反撃 - the hope -




 石畳の上を駆け抜け、民家の屋根に飛び移る。そこを勢いよく駆け抜け、一際大きな体躯の狼が城の城壁に足を掛けた。そのまま鋭利な爪で壁を抉りながら上り切ると、一気に城壁の向こうに広がっていた中庭に飛び降りる。生温い風が頬を掠め、身体を襲う浮遊感にアベルは僅かに顔を顰めた。
 殆ど衝撃もなく中庭に降り立つと狼はアベルを背に乗せたまま、軽い足取りで血に塗れた中庭の中を走る。周囲を見渡すと、そこには多くの兵士が地面に伏せていた。それらはどれもベルンシュタインの兵士のものであり、僅かにアベルの表情に緊張が走った。しかし、確認出来る顔の中に見知ったものはなく、どうやらアベルのよく知る者たちがそこに紛れている可能性は低そうでもあった。
 誰がここまでしたのだろうかと思っていると「カイン様!」と背後から声を掛けられる。狼の首元を軽く叩き、止まるように促しながらアベルは僅かに顔を歪める。狼に乗っているのだから容易に分かるはずだろうと思わずアベルは溜息を吐いた。そして、僕はカインじゃない、と内心呟きながら狼の背を下りると、彼の表情から漸く間違えたのだということに追い付いた兵士らは気付き、一気に顔を青くした。


「いいよ、別に。……それで何」
「も、申し訳ありませんでした。……現状をご報告しようと思いまして……」
「ああ、そう。で?」


 早く言ってよ、と促すと、帝国兵らは背筋を伸ばした。彼らが言うには、戦況は五分五分といったところらしい。一部では、ベルンシュタイン兵の多くを退けてはいるものの、一方では窮地に追い詰められているのだとも言う。そう簡単にやられるはずがないということを知っているアベルからすれば、然して予想外のことでもなかった。
 反応の薄いアベルに顔を青くしたまま兵士の一人が慌てて口を開くも、それを制して「それよりも」とアベルが口を開いた。一体何を言われるのだろうかと彼らは肩をびくつかせる。その反応にアベルは苛立たしげに溜息を吐きつつ他の鴉の人間はどうしているのかということを尋ねた。周囲の惨状やその手口からカサンドラかカインんが近くにいることは予想出来るものの、それ以外は予想がつかない。


「は、はい!東の塔に向かわれたカイン様とブルーノ様は、」
「交戦中か終わったかどちらかよ。塔が炎上しているもの」
「カサンドラ……」


 兵士の報告を遮り、カサンドラが城内から姿を現した。すぐさま敬礼する兵士たちにひらりと手を振ると、彼らは慌ただしくその場を立ち去った。すれ違う瞬間に見えたその表情は安堵と恐怖の綯い交ぜになったものであり、この場を立ち去れることを有り難く思いつつもカサンドラが来たことに恐怖を覚えているのだろう。ならば、最初から自分に声など掛けなければ良かったものをと思いながらアベルはその背を見送った。


「ルヴェルチ卿はどうなったの?」
「始末したよ、家人もね」
「そう。やっぱり貴方に任せてよかったわ。これで一先ずは安心かしら……死者は何も語れないものね」
「……他はどうなったの?」


 レオが幽閉されている東の塔に向かったカインとブルーノがどうなったかは知れない。だが、東の塔が炎上しているということはカインらがレオを始末したのか、それとも炎を放ってから突入し、現在も交戦中なのか、もしくはベルンシュタイン側がレオの身柄を確保したのか――どちらにしろ、アベルにとっては苦々しい結果であることに違いない。
 カインらがレオを始末したとしたら、やはり気分は悪い。胸がどうしようもなく重くなり、痛みさえ感じる。だが、その痛みは先ほどからずっと感じ続けているものだ。レックスと戦っている最中から――否、キルスティの居室でアイリスと顔を合わせてからずっと感じ続けているのだろう。ずきんずきんと痛み続け、それは止むことなく自分自身を苛み続けている。カインがレオを手に掛けたかもしれないと思うと余計に痛みが増すようだった。
 だが、レオがカインらの手を逃れて生き延びたとしても痛みが止むことはない。彼が生きているということはまた顔を合わせ、剣を向け合うことになるのだ。それを思えば、やはり胸は痛んだ。だが、アベルはそれに気付かない振りをする。


「アウレールはやられちゃったわ」
「え……?」
「アイリス嬢、意外と手強くってね。アウレールが油断していたということもあったのだろうけど、撃退されちゃったのよ」


 思いもしない言葉にアベルは隻眼を見開いた。そんな彼の様子にカサンドラは微苦笑を浮かべる。「聞きたかったのはやっぱり彼女の安否でしょう」と口元に笑みを浮かべて言う彼女にアベルは舌打ちした。気付かれているとは思っていた。だが、敢えてそれをはっきりと口にされるとやはり苛立ちは感じるのだ。
 そんなアベルの様子にカサンドラはくすくすと愉しげに笑いながら「失敗したわ」と事も無げに口にした。あれだけこれ以上の失敗は許されないのだと口を酸っぱくして言ったにも関わらず、どうしたのだろうかと思ってしまうほどの様子だった。アベルにしてみれば、アイリスが彼女の手に落ちなかったことに安堵した。カサンドラの手に落ちたとなれば、どのような目に遭わされるかなど分かったものではない。傷つけられるアイリスを、見たくはなかったのだ。
 帝国に戻った自分が今更アイリスのことを気に掛ける必要はなく、寧ろそれはするべきではない行為である。だが、そう簡単に心に居着いた存在を消せるほど、アベルは器用な人間でもなかった。いつか捨てなければならない気持ちだということも分かっている。今すぐにでも本当ならば捨てるべきなのだ。それでも、未だ捨て切れずにいる気持ちにアベルは自分自身の未練がましさに唇を噛み締めた。


「……捕縛するんじゃなかったの?」
「あら、してもいいの?」
「カサンドラ」
「怖い顔をしないで、アベル。……元々、今回最優先するべきことは白の輝石の奪取だもの。奪取も出来て、シリル殿下と正妃様を亡き者に出来たのだから、今はこれ以上、欲張るべきではないのよ」


 逃がした獲物は今度また狩ればいいのだから。
 赤い瞳を輝かせ、カサンドラは愉しげに口にした。何か面白いモノでも見つけたのだろうかとも思うも、アベルには特に興味はなく、早々に彼女から視線を逸らした。誰かを傷つけることに快感を見出しているカサンドラの嗜好には付き合いきれないとアベルは常々感じていた。


「それで、これからどうするの?」
「そろそろ引き際でしょうね。アイリス嬢も今頃、ゲアハルトのところに到着している頃でしょうし……もう少しすれば、きっとゲアハルトの指揮の下、ベルンシュタインの兵士の動きも整って来るわ」
「司令官のところに兵士をやってたけど、駄目だったの?」
「アベル、貴方、まだゲアハルトのことを司令官って呼ぶのね」


 思わぬ指摘にアベルは目を瞠った。咄嗟に口元を押えるも、一度出た言葉をなかったことには出来ない。ばつの悪い表情を浮かべながら視線を逸らすアベルにカサンドラは肩を竦めながら「別に咎めるつもりなんてないわ」と彼女は言う。そして、「ただ、」と言い添えながらちらりと空を赤く染めている東の塔がある方向にカサンドラは視線を向けた。


「カインの前では気を付けた方がいいわ。そうでなきゃ、あの子とっても怒りそうだもの」
「……そうするよ」
「ええ。それじゃあそろそろ私たちは先にお暇しましょうか」


 カサンドラは近くを通りかかった帝国兵に撤退するように指示を出すと、くるりとアベルの方を向き直った。そんな彼女に溜息を吐きつつ、アベルは近くに伏せていた大きな狼を呼び寄せる。顔の周りの毛を撫で、慣れた動作でその背に跨ると、その後ろにカサンドラが腰掛けた。
 二人が乗っても重さなど感じていないと言わんばかりに軽々と狼は歩き出す。しかし、殆ど進まぬうちに城内から剣を担いだアウレールが姿を現した。アベルは狼に足を止めるように指示を出し、改めて彼の巨躯を見上げた。アイリスが撃退したのだとカサンドラが言っていたが、その状況がまるで想像出来なかった。
 アベルの知っているアイリスは真面目すぎるほど真面目で優しくて自分のことよりも相手のことを優先するお人好しであり、泣き虫で、放っておけない女の子だ。守ってあげなきゃ、と自分でさえも思ってしまった。いつだって無理ばかりするのだ。アウレールを退けた時もきっと無理をしたに違いないのだ。怪我をしていなければいいけど、とそんなことを考えている間にカサンドラは「丁度良いわ。カインとブルーノを拾ってルヴェルチ卿の隠れ家に戻って来て頂戴。全軍に撤退の指示もお願いね」と彼女は後始末をアウレールに丸投げする。


「カサンドラ、丸投げしすぎ」
「いいじゃない。私は白の輝石の輸送、アベルはその護衛。そうなるとあと始末はアウレールが適任でしょう?」
「了解した」
「あんたも何か言い返せばいいのに」


 兎に角、これ以上の帝国軍の侵攻はないと言うことであり、アベルは内心安堵していた。恐らくはこの後、ゲアハルトは掃討戦の指示を出すだろう。だが、カサンドラにしてみれば撤退の指示は出したものの、兵士など使い捨ての道具に過ぎない。要はそれを束ねる人間だけが生き残ればいいと考えているのだ。だからこそ、いくら掃討戦を繰り広げられたところで痛くも痒くもない。兵力はベルンシュタインと違い、まだまだ余裕があるのだ。
 アベルは「それじゃあ、また後でね。アウレール」と手を振るカサンドラに溜息を吐くと、狼の耳元に唇を寄せる。「フェンリル、ルヴェルチの隠れ家まで頼むよ」と声を掛ければ、フェンリルと呼ばれた狼は一鳴きした後に地面を力強く蹴り、駆け出した。背後からはカサンドラの楽しげな声が聞こえて来る。余程機嫌がいいらしい。
 だが、それと裏腹にアベルの表情は苦しげなものだった。胸がどうしようもなく痛みを訴えている。ずきんずきんと痛むそれは先ほどよりも痛みを増しているようであり、息苦しくもあった。そんな中、アベルはふと思った。耳に届く楽しげな声が、どうして彼女の声音ではないのだろうかと。有り得ないはずのことを考え、アベルはそれを打ち消すように唇を噛み締めていた。










 視界がぐらつき、額には玉のような汗が浮かんだ。ともすれば倒れ込みそうになる足を叱咤し、アイリスは既に二時間近く、防御魔法を展開していた。身体の限界は既に超え、殆ど意地で立っているようなものだった。その間にも幾度もゲアハルトやエルザが休むように声を掛けてはいるのだが、アイリスは頑として首を縦には振らなかった。
 何もせずにいると色々なことを考えてしまいそうなのだ。あの時にこうしていれば、ああしていれば、と後悔せずにはいられないのだ。得られることのない、あったかもしれない未来のことを考えてしまう。それはどうしようもなく苦しく、胸が重く、痛むのだ。それならば、たとえ同じ苦しみでも、誰かの為に動いている方が余程よかった。結局のところは、逃げているだけなのだと気付きながらアイリスは奥歯を噛み締めていた。


「アイリス」
「平気です、」
「違う……辛いかもしれないが、キルスティ様の居室であったことを教えて欲しいんだ」


 何度目かのゲアハルトの声掛けにアイリスは咄嗟に首を横に振りながら口を開いた。しかし、そうではないのだとふるりと首を横に振った彼は言い辛そうにしながらも彼女に問い掛けた。キルスティの居室での出来事について、彼は知りたいと言った。それを語ることにアイリスが痛みや苦しみを感じるであろうことは予想出来ていたのだろう。
 だが、それでも彼は真っ直ぐに視線に向け、「教えて欲しい」と口にした。何があったのかを正確に把握したいのだろう。それは分かる。伝えなければならないとも思っていた。だが、胸の痛みがアイリスの口を重たくする。


「……、」
「言い辛いなら俺が質問する。それなら答えられるか?」


 手を煩わせてしまうことを申し訳なく思いつつ、アイリスはこくりと頷いた。そんな彼女の考えに気付いたのか、ゲアハルトは微苦笑を浮かべながら気にするな、と言うと「早速だが、何故キルスティ様の居室に行ったんだ?」と彼は問い掛けて来た。
 そもそもアイリスがキルスティの居室に向かった理由は、居室に入っていくルヴェルチを見たとエルザに仕えていた文官の男に聞いたからだ。夜更けにも関わらず、人目を忍ぶようにして居室に行ったとなれば、不審以外の何物でもない。だからこそ向かったのだと答えるとゲアハルトはなるほど、と頷いた。


「シリル殿下の御即位前でしたので……何かあるのではないかと……」
「そうだな。そう考えるのが自然だ。それで、アイリスは何か見たのか?」
「……わたしが居室に到着した頃、お部屋の中から爆発音が聞こえました。それほど大きなものではなかったんですけど……その後、わたしの気配に気付いたらしいカサンドラに促されて居室に入りました」


 そこまで言うと、アイリスは堰を切ったように唇を動かした。カサンドラが自分の用があると言っていたこと、そのためか、生かして捕えようとして来たこと、どうやら養父が研究していたものの資料を求めているらしいこと。それらを伝えると、途端にゲアハルトの表情が変わった。一体どうしたというのだろうかと彼を見上げるも、ゲアハルトは視線を逸らし、口元に手をやりながら考え込んでいるようだった。
 ゲアハルトも養父が研究していたものが何であるのか知っているのだろうか――アイリスは咄嗟に口を開くも、今この場で尋ねることは憚られ、そのまま口を閉ざした。そんな彼女の様子には気付かなかったゲアハルトは「そして、居室を出たのか?」と口にした。アイリスの様子からも、この場にシリルが共にいないことからもどのようにしてアイリスが逃げ出したのかも大体は分かっているのだろう。
 頷けば、彼はそこで「そうか」とだけ言って、それ以上は何も言わずにいてくれただろう。だが、それではただゲアハルトの優しさに甘えただけでしかない。何があったのかを正確に告げなければならないのだとアイリスは強く杖を握り締めながら、「わたしは……」と震える声で言葉を発した。


「わたしは、……シリル殿下に守って頂きました。守らなければならない方に守られ、わたしはあの方を置き去りにして逃げました」
「アイリス……それは、」
「置き去りにしたんです。……置き去りにするのはもう嫌だと思っていたのに、わたしは……っ」


 たった一人の人間すら守れず、国など守れるはずもない。力を得ようと鍛錬を続けても一向に実を結ぶ気配もない。挙句の果てには誰よりも守らなければならない相手に守られ、そんな相手を置き去りに今も自分は生きているのだ。そんな自分に嫌気が差す。悔しくて情けなくて仕方なかった。もっと自分に力があればと思わずにはいられない。自分は何て無力なんだと、力のない、守られてばかりの自分を呪い、血が滲むほどに唇を噛み締めていた矢先――唐突に広間の扉が開け放たれた。


「……エルンスト」


 扉を開け放ったのは、エルンストだった。彼の格好はアイリスらと別れた時とは異なり、血に塗れていた。あまりの格好に背後からはエルザの短い悲鳴が聞こえた。だが、こんなにも血塗れになっている彼の姿はアイリスも初めてであり、そんなにも激しくカサンドラと戦っていたのだろうかと、彼を残して来たことに対してまた胸が痛くなった。
 だが、格好とは裏腹にエルンストの足取りはしっかりとしたものだった。まさか、全てが返り血なのだろうかと思うも、そうであれば彼はカサンドラを手に掛けたということである。それほどまでの夥しい血がエルンストの身体を濡らしていたのだ。だが、彼の手には彼女の首がなかった。どれほどの恨みがカサンドラにあるのかが分かっているだけに、首を刎ねないはずがないとばかりに思っていたのだ。
 ならば、未だカサンドラは生きているのだろうか――捕えたのかもしれない、それとも逃げられたのかもしれない。どちらにしろ、兎に角、エルンストが怪我をしているのかどうかを尋ねなければと「お怪我は、」と声を発するも、それ以上は続かなかった。すたすたと此方に真っ直ぐに歩いて来るエルンストはゲアハルトの声すら無視し、顔を顰めてアイリスへと詰め寄った。


「あ、あの……っ」


 何ですか、と言おうとするも、それよりも先にエルンストの腕が伸びて来た。その手は痛いほどにアイリスの手を握り締める。その痛みに顔を顰めていると、もう片方の手が自身の腹部に伸びていることに気付いた。アイリスははっと目を見開くと、慌てて拘束されていない方の手で伸ばされた手を振り払った。
 だが、次の瞬間には足を引っ掛けられ、気付けば背中は床に付き、視界には天井と相変わらず顔を歪めているエルンストでいっぱいになった。そのまま拘束されていなかった腕も一纏めにされ、「おい、エルンスト!一体何を、」と止めに入ろうとしたゲアハルトを無視して彼はアイリスが纏っていた深紅の軍服を捲り上げてしまった。
 晒された腹部に巻き付けていた包帯は血で染まっていた。激しく動いた為に傷が開いてしまっていたのだ。自分自身の傷を癒す余裕はなく、その魔力も全て防御魔法に回していたのだ。アイリスは唇を噛み締めながらエルンストと目を見開いているゲアハルトから顔を逸らした。知られたくはなかったのだ。


「……解毒剤は」
「……飲みました」
「だけど、すぐに処置はしなかったんだね。……まだ身体に毒が残ってる」


 ここのところ、体調が悪いって言ってたのもこれが理由だよね。
 エルンストの詰問にアイリスは何も答えることが出来なかった。行動とは裏腹に優しく取り払われた包帯は血を吸って重たくなっていた。包帯が取り払われたそこは、包帯では吸い切れなかった血に濡れながらも傷口付近は紫に変色し、爛れていた。「こんな傷を抱えてよく動けてたよね」と淡々とした様子で口にしながらエルンストはその傷の手当を始めようとする。
 だが、今は治療を受けているような場合ではないのだ。この広間を夜が明けるまで守り抜くと宣言したのだ。それが遂行出来なければ、自分を信任してくれたゲアハルトの顔に泥を塗ることになる。この状況でそのような事態を招くわけにはいかないのだと、「こんな傷、平気です」とアイリスは首を横に振る。


「アイリスちゃん、」
「平気です。それに今はこんな傷のことを気にしてる場合では、」
「いい加減にしろよ!」
「……っ」


 アイリスの言葉を遮り、エルンストが怒鳴った。今までこんなにも激昂するところを見たことがなかった彼女は大きく目を見開き、身体をびくつかせた。どうしてそんなにも怒るのかと僅かに眉を寄せていると、「何でいつも自分のことは後回しにするの」と先ほどよりも落ち着いた、それでいて早口でエルンストは捲し立てるように言う。


「こんな傷って、それで死んでたかもしれないんだよ。今も生きてるのはただ運がよかっただけでしかない」
「……それは……」
「怪我してるなんて知らなくて、俺は君に色々頼んで……少しだって気付いてあげられなかった自分が嫌で仕方ないよ。でも……何で言ってくれなかったの?」
「……」
「痛くないわけがない。こんなに血も出て、傷は変色していて……身体が辛くないはずがなかった。本当はずっと痛くて苦しくて辛かったはずだ。なのに、何で痛いって一言を言ってくれなかったの?」


 掛けられる言葉に何も言うことが出来なかった。大丈夫だと、今はこんなに傷を気にしている場合ではないのだと、無視してきた。それは気にしていられる状況でなかったこと以上に、アベルのことを悪く思われたくなかったからだ。この傷はアベルに負わされたというわけではない。彼の双子の兄であるカインによって負わされたものだ。
 だが、アベルを探しに行って出来た傷であるということは変わらず、彼が王立美術館でアイリスの前に姿を現さなければ負うことのなかった傷でもある。延いてはアベルに遠因があるとも言え、だからこそ、言えなかったのだ。アイリスは顔を逸らしたまま、口を開こうとはしなかった。エルンストが気遣ってくれているということは分かっている。そのことは有り難く思っている。だが、それでも何も言うことが出来なかったのだ。
 そんなアイリスに対し、苛立ちを露に「ねえ、」とエルンストが声を発したその時、唐突に広間の扉が再び開け放たれた。何事かと視線をそちらに向けると、先ほど城の上階の掃討戦に出た第一騎士団所属の兵士らが担架を抱えて慌ただしく戻って来たのだ。そこに乗せられている血塗れの人物を見たアイリスは目を見開くと、拘束する手の力が緩んでいたエルンストを半ば押し退けるようにして立ち上がった。


「……っ、シリル殿下っ」


 しかし、足元が覚束ず、数歩も進まぬうちに倒れ込んでしまう。その拍子に腹部に激痛が走るも、アイリスは奥歯を噛み締めて出かかる悲鳴を押し殺すとそのまま身体を起こし、転びそうになりながら床に安置された担架に駆け寄った。
 身体中、刺し傷だらけであり、それらから止め処なく血が溢れていた。呼吸を繰り返す度に血が溢れ、少しずつ顔が紙のように白くなっていく。アイリスは傷だらけとなったその手を取り、力一杯握り締めながら「シリル殿下っ!」と彼の名前を呼び続ける。シリルの身体を挟んだ向かい側にはエルザが膝を付き、涙を流しながら同じように手を握り締め、彼の名前を呼んでいた。
 程なくして僅かに瞼が震え、シリルはゆっくりと目を開いた。こげ茶の瞳はゆっくりとアイリスとエルザの顔を行き来し、「ご無事でしたか、姉上」と掠れた声で口にした。そして、「レオも無事よ」と言いつつ何度も頷くエルザに安堵したように表情を緩めると、視線はアイリスに向けられた。


「……よく、姉上を守ってくれた」
「ですが、殿下……わたしは、貴方を……っ」
「貴様は……私の命令に、従ったまでのこと……」


 だから貴様が気にすることは何もない。
 シリルはそう言いつつ、力無く笑みを浮かべ、アイリスの手を緩く握り返した。もう手に力も入らないのだろう。アイリスは首を横に振りながら、握っていた手から離した片手を彼が負った多くの傷に翳す。だが、傷を癒しても一向にシリルの顔色がよくなる気配はなく、どうして、とアイリスは目を見開く。
 そんな彼女に担架を抱えていた第一騎士団の兵士が耳打ちし、シリルの腰から下を覆っていた布を僅かにずらした。殿下は足を失くされている――その言葉に一瞬、涙が引いたようだった。足に通る太い血管から救い出されるまでの間に大量の失血があったのだということが伺える。つまり、いくら身体の傷を癒しても、もう手遅れなほどに彼は傷ついていたのだ。
 堪らず頬を涙が滑った。殿下、殿下、とアイリスは涙を流し続けた。そんな彼女にシリルは可笑しそうな笑みを微かに浮かべながら「貴様は、泣き虫だな」と言う。そして、彼は自分が死ぬことをそんなに悲しく思うのか、とどこか意外そうに口にした。出会い方は決して良くはなかったのだ。シリルが涙を流すアイリスを見てそう口にすることも無理はなかったが、彼女は「当たり前ですっ」と怒ったように言った。


「……そうか」


 シリルは僅かに驚いた顔をした後、どこか嬉しそうに笑った。そしてそのまま視線をエルザに向けると、「姉上、後を頼みます。レオを、お支えください」と先ほどよりもずっとずっとか細く弱々しい声音で口にする。


「待って……待って、シリル。もうすぐレオが戻って来るわ、だから……!」
「そうです、レオと……レオとちゃんと仲直りしてから!」


 そう声を掛けるも、自分がもう長くないということは悟っているらしいシリルは微かに首を横に振ると「悪かった、と伝えてくれればそれでいい」と掠れた声で言う。そんな最期のようなことを言わないで欲しいとアイリスは訴えるも、シリルは笑うばかりだった。どうして笑っていられるのかとアイリスは問おうとするも、それを制するようにシリルのこげ茶の瞳が向けられた。


「アイリス……」
「……はい」
「……貴様に全て託した。姉上もレオも……私の持てるもの全てを貴様に託した」
「殿下、それは」
「二度は言わん。……いいか、私が死んでも、自分を責めるな。貴様の所為ではない」


 その言葉にアイリスは首を横に振りそうになる。だが、きゅっと唇を引き結び、小さく頷いた。頷かなければならないと、思ったのだ。小さくとも頷いたことにシリルは安堵の笑みを浮かべる。その笑みは、やはりレオやエルザと似たものであり、自分の方が妾腹と呼ばれる方が合っているなどと言っていた彼にそんなことはないのだとアイリスは言おうと口を開く。
 けれど、言葉を発するよりも前に握り締めていた手から力が抜けていってしまう。こげ茶の瞳は瞼に隠され、呼吸の度にじわりじわりと滲んで来た血も止まっていた。紙のように白い顔は穏やかで、どこか満足げですらあった。どうしてそんな顔をしているのかと問い掛けようにも、きっとその答えは返って来ないのだということを彼の胸元に顔を寄せて肩を震わせているエルザを見て、アイリスは実感した。事切れたのだと。
 その事実を認識すると同時に、自分の中で何かがぷつんと音を立てて切れたような気がした。泣き叫んでいるのかどうかすらも分からない。音が耳に届かない。視界はちかちかと揺れ、床に座り込んでいるというのに何処かに落ちていくような感覚さえあった。目の前で誰かを失うことは、初めてだった。それに気付くと同時に、ぶつりと彼女の意識はそこで途絶えた。



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