反撃 - the hope -




「何だよ、この状況。中の警備兵と近衛兵は何やってんだ?」
「仕方ねーだろ。結局はお坊ちゃんが剣握ってるだけのお飾り兵士なんだから」


 ルヴェルチ邸の内部を捜索したものの、生存者は誰一人としていなかった。全てアベルが使役していた狼に喉元を引き裂かれ、噛み付かれて苦悶と恐怖の表情を浮かべたまま、彼らは物言わぬ屍と化していた。これでは何の手掛かりも得られないではないかと思いながらも、そこであるかどうかも知れない手掛かりを探すにはあまりにも状況が悪かった。
 そのため、生存者がいないことを確認してからすぐにバイルシュミット城へと向かったのだが、そこはまさに混沌と化していた。城から脱出しようと城仕えの者たちが逃げ惑い、その間で深紅の軍服や警備兵の装備を纏った者たちが右往左往としているのだ。彼らの手には剣こそあるものの、傍から見ても使い古されたものではなく、真新しささえ漂っている。
 それらを見ると、つい溜息や呆れといったものが口から漏れてしまう。彼らが逃げ惑う者たちに指示を出せば、ここまで混乱はしないはずなのにと思うも、それを気遣う余裕はレックスにはなかった。とにかく、城の中に入ってエルンストらと合流しなければと思いつつも、アイリスは今頃何処にいるのだろうかということも気になった。
 しかし、周囲の人間に聞いたところで分かるはずもないだろう。バイルシュミット城は決して小さな城ではない。そしてこの混乱状態のことを思えば、一人の人間の居場所を見つけることなど不可能に等しいことだ。レックスはきっと無事なはずだと心配する気持ちを頭を振って追い出すと、「とにかく城に入ろう」と仲間に声を掛けた。


「確か指揮の全権はバルシュミーデ団長に預けられてるんだよな」
「ああ。多分、城の中央にある広間に向かわれてるはずだ」
「ということは敵もそこにいるかもしれねーんだろ?早く加勢に行こうぜ」


 軽い調子で言いながらも仲間の目は自分たちが守って来た場所を滅茶苦茶にされたことへの怒りに満ちていた。落ち着け、とレックスは軽く肩を叩くと、改めて背後を振り返り、「広間に向かう途中、敵兵と遭遇するかもしれない。全員、気を付けてくれよ」と言うと、何処からともなく、お前がな、と言葉が返される。途端に沸き上がる周囲にレックスは僅かに眉を下げながら溜息を吐く。しかし、それをきっかけに先ほどよりも幾分も周囲を取り囲む空気が和らいでいる。
 そのことにほっと安堵しつつ、レックスは逃げ惑う人々の間を縫うように走り出した仲間の後に続いた。城の内部に入ると、そこは予想していた程、人で溢れているということもなく、寧ろ人々が逃げ出したが為に奥に進むほど静まり返っていた。壁に反響する靴音だけが耳に届くようになる頃には、このまま進んでもいいのだろうかという不安さえ過るほど、不吉な気配が城内には漂っていた。
 そんな中、ふと廊下の曲がり角の方から慌ただしい複数の靴音が聞こえてきた。咄嗟にレックスらは立ち止まると手近なところにあった柱の影に身を潜め、各々の武器へと手を伸ばした。足音の様子から道に迷いがないことが伺える。それだけであれば、味方の兵士の可能性は高かったが、ルヴェルチが手引きしていたのだから帝国兵が事前に城内の経路を知っていたことも考えられる。敵か味方かは足音の主が曲がり角から飛び出して来なければ分からない。味方であればいいが、そうでなければこの場で剣を交えることにある――高まる緊張の中、レックスは自分自身を落ちつかせるように深呼吸を繰り返し、そして、飛び出して来た人影に向けて剣を抜いた。


「な、っ……エルンストさんのところの……!」


 条件反射で剣を抜き、それを振り被るも、曲がり角から姿を現したのは幾度か隠れ家で顔を合わせたことのあるシュレーガー家の私兵たちだった。彼らも剣から手を離すと安堵した様子で、「君たちか」と僅かに表情を緩めた。どうやら、レックスたちの気配に彼らは勘付いていたらしい。
 一先ず互いの無事を喜び合うと、私兵の中の一人が「君たちの手を貸して欲しい」と表情を引き締めて口にした。そこで漸く、彼らを率いているはずのエルンストの姿がないことやいつもよりも人数が少ないということに気付いた。一体どうしたのだろうかとレックスらが顔を見合わせていると、「実は、」と協力を求めた男が掻い摘んで状況を説明した。
 シリルとキルスティが暗殺されたということ、エルザは無事で現在アイリスらと残りの私兵で護衛しながらゲアハルトの救出に向かっていること、そして、エルンストがカサンドラと対峙し、レオは未だ東の塔に幽閉されているということ。一気に様々なことが告げられ、混乱してしまいそうになる。しかし、アイリスが無事だったという知らせにレックスは内心安堵していた。王族の人間が殺されている今、そのようなことを考えている場合ではなく、不謹慎だとは分かってはいたが、肩から力が抜けるようだった。


「当たり前だろ!レオがまだ閉じ込められてるならすぐに助けに行かねーと」
「司令官の方はアイリスたちに任せるとして、俺らはレオの方に行こうぜ」
「その前にバルシュミーデ団長に状況を知らせておくべきだろ」
「あ、それならオレが行く。足には自信があるからな」


 そう言って名乗り出た一人が伝達事項を確認すると、「気を付けてな」とレックスの肩を叩いて廊下を駆け出した。この地点からヒルデガルトが指揮を執っているであろう広間まではそれほど距離はないものの、やはり不安は残る。腕が立つ者ではあるが、だからといって大勢の帝国兵に囲まれれば一溜まりもない。だが、今はこれ以上、兵力を分散させるわけにもいかない。レックスは振り切るように半ば無理矢理前を向くと、急ぎましょうと私兵らを促した。
 レオが王族の人間であるということは既に知れ渡ってしまっている。そして、シリルやキルスティが暗殺された今、彼の命が危険に晒されているということは想像に難くない。既に兵士が差し向けられていることは確かだろう。どのような状況で幽閉されているかは知れないものの、何かしらの武器がレオの手にあるとは考え難い。たとえ、武器になり得るものがあったとしても、それだけで耐え凌げる程度の兵士が差し向けられているとは思えない。レオを必ず殺せる兵士を送り込んでいるはずだ。
 廊下を駆け抜け、レオが幽閉されている東の塔へと向かいながらレックスは脳裏を過ったアベルの姿に唇を噛み締めた。ルヴェルチの始末を命じられるということは、決して信用されていない立場ではないのだろう。ならば、もしかしたら今度はレオの前に姿を現すかもしれない。それを思うと、背筋に冷たい汗が伝った。レオはまだ、アベルが裏切ったことを知らないのだ。彼が自分の前に現れたのなら、生きていたことを喜び、普段と同じように接しようとするだろう。――そうなれば、レオの命は失われたも同然だ。


「あの、牢の鍵はあるんですか?」
「ああ。エルンスト様から預かって来ている」


 頷きながら軽く胸ポケットを叩く。どのようにして入手したのかは知れないが、一先ずは扉を開ける術があることに安堵した。だが、それを使ってレオを助け出すには目前に迫った東の塔を上り切り、既に差し向けられているであろう帝国兵を排除しなければならない。今度こそ、逃がすわけにはいかないのだと自分自身に強く言い聞かせ、東の塔へと向かって更に足を速めようとした矢先――塔の地上部分に赤々と光り輝く魔法陣が描き出された。
 その赤い輝きには見覚えがあり、レックスはすぐに足を止めると「塔から離れろ!」と声を荒げた。周囲は一瞬何を言っているのだとばかりに怪訝な顔をしたものの、彼の叫びのすぐ後に爆発音を轟かせながら魔法陣から炎が噴き上がり、一瞬にして塔は炎に飲まれてしまった。今も尚、炎を噴き出し続けるその赤く輝く魔法陣は橋を落とす為にアベルが放った攻撃魔法のものと同じだった。


「塔が……」
「……鍵を渡して下さい。オレが行きます」
「何を、」
「いいからさっさと鍵を渡せっ!」


 凄まじい勢いで塔を飲み込んでいく炎を見上げることしか出来ない私兵らにレックスは声を荒げた。そして、鍵を持っている私兵の男に掴みかかると、強引に胸ポケットから鍵を取り出す。見るからに急拵えなものだったが、素人の目でもその形状から特殊な鍵であるということが伺える。レックスはそれをポケットに仕舞い込むと剣を担ぎ直す。
 そして、「あいつを連れて戻って来るからそれまでこの塔に誰も近付けないでくれ」とだけ言い残し、我に帰って止めようとする兵士らを振り払って目に明る過ぎる燃え盛る炎の中へとレックスは迷う素振りなど見せずに飛び込んだ。








 がこん、と鈍い音と共に埃を舞わせながら北の地下牢のすぐ近くに繋がる隠し通路の扉が開いた。周囲を警戒しながら外へと出たシュレーガー家の私兵に続いてアイリスも一歩踏み出すも、それ以上進む前に腕を掴まれてしまった。振り向くと、顔色を悪くさせながらも心配げな表情を浮かべているエルザがいた。
 彼女がカサンドラから受けた首や腕の傷は既にアイリスが隠し通路の中で回復魔法を使って癒した。幸いにも刃に毒が塗り込まれているということはなかったため、顔色こそ悪いものの、身体に傷は残らず、特に後遺症などとも残らないはずだ。そのことにほっとしたのはアイリスだけでなく、シュレーガー家の私兵も同様だった。


「気を付けてね、アイリス」
「大丈夫です。エルザ様は此処で私兵の方々とお待ちください」


 これ以上、エルザを連れ回すわけにはいかないということで彼女は隠し通路の中で三分の一の私兵と共に待機することとなった。いざとなったときにはこのまま隠し通路を使って城を脱出し、シュレーガー家の邸に向かうことになっている。本当ならば、今すぐにでも城を脱出するべきではあるのだ。しかし、いくら説得しても頑としてエルザは首を縦には振らなかった。
 足手纏いだということは分かっているけれど、レオの安否も分からないのにこのまま自分だけが安全な場所に逃げるわけにはいかない――そう言って、彼女は顔を伏せてしまった。そのように言われてしまうと、アイリスも一緒にいた私兵も何も言うことは出来なかった。レオのことを心配に思っているのはエルザだけではないのだ。
 エルザは不安げに眉を下げながら何か言いたそうにしているものの、言葉にならない様子だった。このような事態に巻き込まれることなど今までなかったのだろう。不安や恐怖があまりにも大きすぎて感情が追い付いていないに違いない。アイリスは努めて落ち着かせるように手を握り締める彼女の手にそっと手を重ねる。


「すぐ戻って来ますから」
「……無茶はしちゃだめよ。自分の命を大切にして、無理はしないで」
「分かってます、大丈夫ですよ」


 貴女の分かってると大丈夫は当てにならないのよ。
 そう言ってエルザは眉間に皺を寄せてしまう。アイリス自身、言われてみると確かにそうかもしれないとも思い、微苦笑を浮かべるしかない。しかし、いつまでもこうしているわけにはいかず、アイリスは名残惜しさを感じながらもエルザの手を離すと、やんわりと隠し通路へと彼女の肩を押す。
 本当は此処にアイリスも待っているように言われたのだ。しかし、それは出来ないと首を横に振り、ゲアハルトを助け出すのだという主張を断固として変えなかった。そのために此処まで来たのだ。エルザのことも守らなければならないが、彼女は今、ゲアハルトよりも安全な状態なのだ。ならば、此処に残るよりも動けるようになっているのだから自分も動くべきだと思ったのだ。


「それではエルザ様、また後で」


 それだけ言い残すと、アイリスは先に外に出ていた私兵らと合流して北の地下牢へと向かって駆け出した。足の感覚は戻り、走ることも出来る。しかし、何処かその足取りは覚束ないもので見ていて危なっかしくもある。だが、それ以上に腹部の痛みは限界だった。熱を持ち、痛みを訴えるそこを無視するにも限界がある。けれど、だからといって足を止めているわけにはいかなのだ。
 ゲアハルトの元に行くのだと周囲の反対を押し切って決めたのは他ならぬ自分自身だ。だからこそ、たとえどれだけ辛くとも周りに迷惑を掛けるわけにはいかず、足を止めるわけにもいかないのだ。既に慣れ親しんでいる北の地下牢へと辿り着き、ゲアハルトが幽閉されている牢に向かおうと階段を下り始めると、ふとあることに気付いた。


「……寒い」


 もうすぐ夏が終わるということもあり、朝晩は幾分も過ごしやすくはなっている。しかし、まだ寒いと感じるほどではなかった。地下牢も気温も外より下がってはいたが、身体が震え、寒いと感じるほど寒くはなかったように思うのだ。しかし、今は一段階段を下りていくごとに気温が下がっているのではないかと思うほどに寒く、吐息は白くなり、アイリスは思わず両腕で身体を抱き締めた。それは周囲の私兵らも同様らしく、彼らは顔を見合わせてどういうことだと戸惑っていた。
 しかし、ここで足を止めているわけにもいかず、アイリスらは慎重に階段を下りていく。そして、もう少しでゲアハルトが幽閉されている階層に到着するところで不意に爪先が何かに触れ、アイリスは短い悲鳴を上げた。一体何がそこにあるのかと恐る恐る足元に視線を向けると、そこには一人の帝国兵が蹲っていた。


「……死んでるな」
「どうして……」
「恐らく、攻撃魔法を受けたからでしょう。だが、一体誰が……」
「……司令官」


 しゃがみ込み、蹲ったまま息絶えていた帝国兵を検分する私兵らを前にアイリスはぽつりと彼の名前を呟いた。だが、それはゲアハルトに危機が迫っているということよりもこの冷え切った状況を作り出しているであろう人物に思い当たったが為に口を突いて名前が出てきたといった様子だった。
 アイリスは一度だけ、攻撃魔法を行使したゲアハルトを見たことがあった。ホラーツの国葬を執り行った時、彼は怒りのままに魔力を暴走させ、足元から多数の氷の棘を造り出した。そこまで思い出すと、爪先は自然と牢獄の方向へと向き、気付いた時には敵がいるかもしれないという私兵らの注意も振り切って走り出していた。
 扉を開け放って一歩踏み込むと、階段で感じた以上の冷気が肌を刺す。このようなところに長時間いると、いくら攻撃魔法を使った本人であっても無事でいられるはずもない。アイリスは「司令官っ」と悲鳴にも似た声を上げ、暗い廊下を駆け出した。そこには無数の凍りついたように動かない屍で溢れていた。全てゲアハルトを手に掛けようと差し向けられた帝国兵のようだったが、今は彼らの生死を確認している余裕はない。


「司令官、ゲアハルト司令官っ」


 アイリスは彼が閉じ込められていた牢獄の前に辿り着くと、すぐにポケットから取り出した鍵を使って牢の中に入った。そして、鉄格子に凭れかかるようにして座り込んでいるゲアハルトの身体に触れた。ひんやりと冷たくなってしまってはいるが、どうやらまだ息はある様子だった。早く此処から連れ出さなければと牢から顔を出すと、遅れてやって来た私兵らがすぐにゲアハルトを抱えて牢から連れ出してくれた。
 そのまま彼らと共に地階へと戻り、灯りのある廊下に寝かせるとゲアハルトの顔色の悪さがより鮮明になった。無理矢理にでも手錠を外そうとしたらしく、手錠には血がこべり付き、それさえも冷たく凍ってしまっていた。その痛々しさに顔を歪めながら、もっと早くに来れていればという後悔で胸がいっぱいになる。
 けれど、今は自分の力の無さを嘆いている場合ではない。アイリスは目の端に滲んだ涙を拭うと、両手をゲアハルトに向けて回復魔法を掛ける。諦めることなど出来るはずもなかった。それはきっと、ゲアハルトだって同じだったはずだと思ったのだ。もういい、どうなってもいいと諦めることが出来なかったからこそ、きっと誰かが助けに来るはずだと思ったからこそ、ゲアハルトはたった一人で拘束されたまま、戦ったに違いないのだ。


「……司令官、起きてください」


 両手から放たれる柔らかな光が彼の身体を包む。それがゆっくりと冷えから負った傷を癒していく。顔色もだんだんとよくはなっていくものの、一向に目覚める気配はない。すぐには無理だということも分かってはいるのだ。けれど、いくら心臓が動いていても、触れた手が温かくなっても、目を開けて、ほんの少しでも声を聞かせてくれなければ安心など出来なかった。大丈夫だと、平気だと、ゲアハルトの口から聞かなければ誰が何を言っても信じられそうになかったのだ。


「司令官……起きて、……ライルさん、……ライルさん」


 起きて、と口にする声が震えた。ぽたりと涙が頬を伝っていく。傷の癒えた骨ばった大きな手に触れ、それを強く握り締めながらアイリスは何度も彼の名前を呼び続ける。幾分も顔色がよくなり、どこか穏やかな表情さえ浮かべているゲアハルトの顔を見つめ、起きてと涙を流しながら声を掛け続けた。
 周囲の私兵らは何も言わず、それを見守っていた。否、見守ることしか出来なかった。口を挟む隙間などなく、ただ、早くゲアハルトが目覚めることだけを願うしかなかった。これ以上、彼まで失うことになれば、本当にこの国は終わってしまうのだと、そのような危機感と共に。
 そして唐突に、声を掛け続けていたアイリスの声が止んだ。目を大きく見開き、起きる気配のないゲアハルトを見つめていた。まさか、という動揺が見守っていた私兵らの間を駆け巡っていく。しかし、アイリスはそれを気に留めることなく、視線をゆっくりと握り締めていた手へと向けた。強く強く握り締めていた手に微かな感覚を感じ取ったのだ。ほんの微かに、握り返す様なそんな感覚を。


「ライルさん……ライル、」


 まさか、と名前を呼ぶと、それに反応するように微かに握り締めていた手に力が入った。アイリスは目を見開くと、ゲアハルトの顔へと視線を戻す。もうこれ以上握れないとばかりに両手で手を握り締めると、ぴくりと瞼が震えた。その様子に周囲の私兵らは安堵の息を吐くと同時にわっと声を上げる。
 ぴくりと動いた瞼は微かに震えた後、ゆっくりと開いた。明るい青の瞳が開かれ、それはゆるゆると周囲を彷徨った後にアイリスを捉えて止まった。そして彼は、微かに笑う。掠れた声で「来るのが遅い」とぼそりとゲアハルトは、アイリスの手を握り返しながら呟いた。



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