崩壊 - the fall -



「本当に平気なんだな?」
「うん、……大丈夫だよ」


 レックスに背負われたアイリスは何度も繰り返し聞かれるその問いに何度目かの大丈夫を繰り返した。心配してくれているのだちうことは分かっているのだが、だからといって本当のことを言う気にはなれなかった。腹部を毒が塗り込まれたナイフで刺されたなどと言えば、きっと心配してすぐにでもエルンストの元に突き出されてしまう。それだけは避けたかったのだ。
 結局、アベルのことは伏せておいて欲しいというアイリスの頑なな主張にレックスは折れた。彼も思うところはあるのだろう。どのような理由であれ、裏切ったとなれば極刑は免れない。ゲアハルトやエルンストなら、たとえ相手がどれほど親しい者であれ、法に則って対処するだろう。それを思うと、アベルのことを告げることは出来かねた。
 それが許されないことであるということも分かっている。それでも、あと一度でもいいから説得の機会を与えて欲しかったのだ。アベルの様子を見ていると、自分から裏切ったようには思えなかった。きっと何か事情があるはずなのだと、アイリスは唇を噛み締める。


「……レックスの方は、どうだったの?」
「オレ?ああ……走り出したお前を追いかけて路地に入ったら、いきなり上からでかい蛇が落ちて来たんだ」
「大きい蛇が?」
「そう、お前ぐらいなら一呑みしそうなぐらいのでかい灰色の蛇。お前を追いかけようにもそいつが邪魔してさ。……でも、暫くしたらアベルが来て、」


 何か声を掛けて連れて行った。
 そう言ったレックスの声音は沈んでいた。彼に何か言われたのかと問えば、アベルがアイリスに告げたように一言、「ごめん」という言葉が投げ掛けられたのだと言う。その言葉に一体どれほどのものが込められているのかは知れないものの、やはりアベルから直接話を聞かなければという思いが強くなる一方だった。


「お前の方にはアベルに似た奴ともう一人、若い男がいたんだっけ」
「うん……」
「何者なんだろうな、そいつら。帝国の奴らなんだろうけど、何でそいつらとアベルが一緒に……」
「……」


 眉を寄せて考え込んでいるであろうレックスにアイリスは何も言うことが出来なかった。アベルとよく似た顔をした少年――カインの頬に刻まれた黒い鳥の刺青のことなど、言えるはずがなかった。それはレックスが軍に入隊してまで復讐したいと思っている相手と同様のものであり、そのことを告げれば、きっと王都中を駆け巡って腕に鴉の刺青を入れた男を探し出そうとするだろう。
 そのような行動に出ると分かり切っているのに言うことなどアイリスには出来ず、口を噤むしかなかった。黙っていていいことではなく、本来ながらゲアハルトやエルンストにすぐ伝えるべきことである。それを自分の勝手で遅らせることには抵抗はあったが、辛そうに顔を逸らしたアベルのことを思い出せば、アイリスには口を噤むしか選択肢はなかった。
 程なくして抜け出して来た城門へと辿り着いた。レックスは背負っていた彼女を下ろすと、アイリスが被っているフードを目深に引っ張った。


「門番はオレが引き付けるからその間に中に入ってエルザ殿下のところに戻ればいい。……一人でアベルを探そうなんてするなよ」
「……うん、分かってる」


 頷くアイリスに対し、レックスは溜息を吐きながら「どうだかな」とぼやく。そして、彼はアイリスと目が合うように屈むと、伏せがちになっていた彼女の視線を上げるべく、頬を両手で包んでそっと上を向かせた。


「オレだってあいつが何であんなところにいたのか、危ない奴と一緒にいたのか知りたいと思ってる。連れ戻せるなら連れ戻したいよ。……でも、それなら尚更一人で行動するべきじゃない」
「……レックス」
「それでお前に万が一のことがあったら嫌なんだ。だから、せめてオレには相談してくれないか」


 真っ直ぐに向けられる赤い瞳から視線を逸らすことが出来ず、アイリスは暫しの後に小さくこくりと頷いた。レックスは約束だぞと念を押すと、彼女の頬から手を退けて城門へと向き直った。そして、閉ざされた城門のすぐ脇にある小さな通用門へと近付くと、アイリスを手招きした。
 レックスはアイリスに屈むように言うと、通用門を叩いた。中から聞こえて来た声にレックスが偽名であるロルフを名乗ると門はすぐに開いた。この警戒が必要な時期にそのような調子でいいのだろうかとアイリスは僅かに眉を寄せるも、今はすぐに門が開くことの方が有り難い。レックスはそのまま中に入り、出迎えに来た警備兵を戻しながら会話を始める。アイリスはその隙にするりと中に入り込むと、近くの植木の影に隠れた。
 そこからひょっこりと顔を覗かせると警備兵の気を引くべく、面白おかしく会話をしているらしいレックスと目が合う。けれど、その一瞬の表情は浮かべていた明るいものとは違い、心苦しげで申し訳なさそうな表情でもあった。だが、今はそれを確かめる術はなく、余裕もない。何より、一瞬のことであり、表情よりも早く行けとばかりの視線に背を押され、アイリスは頷くと植木の影に紛れて素早く近衛兵団への宿舎へと向かった。身体はどうしようもなく重たく、腹部からはずきずきとした痛みが止むことがない。しかし、だからといって休憩など入れている暇はなく、アイリスは城内に入ると重たい身体を引き摺るようにしながら駆け出した。


「ん……誰?」
「起こしてごめんなさい、ちょっと用があって来ただけですから」


 宿舎に着き、宛がわれている自室へと向かうと室内では同室の女性兵らが休息を取っているところだった。今日は夜間警備に当たってはいないらしく、誰もが布団に潜り込んでいる。そんな中、いきなり開いた部屋の扉の音で目を覚ましてしまった者がいたらしく、目を擦りながら誰何を問う声が聞こえた。アイリスは早口に謝罪の言葉を口にすると、そのまま自身のベッドへと向かい、なるべく音を立てないように気をつけながらベッドの周囲のカーテンを閉めた。
 慌ただしく白いローブを脱ぐと、腹部は赤く染まっていた。アイリスはそこで改めてナイフで刺された自身の腹部へと触れ、相変わらず青紫に変色しているそこに眉を寄せた。こうして動けているということは解毒剤は利いているということなのだろう。しかし、リュプケ砦の時とは異なり、今回は掠ったのではなく、刺されたのだ。毒抜きも満足にしないままに回復魔法で治癒した為、体内に毒が残っているのだろう。
 アイリスはベッド脇の机の引き出しから包帯を取り出し、それを手早く腹部へと巻いた。本来ならば、回復させたとしても身体を休める必要がある。しかし、自分にそのような余裕があるかと言えば、答えは否だ。ならば、せめて血が滲んでもいいようにとしっかりと包帯で止血しておくしかない。きついぐらいに包帯を巻きつけると、うっと込み上げてくるものがあったが、それに耐えてアイリスは深紅の軍服へと袖を通す。
 近衛兵団の軍服へと着替えを終えると、アイリスは髪をまとめながら慌ただしく宿舎を後にした。夜の城内はしんと静まり返り、寒々とした印象を彼女に与える。回廊には一定間隔ごとに警備兵が配置され、アイリスが通る度に敬礼する彼らに会釈しながらアイリスは何とかエルザの居室に辿り着くことが出来た。


「エルザ殿下からは仮眠と伺っています。まだお時間がありますが、よろしいのですか?」
「え?」
「殿下からは明け方までお休みになると伺っているのですが……」


 エルザの居室の前で警備に当たっていた近衛兵は姿を現したアイリスに目を瞬かせた。どうやら、いつ戻って来てもいいようにエルザが休憩扱いにしておいてくれたらしい。さすがに明け方まで仮眠、というのは長すぎはしないだろうかと内心思いながらも、アイリスは「もう大丈夫です」と答えて既に就寝しているらしいエルザの居室へと足を踏み入れた。
 居室は薄暗く、奥の寝室の扉をそっと開いて耳を澄ませば、規則正しい寝息が聞こえてくる。そのことにほっと安堵したアイリスは扉を閉めると、そのすぐ傍に椅子を持って移動してそこに腰掛けた。そして、先ほどまでの出来事を思い返しながら、エルザの気遣いに報いることが出来なかったことに視線を伏せる。
 考えなければならないことはたくさんあった。エルザをどのように守るかは勿論のことだが、アベルをどのように説得するべきなのか、そもそも彼は今何処にいるのか、一緒にいた鴉の人間とはどういう関係なのかなど、考えても答えなどすぐには出ないことばかりが山積していた。何より、アベルのことを弟と口にしたカインが鴉の人間であるということを考えると、どうしようもなく心が重たくなった。
 カインの口にしたことが事実であるとすると、彼はアベルの兄であり、帝国軍の人間である。そして、アベルが彼の弟であるのならば、彼もまたそうである、と考えることが普通だろう。しかし、それは決して認めたくはない事実であり、アベル本人の口から聞かされない限りは排除したい考えでさえある。それでも、頭のどこかで至極冷静に、極めてその可能性は高いのだということも考えてはいた。
 アイリスはそれを振り払うように頭を横に振るも、その拍子にぐらりと身体が傾いだ。咄嗟に壁に手をついて転倒は免れたものの、視界がぐるぐると周り、身体の熱がぐっと上がるようにさえ感じられた。とにかく少し何も考えずに休まなければとアイリスは椅子に座り直すと、暫しの間、瞼を閉じた。








「えっと……これを、わたしが……ですか?」


 翌朝、アイリスは朝一番に訪れたヒルデガルトの告げた言葉と彼女が持って来たものを手にきょとんとした表情で目を瞬かせていた。アイリスの手にはここ最近で見慣れたものとなっていたバイルシュミット城に仕える下女の黒いワンピースと白いエプロンがあった。


「ああ。それを着て下女に成りすまして掃除だとか何とか理由を付けて東の塔を探って来て欲しいということだ」
「……確かにこれだとまだ入れるかもしれませんが」
「塔の内部について知りたいと言っていた。あそこは設計図もシリル殿下が管理しているからな……出入りしていた大工さえ、作業場に着くまでは目隠しを付けさせられていたらしい」
「分かりました。それならわたしが入り込んできます、多分何とかなるはずですから」


 東の塔の唯一の出入り口には警備兵がいるものの、その中には恐らくはいないだろう。つまり、出入り口さえ突破してしまえば、後はそれほど難しくはないはずだ。内部がどのような造りになっているかは外側からは分からないものの、レオが閉じ込められていると思われる牢の鍵は一度目にしている。それが合いそうな厳重な鍵の部屋を見つければいいのだ。
 それに、レオの状態を知ることも出来るかもしれない。アイリスは早速着替えて用意を済ませようと意気込んだところで、「それから、今回の件には申し訳ありませんが、エルザ殿下にもご助力を願いたいのです」というヒルデガルトの言葉に目を見開いた。


「ま、待ってください。エルザ様は命を狙われたばかりで、」
「悪い、アイリス。エルンストの指示なんだ。護衛には私が就きますので、お力をお貸し頂くことは出来ませんか?」
「平気よ、私は。大丈夫だからアイリスはそんなに心配しないで頂戴」
「でも……」


 いくら平気だと言われたところで、不安が拭えるものではない。決してヒルデガルトのことを信頼していないわけではないのだ。しかし、もしものことを思うと居室にいて欲しいと思うのだ。それが顔に出ていたらしく、エルザは微苦笑を浮かべると、「貴女って本当に心配性ね」と言ってアイリスの頭を軽く撫でた。


「少し外にも出たいの。それに私だって貴女の手伝いをしたいもの」
「……エルザ様」
「それで、私は何をしたらいいの?」
「ご助力感謝いたします、殿下。それで、殿下にお願いしたいことなのですが――」


 ここまで言われてそれでも駄目だと言うことは出来ず、ヒルデガルトの説明も始まってしまった。彼女もあまり乗り気でないことは確かだったものの、エルンストに言い包められてしまったのだろう。こうなっては仕方ないとアイリスも着替えるべく、別室に移動するも、そう言えばどうしてエルンストではなくヒルデガルトが代わりに来たのだろうかと不思議に思った。
 こういったことは今までエルンストが直接言いに来ていた。何か外せない用事でもあったのだろうかと思いつつ、アイリスは手早く下女の格好へと着替えを済ませた。しかし、実のところ、エルンストと顔を合わせなくて済んだことにほっと安堵もしたのだ。腹部の傷口は朝になっても痛みを訴え、熱を持っていた。そのせいで身体が熱く、気を抜けば頭もぼんやりとしてしまいそうになるのだ。
 エルンストが見ればすぐに気付かれてしまっていたことを思うと、彼でなくヒルデガルトが来たことは有り難くもあった。そんなことを考えながら、アイリスは何とか傷に障らないように気をつけながら杖もスカートの中に仕舞い込んで着替えを終えると、話を終えたらしいエルザらの元へと戻った。


「あら、可愛い。軍服もいいけれど、こういうのもいいわね」
「あ、ありがとうございます……」
「それでは、早速行こうか。殿下もよろしくお願いします」
「ええ、任せて頂戴」


 ぐっと拳を握って意気込むエルザを前に一体何をするつもりなのだろうかとアイリスは不安になる。しかし、ここからは彼女らと別行動になる為、アイリスは先に居室を出ると東の塔へと向かって歩き出した。途中、ヒルデガルトから知らされていた掃除用具置き場からそれらしくなるように箒や雑巾、桶などを取り出してアイリスは塔へと急いだ。
 そして、東の塔へと到着したところで長い廊下の向こうにはエルザとヒルデガルトがこちらへと向かって歩いている姿が伺えた。自分が塔に侵入しやすくなるように手助けをしてくれるのだろうが、一体どのような手を使うのだろうかと不安に思いつつも、アイリスは塔の出入り口に立つ兵士に近付いた。


「あの、塔のお掃除を言い付かって参りました。中に入れて頂いてもよろしいでしょうか」
「駄目だ。この塔への立ち入りは何人たりとも許可されていない」
「でも……」
「駄目だ」
「……わたしだって言い付けで、」


 来たのだから何もせずには帰れない、と言おうとした矢先、すぐ近くから「エルザ殿下っ」と叫び声にも似たヒルデガルトの声が聞こえてきた。アイリスと警備兵がぎょっとした様子で振り向くと、そこには倒れているエルザと彼女を支えるヒルデガルトの姿があった。咄嗟に駆け出そうとするも、その瞬間にヒルデガルトと目が合い、来るなとばかりに睨まれてしまう。
 そこで漸く、これが芝居であるということにアイリスは気付いた。この芝居で出入り口を警備している兵士を呼び寄せてその隙にアイリスを中に侵入させることが目的なのだろう。その証拠に、「誰か、おい、そこの警備兵!」とヒルデガルトは半ば無理矢理にも警備兵を自身の元へと呼び付けている。
 呼ばれた警備兵はすぐに駆け出そうとするも、ちらりとアイリスを一瞥する。すぐさま彼女は「わ、わたしはお医者様を呼びに行きます!」と口にすると、警備兵は一つ頷いてヒルデガルトらの元へと急いだ。背を向ける警備兵を一瞥したアイリスは持っていた掃除道具を放り出すと、医者を呼びに行く素振りを見せた上でこっそりと東の塔への侵入を成功させた。


「階段ばっかり……」


 螺旋状の階段が続き、アイリスは半ば息を切らせながらスカートの裾を持ち上げて階段を上り続けていた。途中、いくつか部屋があったものの、そのどれもが絵画の置き場などに使われており、レオが閉じ込められている様子はなかった。ずるりと壁に凭れて息を整えながらアイリスが外の様子を小さな窓から伺うと、どうやら騒ぎが収まったところのようだった。
 塔を出るときは何と言い訳したものかと考えながら、アイリスは壁に手を付きながら階段を上り始める。普段であれば、何ともない運動量ではあるものの、今の身体の状態では辛いものでしかない。それでも足を動かし続けて塔の最上階近くまで昇ったところで、今まで見かけた扉よりもずっと大きく頑丈な扉の一部が視界に映り込んだ。それに気付いたアイリスは慌てて残りの階段を駆け上がるも、最上階に着いたところでその扉の前に佇んでいた人物を見るなり、目を見開いた。


「……シリル殿下」

 
 思わず名前を呼ぶと、彼は呆れた表情を浮かべて振り向いた。どうやらアイリスが侵入していたことには気付いていたらしい。恐らくはこの場から階段を上るところを見ていたのだろう。溜息を吐いたシリルは「下女の格好までして侵入するとは必死だな」と口にするも、帰れとは言わなかった。
 てっきりすぐに抓み出されるかと思っていたアイリスは拍子抜けしながらもシリルの近くまで歩み寄った。彼は扉へと視線を向けたまま、口を開こうとしない。いつもとは違う雰囲気のシリルに戸惑いながらもアイリスは「此処にレオがいるんですよね」と口にした。


「……」
「シリル殿下」
「……分かっているならわざわざ聞くな」
「……レオをこのような場所に移送した理由は、分かりません」


 レオがこの場所に閉じ込められているということは間違いないだろう。だが、わざわざ新しく牢を造らせてまで幽閉する理由が思いつかなかった。シリルにとって、レオは王位を争う相手であり、邪魔な存在のはずだ。だからこそ、王位継承権を剥奪しようともしている。レオを手に掛けた方が事は早く済むだろうが、それをしないのも単に印象を悪くしない為だろう。移送した理由も以前、レオを軍部に担ぎ上げられては困るからだとも聞いてはいたが、それだけの理由で牢を造らせて誰にも近寄らせないなんてことがあるのだろうか――それがアイリスには不思議でならなかった。
 もっと何か理由があるのではないかと思うも、シリルは「担ぎ上げられては困るからだ」とそれらしい理由しか口にしない。そうでない本当の理由が知りたいのだと迫るも、彼は冷やかな視線をアイリスに向け、口を開こうとしない。シリルらしからぬその冷淡な視線に息を呑むも、アイリスもここまで来て諦めるわけにはいかなかった。


「シリル殿下、……貴方は一体何を為さろうとしているのですか」
「何もしようとしていない。私は巷の噂通り、愚かな王子だからな」
「いいえ、貴方は愚かな方ではありません。愚かな振りをしているだけでしょう?」


 愚かな振りをしてのらりくらりと物事をかわしているだけであるとアイリスは思っていた。何かしらの目的があり、その為に動いているということも何となく分かってはいた。自分に託した手紙だってその一端なのだろうとも思っている。しかし、それを問おうにもシリルに取り合う気はならいしい。


「貴様には関係のないことだ。もう帰れ」
「……わたしは、貴方のすることが理解できません。だから、」
「私は貴様に理解してもらおうなどと思っていない。理解も同情も何もかも不要だ」


 たったその一言で切り捨てられ、アイリスは唇を噛み締めた。何かをしようとしていることは確かであり、手紙を託されている以上、僅かだろうがそれに関わっているかもしれないのだ。だからこそ、それを聞くことが出来れば、何か出来るかもしれないとも思ったのだ。
 アイリスには彼が孤独に見えてならなかった。レオがそうであったように、シリルもこの城で一人きりだったのではないかと、そう思ったのだ。確かにレオよりも恵まれた環境にいたかもしれない。けれど、恵まれた環境にいることが必ずしも幸福に繋がるというわけではない。だからこそ、何か自分に出来ることがあればと思ったのだ。
 だが、それを尋ねようにも言葉を遮られた上に切り捨てられてしまった。手助けなど不要だと暗に言うように、シリルはアイリスが手を差し伸ばすことさえ拒絶した。目の前に見えない線が引かれたようにさえ思え、これ以上は何も言うことが出来なかった。シリルはこれ以上は話すことはないとばかりにアイリスの脇を通り抜けると足早に階段を下り始めた。
 彼の階段を下りていく音が聞こえなくなった頃、漸くアイリスは厳重な扉の前に立つことが出来た。顔を俯けたまま、掛ける言葉も見つからなかった。触れた扉は分厚く、声が届くかどうかも知れない。それでも、アイリスは努めて顔を上げると、「レオ」と扉越しに彼の名前を呼んだ。


「やっと此処まで来れたの。……二日後、シリル殿下は御即位するけど、それが終わればレオを出してくれるって言ってたよ」


 聞こえているかは分からない。それでも扉の向こうでレオが聞いていると思って語りかけるのは、そうでもしなければ立っていられなかったからかもしれない。アイリスは扉に手を付きながら、込み上げて来る悪寒や吐き気に耐えていた。発熱しているのか、頭は先ほど以上にぐらついている。
 けれど、今はそれ以上に、突き放されたことの方が辛かった。出会い方は最悪であり、出来れば近付きたくはないと思っていた。それでも顔を合わす度に印象は変わり、キルスティに痛めつけられた時には回復魔法士を手配してくれた。ルヴェルチと地下牢で遭遇した時には助けてもくれたのだ。だから、今度は自分が力になりたいと思った。
 ただ、それだけだったのだ。けれど、理解も同情も何もかも不要だとシリルは言った。手を伸ばさせてもくれなかったのだ。彼がしてくれたことの分だけ、自分は何も返せていないように思えてならなかった。何より、たった一人で歩き去ったその背が、時折レオが見せていた寂しげな後ろ姿と重なるのだ。
 アイリスは何も出来ない、何も返せていないことに唇を噛み締める。自分がしていることは全て空回りになっているのではないかと思えてならないのだ。答えの出ない問いは苦しく辛く、重く圧し掛かって来る。それでも、顔を下に向けるわけにも立ち止まるわけにもいかなかった。レオやゲアハルトに前を向けと言ったのは他ならぬ自分自身なのだ。アイリスは扉の向こうに声を掛ける。必ず外に出ることが出来るから、その時まで待っていて欲しい、と。今はそれしか言えない。だからこそ、彼女は精一杯、明るい声音で告げた。浮かべた表情は今にも泣き出してしまいそうに歪めながら。



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