反撃 - the hope -




 東の塔の中に入ると、中は既に煙が充満していた。レックスは口元を押えると、一気に階段を駆け上がり始める。まだそれほど塔の内部に火の手は迫っていないものの、それも時間の問題だ。急がなければと螺旋階段を駆け上がるも、なかなか最上階までは辿り着きそうにない。しかし、休んでいる暇はなく、階段の踊り場で息を整えてまた一歩、踏み出そうとした矢先――上階から激しい爆発音が轟いた。
 一体何が、と手すりから身を乗り出すようにして頭上を見上げると、目的地である最上階の付近から黒々とした煙が上っていた。それと同時に言い争うような声が聞こえ、その苛立ちのままに張り上げられる少し高めの声にレックスは顔を歪めた。このような感情的な様子で叫んでいるところなど殆ど見たことはなかったが、その声音は確かにアベルのものだった。会話らしいものが成立している以上、何者かと共にいるらしいが、そのことは今やレックスにはどうだっていいことだった。
 レオを助けて出て来るまで誰も塔に近付けるなと彼は口にして突入した。それは偏に、またアベルと遭遇するかもしれないと思ったからだ。アベルが裏切ったということを知らないレオに対して、彼ほど油断させることに適した人材はいない。だからこそ、アベルはルヴェルチを手に掛けた後、次の命令に従ってレオを手に掛けようとするのではないかと考えたのだ。
 そしてそれを、レックスは止めるつもりでいる。他の誰かがその状況を見れば、アベルは問答無用で剣を向けられ、それこそ殺し合いになるだろう。そのようなことは、どうしても避けたかったのだ。アベルには迷っている様子があった。このまま鴉の命令に従っていてもいいのかと、悩み、どこか苦しげな様子でもあった。その迷いがある以上、まだ引き返せるとレックスは思ったのだ。
 勝手な行動であるということは分かっている。このようなことは本来ならば許されないことだ。規律に反することを、レックスはしたくはなかった。けれど、それ以上に、このままアベルを見捨てることは出来なかったのだ。橋を落とすという任務遂行の為にアベルを置き去りにした時からずっと胸が苦しくて仕方なかったのだ。そしてまた、まだ手を伸ばせば届く距離にいる彼を見殺しにするかもしれないと思うと、それだけは嫌だと、気付けば身体が動いていたのだ。


「どうして開かないの!?ボクの攻撃魔法が通用しないなんて!」
「落ち着け、カイン。扉が無理でも周りの壁を壊せば何とかなる」


 残りの階段を駆け上がる間も断続的に爆発音が続いていた。それと同じく、途切れ途切れに聞こえて来るヒステリックな声にレックスは違和感を覚えていた。アベルとはどこか違う雰囲気だったのだ。声音は同じだ。けれど、口調が違うのだ。何より、いつだって冷静沈着で焦ることのない彼にしてはあまりにも聞こえて来る声が感情的過ぎた。
 一体どういうことなのだろうかと思っている間にも階段を上り続けると、やがて最上階にいる人影もはっきりと視認することが出来た。黒いローブを纏い、一人は壁に凭れかかり、小柄なもう一人は扉に向けて攻撃魔法を放っていた。そして、放たれたそれが扉とぶつかり合い、爆発音が轟く。しかし、先ほどまでとは異なり、癇癪を起こすのではなく、攻撃魔法を放っていた人影は手を扉のすぐ近くの壁へと向けた。
 どのようにして扉が攻撃魔法を弾いていたのかは知れない。だが、壁が同様に攻撃魔法を弾くとは限らない。下手をすれば、壁が破壊されてそこからレオが飛び出してくるかもしれない。そうでなくとも、彼らが室内に突入するかもしれないのだ。レックスは一気に階段を駆け上がると、抜き出した剣を振り上げて今まさに攻撃魔法を放とうとしていた人影に向けて振り下ろした。


「ちょ、っと……危ないなあ!いきなり何するんだよ!というか、ブルーノ!知らせるぐらいしなよ!」
「俺が知らせなくとも自分で避けられただろ」


 レックスが振り下ろした刃は寸前のところで躱され、ローブを引き裂くに留まった。そのまま彼は扉を背にするように位置を取ると、剣を真っ直ぐに目の前のアベルとよく似た顔立ちの少年に向けた。最初、レックスは目の前の少年をアベルではないかと考えていた。だが、彼を前にすればアベルではないのだということはすぐに分かった。
 目が、違うのだ。アベルが包帯で覆っているのは右目だ。それに対して、目の前の少年は左目を覆っている。そうでなくとも、先ほどからの様子を見聞きしていれば、彼がアベルではないということぐらいは彼をよく知る人物であればすぐに判じられただろう。しかし、それ以上に頬に刻まれた黒い鳥の刺青こそがアベルとの違いだった。黒い鳥の刺青は帝国軍の特殊部隊所属を意味しているという話は既にレックスも聞いていた。自分が探し求めている復讐相手と同じ所属の者たちが目の前にいる――そのことにレックスは僅かに鼓動が早まったように感じた。
 しかし、その緊張を首を横に振って頭の外へと追い出すと、改めてレックスは目の前の少年に視線を向けた。その顔立ちはアベルとよく似ていた。目の前の彼は何者なのか――それは疑問ではあったものの、顔立ちがあまりにも似ていることから兄弟であるのだということは伺える。
 そのことにレックスは安堵と同時に喩え様のない焦りを感じた。レオを殺そうとしているのがアベルではなかったことへの安堵と唯一とも言える説得の機会だと思っていたのに、自分の予想が外れたことへの焦りで心は綯い交ぜになっていた。だが、いつまでもアベルのことばかりを考えているわけにもいかない。この場に敵がいる以上、レオを迂闊に外に出すわけにはいかない。かといって、塔の倒壊が始まるまでには脱出しなければならない。時間は限られているにも関わらず、目の前には二人の敵がいる。自分は選択を誤ったのか、とレックスは微かに唇を噛み締めた。


「おい、……おい、レオ。無事か?」
「その声、レックスか!?」
「ああ。いいか、今からオレが言うことをちゃんと聞いて、」
「アベル、生きてたんだってな!オレ、全然知らなくてさ……あいつが生きてたって聞いて、オレ、すっげー嬉しくて、」
「嘘を吐くなっ!」


 嬉しそうに扉越しに声を上げるレオを遮るようにアベルとよく似た顔立ちの少年が叫んだ。その声音は怒りや苛立ちに微かに震え、アベルと同じ黒曜石の瞳は殺意に満ちていた。あまりに剣幕にレックスは思わず息を飲むも、現状を把握し切れていないレオは困惑した様子で「アベル、どうしたんだよ……」と口にした。


「……ボクはアベルじゃない。ボクは、お前たちが見殺しにしたアベルの兄だよ」


 震えるほど拳を強く握り締める彼にそれまで傍観を決め込んでいたフードを目深に被っている青年――ブルーノが「落ち着けよ、カイン」と溜息混じりに声を掛ける。しかし、カインと呼ばれた少年はその注意に煩い、と感情的な声を張り上げると懐から鋭利なナイフを取り出した。


「アベルを見殺しにして置き去りにしていった奴らなんかにどうして生きてたことを喜ばれなきゃいけないんだ」
「待てよ、なあ、レックス。どういうことなんだよ!」


 説明してくれよ、とレオが扉を叩いた。出来ることならこのような場ではなく、もっと落ち着いているときに教えたかった。だが、下手なことをカインに言われてレオが混乱するかもしれないことを思えば、自分の口で伝えた方が余程良いと思ったのだ。レオが他人に対して優しすぎるところをレックスはよくよく知っていた。そんな彼にカインがアベルを置き去りにしたくせに、見殺しにしたくせにと、それが事実であっても口汚く責めれば、レオは自分を強く強く責めるだろう。
 アベルを置き去りにしたことも見殺しにしたことも、決してレオだけがしたことではない。あの場にいたレックス自身も、同じことをしたのだ。レオだけが責められる謂われはなく、寧ろあの小隊を率いていたレックス自身が最も責められるべきなのだとも彼自身は考えていた。
 けれど、今はそれを説明している余裕はなかった。レックスは言葉に迷うように何度か口を開くも、言葉にならずに唇を何度も引き結ぶ。言いたいことはたくさんあった。決してアベルを見殺しにしたかったわけでも、置き去りにしたかったわけでもない。だが、置き去りにして見殺しにしたということは事実だった。その過程がどうであれ、どのように思っていたとしても、結果が示しているのはレックスやレオ、アイリスが生き残る為に――たとえそれが命令を遂行する為であったとしても――仲間一人を置き去りにしたということだ。


「おい、レックスっ!」
「……アベルは……」


 レックスはきゅっと眉を寄せて顔を歪めた。その一言を吐き出すことが、こんなにも苦しいとは思いもしなかった。
 アベルが生きていたということは単純に嬉しい。自分にそれを喜ぶ資格があるとは思えないものの、それでも、生きている彼を見た時は安堵したのだ。だからこそ、本当はアベルが内通者として自分たちの傍にいたのだということを知った時、目の前が真っ暗になった。
 どうして、と思った。けれどそれ以上に、どうにかアベルを連れ戻すことは出来ないのだろうかと思った。それはきっと、アベルがとても苦しげな顔をしていたからだ。その目に、迷いがあったからだ。だが、レオはそれを知らない。今から告げるその一言は、きっと彼の心を抉るだろう。口喧嘩が絶えない二人だったが、それでも決して仲が悪かったわけではないのだ。それでも、言わないという選択肢を選ぶわけにはいかず、レックスは乾いた唇を動かし、その一言を告げた。


「アベルは、オレたちを裏切ってたんだ」
「……え?」
「あいつは帝国の内通者だった」


 扉の向こうで息を飲む気配がした。絶句しているのであろうレオのことを思うと、たった一枚の、それでも彼の命を守る扉があることがどうしようもなくじれったかった。アベルが裏切っていたということは彼本人の口から告げられた事実ではある。だが、これまで共に過ごした時間が嘘だったと言うことは出来ない。時折、楽しそうにしていた、笑ってもいた。それも全てアベルが自分たちを欺くための演技だったなどとは、やはり思えないのだ。
 そのようなことは考えるまでもなく分かるはずだろう、ときっと項垂れているであろうレオに言いたかった。だが、すぐ近くでナイフを手に「こいつらはみんなボクが殺してやるんだ」と物騒なことばかりを呟くカインを前に、逆上すると分かり切っていることを言えるほどレックスは無鉄砲ではなかった。


「嘘だ……」
「……嘘じゃない」
「嘘だ!だってあいつは、アベルは、」
「お前たちなんかの仲間なわけないでしょ!?アベルの仲間がボクたちだ。ボクたちだけだ!アベルを見殺しにしたくせに、生きていたと分かったら仲間面して生きててよかったなんて然も心配してたかのように言っちゃってさ……ボクはお前たちみたいな綺麗事ばっかりの奴らが一番嫌いなんだ!」


 反吐が出る、気持ち悪い、と罵り、カインは指先が白くなるほどナイフを握る手に力を入れていた。アベルと同じ顔で、同じ声で告げられるそれらの言葉にレックスは胸が痛んだ。決して、カインが言っていることは間違ってはいないのだ。見殺しにしたことは事実であり、アベルはもう死んだものだとばかり思っていた。
 アイリスはきっと生きているはずだと生存を信じていたようだが、正直なところ、レックスはもう諦めていた。それはレオも同じことだろう。とてもではないが、生きているはずがない状況だったのだ。だが、アベルは生きていた。しかしそれも、偏に彼が帝国軍所属の内通者だったからに過ぎない。そうでなければ、アベルがあの状況で生きているはずがないのだ。
 だが、やはり無傷で助かることは出来なかった。アベルの負った怪我がどの程度のものであるかは知れないものの、未だ包帯を巻いていることから考えると回復魔法でもどうにもならないほど、酷い怪我を負ったのだということが分かる。しかし、ならばなぜ目の前にいるカインもアベルとは反対側の目を包帯で覆っているのかという疑問が沸く。いくら兄弟だからといってもこのように示し合わせたような怪我などするはずがない、とカインの様子をレックスが伺っていると、唐突にぐらりと視界が揺らいだ。


「何だっ」


 しかしそれは、自分自身の身体が倒れかかったというわけではなく、足を付けている床――延いては塔全体が揺らいでいるのだということに気付く。体勢を崩しているのはレックスだけでなく、対峙していたカインやブルーノも同様であり、扉の向こうのレオも同じことだろう。つまり、塔が崩れ始めているのだ。
 そのことに気付くなり、レックスはナイフを構えて腰を落としたカインに剣を向ける。だが、カインが足を踏み出すよりも前にそれまで傍観を決め込んでいたブルーノが壁から背を離し、彼に加勢するように懐からナイフを取り出した。さすがにこの状況で二対一は分が悪い、と微かに眉を寄せると「いいよ、ブルーノは下がっててよ!」と意外なことにカインが自分の傍へと寄ってくるブルーノに噛みついた。


「それが出来たらやってる。でも、時間がないだろ」
「こんな奴ぐらい、ボク一人で十分だよ!」
「だとしても、だ。念には念を入れるべきだし、俺はさっさと終わらせて帰りたいだけだ」


 気だるげに言いながらもブルーノは真っ直ぐに刃の切っ先をレックスに向ける。面倒そうにしてはいるものの、その隙のない様子にレックスはどうやってこの場を切り抜けるべきかと必死に頭を働かせる。最優先するべきはレオを守り抜くということだ。だが、此処で時間を稼いだところで肝心の塔が崩れかかっているのだ。そうなると、さすがにレオを守り抜くだとかそういう次元の問題ではなくなってしまう。
 選べる選択肢もそれほど多くもない。塔が崩れる前にカインとブルーノを退け、レオを連れ出して逃げるということが最も安全ではある。だが、一対一ならまだしも、二人同時に相手をして退けなければならず、その間に扉や周囲の壁を破壊されてレオを連れ出されてもならないのだ。レオを最優先することは確定してはいるものの、自分の動き一つで状況は変化してしまう。優勢に立つか、劣勢に立つか。事の運びが自分の選択で変わるのだ。それと思うと、迂闊には動けない。しかし、硬直状態は長くは続かず、意外なところから声が聞こえてきた。


「開けてくれよ、レックス」


 扉の向こうからレオの声が聞こえた。その言葉にレックスは一体何を言っているのかとすぐには理解出来ず、それはカインやブルーノも同様だった。そこから一歩でも外に踏み出せば、それこそカインやブルーノはレックスよりも先にレオを殺そうと動く。それが分からないはずがないのだ。それでも、「いいから開けてくれ」とレオは繰り返すのだ。


「何でだよ。開けられるわけないだろ!」
「一対二なんて卑怯だろ!」
「だからって……こいつらはお前を殺しに来てるんだぞ!それなのにお前を外になんて出せるか、馬鹿か!」


 肩越しに振り向き、レックスは声を張り上げた。何が何でもレオを守らなければならないのだ。けれどそれは、彼が王族だからだということ以上に、共に戦って来た仲間だからだ。レオに万が一のことがあれば、この国は終わってしまうかもしれない――その恐れがないというわけではない。だが、この国が終わることよりも、目の前で仲間がむざむざと殺されるところなど見たくはないのだ。
 鴉によって奪われた家族の仇を討つ為に軍に志願したのだ。それにも関わらず、また同じ人間たちに仲間を奪われることなど、レックスにとってはあってはならないことだった。今度は守ることの出来るところにいるのだ。武器だってある。技術だって今まで磨いて来たのだ。それにも関わらず、レオを傷つけられるようなことになれば、これまでの自分が歩いて来た道も選んできた事柄も全てが無に帰してしまう。それだけは駄目だ、とレックスは痛いほどに剣の柄を握り締めた。
 







「現在の状況ですが、広間でバルシュミーデ団長の指揮の下、騎士団主体で城内の至る場所で潜入した帝国兵と交戦中です」
「指揮はヒルダか……エルンストはどうした?」
「エルンスト様は……」


 身体を起こしたゲアハルトに現状説明をしていたシュレーガー家の私兵らは彼らを率いていたエルンストの所在について問われ、互いに顔を見合わせて言葉を濁した。エルンスト自身の命令ではあっても、仕え、守るべき相手を排除すべき敵の前に一人残して来てしまったのだ。彼らも気が気でないのだろう。そんな彼らを横目にアイリスはならば自分が、と口を開く。


「エルンストさんは現在此処から少し離れた廊下でカサンドラと名乗った女性と交戦中です」
「……カサンドラと……そうか」
「……ゲアハルト司令官、申し訳ありませんが、数人で構いません。どうかエルンスト様の援護に行かせてください」


 僅かに目を見開いた後にそのまま口を閉ざしたゲアハルトに私兵の一人が一歩前に出て頭を深く下げた。エルンストのことをとても心配しているのだということがその様子から伝わって来る。しかし、ゲアハルトは「いや、行かない方がいい」と首を横に振った。


「行っても足手纏いになるだけだ。カサンドラなら君たちを人質に取ることぐらい造作もなくやってのける。そうなったとしても、エルンストは恐らく躊躇いなく君たちを切り捨てる」
「……しかし、」
「エルンストなら大丈夫だ。いつまでも引き摺り続けるほど、あいつは弱い奴じゃない。カサンドラを倒して、自分の力で乗り越える」


 あいつなら大丈夫だと、信じているからな。
 僅かに目を細めながらゲアハルトは微かな笑みを浮かべて口にした。その表情にアイリスが目を見開いていると、「それに、これ以上の戦力の分断は避けたい。心配な気持ちも分かるが、今はそれを我慢して欲しい」と先ほどまでとは打って変わった様子で私兵らに言った。
 彼らも足手纏いになることも、自分たちが離れたことでゲアハルトやアイリス、エルザに万が一のことがあるかもしれないことを良しとはせず、結局のところは頷き、一先ずはエルザらと合流するべく移動を開始した。ゲアハルトに肩を貸しながら歩く私兵らの後にアイリスも続いていると、「現状報告の続きだが、」と彼が口を開いた。


「被害状況はどうなってるんだ?」
「それは……」


 ゲアハルトに肩を貸していた私兵がちらりとアイリスに視線を向ける。代わりの伝えようかという気遣いがその視線から伺えるも、彼女は首を横に振ると「被害状況ですが、」と僅かに視線を伏せながら口を開いた。まだ正確な確認が取られたというわけではない。だが、恐らくはもう生きてはいないだろうということを先に言い置いてから「わたしが到着した頃にはキルスティ様は既にお亡くなりになられていたかと思います」と伝えた。


「あの方が……」
「……シリル殿下も、恐らくは」
「殿下も?アイリス、何があった」


 足を止めて振り向くゲアハルトにアイリスは自分が見聞きしたことを掻い摘んで伝える。不審な動きを見せたルヴェルチとキルスティの様子を探る為にキルスティの居室に向かったこと。そこでシリルや鴉の人間たちもいたこと。そして、既にキルスティは殺され、その場からシリルによって逃がされたということ。それらを伝えると、ゲアハルトは僅かに顔を歪め、「そうか」と短く呟いた。
 そして、「このことを他に知っている者は?」と問われ、エルンストとエルザ、そして、この場にいる者だけだということを告げるとゲアハルトは分かった、とだけ口にした。私兵の一人が、シリルの生死については確認に向かっているのだということを言い添えると「ご無事ならいいのだが」とゲアハルトはぼそりと呟いた。
 その言葉にアイリスはびくりと肩を震わせる。シリルの最期を目にしていたが、とてもではないが生きているとは思えなかったのだ。背中から刺されたナイフが胸から覗いていた。そこから血が飛び散っていた。その後も爆発音が聞こえ、そのような中でシリルが生きているとはとてもではないが思えなかった。彼に逃げるようにと突き飛ばされた箇所を押え、アイリスは唇を噛み締めた。どうして自分が生き延びているのだろう――そのようなことさえ考えながら、アイリスは再び歩き出したゲアハルトの後ろに続いた。


「無事だったのね、ゲアハルト。よかったわ」
「エルザ殿下もご無事で何よりです」


 エルザらが隠れている隠し通路まで戻ると、彼女は顔色が悪いながらも安堵の息を吐いた。彼女にとってはゲアハルトはこの状況において頼りにすることの出来る数少ない相手だからだろう。アイリスは安堵からか、疲れた様子で座り込んでしまうエルザの傍に膝を付き、大丈夫ですか、と声を掛ける。
 もう少し休ませたいところではあるものの、この場所も安全とは言い難い。ヒルデガルトが指揮を執っているという広間からそれほど離れた場所ではない為、既に索敵は済んでいるのだろうが万が一ということもある。アイリスはエルザの身体を支えながらゆっくりと立ち上がらせると、「行きましょう」と声を掛けた。
 このような自体に見舞われたことなど今までなかったのだろう。エルザの顔色はやはり悪く、足取りの重さからも疲れ切っているのだということが伺える。本来ならばまだ眠っているような時間帯だ。そして何より、先ほどのように殺されかけることもこのような緊張感に満ちた場所に居続けることも今までに経験したことなどないはずなのだ。そんなエルザを支えながら、半年前の自分からしてみれば今のように落ち着いて行動出来るようになるとは思いもしなかった、とアイリスは心の何処かで考えていた。


「兎に角、まずは広間に行きましょう。城内で最も安全な場所です、そちらまでご辛抱下さい」


 ゲアハルトはそう言うと、自身もシュレーガー家の私兵の肩を借りながら歩き出す。先ほどよりもその動きはよくなっているものの、本来ならば彼も休息を取る必要があるのだ。しかし、その様子からしても、広間に辿り着いてもゆっくり休むつもりなどないのだということが伝わって来る。あまり無理をして欲しくはないと思いながらも今のこの状況を考えると、ゲアハルトの指揮が必要だとも思う。
 複雑な思いを巡らせながらも先を行くゲアハルトの後に続いていると、唐突にぐらりと身体が揺らいだ。しかし、自身の体勢が崩れたというわけではなく、支えていたエルザが体勢を崩し、そのまま床に倒れそうになってしまう。アイリスは慌てて、彼女を引っ張り上げ、何とか床と激突することは避けるも、「大丈夫ですか?!」と慌ててエルザの顔を覗き込む。


「……ごめんなさい、ちょっと目の前が真っ暗になって……」


 そう言うエルザの身体を自分の方へと傾けながら、アイリスはひんやりと冷たくなっているエルザの手を握った。このような状況では無理もないことであり、決して彼女を責めることなど出来るはずもなかった。大丈夫ですよ、と努めて優しい声音で言うも、エルザはきゅっと唇を噛むばかりだった。
 そんな彼女にゲアハルトも声を掛けようと踵を返して戻って来るも、彼が声を発するよりも先に「置いていって」とエルザは口を開いた。彼女の口から出た言葉にアイリスは目を瞠るも、エルザはもう一度同じ言葉を繰り返した。


「足手纏いになってるもの。この辺りには敵もいないだろうから、動けるようになったらすぐに行くわ。貴方たちは先に行って」
「エルザ様、それは、」
「私なら平気よ。大丈夫。貴女はゲアハルトに付いててあげて」


 少し休めば動けるようになるから、とエルザは言う。自分が休む為に足を止める必要はないのだから、ヒルデガルトやこの国の為にも早く広間に向かって欲しいと彼女は続けた。しかし、だからといってこの場にエルザを残すことなど出来るはずもない。それはゲアハルトも同意見らしく、「殿下をお一人で残すわけにはいきません」と言うも、頑として彼女は首を縦に振ろうとはしなかった。
 私兵の一人が自分が抱えると申し出るも、エルザは首を横に振った。その様子はまるで全てを諦めてしまったかのようにも見え、アイリスは唇を噛み締めた。彼女がこのようなことを言い出すことも無理はない。キルスティとシリルを失い、レオの生死も定かではない。無事だと信じてはいるものの、確たる証拠は何もないのだ。そんな中、たった一人、エルザは王族として生き残れば、彼女がこの国を支えることになる。その重責を思えば、普段気丈なエルザとて、心が折れてしまっても決して無理のないことだった。
 しかし、だからといってそれがエルザを置いていく理由にはならない。握り返されることのない手を握り締め、アイリスは「置いていけません」とはっきりとした声音で告げる。


「足手纏いだとしても、エルザ様をこの場に置いていくことは出来ません」
「……アイリス、これは命令、」
「嫌です」


 命令なのだから言うことを聞けと言おうとするエルザの言葉を遮り、アイリスはぴしゃりと言ってのける。悲しそうな、それでいて怒ったような顔をするアイリスにエルザは驚いたような顔をする。今までに彼女のこのような表情を見たことがなかったからだろう。しかし、それはゲアハルトも同じであり、驚いたような顔をしてアイリスの横顔を見つめていた。


「わたしは少し似た状況を経験したことがあります。……自分のことを想うなら手を離して欲しいと言った仲間の手を、離したことがあります」


 アベルを置き去りにした時のことを思い出すと、目頭が自然と熱くなる。じわりと浮かびそうになる涙に耐えながらアイリスはぎゅっとエルザの手を握り締めながら上擦りそうになる声を抑えて唇を動かし続けた。


「仲間を置き去りにすることを分かっていて、わたしは彼の言葉通りに手を離しました。……でも、彼のことを想えばこそ、わたしはあの時、彼の手を離すべきではなかったんです」
「……」
「あの時からずっと後悔しています。手を離さなければよかったって……後悔しなかった日はありません」


 アベルの手をあの時離すことがなければ、今も変わらずに傍にいてくれたとは限らない。それでも、少なくともこんなにも後悔することはなかったはずだ。別の新たな後悔はあるかもしれない。けれど、今ほど苦しくて辛くて、そして、傷ついたアベルの顔を見ることはなかったかもしれないのだ。
 仮定の話を繰り返しても、仮定の上に仮定を重ねてもどうすることも出来ない。手を離したことを事実であり、変えられない過去でもある。だからこそ、今のアイリスに出来ることは後悔しないように動くということだけだ。そしてそれが彼女にとっては、エルザの手を離さないということだった。


「だから、たとえご命令だとしても従えません。これだけは譲れません。わたしの我儘だとしても、もう二度と誰かの手を離すことはしたくはないんです」
「……アイリス」
「大丈夫です、エルザ様。レオはきっと生きてます。こんなことでやられるような人ではありません」


 そうですよね、とアイリスはゲアハルトの方を向き直る。彼は深く頷くと、笑みを浮かべて「あいつのことです。きっと慌ただしく現れて騒ぎ出しますよ」と口にした。その言葉に唇を真一文字に引き結んだエルザはこくんと頷くと、そのまま顔を伏せてしまった。微かに震える肩に腕を回すと、ぎゅっとアイリスの手が握り返された。
 その手は先ほどまでとは違い、温かみが増していた。そのことに安堵しながら、「一緒に行きましょう、エルザ様」と声を掛ける。ゆっくりと身体を支えながら立ち上がるも、彼女はやはり顔を上げることがなかった。はらはらと零れていく涙から目を逸らし、アイリスはゆっくりと歩き出したゲアハルトに続き、エルザの身体を支えながら歩き出した。



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