崩壊 - the fall -



 普段ならば静まり返っている夜の街並みも今は先ほど轟いた爆発音で家の外に出てきている人々でざわついていた。誰もが不安げな顔をしながら周囲を見渡しているものの、まだ然程大きな騒ぎにはなってはいない様子だった。それらを確認しながら北区のルヴェルチ邸を目指して走っていると、後方から「レックス!」と呼び止める見知った声が聞こえてきた。
 足を止めて振り向くと、そこには険しい表情を浮かべた騎士団の仲間がいた。事の次第はエルンストから伝えられているらしく、「さっさと終わらせて城に向かおう」と辺りを見渡しながら一人が口にした。ルヴェルチ邸の制圧には然程時間は掛からないだろう。だが、ルヴェルチを見つけ出して捕縛、もしくは殺害するには骨が折れるかもしれない。しかし、だからといって悠長に構えている余裕はなく、レックスは頷くと改めて目的地である邸に向かって走り出した。


「街の人たちには迂闊なことは言うなよ、パニックになられたら堪ったもんじゃないからな」
「分かってる。……国葬が終わった時期なら、まだ人手もあったんだけどな」


 国葬が終わってから数週間が過ぎ、王都に集まっていた国境に配置されているいくつかの騎士団は戻ってしまっている。今から呼び戻そうにも時間は掛かる上にこの期に乗じて帝国軍が攻めて来ないとも限らない為、動かすに動かせないのだろう。エルンストも私兵を動かすとは言ってはいたものの、その兵力も全体に必要な兵力からすれば微々たるものだろう。
 兎に角、今は自分たちが為すべきことを早急に終わらせることが重要だとレックスは奥歯を噛み締める。それと同時に思ったことは、もしも自分が独断行動などしなければ、ということだ。もしそうだったのなら、今自分は王城の中にいたはずだ。仇を討つ相手のことを差し引いても、その方がずっと役に立てたはずだと彼は唇を噛んだ。
 王城にはアイリスだけでなく、捕えられているレオやゲアハルトもいる。考えるまでもなく、アイリスは今頃動いていることだろう。だが、いくら彼女でもたった一人でエルザを守りながらレオやゲアハルトを助けることなど出来るはずもない。それを思うと、そこに自分がいたのなら、と考えずにはいられないのだ。


「レックス、俺たちは裏から回るぞ」
「了解。五分後に突入する、配置遅れるなよ」


 了解、とレックスの肩を叩くと仲間の一人が全体の半数を引き連れてルヴェルチ邸の裏門へと向かう。彼らを見送りつつもレックスらはそれぞれ邸近くの物陰に身を潜めた。特に変わった様子はなく、邸はしんと静まり返っている。そこだけは王城の騒がしさとは無縁であり、そのことを訝しく思いながらもレックスは焦れる思いで時計を確認している兵士にちらりと視線を向ける。
 あと三分だと告げる兵士に頷きながら、彼は視線を邸へと戻す。そしてふと、違和感を覚えた。レックスは眉を寄せながら、すぐ傍の兵士に「なあ」と声を掛ける。


「ルヴェルチは確か私兵持ってたよな」
「ああ。……にしては、人の気配がしないな」


 仮にも代理執政官の邸宅だ。万が一のことがないようにと夜間は特に厳重に警備を私兵に行わせているはずだ。だからこそ、レックスが第二騎士団から抜け出していた兵士らで組んだ隊を率いて制圧と捕縛に向かったのだ。だが、肝心の警備に当たっているであろう私兵の気配はなく、邸は静まり返っている。
 嫌な予感を感じながら注意深く邸を見ていると、「時間だ、レックス」と作戦開始を告げる声が聞こえた。レックスは素早く邸へと近付くと、先に彼を押し上げて塀を越えさせるべく手を組んでいる兵士のそこに足を掛ける。そして一気に押し上げられ、その勢いのまま塀を飛び越えた。
 そうして次々と侵入を果たす仲間を背にレックスは柳眉を寄せて周囲に視線を向けた。鼻腔を突く嫌なにおいがした。それが程なくして血のにおいだと気付いた頃には、月明かりに照らされた整えられた庭園は至るところが赤く染まり、伏したルヴェルチ邸の私兵らの屍で溢れていた。


「誰が……」
「……急ぐぞ」


 驚愕の声を上げる仲間にレックスは押し殺した声で言った。このようなことは簡単に出来ることではない。それほどの力量の者がルヴェルチを口封じする為に訪れているのだということを考えると、それは自身の仇討ちの相手かもしれない。そうでなかったとしても、彼が所属しているという鴉に属する者の犯行のはずだ。
 だとしたら願ったり叶ったりだ、とレックスは奥歯を噛み締める。そのまま周囲を警戒しながら邸へと近づいていく。邸内に帝国軍の人間が潜んでいると分かった以上、注意するに越したことはない。だが、このことは裏門から侵入している仲間は気付いていないだろう。裏門でもルヴェルチ邸の私兵が殺害されていたのならば別だが、兎に角、慎重に行動していることを願いながらレックスは邸の扉に手を掛けた。
 鍵の掛かっていない扉をゆっくりと開き、注意深く気配を探った――その矢先、「た、助けてくれっ」とルヴェルチの悲鳴にも似た声が聞こえてきた。レックスらは顔を見合わせると足音や気配を殺すことなく駆け出し、叫び声が聞こえた場所へと急ぐ。そして、床に座り込んでいるルヴェルチと相対している黒いローブの人間にレックスはすらりと抜いた剣の切っ先を向けた。


「誰だ、お前は」


 剣を向けたまま、レックスは手で背後の仲間たちに指示を出す。エルンストから命じられたことは、ルヴェルチの捕縛又は殺害と家人の確保だ。殺害も許可されているとは言え、出来る限り生きて捕えた方がいいことは明らかだ。そうでなければ、彼から帝国軍とのことを聞き出すことが出来なくなってしまう。
 この場は自分に任せて家人を確保しに行けと指示を出すと、仲間たちはすぐに動き出した。広い邸の何処に家人がいるかは知れない。まだ生きているかどうかも分からないが、だからといって探さないわけにはいかないのだ。動き出した仲間を横目にレックスは真っ直ぐに黒いローブの人間を睨みつけ、再度何者なのかと問い掛けた。


「……僕だよ」


 それから幾許かの時間が過ぎた頃、徐に黒いローブは脱ぎ捨てられ、そこには華奢な少年の姿が露になった。宵闇を溶かしたような黒髪のその背中には見覚えがあり、レックスは僅かに顔を歪めた。そして、鼓膜を震わせたその声音は確かに知る者のものだった。
 アベル、と絞り出すような声で彼の名を呼べば、アベルはゆっくりとした動作で振り向いた。そして、昏い色をした黒曜石の瞳をレックスに向ける。その顔色は蒼白であり、一目見ても体調が悪いことは明らかだった。何より目を引くのはやはり、顔の半分を覆う白い包帯だろう。怪我を負っているのかと心配になるも、レックスは慌てて表情を引き締める。こうして目の前に立っているということはつまり、仲間ではなく、敵だということだ。


「アベル、一つ聞かせてくれ。……お前はオレたちを裏切っていたのか?」


 それは路地裏で彼の姿を見てからずっと気になっていたことだ。いつ裏切ったのか、そもそもずっと裏切られていたのかは分からない。だが、はっきりとさせておかなければならないことだとも思っていたのだ。
 アイリスがこの場にいないことを僥倖だと思いつつ、レックスは剣の柄を握り締める。そうでもしなければ、刃を下げてしまいそうだった。敵だということは分かっている。説得しようなどと甘い考えがあるわけでもない。しかし、かつて共に戦った相手に対して刃を向けるということには、やはり、抵抗があったのだ。


「オレたちは仲間じゃなかったのかっ」
「……そうだよ」
「……っ」
「僕は内通者だ」


 暗く、けれどはっきりとした声でアベルは口にした。仲間ではなかったのだと、内通者だと。つまり、裏切っていたのだと彼は口にした。どうして、という思いと裏切られていたのだという怒りに剣を振り上げるも、レックスはそれを勢いのままに振り下ろすことが出来なかった。
 兵士としては裏切り者は許してはならない。しかし、仲間だという思いが捨て切れない。友人だと思っていた気持ちを捨てることが出来ないのだ。少なくとも、橋での戦闘の際に身体を張って自分たちを守ってくれたあの背中が目に焼き付いて離れないのだ。アベルは裏切っていたのだと言う。それは嘘ではないだろう。けれど、守ってくれた彼もまた、嘘ではなかったはずなのだ。
 しかし、冷やかな黒曜石の隻眼を向けたアベルはそんなレックスの葛藤とは裏腹にその手にナイフを握り締めた。そして、それを容赦なく背後のルヴェルチに対して投擲すると、刃はまるで吸い込まれるかのように真っ直ぐに彼の額に突き刺さった。どすり、という鈍い音の後に悲鳴を上げる間もなくルヴェルチは目を開いたまま後ろに倒れた。


「アベルっ」
「……これが僕の任務だ」


 感情のない冷たい声音で呟いたアベルは隻眼の瞳でレックスを見据え、再び取り出したナイフを手に床を蹴った。目の前にいるのは裏切り者だということは分かっていても、それでもやはり剣先は鈍る。仲間として共に戦った相手に剣を向けることも敵だと割り切ることも容易なことではなく、レックスは顔を歪めながらも震えるほどに強く握り締めた剣を構えた。







「いたぞ!」


 隠し通路を使いながら何とか北の地下牢まで残り半分の距離まで来たアイリスらは角から出てきた帝国軍の兵士らに見つかってしまった。アイリスは素早く杖を構えると、最早慣れた動作で反転させた防御魔法で彼らを捕縛して床へと転がす。命まで奪おうとしないところが周りからすれば甘いと言われるのだろうが、かと言って、手に掛けることはやはり躊躇われるのだ。
 床に転がした兵士らの身体に触れ、そこから攻撃魔法を加えることで気絶させるとアイリスは再びエルザの手を取って走り出す。これを繰り返して何とか此処までやって来たのだ。周囲からは相変わらず剣戟の音や怒声や悲鳴が響き続けている。それらの中に指示を出す警備兵や近衛兵の声が聞こえることもあり、連絡して来ると部屋を飛び出した文官の男が何とか辿り着くことが出来たのかもしれない。彼の安否が気に掛かるところだが、今はそれを気にしている余裕もなく、アイリスはエルザと柱の影に身を顰めながら彼女の指示通りの進路を取っていた。


「エルザ様、次は……」
「待って、アイリス。貴女、顔色が悪過ぎるわ。汗の量もおかしいもの、また熱が出てるんじゃ……」
「平気です。それに今は気にしている場合ではないですから」


 正直なところ、身体は限界を越えていた。それでも走り続けられるのは、偏にエルザを守らなければならない、ゲアハルトとレオを助けなければならないという義務感と兵士としての矜持が彼女の中に強く在るからだ。だからこそ、この場で足を止めるわけにはいかないのだ。
 心配げ表情を浮かべるエルザも、今は足を止めていられないということは分かっているらしく、「……そうね」と苦渋に満ちた表情で頷いた。そして、前方に視線を向けると思い出す様な仕草の後にふるふると首を横に振った。


「ここから暫くは隠し通路がないわ。なるべく見つからないように影に隠れてこの廊下を進み切らなきゃいけないのよ」
「了解です。……見通しが良すぎますから、急ぎましょう」


 所々、柱があるとは言っても、特に障害物もない長く広い廊下だ。今は灯りもない為、それなりに身を隠すことが出来る暗闇ではあるものの、それでもやはり限界はある。かと言って、迂回路を取るわけにもいかず、アイリスはエルザと頷き合うとすぐさま走り出した。この廊下を進み切れば、また隠し通路を使うことが出来る。それまで見つからなければいいだけであり、見つかったとしてもただの兵卒であれば倒すことは然程難しいことではない。
 そのように自分に言い聞かせながら走り続けていた矢先、「止まれっ」と背後から声が聞こえて来る。足を止めることなく肩越しに振り向くと、そこには追い掛けて来る黒い軍服を纏った複数の帝国兵の姿があった。しかし、勿論のこと、彼らの要求に応じて足を止めるわけにはいかない。アイリスは後方に向けて彼らを振り切る為に捕縛しようと防御魔法を放つ。だが、走りながら後方に向けてということは難しく、常と同じく容易く成功はしなかった。
 それでも何とか攻撃魔法による気絶は出来なかったが、彼らの自由を奪って床に転がすことが出来たアイリスはほっと安堵の息を吐く。が、その矢先、「アイリスっ」と悲鳴にも似たエルザの声がすぐ傍から聞こえてきた。止まろうとばかりに手を引かれ、慌てて前方へと視線を戻すと、そこには一人の大男が立ち塞がっていた。片腕には黒い鳥の刺青が刻まれていることに気付いたアイリスはすぐに足を止めると十分に距離を取った上でエルザを背後に回して杖を構えた。


「アイリス・ブロムベルグとエルザ王女だな」


 その声音は低く、理知的なものだった。しかし、決して油断してならない気配に、アイリスは生唾を飲む。平然と男はその場に立っているだけだが、彼に隙といったものは見受けられなかった。あともう少しだったのだ。あともう少しで隠し通路に逃げ込むことが出来た。
 しかし、前方は彼によって塞がれたも同然であり、かと言って取って返せば追い掛けられることは必至である。逃げれば追撃されるも、もしかしたら仲間と合流することも出来るかもしれない。だが、帝国兵と遭遇する可能性だって決して低くはないのだ。ならば、互いに応援がいない今この場で、何とか彼を退ける方がまだ幾分かマシに思えた。
 無論、自分の力だけで勝てるとは思っていない。だが、どういう理由かは知れないものの、彼に自分を殺すことは出来ないのだということをアイリスは半ば確信した。それさえ分かっていれば、動きようによっては何とか切り抜けることが出来るはずだとアイリスは震えそうになる足を叱咤して一歩を踏み出した。


「……そうか、戦うのか」


 ぼそりと呟いた男は背中に背負っていた大剣を肩腕で引き抜く。鈍く光るそれを構えたその姿は威圧的であり、臆してしまいそうになる。しかし、自分がここで退けば、その刃でエルザが斬られることは間違いない。だからこそ、アイリスはその場に踏み止まり、真っ直ぐに杖を構える。


「アイリス……」
「エルザ様はわたしの後ろにいてください。大丈夫です、必ずお守りしますから」


 気休めにしかならない言葉だと分かりながらも、アイリスは努めて落ち着いた明るい声音で背後のエルザに声を掛ける。そして、勝つ必要はなく、隠し通路まで走り抜けることが出来ればいいのだと自分に強く言い聞かせた。
 緊張感が高まる中、互いに身動ぎ一つせずに睨み合う。そして、同時にそれぞれの武器を手に床を蹴り、広い廊下には大剣と細身の杖がぶつかり合う金属音が響き渡った。



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