崩壊 - the fall -



「だから、今日はもう寝てなさいって言ってるでしょう!」
「ですから、そういうわけにはいかないと先ほどから……」


 レックスを見つけ、城に戻ったアイリスはその後、宿舎に戻ることなくエルザの居室へと向かった。そして、時折仮眠を取りながら護衛に就いたのだ。いつもとは違って時折身体を休めていたこともあり、少しは回復しているだろうとばかり思っていたのだが、結局のところ、そのようなことはなく、起床したエルザとの押し問答が始まったのだ。
 アイリスの顔色は決していいものではなく、この数日、まともに休んでいないということもあって目の下には隈が出来ていた。その上、今は体調不良と解毒し切れていない毒の所為で熱に浮かされてさえいる。誰が見ても身体を休めなければならないことは確かだと言うのに、アイリスはシリルの元へと行くと言い張っているのだ。


「駄目よ!」
「でも、急がなきゃいけないんです」


 兎に角急いでシリルの元に行き、ゲアハルトの助命を嘆願しなければならないのだ。気遣ってくれるエルザの気持ちを嬉しく思ってはいるのだが、今は彼女と押し問答を繰り広げている余裕はアイリスにはなかった。どうにかしてシリルの元に行かなければと視線をこの居室唯一の出入り口である扉へと向けるも、目の前にはエルザが立ちはだかっている。
 彼女を避けようにも、いつもと同じ程度に身体が動かせるというわけではない。下手に動けば、それこそエルザに捕まってしまうだろう。それを考えると、何かで彼女の気を引くしかないのだが、周囲を見渡しても丁度いいものは何もない。


「……戻って来たらちゃんと休みますから」
「貴女の“ちゃんと休む”は当てに出来ないの!」
「う……」


 それが今までの積み重ねの妥当な評価であるということはアイリス自身、重々承知していた。しかし、だからといってエルザに事情を打ち明けることは出来かねた。もし、打ち明けたとすれば、彼女は間違いなくシリルやルヴェルチをこの場に呼び出して問い質すだろう。それは、ルヴェルチや彼の後ろにいる鴉の人間を刺激することにしか成り得ない。
 アイリスは唇を噛み締め、何とか言い繕おうと顔を上げると、エルザが酷く心配げな顔をしていることに気付いた。こんなにも心を砕いてくれているのだということを思うと、やはり申し訳なさを感じずにはいられない。エルザは「何か事情があることは分かってるわ。でもね、無理をして貴女に何かあるのは嫌なのよ」と口にする。


「シリルに用があるのなら、私が此処にあの子を呼ぶわ。だから、」


 口にするだろうと予想していた言葉が、やはりエルザの口から出た。しかし、それを遮るように居室の扉がノックされる。アイリスは丁度いいとばかりに慌てて誰何の声を張り上げると、扉の向こうからは顔馴染みとなったエルザに仕えている文官の男の声がした。恐らくは明日に迫ったシリルの即位式の打ち合わせの為だろう。
 アイリスは半ば無理矢理に出鼻を挫かれる形となったエルザの脇をすり抜けると扉へと駆け寄った。そして、扉を開けて文官を室内へと招き入れると、それと入れ替わるようにアイリスは居室の外へ出た。途端にエルザの呼び止める声が聞こえるも、この機会を逃すわけにはいかなかった。戻って来たら必ず休むという旨を言い残すと、アイリスは転びそうになりながらシリルの居室へと急いだ。


「あの、シリル殿下に、お目通りを……」


 普段ならば何ということのない距離も体調を崩しているとそういうわけにはいかず、倍以上の時間が掛かってしまった。それでも何とかシリルの居室近くまで辿り着くことは出来たものの、即位を明日に控えている為か居室の周辺は準備で慌ただしい様子だった。そんな中、何とかアイリスは傍を通り掛かった文官に声を掛けるも、「殿下がご準備でお忙しくされています」と取りつく島もない様子だった。
 しかし、だからといってここで諦めるわけにはいかない。忙しいことなど承知の上で来ているのだ。アイリスは歩き回っている文官らの間を縫ってシリルの居室へと向かう。目的の部屋の前には屈強の近衛兵が二人警備に就いていたものの、彼女は気に留めることなく握った拳で居室の扉を叩いた。


「シリル殿下、近衛兵団のアイリス・ブロムベルグです!至急お話したいことがあります。どうか、」
「おい、やめろ!御即位前で殿下はお忙しくされているんだ!」
「放してください。殿下、お目通りを!どうしても今、お話したいことがあるんです!」


 何をし始めるのかと慌てた近衛兵らに腕を掴まれるも、アイリスはそれを振り払って扉を叩く。しかし、さすがの彼女も男二人がかりで腕を掴まれれば、振り解くことも出来ない。周囲の文官らも一体何事かと顔を見合わせ、何の約束もなしに突然話があるというアイリスを訝しむような顔で見ていた。
 騒ぎが大きくなればキルスティが来てしまうかもしれない。そうなれば、どのような目に遭わされるか分かったものではなかったが、かといってこのまま大人しく引き下がるわけにはいかなかった。アイリスは懸命に身を捩りながら「とても、大切なことなんですっ」と声を張り上げる。
 自分が今此処でシリルに会うことが出来るかどうかによってゲアハルトの辿る未来が変わるかもしれないのだ。否、何としてもシリルと会って最悪の未来を避けなければならない。その一心でアイリスは「シリル殿下っ」と扉に向かって叫んだ。その矢先、今まで開く気配のなかったそれが勢いよく開け放たれた。その勢いに扉近くにいたアイリスらは揃って尻餅をついてしまう。扉から姿を現したシリルはそんな彼女らを見遣り、酷く呆れた顔をしていた。


「いきなり何だ、騒々しい」
「も、申し訳御座いません、シリル殿下。この者がいきなり騒ぎ始め、」
「シリル殿下っ!どうしても、どうしてもお話したいことがあるのです!お時間がないことは重々承知しています、ですが、どうかっ」
「おい、黙れ!」


 その場で深く頭を下げながら懇願するアイリスの声を兵士らが遮る。そして、彼らは頭を下げ続けるアイリスを連れて下がろうとするも、彼女は頑としてその場を動こうとはしなかった。腕を掴まれて半ば無理矢理に立ち上がらせられそうになると、不意に「止めてやれ」と呆れの混じった声が聞こえて来た。
 頑なに頭を下げ続けていたアイリスはその声に釣られるようにして顔を上げると、どこか困惑した表情をシリルは浮かべていた。しかし、と言葉を濁す兵士らに視線を向けると、彼は「何か大切な話があるのだろう。放してやれ」とアイリスの腕を掴んでいる兵士らに命じる。
 兵士らは顔を見合わせると、渋々といった様子でアイリスの腕を放した。そのまま再び床に座り込むと、目の前には傷一つない形の整った手が差し出された。見上げると、シリルが相変わらずどこか困った表情を浮かべたまま、物言いたげにしていた。


「ほら、いい加減、立て。それから頭をそう簡単に下げるな、女に頭を下げられるのは苦手だ」
「……申し訳御座いません、殿下」


 差し出された手を無碍には出来ず、アイリスは恐縮しながらもシリルの手を取った。その手はレックスらとは違い、硬くない、柔らかな手だった。それでも容易く彼女を引っ張り立たせると、居室に入るようにと促す。そして、「各自、仕事に戻れ。ただし、部屋には誰も近付けるな」と短く命じると、扉を閉めた。
 シリルは立ちすくむアイリスの脇を通り抜けると、執務机ではなくソファへと腰掛けた。とにかく話をしなければとソファへと近付くと、「座れ」と彼は自身の向かい側を指し示す。それはさすがに、と首を横に振るもシリルは柳眉を寄せて「そんな顔色の奴に立たせていられるか、座れ」と先ほど以上に強い口調で言われてしまう。
 アイリスは居心地の悪さを感じながらもシリルの向かい側に腰掛け、努めて背筋を伸ばすとそのまま頭を下げた。途端に「先ほど、私が言ったことを忘れたのか?」と呆れた声が聞こえるも、彼女は頭を下げたまま、口を開いた。


「ゲアハルト司令官をお助け下さい、シリル殿下」
「助ける?どういうことだ」
「先日、殿下が御即位されたらゲアハルト司令官を斬首刑に処すと伺いました。司令官は確かに帝国の第一皇子ではありましたが、今までこの国に誠心誠意仕えてきました。その点を鑑みて頂き、」
「ちょっと待て。ゲアハルトを斬首刑など、誰から聞いた話だ」


 早口に半ば捲し立てるように言うアイリスを遮り、シリルは意味が分からないとばかりに顔を顰めている。その様子に彼女は眉を寄せるも、それが知らぬ振りではないということは彼の顔を見れば明らかだった。一体どういうことなのだろうかと考えつつ、「ゲアハルト司令官から伺ったお話です。司令官はルヴェルチ卿から直接告げられたと……」と答える。
 すると、シリルは口元に手を遣り、考え込み始める。その様子にアイリスはどうすればいいのかと眉を下げながらもルヴェルチには直接話を聞いてはいないのだということを言い添えると、止めておけとばかりにシリルは手を振った。


「凡そのことは分かった。あの男が勝手に動いているのだろう。あいつに直接問い質す様なことはするな、私が話を付ける」
「……では、司令官の斬首刑はどうなるのですか」
「どうなるもこうなるもない。そもそも高官の処刑には私のサインが必要だ。いくら代理執政官と言えどもそこまでの権限はない」
「それじゃあ、」
「私が即位したからといってゲアハルトが斬首刑になることはない。安心しろ」


 呆れ混じりの笑みを浮かべるシリルを前にアイリスは心底からほっとした。全てシリルも承諾の上でルヴェルチが動いているとばかり思っていたのだ。しかし、実際にはそうではなかったのだから事態はそれほどややこしいものではなく、彼女は安堵感からぐったりとソファに背を預けた。
 しかし、慌てて身体を起こし、騒がせてしまったことに対して頭を下げた。それでも、こうして事実がはっきりとしたことを思えば、多少無理をしてでも動いた甲斐があったとも思う。早くこのことをゲアハルトとエルンストに伝えなければと、「それでは、わたしはこれで失礼致します」とソファから立ち上がる。


「茶でも飲んで行け」
「いえ、すぐにこのことをお伝えしたいので。殿下も明日の御即位のご準備でお忙しいでしょうから」


 お茶はまた別の機会に、とアイリスは扉の前で改めて一礼すると、すぐに扉を開けて居室を辞去した。この場所に来るまでは気分も重く、身体も辛かったものの、今は全快というわけではないものの身体の重さは少なくとも気にはならなかった。やはり、気の持ちようが大事なのだと改めて実感しつつ、アイリスは足早にゲアハルトが未だ幽閉されている北の地下牢へと急いだ。









 アイリスが去った後、シリルはすぐに明日の準備で慌ただしく動いている文官の一人を呼び付けた。そして、「今すぐルヴェルチを連れて来い」と有無を言わさぬ口調で詰め寄ったのだ。いつもの彼らしくもない凄味を見せつけられたからか、文官は転びそうになりながらも居室を出ると、シリルが思っていたよりもずっと早く、ルヴェルチを彼の居室まで連れて来た。
 そこまで脅したつもりはなかったのだが、そう取られてしまったのなら後で一言添えておくべきだろうかなどと考え、ふとそれに気付いたシリルは自分らしくないと微かに自嘲した。どうしてそのように考えるようになったのだろうかと考えていると脳裏にはくるくると表情を変えるアイリスの顔が浮かんだ。今まで自分が接して来た誰とも異なる彼女に影響を受けたのだろうかとも思うも、それを考える間もなく、「丁度私も殿下にお話したいことがありまして、お伺いしようと思っていたところで御座いました」とルヴェルチが口を開いた。


「私に話したいこと、か。今日はそういう者が多いな。……それで、話というのは何だ?」
「はい、殿下。明日の御即位の後、やはり殿下にはこの国を統べる王としての威厳を民衆に知らしめる必要が御座います。その為に私も色々と考えたのですが……裏切り者であるゲアハルトを王として処罰するというのはいかがでしょうか」


 何食わぬ顔でルヴェルチはそれを口にした。話したいことがあったと口にした時点で、恐らくはこのことだろうという予測はしていたシリルは表情を変えることなく、「なるほど」と呟いた。それをどう受け取ったのか、ルヴェルチはいかにこの案が素晴らしいものであるかを語り始める。
 ゲアハルトを、帝国の第一皇子をシリルの命令で亡き者にすることで国に勢いがつく、シリルの威厳を知らしめることが出来る、未だゲアハルトを信望している者たちの目を醒ますことが出来る、などと次から次へとルヴェルチは口にする。しかし、そのどれもがシリルにとってはどうでもいいことであり、呆れて物も言えないものだった。


「話はそれだけか?」
「い、いえ、殿下、」


 頃合いを見て口を挟めば、まだ御座います、とルヴェルチは慌てて口を開く。どうやら、シリルが求める利点が足りていないとでも思ったのだろう。そのためか、また話し始めようとする彼に対してシリルはうんざりとした顔で「黙れ」と一言口にした。


「ゲアハルトを処罰したところで示せる威厳ならば私には必要ない。寧ろ、この二年、司令官としてベルンシュタインを守り続けた男を何の躊躇いもなく処罰したのであれば、それこそ私の名に傷がつく」
「し、しかし、殿下……それでは示しが……」
「誰に対しての示しだ。人を殺さねば付けられない示しならば必要ない。……父上もきっと同じことを仰るだろう」
「……っ」


 ルヴェルチは唇を噛み締め、言葉を探すように視線を彷徨わせる。自身の話にシリルが乗るとばかり考えていたのだろう。それが伝わってくる雰囲気にシリルは気分を害したように顔を顰めた。
 彼は地位も名声にも興味はない。民衆からどう思われようともその名に傷が付こうとも構わない。しかし、だからといって誰かを容易く切り捨てられるほど非情でもなければ、誰かを傷つけて平気でいられるほど冷たい人間でもない。とは言っても、それを表に出さないからこそ、様々なことを言われているのだということも彼は知っていた。知っていて直さないのだから、そう思われても仕方ないとも思っていた。
 シリルにとって、大切なものは限られている。それさえ守ることが出来れば、後はどうなったっていいとさえ思っているのだ。それでも多少なりとも王族としての責任を果たさなければという気持ちはある。元々は持ち合わせていなかった考えではあるものの、ここ最近、そういったことも考えるようになっていた。だからこそ、今になってルヴェルチと組んだキルスティの行為が酷く、愚かしく思えてならなかった。


「……ルヴェルチ」
「……何でしょう、殿下」
「貴様、ゲアハルトに勝手に斬首刑が決まったなどと吹聴したらしいな」
「……それは……」
「誰がそのようなことを命じた、誰が許可した」
「……殿下の御為を考え、私が勝手に、」


 その言葉にシリルは酷く吐き気を覚えた。シリルの為だと言いながら、ルヴェルチのしている行動は全て自分自身の為でしかないはずだ。その利己的な考えを人の為、国の為と言い繕っているその様は酷く汚らわしく、シリルは不快そうに顔を顰めると「私の為ではなく、貴様自身の為だろう」と吐き捨てるように口にした。


「貴様自身と貴様の背後にいる者の為にしか、貴様は動いていないだろう。その口でよく私の為などと言えたものだ」
「殿下、何か勘違いをなさっていらっしゃるようで……」
「勘違い?違う、裏切り者はゲアハルトではなく貴様の方だろう、ルヴェルチ。……姉上の件も貴様が絡んでいるのではないのか?」
「そのようなことは決して、」
「どうだかな。話は以上だ、今後勝手な行動は許さない。ゲアハルトに手出し無用だ、以前にも言ったと思うがな」


 二度と同じことを言わせるなとルヴェルチに冷え切った視線を向けると、彼は一礼を残して踵を返した。その背を見送り、扉が閉ざされたところで漸くシリルは息を吐いた。あまりこのような駆け引きじみたことは得意ではないのだ。しかし、これ以上はルヴェルチを野放しにしておくべきではないと判断したシリルは重たい腰を持ち上げるようにゆっくりと立ち上がった。
 自身の即位が成されるのはルヴェルチとキルスティの取引があってこそだ。つまり、どういうわけか所有していたベルンシュタインの失われた国宝である白の輝石がルヴェルチの手に渡るということでもある。それを手にした後、ルヴェルチがそれをどのように扱うつもりかまでは知れないものの、わざわざそれをくれてやる必要もない。


「シリル殿下、どちらへ……」
「母上のところだ。今後のことについてお話したいと先に伝えてきてくれ。……ああ、後」
「は、はい。何でしょうか」
「……先ほどは凄んですまなかった」


 居室の扉を開けると、すぐ傍に控えていた先ほどの文官が恐々とした様子で声を掛けて来た。また何か命じられると思ったのだろう。その様子に僅かに驚きながらも、シリルは何でもない風を装って口にした。そして、すぐに歩き出しかけた文官に対し、ぼそりと付け足した。
 そのような言葉が彼の口から出るとも思わなかったのだろう。度肝を抜かれたとばかりに驚いた顔をする彼から視線を逸らしたシリルはばつが悪そうにしながらも、「了承が得られたら声を掛けてくれ」と早口に言うと、そのまますぐに居室に戻った。閉じた扉に背を預け、らしくないことをしたと後悔さえ感じる。
 しかし、扉を閉める瞬間に見た、少し嬉しそうに顔を緩ませた文官の様子を見ると、こういうのも悪くはないかもしれないとも思ったのだ。だが、今はその余韻を噛み締めている場合ではない。ルヴェルチが何者かと繋がって動いている以上、事が大きくなる前に始末してしまった方がいい。その話をするべく、シリルは椅子に腰掛けるとキルスティからの返事を待った。



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