崩壊 - the fall -




「あら、エルンストじゃない。久しぶりね」


 懐かしい友人に会ったかのように、カサンドラはにこりと笑みを浮かべて私兵を伴って現れたエルンストと向き直った。しかし、笑みを浮かべている彼女とは正反対にエルンストは無表情であり、怒りと憎しみに満ちた目で睨みつけている。彼のこのような顔を見るのは初めてであり、自身に向けられているわけではないというのにアイリスは背筋に冷たいものを感じていた。
 エルンストは「そうだね、久しぶり」と淡々とした声音で返事をすると、「半分は二人の元に」と背後に控えていた私兵らに指示を出した。すると、控えていた半数の私兵がカサンドラを警戒しながらゆっくりと足を動かし、彼女の後方にいるアイリスとエルザの元へとやって来た。彼らが無事にカサンドラの横を通り過ぎたことに安堵しつつ、アイリスは私兵の手を借りながら立ち上がった。


「アイリスちゃん、此処まで来ていたということは司令官のところに向かってたってことだよね」
「は、はい!東の塔……レオの牢を開ける鍵がなくて、それで」
「レオのことなら心配要らない。私兵に合鍵を預けて向かわせてる、アイリスちゃんは、」
「奇遇ね。私もレオ殿下のことは仲間に任せて来たの。どちらが先にレオ殿下の元に到着するか、きっと今頃競争中ね」


 愉しげにカサンドラが口にした言葉にアイリスは目を見開き、エルザは顔を青くした。一度、幽閉されている牢の前まで行ったアイリスはどれほど堅牢な扉であったのかということをよく覚えている。しかし、カサンドラが言う“仲間”の手に掛かれば、それは容易く破られてしまうかもしれない。たとえ、破られなかったとしてもエルンストの私兵が鴉に属しているであろう敵兵に敵うとは正直なところ、思えなかったのだ。
 それはエルンストも同じだったらしく、渋面を作っている。そんな彼の表情にカサンドラは満足げな笑みを浮かべ、くすくすと嗤いながらくるりと振り向いた。途端に周囲を守っていた私兵の間に緊張感が走り、杖を握るアイリスの手にも汗が浮かんだ。


「今回は貴女を殺せそうになくて残念だわ、エルザ様。……でもね、私はそれでも満足してるの。だって、」


 貴女の弟たちは殺せたのだから。
 その一言にエルザは目を見開くと声にならない悲鳴をあげた。薄々は感じ取ってはいたのだろう。少なくとも、レオはまだ存命してはいるのだろうが、シリルの存命の可能性は限りなく低い。あの爆発現場にいたのだ。カサンドラらが無事だったとしても、身を守る術のない彼が生きているとは思えない。たとえ、生きていたとしても、それを見逃す様な彼女たちではないだろう。
 なるべくそのことには触れないようにしていたアイリスにしてみれば、今になってその事実を口にするカサンドラが憎くて仕方なかった。その憎しみを感じ取ったのか、カサンドラはアイリスに視線を向けると口の端を吊り上げて嗤った。


「シリル殿下はね、正妃様のお部屋に爆薬と魔法石を仕込んでいたの。私たちと自爆するつもりだったのね」
「それじゃあ、お母様も……」
「ええ、そうよ。ああ、アイリス嬢からまだ聞いていなかったのね。貴女のお母様もお亡くなりになったわ。爆発で木端微塵に吹き飛んでしまったからお身体は残っていないし、残っていたとしても今頃消し炭でしょうけどね」
「……っ」


 その言葉に、エルザは頭を抱えるようにしながら床に座り込んでしまった。声を押し殺し、肩を震わせて静かに慟哭する彼女にアイリスは掛ける言葉がなかった。もしも、もっと早くに伝えていたのなら少しはエルザも耐えることが出来たかもしれない。ここまで心を抉られることはなかったかもしれない。アイリスは唇をきつく噛み締めることしか出来なかった。
 シリルを守れなかったことの後悔で胸がいっぱいになる。自分はあの部屋にいたのだ。それにも関わらず、守るべきシリルに逆に守られてしまった。エルザの微かな泣き声とシリルやキルスティの名を呼ぶ震えた声音が耳に届く度に、どうしようもなく胸が痛んだ。


「……爆発現場に向かってくれ」
「しかし、それではエルンスト様がお一人に、」
「構わない。早く行け」


 それはとても静かな声だった。指示を出したエルンストは先ほど以上に殺意の籠った視線をカサンドラに向けていた。彼の背後で顔を見合わせていた私兵も渋々ながらも指示に従うことにしたらしく、急いだ様子でキルスティの居室へと向かって行った。


「アイリスちゃん」
「は、はい……!」
「すぐにエルザを連れてそいつらと司令官のところに向かって。急いで」


 鍵は持ってるよね、と口にする彼にアイリスはポケットに入れて持ち歩いていた鍵を確認する。しっかりとそこに収まっていた鍵を取り出して見せるとエルンストは一つ頷き、「それじゃあ早く行って」と再度口にした。
 自分たちがこの場を離れれば、エルンストは一人になってしまう。そのことを思うと、本当に先に進んでもいいのだろうかと不安が湧きあがる。しかし、ゲアハルトの元に急がなければならないことも事実であり、どうするべきかと逡巡していると「ゲアハルトを助けたいなら急いだ方がいいわ」と意外にもカサンドラが口を開いた。


「彼のところにも兵を差し向けているもの。……尤も、ゲアハルトは刺しても斬っても絞めても簡単には死ななさそうな男だけれど」
「……俺もそう思うけど、急いで。俺のことはいいから」
「エルンストさん、でも」
「いいから。此処に君たちがいても邪魔になるだけ、足手纏いになるだけだ」


 はっきりと告げられたその言葉にアイリスは唇を噛んだ。彼の言うことは尤もだ。この場に居座れば、それだけエルンストは動き難くなってしまう。人質になど取られてもしたら、それこそ面倒な展開になってしまう。エルザが人質に取られれば、それこそ彼女の命は尽きたようなものであり、アイリスが人質になれば、それはカサンドラの思惑通りになってしまう。
 それだけは避けなければならず、自分に出来ることをするべきだと思った。けれど、そう思いはしても、エルンストを一人置いて行くことに何とも思わないわけではないのだ。否が応にもアベルを置いて逃げた時のことを思い出さずにはいられないのだ。


「俺のことなら大丈夫、心配要らないから」


 早く行け、と彼は繰り返す。エルザを守る為には、ゲアハルトを助ける為には進まなければならない。それが今、自分に出来る最善のことなのだとアイリスは自分自身に言い聞かせ、「……分かりました」と声を絞り出した。そして、顔を伏せて震えているエルザの傍に倒れそうになりながらも膝をつくと、行きましょうと半ば強引に彼女の腕を掴んで引っ張り上げる。
 そして、されるがままになりながらも立ち上がったエルザを私兵の一人が抱えると数人で周囲を守りながら走り出した。しかし、すぐにはアイリスも走り出せず、名残惜しげにその場に立ち尽くしてしまう。だが、「アイリスさんも早く」と引き摺るように腕を引かれれば、走らないわけにはいかない。
 開かれた隠し通路へと入る直前、アイリスは肩越しに振り向いた。エルンストとカサンドラは未だ向かい合ったままであり、変化は見られない。エルンスト一人で平気だろうかとやはり不安にはなるものの、アイリスは強く拳を握り締めると振り切るようにして前を向き直り、隠し通路へと自分の意思で足を踏み入れた。









「やけに素直に行かせたな」
「あら、止めてよかったの?」


 鈍い音を立てながら閉まった隠し通路の壁から視線を戻し、エルンストは僅かに眉を寄せながら口にした。カサンドラの性格を考えれば、何が何でもエルザをこの場で殺そうとしたはずだ。逃がすなど有り得ないはずなのだ。しかし、彼女はエルザを見逃した。分が悪いとしても、お構いなしに手に掛けようとするだろうとばかり思っていたエルンストにしてみれば、カサンドラの対応は何か裏があるのではないかと疑わしくてならなかった。
 そんな彼の考えに気付いているらしいカサンドラはくすくすと可笑しそうに笑った。「私もこの二年で落ち着いたのよ」とまるで友人に語りかけるように彼女は言った。否、カサンドラにとっては今でも尚、エルンストのことを友人だと思っているのだろう。自身に向けられる視線はかつての彼女のものと何ら変わっていなかった。だからこそ、それがエルンストには恐ろしくもあり、苛立たしくもあり、憎くもあった。
 滅茶苦茶にしたのだ。カサンドラは何もかもを壊した。そのために、自分の人生が狂わされたと言っても過言ではない――そのことが、エルンストは許せなかったのだ。ゲアハルトやエルザの取り成しで漸く兄のことを認め、歩み寄れそうになっていた。羨み続けてきたことを止められるのだと思っていたのだ。彼女が、カサンドラが兄であるギルベルトを手に掛けるまでは。


「どうだか」
「貴方だって変わったじゃない。うじうじしなくなった」
「……」
「あの子のお陰かしら」


 そう言うと、カサンドラは形のいい唇を撓らせて笑った。彼女が誰のことを言わんとしているのか、それが分からないエルンストではない。しかし、だからと言って彼女の言葉に乗る気もなく、沈黙を貫くとカサンドラはつまらないとばかりに溜息を吐いた。そんな様子さえもエルンストの感情を逆撫でするのだが、彼は努めてゆっくりとした呼吸を繰り返して自分自身を落ちつける。
 そうでもなければ、今すぐにでも無策のまま、カサンドラを手に掛けようと床を蹴り出しているはずだ。この日を、何よりも心待ちにしていたのだ。何としても彼女を殺し、奪われたままの実兄の亡骸を取り返す――そうしなければ、自分もエルザも一歩たりとも前に進むことなど出来ないのだ。
 だから、たとえどれほど憎くとも、煽られようとも容易くそれに乗せられてはならないのだと自分に強く言い聞かせる。アイリスには、今自分に出来る最善のことをするように言ってきたにも関わらず、自分がそれを出来ないなどというわけにはいかないのだ。今自分に出来る最善のことは、私情に囚われずに確実にカサンドラを捕縛することだ。それが出来なければ手に掛けることも致し方なくはあるものの、今後の為にもなるべく生かして捕えたいところではある。だからこそ、まだ殺してはならない、と震えるほどの強く剣の柄を握る手に、今すぐ駆け出しそうになる足に言い聞かせた。


「あら……見て、エルンスト」
「……」
「いいから、逃げないわよ。だからほら、あそこを見て。東の塔、燃えてるから」


 不意に視線をずらしたカサンドラは窓から微かに見える高く燃え盛るそれを一瞥し、目を細めて笑った。彼女の言葉に目を見開きながらも、カサンドラから注意を外さずにちらりと窓へと視線を向けると、そこには確かに燃え盛る東の塔があった。あそこには、レオが幽閉されている。バイルシュミット城に突入する前に私兵を二手に分け、半数を東の塔に鍵を持たせて向かわせはしたものの、彼らがレオを救出したかどうかは未だ知れない。
 東の塔が燃えているということは、カサンドラの手の者がそこにいるということだ。確実性を取る彼女ならば、ただ単純に塔に火を付けさせるだけではなく、その手でレオを殺すように指示を出しているはずだとエルンストは眉を寄せながらカサンドラに視線を戻した。


「言っておくけれど、私だって結果がどうなったのかは知らないわ」
「……」
「私の仲間と貴方の私兵。どちらが先にレオ殿下の元まで辿り着いたのか、早く結果が知りたいわね」
「俺がお前を逃がすとでも思ってるのか?」
「あら、逃がしてくれないの?」


 可笑しそうにカサンドラはくすくすと笑う。その笑みに不快感を露にしたエルンストが柳眉を寄せると、彼女は余計に愉快そうに笑みを深めるばかりだった。「もうこの国は崩壊するわ。それなのに貴方が頑張る必要なんて何処にあるの?」とカサンドラは目を細めて問い掛けて来る。
 その言葉にエルンストは怒りや憎しみの籠った目でカサンドラを睨みつけた。彼女の言うように、ベルンシュタインは倒れかかっていると言える。ホラーツを失い、王位継承を目前に控えていたシリルやキルスティも暗殺された。レオの安否も知れず、王族はエルザしか残っていない。これまでベルンシュタインの軍を率いてきたゲアハルトも本当は敵国の皇子であるということが晒された上にルヴェルチによって軍の指揮系統は麻痺していると言ってもいい状態だ。
 この状況で帝国軍に攻められでもすれば、一溜まりもないことは明らかだ。――まさに、崩壊寸前と言っても間違いではないだろう。だが、それでもまだ諦めるわけにはいかないのだ。諦めずに戦っている者がいる以上、もう無理だと剣を捨てて目の前の敵を逃がすなどということを、出来るはずがなかった。


「昔の俺だってさっさと諦めてただろうけど、今はそんな選択肢は俺にはない」
「……変わったわね、本当に。目が死んでないもの。まあ、私に向けるそれは怒りだとか憎悪だとかそういうものでいっぱいだけれど」
「……」
「貴方を変えたのはゲアハルトかしら。ああ、でも、決定打はアイリス嬢かしら。あの子、頑張り屋さんだものね」


 けれど、頑張り過ぎるのもどうかしら。
 カサンドラはちらりと視線を後方の隠し通路へと向け、意味深な笑みを浮かべた。その様子にエルンストは眉を寄せたまま、「どういうことだ」と厳しい声音で言及する。そんな彼にカサンドラは相変わらずの笑みを浮かべたまま、聞いていないの、とわざとらしく首を傾げる。その所作に苛立ちを感じながらも舌打ちすると、彼女はくすくすと笑いながら「怒らないで」と手を振る。


「あの子、アベルを探して城を抜け出したことがあるのよ」
「それなら聞いてる」
「でも、怪我のことまで聞いていないでしょう?」
「……怪我?」


 この数日、顔色が悪く、体調も悪そうにはしていた。しかし、本人は体調不良を主張していたし、このところの騒がしさを考えれば疲労が限界に達しているのだろうとも思っていたのだ。僅かに目を瞠るエルンストにカサンドラは「うちの子がちょっとおイタをしたのよ」と事も無げに笑みを浮かべながら口にする。


「ちょっと毒を塗り込んだナイフでお腹を刺してしまったらしくてね。あの子にはまだ用があるから死なせるわけにはいかないのに、困った子よね。でも、罰してはおいたから」
「……っ」


 許して頂戴ね、とでも続きそうな言葉を遮り、エルンストは気付けば床を強く蹴り出していた。そしてそのまま剣を振り下ろすも、切っ先はカサンドラを捕えることなく、床に強く打ちつけるに留まった。仕留め損なったことに苛立ちを露にしながら後方へと飛び退っていた彼女は衣服の裾の汚れを払いながら「いきなり斬りつけて来るなんて酷いわ」と微苦笑を浮かべている。
 その身のこなしは、エルンストが覚えている共に戦っていた時とはまるで違っていた。この二年で変わったのだということは決して嘘ではないらしい。しかし、それは彼女だけでなく、彼にも同様に言えることである。何もせずに無為に二年を過ごしたわけではないのだ。


「ねえ、怒ってるの?エルンスト」
「……」
「アイリス嬢を傷つけられたことを怒ってるの?それとも貴方に怪我を隠していたこと?」
「どっちもだ」
「そう。……貴方、アイリス嬢のことが大事なのね。好きなのかしら」


 無駄口を叩くのもいい加減にしろ、とエルンストは興味深々とばかりに言葉を重ねるカサンドラに向けて炎の攻撃魔法を放つ。何の予備動作も無しに放ったそれは彼女の身を捕えるはずだと思うも、ぶわりと炎を相殺するようにカサンドラの身を中心に突風が吹き抜けた。「怖いわ」などと口にはしながらも余裕の姿勢を崩さない彼女にエルンストは奥歯を噛み締める。


「それにしてもよかったじゃない、安心したわ」
「……」
「私の所為で女性嫌いになったと聞いていたから心配していたのよ。……でも、エルンスト、貴方ってやっぱり報われない相手のことを好きになるのね」


 エルザ殿下の時と一緒、とカサンドラは口の端を吊り上げる。咄嗟に違う、と言い返そうと口を開くも、それよりも先に彼女が言葉を発する。


「ああ、でも違うわね。貴方はエルザ殿下が好きだったわけではないもの。……ただ、ギルベルトの持ってるモノを片っ端から奪いたかっただけだものね」
「……っ」


 ぐさり、とカサンドラの言葉が心に突き刺さる。土足で心に足を踏み入れられるようなその感覚にエルンストは唇を噛み締めた。何を言っても、何も言わなくても、カサンドラにとってはどうだっていいことなのだということも分かっていた。彼女は、全て気付いているのだと、否が応にも、その言葉で思い知らされる。全て見透かされてしまっているのだと。


「それなのにエルザ殿下は手に入らず、アイリス嬢だって手に入らず……可哀想なエルンスト。今度は兄ではなく、唯一の友人に奪われるんだから。貴方って本当に無いものねだりばかりするのね」
「……黙れ」
「それにしてもゲアハルトも隅に置けないわね。貴方には汚れ仕事ばかり押し付けるのに、自分は欲しいモノを得るんだから」
「煩いっ黙れ!司令官は、ただ汚れ仕事を押し付けてるわけじゃない。俺のことを信用して任せてくれてるだけだっ」


 叫ぶように発した言葉にカサンドラは目を丸くすると、程なくして我慢出来ないとばかりに笑い出した。可笑しい、堪えられないとばかりに笑い続ける彼女にエルンストは何が可笑しいと剣の切っ先を向けるも、カサンドラはなかなか笑いを止めなかった。そして、程なくして漸く笑い声が収まると、彼女は目の端に浮かんだ涙を指先で拭いながら「貴方の口から信用なんて言葉が出るとは思わなかったわ」と笑みを交えながら言う。


「でもね、貴方がそう考えてることに気付かないゲアハルトだとでも思ってるの?」
「……何を」
「自分のことを信用しているのだと貴方が考えていると分からないゲアハルトではないでしょう?自分のことを、理解者だと思っているのだということを、知らないあの人ではないと思わないの?」
「……」
「利用出来るものなら何でも利用する。それがたとえ友人の心だとか過去だとか、そういうものでさえも駒のように扱う……それがゲアハルトという人間だということを、貴方が一番知っているのではないの?」


 彼にとって、貴方ほど使い勝手のいい駒はいないのよ。
 吐き出された言葉が、まるで毒のように心の中に沁み入っていく。そんなことはない、ただの妄言だとそう思うのに、頭の何処かでその通りだとも思う自分もいた。ゲアハルトのことはカサンドラが言うように、何も知らないというわけではない。全てを知っているとは言えなくとも、他の人間よりもよく知っていると言えるだろう。
 ゲアハルトは決して清廉潔白な人間ではない。人を駒のように扱うことも、駒としか見ていないところもある。全てをそのように扱っているというわけではないけれど、駒として使う人間の方が多いことは確かだ。そこに自分が含まれているのではないとも心の何処かで思い続けてきたことだ。しかしそれを、信用や理解者といった言葉で誤魔化し続けてきたのは他の誰でもなく、自分自身だった。
 それをカサンドラに言い当てられたことにエルンストは戸惑いを隠せなかった。心が、感情が揺さぶられる。そのような言葉に耳を貸さずに自分の為すべきことを為さなければと思う反面、気付けば手が震えていた。自分の寄る辺が少しずつ崩れていくようで、床に足が付いているにも関わらず、足元がぐにゃりと揺れている気さえしてきた。


「可哀想なエルンスト。汚れ役ばかりさせられて、駒のように扱われて、やっと自分自身で選んで好きになれた子も奪われるんだから」
「……、だま、」
「でもね、まだ間に合うわ。……ねえ、エルンスト。私が、私たちが手伝ってあげる。ゲアハルトから奪ってやりましょうよ」


 いつの間にか目の前まで迫っていたカサンドラのひんやりとした冷たい手が剣を握るエルンストに手に触れた。その冷たさに咄嗟に手を引こうとするも、予想外に強い力で手を握り締められてしまう。じわりじわりとその冷たさが指先から這い上がってくるような感覚にエルンストは顔を歪め、「放せ」と微かに震える声で口にした。


「放せっお前の手伝いなんて必要ない!お前の言葉に貸す耳になんて持ち合わせていない!」
「そう?貴方一人でゲアハルトをどうにか出来るのかしら」
「司令官をどうにかする必要なんて俺にあるはずないだろ」


 自分に言い聞かせるような響きを持ったそれにカサンドラは口端を吊り上げて嗤った。そしてそのまま、するりと手を放すとゆっくりと後退していく。少しずつ開く間にエルンストは慌てて握り直した剣を振るうも、切っ先がカサンドラに触れることはなく、彼女はゆったりとした足取りで窓を押し開いた。
 開け放たれた窓からは焦げ付いたにおいとより鮮明に響く怒声や悲鳴が入り込んで来る。そして漸く、今がどのような時であったのかとエルンストは思い出した。それと同時に、カサンドラに上手く言い包められていたことに苛立ちを露にし、窓辺に立ち上がった彼女に向けて攻撃魔法を放とうとする。
 しかし、それは寸前に足元から噴き上がった突風に遮られ、廊下のあちらこちらに四散するに留まった。カサンドラは振り返り、美しくも冷たい笑みを浮かべる。


「お話出来て楽しかったわ、エルンスト。また会いましょうね」
「待て!」
「ごめんなさいね。もう欲しいモノは手に入ったの。後は逃げるだけ……アウレール、そろそろ起きて頂戴」


 カサンドラは衣服のポケットを押えながらにこりと微笑むと、視線を廊下に伏したままになっていたアウレールに声を掛ける。すると、今まで気を失っているとばかり思っていた彼はゆっくりと身体を起こした。どうやら既に意識を取り戻していたらしく、カサンドラの指示があるまで意識を失っている振りをしていたようだった。
 せめてアウレールだけでも、とエルンストは彼に向けて手を翳すもそれを遮るように再び突風が吹き荒れる。その隙に窓辺まで移動したアウレールは腕を翳して視界を確保するエルンストを一瞥すると、そのまま外へと飛び降りてしまった。


「出来れば、今度こそ私の誘いに乗ってくれると嬉しいわ。エルンスト」
「誰が、」
「だって貴方、昔の私によく似ているんだもの」

 
 ギルベルトを手に入れられなかったあの頃に自分に――そう言い残し、カサンドラは躊躇いもなく窓辺を蹴り出した。エルンストはすぐに窓辺へと走り寄るも、外の喧騒に紛れて既に彼女の姿はなかった。
 エルンストは苛立ちを露に床に剣を突き立てると、拳が痛むことも躊躇わずに壁へとそれを叩きつけた。鈍い痛みが腕を伝わるも、それさえ気にせずに彼は唇を噛み締めながら血が滴るほどに幾度も壁を殴り続けた。 



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