崩壊 - the fall -



 何度もぶつかり合う中、アイリスは次第に呼吸を乱し、杖を握る手も震え始めていた。いくら鍛錬を積んでいたとしても、男女の力の差を埋めることは敵わない。何より、手にしている武器がそもそも大剣と杖なのだ。ぶつかり合う瞬間に防御魔法を展開することによって威力を殺ぐことによって何とか持ち堪えてはいるものの、単にそれだけでなく、彼が手加減しているからこそ持ち堪えることが出来ているのだろう。
 手心を加えられていることを悔しく思いながらも、アイリスは何とか立ち位置を入れ替えようと動く。しかし、まるでそれさえ見抜かれているかのようにその場から動こうとしない。せめてエルザを隠し通路に逃がすことが出来れば後は折を見て撤退するのだが、それさえ出来ないとなると選ぶことの出来る選択肢は限られて来る。


「……アイリス」


 僅かに後退し、間合いを測りながら杖を握り直していると背中に庇っていたエルザがぽつりと口を開いた。ちらりと背後に視線を向ければ、彼女は青い顔をしながらも決然とした様子でアイリスを見つめていた。その様子にどうしたのだろうかと思うも、それ以上に嫌な予感がした。


「私を置いて、貴女は先に進んで頂戴」
「……そんなこと、出来ません」


 予感は的中した。自分を置いて先にゲアハルトの元に迎えと言うエルザにアイリスはそんなことが出来るはずがないと首を横に振る。そして視線を前方へと戻すも、「私は貴女の足手纏いになってる。このままでは、」と彼女の叫びが聞こえる。それでも、アイリスは置き去りになんて出来ないとと声を荒げた。
 これ以上、誰も置き去りになんてしたくはなかった。誰かに守られなければ、犠牲にしなければ前に進めないなんてことを認めたくはなかったのだ。エルザの言うことは尤もであり、ゲアハルトの救出を最優先に考えるのであれば、ここで彼女を切り捨てるべきだろう。しかし、エルザはベルンシュタインの王女だ。シリルが殺された今、彼女とレオを失うわけにはいかないということもある。そうでなくとも、切り捨てるなどという選択肢をアイリスは決して選びたくはなかった。


「エルザ様にもしものことがあれば……わたしは貴女様を守るようにとのシリル殿下の命に背くことになります」
「だったら、私が改めて命じるわ。アイリス、私を置いて」
「嫌ですっ」
「アイリス、」
「わたしは絶対にエルザ様を置き去りになんてしません。……わたしはまだ、貴女様に何も返せてていません。それに、……エルザ様に何かあれば、レオは本当に一人ぼっちになってしまう」


 レオは今日、シリルとキルスティを失った。キルスティは彼にとっては忌むべき存在だったかもしれないが、シリルに対して同様の感情を持ち合わせていたかどうかは知れない。ただ、今にしてみれば、シリルは決してレオのことを疎んではいなかったように彼女は思うのだ。
 だからこそ、彼は最期にエルザだけでなくレオのことも頼むと言ったのだろう。彼は最期まで姉と弟のことを気に掛けていた。もしかしたら、シリルにとってはベルンシュタインという国以上に二人の姉弟の方がずっと、大切だったのかもしれない。今更ながらにそのようなことを考えながらアイリスは「だから、エルザ様を置いて行くことなんて出来ません」と声を震わせて口にした。
 レオの悲しんでいる姿は見たくはないのだ。これ以上、彼に傷ついて欲しくもない。自分に出来ることなど高が知れてはいるものの、それでも、エルザを失うということはレオにとって残された最後の血を分けた存在を失うということだ。それはきっと、寂しいはずだ。


「大丈夫です。……エルザ様は、走る準備だけしておいてください」


 そう言うと、床を蹴り出した男の剣を受けるべくアイリスは杖を構える。それと同時に防御魔法を展開するも、それは剣を叩きつけるという力技でまたも破られてしまう。恐らくはその刃にも先日の橋での戦闘の際に使用された矢と同じ特殊な鉱物が使用されているのだろう。激しい音を立てて破られた防御魔法の後、耳障りな金属音が響く。
 腕を震わせながらもアイリスは杖でその刃を受け続ける。しかし、それだけでなく左手に魔力を集中させると、ばちばちという音と共に青白い燐光が彼女の手を包み込む。そして、その手を伸ばして男の身体に電流を流そうとするも、それを察知した男が一瞬早く後退する。
 だが、またすぐに体勢を立て直して大剣が振るわれ、アイリスはそれを杖で受け止める。しかし、その瞬間にびきりと嫌な音と振動がした。はっと目を見開いて剣を受け止めている杖に視線を向けると、そこには先ほどまではなかった罅が走っていた。それは徐々に広がっていく。


「……っ」
「これで終わりだ」


 その一言と共に大剣が杖に叩きつけられる。それと同時に手にしていた杖は半分に叩き折られ、折られた先端が床に落ちていく。そして、再び振り上げられた剣を避けるべくアイリスは咄嗟に真横に転がるように避けた。だが、その瞬間に後方に庇っていたエルザとの間の障害物が一切なくなってしまった。
 床を蹴り出す男にアイリスは顔を青くすると、すぐに身を起こして床を蹴り出した。そして、形振り構わずに男とエルザの間に飛び込んだ瞬間、肩に痛みが走った。すぐにそれは熱となって全身を駆け抜け、あまりの激痛にアイリスは顔を顰めながら斬りつけられた肩を押えた。


「ア、アイリス……っ」
「……これぐらい、平気です。エルザ様、下がって……」
「抵抗するな。これ以上の手加減は難しい。何よりお前にはもう武器はない、無駄な抵抗は止せ」
「……っ」


 そう言うと、男はゆっくりと剣を構えた。このままエルザだけを殺すつもりなのだろう。たとえそうでなかったとしても、剣を構えている以上、それが振り下ろされないということは彼の様子からして有り得ない。だが、抵抗するなと言われたところで、たとえ殺さないと安全を保障されたところで、動かないという選択肢はアイリスには有り得なかった。重たい身体を歯を食いしばって動かし、斬られた傷が訴える痛みさえ無視してアイリスはゆっくりと立ち上がる。


「……もう武器がないなんて、どうして分かるの」


 アイリスが背後に手を回しながら立ち上がると、青白い燐光に包まれた両足からばちばちと微かな音を立てた青白い火花が散る。それを見るなり、男は大きく後方へと飛び退いた。だが、間髪置かずにアイリスは床を蹴り、その手には鈍く光る棍棒状の杖が握られていた。


「なるほど、攻撃魔法で自身の脚の筋肉を刺激しているのか」


 人並み外れた速度で追撃するアイリスを迎え撃つべく体勢を整える男はそこで漸く表情を変えた。面白い、とばかりに笑みを浮かべると剣を構える。しかし、間合いに入る寸前でアイリスは真横へと飛び、そのまま男の背後に回り込んだ。そして、床を強く蹴り出して飛び上がって男の頭部に棍棒を叩き込もうとするも、それは寸前のところで剣を持ち直した彼に防がれてしまう。
 先ほど以上に響く剣戟の音に顔を顰めるも、アイリスはそのまま掌に魔力を集中させ、男の左胸へと手を伸ばした。無理に身体を捻った体勢だったということもあり、その拍子に傷口からは血が噴き出し、激痛が走る。だが、傷口が開くことさえ厭わずに呻き声を上げる男の身体が傾ぐまでアイリスは電流を流し続けた。
 そして、ついに男の身体が傾くと止めに杖を後頭部に叩きつける。鈍い音と共に床に彼が倒れ込み、アイリスもそのすぐ近くに座り込んだ。足からは力が抜け、とてもではないが立ってはいられなかったのだ。雷の攻撃魔法を身体に流すことによって一時的に金力を活性化させられるのではないかと鍛練中に考えてはいたものの、実際に行うのは今が初めてだった。こんなことならもっと早くに試しておけばよかったと後悔しつつも、一先ずは何とか切り抜けることが出来た、とほっと安堵の息を洩らす。


「だ、大丈夫!?アイリスっ」


 痛む腕を押えて荒い呼吸を繰り返しつつ汗を拭っていると、それまで離れた場所にいたエルザがすぐに駆け寄って来た。その手には折れた際に床に捨てた彼女の杖があり、どうやら拾い集めてくれたらしい。元々は養父が使っていたものでもあり、拾い集めてくれたことを感謝しながら受け取ったそれを腰に付けているバッグに押し込んだ。
 いつか折れるかもしれないということはヒルデガルトに指摘されて以来、考えてはいたことだった。だが、いざこうして目の前で折れるとやはり堪えるものがあった。ヒルデガルトの勧めで格闘戦に特化した予備を用意しておいてよかったと思いながらも、もっと早くに持ち替えていればよかったとは、余裕はなかったもののやはり思わずにはいられなかった。


「傷は?」
「平気です。これぐらい……」


 バッグから取り出したハンカチを巻き付け、圧迫する。本当は回復魔法で治してしまいたいところではあるものの、今はその魔力さえ惜しい。何より、防御魔法を破った刃で付けられた傷だ。治りも遅いかもしれない。ならば、今は必要最低限の手当さえすれば十分だ、と杖を床に付いてエルザに助けられながらゆっくりと身体を起こそうとする。
 男を退けることは出来たものの、早くこの場から動かなければと思ったのだ。だが、身体が思うように動かず、アイリスは焦れる思いで足に力を込め続ける。――その矢先、廊下に拍手が鳴り響いた。
 

「すごいじゃない。アウレールを退けるなんて」


 愉しげな笑みさえ含んだその声音が後方から聞こえる。アイリスとエルザは揃ってそちらに顔を向け、廊下の真ん中をゆったりとした足取りで歩む赤紫の髪の女に視線を向けた。「……カサンドラ」と彼女の名を呼ぶエルザの声は震え、アイリスの身体を支えていたその手も震えている。
 ある程度の距離を置いて足を止めたカサンドラはアイリスとエルザに向けて笑みを浮かべる。紅を引いた唇を吊り上げ、血のように赤い瞳を細めて、彼女は凄惨な笑みを浮かべた。



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