崩壊 - the fall -



「俺も偉そうなこと言えた義理じゃないけど、報告義務違反だよ、それ」


 あの子だって分かってるんだよね、と溜息混じりにエルンストは口にした。
 王立美術館近くの路地裏での一件から一夜明け、レックスは警備担当の合間を縫ってエルンストの元を訪れていた。アイリスには他言しないようにと口止めされてはいたものの、やはり報告せずにいるわけにはいかないと思ったのだ。
 昨夜、何があったのかを聞いたエルンストは溜息を吐きながら額に手を遣った。彼自身が口にしたように、軍法などエルンストにはあってないようなものではある。だからこそ、偉そうなことを言えた義理はないのだが、今回ばかりはそうも言ってはいられない。よりによってどうしてこんな大切なことを報告しなかったのかとアイリスに対して苛立ちを募らせずにはいられないほどだった。


「……アイリスは、ただアベルのことを説得したくて、」
「そうだろうね。それは分かるよ、気持ちもね。……でも、説得したいって思ってる時点で、もうアベルが裏切ってるっていうことは理解はしてるんだよね」
「……それは……」
「だったら尚更、報告するべきだった。こっちの機密が漏れてる可能性は高いし、早急に手を打たなきゃこっちがやられる」


 報告一つ遅れただけでやられるぐらいには、こっちは余裕なんてないんだから。
 エルンストは淡々とした口ぶりで呟いた。実際、ベルンシュタインに余裕はない。人員不足は普段と変わらないものの、それをゲアハルトの作戦立案と指揮、そして、国王であるホラーツ自身が騎士団を率いて前線に出ることによって士気は十分過ぎるほどに上がり、それがあったからこそベルンシュタインを上回る帝国軍の兵力とも渡り合えて来たのだ。
 しかし、ホラーツは崩御し、ゲアハルトもヒッツェルブルグ帝国第一皇子という身分を暴かれた上に司令官を解任された。その↑、ルヴェルチによって指揮系統は乱されてしまった。指揮系統に関してはだんだんと落ち着いては来ているものの、ホラーツを失ったこととゲアハルトの身元が暴かれたことは痛手であり、今、帝国軍が攻め込んで来たならば一溜まりもないという現状だった。
 そのことを知っているからこそ、レックスは報告に来たのだろう。顔を伏せている彼を一瞥し、エルンストは視線を逸らした。内密に事を済ませたいというアイリスの気持ちが分からないわけではないのだ。それはレックスも同じだろう。だが、だからこそ、ちゃんと話して欲しかったとも思うのだ。


「それで、アベルだけが現れたの?」
「いえ、詳しいことはオレにも……。アイリスが人影を追いかけて路地裏に飛び込んだ後、すぐにオレも続いたんですけど蛇が……」
「蛇?」


 予想していなかった単語にエルンストは目を瞬かせる。遭遇したというレックスはその時に見たものを身振り手振りを交えながら口にした。
 アイリスを追い掛けて路地裏に入るも、彼女に追い付く前に頭上から巨大な蛇が落下してきたのだという。灰色の巨大な蛇は赤い舌をちろちろと出しながら、まるで通さないと言わんばかりに路地一杯にその長く太い胴体を広げていた。斬り伏せようにも、大きく口を開いて飛びかかり、締め殺そうとも噛み殺そうともして来た為、レックスも応戦で手一杯だったのだ。そんな攻防が続く最中、不意にアベルが姿を見せたのだとレックスはその時のことを思い出すように僅かに眉を寄せながら口にした。


「蛇はアベルが声を掛けるとすぐに大人しくなって、そのまま影に溶けて消えたというか……魔法みたいに」
「魔法みたいに……その蛇ってさ、人を丸呑みしそうなぐらい大きかった?」
「あ、はい。とにかくでかくてオレも喰われるんじゃないかって冷や汗出ましたよ」


 その時のことを思い出したのか、レックスの顔は青ざめていた。しかし、それを気に留めることもなくエルンストは机の頬杖をついて沈思する。思い出すのは、リュプケ砦で見たアトロの部屋の近くでまるで喰い荒されたかのような帝国兵の遺体だ。回収した遺体を組み合わせても落ちていた剣の数と合わない遺体、そして、無残にも引き千切られたかのような傷口。そして何より、リュプケ砦の作戦にはアベルも参加していた。
 魔法のように消えたというその蛇は恐らくは禁忌とされている召喚魔法によって呼び出されたモノであることは間違いない。リュプケ砦での一件にもアベルが関与していた可能性も浮上し、見る見るうちにエルンストの表情は険しいものに変わった。
 召喚魔法は禁忌とされているだけあって簡単に身に付けられるものではなく、その方法も秘されている。そんなものに何の後ろ盾もなしにアベルが関与したとは考え難く、そうなると自然と可能性は絞られて来る。――アベルは鴉に属しているのではないか、と。しかし、鴉ならばその身体の何処かにそれを示す黒い鳥の刺青が刻みつけられているはずだ。だが、エルンストが知る限り、健康診断でも特にそういった形跡が見受けられたことはなかった。鴉に所属していないのか、それとも刺青を入れていないだけなのか――その答えは分からぬままだが、アベルが鴉と関与している可能性は極めて高いとエルンストは考えていた。


「それで、その場には他に誰かいたの?」
「アイリスが言おうとしないのでオレも詳しいことは……ただ、彼女は負傷していたので、アベル以外にも何者かがいた可能性は高いかと」
「負傷?大丈夫なの?アイリスちゃん」
「既に回復させたから平気だと言ってました」
「……それならいいけど……とにかく、これ以上のことはアイリスちゃんから直接聞くしかないか」


 何やってんだか、とエルンストは溜息を吐く。彼女がちゃんと報告してくれていたのなら、もっと迅速に動けるのにと珍しく苛立ちを露にする彼にレックスはすみませんと頭を下げた。アイリスに報告するべきだと言い切れなかったことを悔いているのだろう。それに対してエルンストは「いいよ、もう済んだことだから。でも二度目はないから」と釘を刺す。
 尤も、二度目があるかどうかも分からない状態だけど――内心そう呟きながら、エルンストは改めて溜息を吐く。「鴉も大人しくしててくれたらいいのに」と思わず呟くと、レックスは僅かに首を傾げてエルンストの口から出たその単語を反芻した。


「聞いてない?アイリスちゃんから」
「ええ、特には……」
「何だって言わないのかな、あの子は。……鴉っていうのは、帝国軍の特殊部隊のこと。そいつが今、ルヴェルチと手を組んで裏で暗躍してる。そいつらに共通してるのは黒い鳥の刺青、身体のどこかに刻んであるそれがそいつらの目印ってわけ」


 見えるところにあるかは人それぞれだけど、と口にしたところでエルンストは目を見開いているレックスの様子に気付いた。大きく目を見開き、赤い瞳は微かに揺れていた。愕然としているその表情に一体どうしたのかとエルンストは腰を上げるも、レックスはすぐにぐっと唇を噛み締めて柳眉を寄せると、「そいつらは、今ブリューゲルに入り込んでいるんですか?」と押し殺したような声音で口にした。
 いつになく切羽詰まったようなレックスの様子を訝しみながらも、「恐らくはね」とエルンストが答えると、レックスは拳を握り締めた。そして、エルンストに対して一礼すると、すぐに医務室を出ようとする。一体急にどうしたのかとエルンストは彼を呼び止めるも、「何でもありません」とレックスは一言そう答えると足早に医務室を後にした。


「……いきなりどうしたんだよ、あいつ」


 まるで人が変わったような態度にエルンストは首を傾げながらも溜息を吐く。そして、ちらりと視線をバイルシュミット城の方角へと向けた。予定通りであれば、今頃あの城の中にいるはずだった。しかし、レックスが急に訪れて話したいことがあると言ったため、その役割を丁度宿舎を訪れていたヒルデガルトに半ば押し付ける形になってしまったのだ。
 あちらは上手くやっているだろうかと思いつつ、エルンストは先ほどレックスから聞いた話を改めて自身の中で整理する。しかし、自分一人の判断ではどうすることも出来ず、やはりまずはアイリスからも話を聞いた上で改めて整理する必要があると判断した。いつ頃、問い質してやろうかと考えつつも恐らくは落ち込んでいるであろう彼女のことを思うと、胸が痛んだ気がした。







 東の塔から出たアイリスはその足でエルザの居室に戻った。塔の出入り口には先ほどの門番がいたものの、鋭い視線を向けられはしたが、咎められることもなくその場を離れることが出来た。シリルが言い添えておいてくれたのだろうが、アイリスにとってはそれが意外でならなかった。
 自分は彼を怒らせたはずだ。理解も同情も必要ないと突き放されたはずだ。それにも関わらず、気遣いや優しさに似た何かを向けられる。それに困惑しながらも、アイリスはエルザの居室で待ち構えていたヒルデガルトに東の塔の内部がどのような構造であるかを告げた。


「螺旋状の階段が続いていて、所々いくつかの部屋に繋がっていました。最上階以外はシリル殿下の物置だとか私室のようです」
「つまり、最上階にレオを幽閉している部屋があった、ということか。レオとは話せたのか?」
「いえ……」


 手早く深紅の軍服に着替えたアイリスは視線を伏せながら口にした。そんな彼女の表情を見たヒルデガルトは「大丈夫だ、あいつは元気にやってるよ」とアイリスの肩を叩いて励ます。彼女が落ち込んでいる理由をレオと話すことが出来なかったからと思ったらしい。
 勿論、それもある。だが、それだけでなく、シリルとのこともアイリスが落ち込んでいる理由の一つだった。あそこまではっきりと拒絶されたとなると、やはり堪えるものがあるのだ。


「そう言えば、シリル殿下が塔から出た時は焦ったよ。中で遭遇しなかったのか?」
「丁度物置に使われてるお部屋の中にいたので何とかやり過ごせました。ちょっとびっくりしましたけど」


 思わず、嘘を吐いてしまった。こんな嘘を吐いたところで何かが変わるわけではないのに、気付けば嘘を口にしていた。それもただ、何があったのかを聞かれたくないが為だ。微苦笑を浮かべながら言うと、ヒルデガルトはそれを信じたようで「運がよかったな」と苦笑を浮かべた。
 素直に信じてくれたヒルデガルトに対しての後ろめたさは感じるも、だからと言って何があったのかを話す気にはやはりなれなかった。しかし、何か思うところがあるのか、何とも言えない表情を浮かべているエルザの視線を感じたアイリスは居心地の悪さを感じた。


「それでは私も戻るよ」


 そう言って立ち上がったヒルデガルトを見送ると、アイリスも「わたしも一度ゲアハルト司令官のところに行って来ます」と口にする。いい加減、そろそろ一度様子を見に行かなければと思っていたのだ。だが、まるでそれは逃げているようだとも思った。エルザの視線から逃げてる為の理由にしているようだ、と。
 

「待って、アイリス」
「……はい」
「貴女、……シリルに会ったんでしょう?」
「……」


 やはり、エルザには気付かれていたらしい。口を閉ざしたままのアイリスにエルザは「貴女とシリルの顔を見ればそれぐらい分かるわ」と口にした。何も答えられないアイリスは顔を伏せ、申し訳御座いませんと謝罪の言葉を口にした。けれど、エルザは首を横に振り、「無理矢理聞き出したいわけではないの」と言いつつ、アイリスに座るように促した。
 言われるがままに椅子に座り直すと、目の前に紅茶のカップが置かれた。エルザに淹れさせてしまったことに慌てるも、彼女は何てことはないのだと微笑むと自身のカップに口を付けた。アイリスは目の前に置かれた飴色のそれに視線を落とすと、おずおずと手を伸ばす。


「あの子はね、不器用な子なの。特に人との接し方がね」
「……シリル殿下のことでしょうか」
「ええ。でもね、本当は優しい子なのよ。貴女にしたことを考えると、想像出来ないかもしれないけれど」
「……」
「シリルに酷いことを言われたのかもしれないけれど、誤解しないであげて欲しいの。きっと本心ではないから」


 ちょっと天邪鬼なところがあるのよ、とエルザは困ったように笑った。彼女の言葉にアイリスは小さく頷きながら、理解も同情も何も要らないと口にしたシリルのことを思い出す。彼のとても冷やかな目をしていた。けれど、本当にそれだけだったのだろうかとも、今更ながらに思う。その目の奥に何か、もっと別の感情があったのではないか、と。
 今となっては確かめる術はなく、彼の言葉の真意も定かではない。だが、エルザの言うように、シリルの言葉が彼の本意とするものではないのだとしたら、彼が本当に思っていることは何なのかが気になった。


「……エルザ様、シリル殿下はレオのことをどう思われているのでしょうか」
「私にもあの子の考えてること全てが分かるわけではないけれど、……大事に思っているように、私は思うわ」
「大事に……ですか?」
「ええ。最初は地下牢に入れて、勝手に移送して、王位継承権の剥奪までして何事かとも思ったけれど……多分、きっと……レオのことを守りたいだけなのよ」


 思いもしない言葉にアイリスは目を瞠った。シリルの口から出る言葉も、彼の行動も、全てレオを傷つけることでしかないように思えてならないのだ。どうしてそれがレオを守りたいが故に行動に見えるのかが分からず、アイリスは困惑した表情を浮かべた。


「不器用なのよ、シリルは。あのまま野放しにしていたら、レオは間違いなく担ぎ上げられていたわ。シリルは性格がああだから、その、何と言うか……厄介者扱いされているから。だから、御しやすいレオを立てて王位を争うことになっていたと思うの」
「……そうなると、国が割れますよね」
「そうね。でもね、本当はそれ以上に政治の駒になんてしたくはなかったのよ」


 レオの母親であるアウレリアが死んだ後、レオは城を離れた。その後は母方の実家に身を寄せ、下町で身分を隠して生きて来たのだという。時折、ホラーツが城に呼び出してはいたが、殆ど関わりはなくなっていたのだとエルザは話してくれた。
 そんな城から離れ、政からも遠ざかっていたレオがいきなり渦中に放り込まれれば、どのようなことになるかは分からない。レオの性格を考えれば、それは一入だった。しかし、だからといってシリルがレオに対して行った仕打ちはあんまりに思えた。もっと穏便に事を済ます方法だってあったはずなのだ。それを主張すると、エルザは苦笑を浮かべながら首を横に振った。


「それは無理よ」
「どうしてですか?」
「だって、シリルもレオも意地っ張りだもの。それにね、レオは少し……いいえ、とても卑屈なところがあるから」
「……」
「それもお母様の所為ね。幼いレオにあれやこれやと酷いことばかり言って、ずっと傷つけていたんだから。それを知ってるのに、私もシリルも止められなかった」


 弟なのに、守ってあげられなかったのよ。
 そう言ってエルザは顔を歪めた。彼女もまた、ずっとレオのことを気に掛けていたのだろう。シリルも目の前のエルザのように、顔を歪めていたのだろうか――アイリスが視線を伏せながら考えていると、「私もシリルも貴女みたいに身体を張ってレオのことを守っていたなら、少しは違っていたのかもしれないのにね」とエルザはぽつりと呟いた。


「貴女のそういうところを見ていると、アウレリア様を思い出すわ」
「……レオのお母さん、でしたよね」
「ええ。私とシリルも優しくして頂いたわ。優しくて聡明な女性、……でも、レオはきっとお父様に似たのね。向こう見ずなところなんてそっくり」


 アウレリアの下で、短い期間ではあったものの、よく三人で遊んだのだとエルザは懐かしげに目を細めて口にした。シリルの居室で見た三人の幼い頃の肖像画も恐らくはその時期に描かれたものなのだろう。彼は、自分だけが父親に似ていない、自分こそが妾腹の子のようだろうと言ってはいたものの、シリルはそのような目であの絵画を見てはいなかったのではないかと今更ながらにアイリスは気付いた。
 短い期間であっても姉弟として過ごした幼い頃のことを思い出していたのではないか、レオのことを弟として見ていたのではないか、と。レオを幽閉したことも、そうすることでしか、彼を守る術を持てなかったからではないのかとアイリスは唇を噛んだ。
 理解出来ないなんてことはなかった。理解しようとしていなかったのは、他ならぬ自分自身だった。


「アイリス?」
「……シリル殿下に酷いことを言われたわけではありませんでした」
「……」
「酷いことを言ったのは、わたしでした。わたしが、殿下に酷いことを言わせてしまいました」


 顔を伏せたアイリスはじわりと目の端に涙を浮かばせた。今更ながらに、申し訳なさでいっぱいになった。何も知ろうとしていなかったのに、理解しようとさえしていなかったのに、理解出来ないなどと口にしてしまった。あまりにも思慮に欠けた言葉であり、それはきっと、彼を傷つけてしまった。
 唇を噛み締める彼女の傍に回ったエルザは困ったように笑いながら「大丈夫よ。あの子ももう子どもじゃないんだから明日にはいつも通りよ」と顔を伏せているアイリスの頭を撫でた。本当にそうだろうかと不安に思っていると、エルザは彼女の目元を拭いながら明るい笑みを浮かべる。


「姉の私が言ってるんだから大丈夫よ」


 それでもまだ何かあるなら私が言ってあげるから、とエルザはアイリスを励ます。大丈夫、とそう口にしてくれるエルザにアイリスがこくりと頷くと、「落ち着くから飲むといいわ。ゲアハルトのところに行くのはその後ね」と言われ、カップを持たされる。じんわりと掌を温めるその温度が心地よかった。
 このまま行けば、ゲアハルトに心配を掛けることは確かな為、アイリスは言われた通りに紅茶に口を付けた。その直後、何の前触れもなくエルザの手がアイリスの額に触れた。すると、途端に「熱があるわ。大丈夫なの?」と彼女は心配げな顔をする。身体の気だるさは相変わらずであり、それにも慣れて来ていた為、意識してはいなかった。だが、指摘されるとやはり腹部の痛みが気になり始める。しかし、アイリスは「東の塔の階段を下りて来るのに疲れたんですよ。それに今もちょっと泣いちゃったから」とそれらしい言い訳を口にする。
 今度ばかりはエルザにも嘘は通じたらしく、「熱いものも飲んでるものね。顔が赤かったからつい心配になったのよ」と眉を下げて笑う。心配してくれている彼女に対して嘘を吐くことは後ろめたさを感じずにはいられなかったものの、今此処で休養を命じられるわけにはいかないのだ。努めて平気だとアイリスは笑みを浮かべて見せると、紅茶に口を付けるも味はよく分からなかった。



20130513

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