崩壊 - the fall -



「くそっ」


 執務室へと戻ったルヴェルチは握り締めた拳で書類が重ねられている机を叩いた。その拍子に書類が床に落ちるも彼はそれには気付かず、苛立たしげに宙を睨みつけていた。
 シリルに急に呼び出されたということもあり、嫌な予感はしていた。しかし、まさかアイリスに先を越されているとは思いもしなかったのだ。彼女よりも先にシリルと接触出来ていたのなら、彼を言い包めることなど容易く出来たのに、と思いつつも、ルヴェルチは焦りの表情を浮かべた。
 カサンドラにも釘を刺されていたのだ。しかし、アイリスには先を越され、シリルはゲアハルトへの手出しを禁じられてしまった。それを何とカサンドラに報告すればいいのかとルヴェルチは頭を抱えた。このことが知れれば、何を言われるか――否、何をされるか分かったものではない。あと少しで憎いゲアハルトを追い落とし、シリルやキルスティを排除してベルンシュタインという一国の頂点に立つことが出来るのだ。何としてもそれを成し遂げなければならないのだとルヴェルチは必死に頭を働かせる。


「ルヴェルチ卿、失礼致します」
「何だっ!今は忙しい、大した用でなければ後にしろ!」
「い、いえ……シリル殿下からのご伝言をお預かりして参りました」
「……何……殿下からだと」


 コンコン、と控えめなノックの後、開かれた扉から姿を現したのは代理執政官に任じられてからルヴェルチの下に配置された年若い文官だった。ルヴェルチの剣幕に肩をびくつかせながらも彼は用件を口にした。一体何なのだと苛立たしげにしていたルヴェルチもさすがにシリルからの伝言だと分かると無碍にすることも出来ない。
 しかし、先ほどまで顔を合わせていたのだから何かあるのならあの場でシリルが口にしたはずだ。言い忘れていたのか、それともまが何かあったのか――様々なことを考えつつも早く話せと急かせば、青年は慌てた様子で口を開いた。


「今夜、即位前に正妃様も交えて打ち合わせをしたいとのことでした」


 そして、指定された時刻と場所を言うと文官は一礼をした後に慌ただしく執務室を出て行った。午前零時にキルスティの居室に来るようにという指示にルヴェルチは眉を寄せる。呼び出されること自体には問題はない。しかし、何故今このタイミングで呼び出されるのかが問題だった。
 それこそ告げられた理由は、先ほど直接言われてもいいはずのものだった。だが、シリルはそうしなかった。伝え忘れていたのか、それとも何か理由があってこのような形で伝えられたのか。理由は定かではないものの、呼び出された以上は何らかの対策を練っておかなければならない。悲願を達成するキルスティにとっては既に自身が用無しであるということも、用無しとなった人間がどのような末路を辿るかも、ルヴェルチ自身はよくよく分かっていた。
 ルヴェルチは執務机に向かうと、引き出しから取り出した紙にペンを走らせる。カサンドラらと連絡を取る為に使用していた暗号も既に使い慣れたものであり、さらさらと文章を作り上げると彼は改めてその文面に目を通す。そして、誤りがないことを確認すると、彼はそれを隠れ家に届けさせるべく鳥の手配をするようにと扉の向こうに控えている文官に声を掛けた。


「……このようなところで死んでたまるか」


 押し殺した声で呟かれたそれがルヴェルチの本心だった。ゲアハルトを追い落とし、失った威光を取り戻す。それが彼の願いであり、成し遂げなければならないことでもあった。そうでなければ、失った息子――テオバルトに対して向ける顔がないのだ。
 ルヴェルチは拳を強く握り締めた。テオバルトを手に掛けた者が誰であるかの凡その検討はついている。彼には騎士団の監察を任せていたのだ、つまり、犯人は騎士団の人間であり、ルヴェルチの知る中でそのようなことをする者はエルンストだけだ。保守的なシュレーガー家がエルンストを自由にしておくとは思えなかったからこそ、テオバルトを行かせたのだ。今となってはそれが誤った判断であったことは明らかであり、ルヴェルチもそれを何度も悔いた。
 だが、もう戻ることは出来ないのだ。どれだけ悲しくとも苦しくとも憎くとも前に進むしかない。テオバルトの無念を晴らす為にも何としても生き残らなければならないのだとルヴェルチは爪が食い込むほどに拳を握り締める。その為ならば、どれほどの屈辱感を感じても、カサンドラらに頭を垂れることさえ厭わない――ルヴェルチは用意が出来たという扉の向こうから聞こえる声に返事をすると、椅子から立ち上がり、努めて自分自身を落ち着かせながらゆっくりと扉に向かった。









「だから休むべきだと言ったのよ!」
「ご、ごめんなさい……エルザ様」


 ヒルデガルトに支えられながら戻って来たアイリスを見るなり、エルザは眦を吊り上げた。しかし、すぐに心配げな表情になって右往左往し始める彼女に微苦笑を浮かべたヒルデガルトは「とりあえず、何処かに寝かせましょう」と口を開く。
 ゲアハルトへの報告を終え、一安心したアイリスは緊張の糸が切れたようにエルザの居室に戻る途中、壁に凭れて動けなくなってしまったのだ。少し休めば大丈夫だろうと思っていた矢先、丁度そこにヒルデガルトが通り掛かったのだ。さすがにこの状況で何ともないと言うことを出来ず、結局のところ、彼女の手を借りることになったのだった。
 すぐに奥の寝室に運ぶようにとエルザは口にするも、さすがに彼女のベッドを借りるわけにはいかないとアイリスは固辞する。しかし、エルザは「いいから貴女は休みなさい!」とばっさりと切り捨てられてしまい、ヒルデガルトも「今はお言葉に甘えさせてもらえ」と言うとアイリスを支えながら歩き出してしまう。


「それなら、宿舎に戻りますから、」
「駄目よ。他の近衛兵とは相変わらず折り合いがついてないのでしょう?それではゆっくり休めないじゃない」


 以前、揉め事を起こして以来、目に見えた嫌がらせこそなくなったものの、険悪な雰囲気は相変わらずだ。とは言っても、最近はエルザの居室に詰めていることが多い為、顔を合わせていないというところが大きい。つまり、何も解決していないのだ。そのような場所で身体は勿論、気も休まるはずもない。
 そういう意味ではエルザの申し出は有り難いのだが、やはり一国の王女のベッドを拝借するというのは気が引ける。これはこれで休まらないだろうと思いつつも、せっせとシーツを捲って準備をしてくれている彼女の厚意を無碍には出来ず、アイリスは「すみません、お借りします」と頭を下げた。


「こういう時まで気を遣わなくていいの。ほら、早く横になって。ヒルダ、貴女はお医者様を呼んで来て、」
「あ、あの、呼んで頂かなくて平気です!ちょっと横になって休めば大丈夫ですから」
「でも、ここのところ、ずっと調子が悪かったじゃない」
「夏風邪か何かなら一度診てもらった方がいいと思うが……」


 そうよね、とエルザも頷いてしまう。しかし、医者を呼ばれれば腹部の傷のことも露見してしまう。それだけはどうしても避けたかったのだ。アイリスは頑なに平気だと首を横に振り、代わりに「エルンストさんにご連絡して頂きたいことがあるのですが」と口にした。


「急ぎか?」
「大至急です」
「そうか、悪いが私はこれから明日の即位式の警備会議に出なくてはならないからな……」
「それなら私が手紙を書くわ」


 そう言うと、エルザは紙とペンを取りに寝室を出て行き、ヒルデガルトもそろそろ行かなければと口にする。何とか話の方向を曲げられたことに内心安堵しつつ、「運んで下さってありがとうございました」と出て行こうとするヒルデガルトに礼を言った。彼女は足を止めると、微苦笑を浮かべながらあまり無理はしないようにと言い残すと足早に居室を後にした。
 その様子からも本当はアイリスを運んでいる余裕はなかったのだろう。迷惑を掛けてしまったと溜息を吐いていると、紙とペンを持ったエルザが寝室に戻って来た。「ちゃんと暗号で送るから安心して頂戴ね」と言いつつ、ベッドの脇に腰掛けて内容を促した。


「ルヴェルチ卿の件は片付きました。彼の勝手な行動でした、と」
「それで伝わるのよね?」
「エルンストさんなら分かって頂けます」


 エルザはそれを確認すると、さらさらとペンを紙に走らせる。それをちらりと覗き込むも、何を書いているのかはアイリスにはよく分からなかった。子どもの頃に遊びで作ったと言っていただけあって、何やら絵が多いような気さえする。まさかそれが今になって役立つとは誰も思ってはいなかったのだろうと思いつつも、エルンストにもこういう頃があったのかと思うと、少し微笑ましく思えてきた。
 手紙を書き終えたエルザはそれを細く折り畳むと、「ちゃんと寝てなきゃ駄目よ」と言い置いて鳥の足に結えるべく寝室を出て行った。アイリスはそれを見送ると、ゆっくりと瞼を下ろした。どうしようもなく気分は悪く、頭も痛く、身体も熱い。しかし、こうして横になると幾分かそれらもましになり、ふわふわと浮かぶような感覚になりながらも彼女は眠りに落ちた。








 太陽が西に傾き始めた頃、エルンストは騎士団宿舎の医務室にいた。シリルの即位が明日に迫っているということもあり、周囲は慌ただしく動き回っている。とはいっても、騎士団に割り振られているのは当日、民衆が集まるであろう広場の警備であるた。カーニバルの時と同じく担当を割り振ってしまえば、一先ずはやるべきことはなくなってしまう。
 しかし、いつもはそれを取り仕切るゲアハルトが不在の今、その役目は巡り巡ってエルンストの元へとやって来たのだ。どうして俺が、と思いつつも何とか終わらせて決めた割り振りを伝達し終えた彼は珈琲を入れると椅子に深く腰掛けた。カップに口を付けて喉に流し込むその苦みも、既に慣れ親しんだものであり、その苦み程度では眠気を吹き飛ばすことなど出来そうになかった。


「……ルヴェルチの吹聴にも困ったもんだよ、本当に」


 昼過ぎに届いたエルザからの手紙を懐から取り出したエルンストは改めて内容を一読する。そこに書かれていたのは、今朝、アイリスがシリルに直接確認してきたゲアハルトの斬首刑についてのことが書かれていた。斬首刑はルヴェルチが勝手に言い出したことであり、シリルの許可が出ていないのだという。
 その可能性も考えてはいたものの、もし本当に斬首刑が執行されることになった場合を考えて夜明け前から動いていたエルンストにとっては取り越し苦労の結果になってしまった。その所為でシュレーガー家の当主であるエルンストの父親からは大人しくしていうろという叱責と共に実家の邸で謹慎させられそうにもなったのだ。
 何とかその手を逃れることは出来たものの、シュレーガー家自体はあくまでも事態を静観するつもりでいるらしい。ヒッツェルブルグ帝国の第一皇子であるということが露見したゲアハルトに肩入れすれば、ベルンシュタインに対する謀反の意志があると取られかねないからだろう。それを考えると、事態を静観するという選択は決して愚かなものではない。だが、それをエルンストが選択出来るかと言えば、話は別だった。


「あの人を見捨てるには、一緒に居過ぎたんだ」


 ぼそりと呟きながら、エルンストは手紙を握る指先に魔力を集中させる。次の瞬間にはぶわりと赤い炎が現れ、手紙を少しずつ焼いていく。その様を見つめながら、彼は少しだけ顔を歪めた。
 見捨てるには一緒の時間を過ごし過ぎた。切り捨てるには、自分の中で存在が大きすぎたのだ。自分の唯一の理解者だと思っている相手を切り捨てられるほど、彼は決して冷血な人間でなかった。冷血な人間に成り切ることが出来なかった。
 燃え滓になった手紙だったそれを見つめ、エルンストは深く溜息を吐く。手紙にはゲアハルトの件の他にアイリスのことも書き記されていた。体調が優れず、寝込んでいるのだという。思い返せば、今朝方まで一緒にいた彼女の顔色は決してよくはなかったように思う。レックスを止めなければならないこと、ゲアハルトに下されたという斬首刑のことに意識が向いていた為、慮ることが出来なかった。


「寝込む前に言ってくれればいいのに」


 彼女はいつだって何も言ってはくれないのだ。しかし、それはアイリスだけではない。謹慎処分として宿舎の営倉に入れたレックスにしてもそうだ。だが、決して二人だけではない。自分だって他人のことは言えないし、ゲアハルトやアベルにしたってそうだ。誰もが結局のところ、何も言っていない。隠しているわけではなく、ただ、口にしないのだ。
 信用できないからではなく、信頼できないからでもない。関係ないことだからと、自分の中で完結させてしまうのだ。そしてそれを寂しいと思う自分がいることにエルンストは自嘲した。寂しさなど自分が感じたところで、同じことを周りに対してしているのだ。そのような感傷に浸る資格はないのに――エルンストは口の片端を持ち上げ、ほんの少し、寂しそうな顔で笑った。




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