいない。
 聞かずとも何となくは分かっているのだ。それでも、まだアベルの口から直接聞いてはいない――そのことに、アイリスは一縷の希望を持っていた。持つべき希望ではないことも、そのようなことを期待しても裏切られるだけだとは分かっていた。それでも、アベルの口から否定の言葉が聞きたかったのだ。


「……ごめん」


 それはとても、小さな謝罪だった。けれど、そこに押し殺した数多の感情が込められてもいた。震えた微かな声で告げられたその言葉にアイリスは目を瞠り、唖然とした。分かっていたことだ。否定して欲しいと思ったのは、彼がそれをしないだろうと分かった上での期待ではあった。
 それでも、心の何処かで否定してくれるのではないかとも思っていたのだ。勝手な思いを押し付けて、勝手に愕然と傷ついているということは分かっていた。けれど、認めたくはなかったのだ。共に戦って来た仲間が内通者であり、ずっと裏切られていたなどと、思いたくはなかった。信じたくはなかったのだ。悪い夢だと、思いたかった。足元が崩れていくような感覚に陥り、アイリスはその場に座り込むことしか出来なかった。
 走れば手が届く距離に彼がいた。声が届く距離にアベルはいた。それなのに、離れていくその背を見ていることしか出来なかった。エルザやシリルに背を押されて此処まで来たというのに、裏切っていたというその事実を前に、動けなくなる自分が酷く情けなく思えた。じわりと浮かんだ涙で視界は滲み、ずきんずきんと痛みを訴え続ける腹部を押えながら、アイリスは唇を噛み締めた。何の為に一体此処まで来たのだと思いながらも、突き付けられた事実を前にどうしようもなく心が痛んだ。


「アイリス……っ」


 程なくして汗だくになったレックスが駆け寄って来た。肩で呼吸を繰り返し、手には抜き身のまま、刃に血を付着させた剣が握られていた。彼はすぐ傍に膝を付くと、顔を伏せているアイリスの肩を掴み、「大丈夫か?怪我は?」と早口に問い掛ける。傷は既に癒え、解毒剤も効いてはいるようだった。
 しかし、さすがにすぐに解毒出来るというわけではなく、身体は酷く重く、気分も悪かった。それでも、レックスには既に治したから平気だと答えた。だが、身体のだるさや痛み以上にアベルが裏切っていたのだという事実が心に重く圧し掛かり、その顔は暗いものだった。レックスもアベルと顔を会わせたらしく、雰囲気がいつもと違っている。


「……戻ろう、アイリス。戻って、エルンストさんに報告して、」
「待って……エルンストさんには言わないで」
「何言ってるんだよ、……気持ちは分かるけど、でもこれは黙ってていいことじゃない。オレたちだけでどうにか出来ることでもないだろ」


 レックスの言うことは尤もだ。どのような事情であれ、アベルがベルンシュタインを裏切った内通者であったという事実に変わりない。彼が情報を横流ししていたにしろ、していなかったにしろ、報告するべき事柄なのだ。それを黙っていることなど出来るはずもなく、そのことはアイリスだって分かっていた。
 けれど、エルンストに報告すれば、彼は恐らくアベルの口を封じようとするだろう。彼に対して刃を向けることにエルンストは躊躇うことはない。それが分かっていながら、エルンストに報告することはアイリスには出来なかった。生きていたアベルを、どのような理由であれ、また死に追いやろうとすることなど、出来るはずがなかった。
 それが自分の甘さであるということは分かっていた。捨てるべき甘さであり、国のことを想えばこそ、切り捨てるべき感情でもある。自分がしようとしていることこそ、ベルンシュタインへの裏切りだということも分かってはいるのだ。それでも、アイリスは報告しないで欲しいという言葉を口にした。









「ねえ、どうして邪魔したの!?違うってどういうことっ!」


 ルヴェルチが用意した隠れ家へと戻ったカインはアベルと共に使ってる部屋に入るなり、声を荒げて顔を俯かせている弟の肩を掴んだ。揺さぶりながら、どうしてと繰り返すも、アベルはなかなか口を開こうとしない。それに痺れを切らしたカインは癇癪を起したようにアベルを突き飛ばすと、周囲の調度品にその怒りをぶつけた。棚を蹴り、飾られていた絵画を周囲に叩きつける。カインが動く度に割れる音や壊れる音がするも、それ以上に苛立ちに満ちた彼の叫びが部屋に響いた。
 アベルは耳を押えて目を閉じると、そのまま床へとしゃがみ込んだ。それに気付いたカインは手にしていた絵画をぽろりとその場に捨てると、肩で呼吸を繰り返しながらしゃがみ込んで顔を伏せているアベルの傍に膝を付いた。そして、半ば無理矢理に彼に顔を上げさせ、カインは「どうして」と呟いた。


「アベルはボクと一緒じゃないの?」
「……カイン、」
「ボクらはずっと一緒だったよね。生まれる前からずっと一緒だった。ヴィルヘルム様にも一緒に助けて頂いて、居場所を貰って……それなのに、どうしてボクの邪魔をしたの?」
「……アイリスは殺すなって言われてるでしょ、だから」
「あの女のことなんて今聞いてないよ!」


 声を荒げるカインを前にアベルは口を噤むと視線を逸らした。それがまた気に入らず、カインは苛立ちを募らせる。
 アベルがベルンシュタインに内通者として入り込んだのは一年ほど前のことだ。ルヴェルチと鴉が手を結んだことによって、誰かを内通者として潜入させることが決まった。その当時はブルーノはまだ加入してはおらず、カサンドラとアウレール、アベルとカインの四名しかいなかった。とはいっても、時折加入しては戦死する者も少なくなく、その当時、動ける人間のうち、任務遂行が可能であると判断されたのはアベルだけだった。
 本当はカインも共に行きたかったのだ。だが、いくらヴィルヘルムに頼んでもその願いが叶えられることはなかった。アベルと一年以上顔を合わさず過ごすことは初めてだったものの、彼ならば必ず帰って来ると信じていた。そして、アベルは確かに戻っては来た。怪我を負ってはいたものの、生きて戻って来たことをカインは喜んだのだ。
 だが、戻って来たアベルは変わっていた。カインだけでなくカサンドラやアウレール、ブルーノとも口を利こうとしない。一体どうしてしまったのだろうかと心配に思ってはいたものの、その理由にカインは気付いてしまった。


「おかしいよ、アベル。どうして?あんな女なんてどうだっていいじゃない」
「……」
「美術館にだっていきなり付いて来るなんて言い出すし……アベルの考えていることがボクには分からないよ」
「……いいよ、分からなくて。僕とカインは別の人間なんだから分からなくて当たり前、」
「別の人間なんかじゃないっ」


 顔を背けて口にしたアベルの言葉にカインは声を張り上げた。そんな言葉は聞きたくないとばかりに耳を押えて叫ぶ彼にアベルは眉を寄せながら顔を伏せる。


「ボクらは二人で一人なんだ。ずっと一緒だったんだ。アベルはボクで、ボクはアベルなんだよ」
「……」
「どうして違うなんて言うの、おかしいよ。この国に来てからアベルはおかしくなったんだ。おかしくなっちゃったんだ」
「……違うよ、それは」
「違わないよ!だったらどうして、……」


 殆ど泣き叫びながら言うカインは唐突に言葉を切った。そして、目を大きく見開いた顔を背けているアベルを凝視する。その視線に気付いたアベルは顔を上げると、彼の表情を見遣り、訝しむような表情を浮かべた。「どうしたの」と問い掛けるも、その声がカインには届いていない。
 カインはゆっくりとアベルに手を伸ばし、彼の右目を覆っている包帯に触れた。優しく、壊れ物を扱うようにそっと撫でながら「分かったよ、アベル」と彼は囁いた。先ほどまでとは打って変わったような様子にアベルは僅かに眉を寄せるも、今のカインはそんな彼の表情にさえ気付かない。


「……ボクとアベルは違っちゃったんだ」
「……」
「だから、同じにしなきゃいけないよね。だってボクらは双子なんだから、二人で一人なんだから」
「……カイン、何を」


 するつもりなのかと問うアベルには答えず、カインは鋭利な刃を持つナイフを取り出した。そしてそれをアベルではなく、自分自身の左目に向ける。何をするつもりなのかに気付いたアベルは「やめ、」と声を上げるも、それとも先に刃はつぷりと躊躇いなく黒曜石のような目に刺さり、黒い鳥が刻まれた頬に赤い血が流れた。
 痛みはあった。どうしようもない痛みを感じながらも、カインはそれ以上に心は満ち足りていた。同じではなかったのだから、アベルと違っていたのは当たり前だったのだと彼は気持ちを整理していた。そして、これで同じになったのだからアベルも自分と同じように考えてくれるのだという安心感に包まれ、カインは嬉しげに笑みを浮かべた。


「これで一緒だよ、アベル」
「……っ」
「アベルはボクの左目で、ボクはアベルの右目なんだ。ほらね、今度こそ二人で一人なんだ」


 血は絶えず流れている。けれど、そのようなことはカインにとってはどうだっていいことだった。顔を青くするアベルの表情にさえ気付かず、カインはすぐ目の前で固まっている弟へと手を伸ばした。その背に腕を回し、痛いぐらいに抱き締める。これ以上ないほどの充足感がカインの心を満たし、潰した左目を襲う痛みさえも心地よかった。
 だからこそ、抱き締めた腕の中でアベルが顔を歪めていることにさえ気付かず、彼の手が震え、血に塗れたナイフへと指先が伸びていたことにも彼は気付かなかった。



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