反撃 - the hope -




 深い海の底に沈んでいくようだった。身体が重く、息苦しく、真っ暗闇が視界いっぱいに広がっている。もうこのまま目が覚めない方が楽かもしれない。そんなことさえ思えてくるほど、アイリスは疲れ切っていた。
 けれど、不意に沈んでいく自分を引っ張り上げる人影が見えたような気がした。もういい、放っておいて欲しい。このまま底まで沈んでしまいたいのだと思うも、身体はゆっくりと浮上していく。嫌だ嫌だと思っても意識が一気に浮上する。その感覚にアイリスはきゅっときつく目元に力を入れると、目の端から熱い涙が伝った気がした。
 それと同時に緩く頭を撫でていた手がぴたりと止まった。ちかちかと瞼の向こうで光が瞬き、アイリスは戻って来てしまったのだとぼんやりと考えながら緩々と瞼を持ち上げた。はっきりと像を結ばない滲んだ視界に映り込む人影に気づき、そちらへとのろのろと視線を向けると、頭を撫でていた手がすっと引っ込められた。


「……そんなに起きるのが嫌だった?」
「……エルンスト、さん」


 そこにいたのは何とも言えない表情を浮かべ、視線を逸らしたエルンストだった。疲れ切り、そしてどこか、よそよそしい態度の彼に違和感を感じながらアイリスは答えにくいその問い掛けを厭うように視線を逸らした。エルンストもそれ以上は何も言うことはなく、「身体はどう?」とだけ口にした。
 どちらかと言うと、口数の多い人間であり、要らぬことばかりを口にしていつもゲアハルトに怒られているというイメージがエルンストにはある。しかし、今は多くを語らず、いつもとは正反対の様子だった。だからこそ、戸惑いもあるのだが、今はそれも仕方がないかもしれないとぼんやりと考えながら「平気です」とだけ答える。
 シーツの中の手を動かし、先日、カインに刺された箇所に触れる。包帯が巻かれている感触があったものの、恐らくはその下に未だ怪我が残っているというわけではないのだろう。ならば、どうして巻かれているのかと考えているとエルンストは相変わらず目を合わすことなく口を開く。


「怪我は治しておいたけど、傷痕は残ったよ」
「……そうですか」
「もう少し早く診せてくれていたら傷痕も残らずに済んだんだけど」


 その言葉にアイリスは顔を逸らしたまま、構いませんよ、と答える。傷があったところで困るものでもない。そうなるだろうという予想はしていたのだ。そうなることも承知の上で怪我の治療よりも他のことを優先したのだ。何より、自分は軍人なのだとアイリスは窓の外に視線を向けながら考える。傷を負おうが、それで痕が残ろうが気にするべきことではないと思っていた。


「……わたしが倒れてからどれぐらい経ちましたか?」
「三日。そろそろ目覚めてくれないと拙かったから起きてくれて助かったよ」
「……三日……」


 そんなに経っているとは思わなかったアイリスは僅かに驚いた顔をする。けれど、すぐにまた沈鬱な表情に戻った。視線の先にある窓の向こうには三日前の出来事など何もなかったかのように青々と晴れ渡っていた。それがどうにも苛立たしく思えたアイリスは窓から視線を逸らした。
 そして不意に、エルンストの深い青の瞳と視線が重なった。逸らそうにも逸らせず、アリイスは居心地の悪さを感じた。しかし、そんな彼女に気付いているのかいないのか、エルンストはすっと視線を逸らすと「今の状況だけど」と口を開く。


「昨日で漸く城で死んだ帝国兵とうちの兵士の確認と後処理を終えたところ。今日から埋葬に移ってる。正妃様とシリル殿下の国葬は二日後。それまでに城周辺の後片付けもしなくちゃいけなくてね」
「……シリル殿下、っ」


 自分は無力さを思い知らされた。無力だということは分かっていた。自覚していた。自分が望むほどに、自分は強くはないのだということもよくよく分かっていたのだ。だからこそ、強くなりたいと思っていた。そのために歯を食い縛って鍛錬も続けてきた。それでも、どうすることも出来なかった。シリルを、守ることが出来なかった。
 自分のことを責めるなと彼は最期に口にした。出来ることなら、彼の意に添いたいとも思う。だが、あの時、自分にもっと力があったならと悔やみ切れないのだ。堪らず込み上げてくる涙を隠すようにアイリスはエルンストに背を向けた。足を曲げて身体を縮みこませて背を向けると、「泣いてもいいよ。でもね、」と彼は言う。


「アイリスちゃんが泣いても殿下は戻って来ないし……殿下は、喜ばないよ」
「……、」
「俺はもう行くから。後で食事を持って来させる。だから……あんまり唇を噛み締めないで、ぼろぼろになってるんだから」


 もう少し自分の身体も大事にした方がいい。
 エルンストはそれだけ言うと、腰掛けていた椅子から立ち上がって部屋を後にした。扉が閉まり、足音がだんだん遠のいていく。それに比例するように、噛み殺していた彼女の小さな嗚咽は堪え切れず大きくなっていった。
 誰かの死にも触れたことがなかったわけではなかった。生まれた頃から家族を失い、育った孤児院では自分自身の全ての人間を失った。そして、彼女を引き取った養父さえ失った。入隊してからも周囲に死は溢れていた。預けられた部下も失った。決して死というものから縁遠かったわけではないのだ。
 しかし、目の前で誰かを失ったのはシリルが初めてだった。ゆっくりと失われていく体温も、流れでていく血液も、掠れた声で言葉を言い残されることも、全てが初めてだった。初めて、死に直面したのだ。それも自分自身は決して無関係とは言えなかった。もっと力があったなら、失わずに済んだ命だったのだ。
 静かに事切れた彼を前に、喪失感と無力感が一気に押し寄せて来た。頭の中が、心が、ぐしゃぐしゃになったのだ。今もまだ整理がついたとは言えなかった。自分を責めるなというシリルの言葉を思い出す。彼の為に頷いて見せたが、「やっぱり無理です……殿下」とアイリスは押し殺した震える声で呟いた。






 エルンストが部屋を後にしてから暫しの後、食事が運ばれて来た。しかし、結局は手を抜けないまま夜を迎えてしまった。灯りのない部屋は暗く、思えば今この場所が何処なのかも分からなかった。騎士団の宿舎だろうかとも思うも、部屋の造りからしてそうではないようだった。だが、すぐにそれもどうでもいいかと思考を止めると、アイリスはシーツの中で膝を抱えた。
 このままでは駄目だということも分かってはいるのだ。けれど、頭で理解はしていても、そこに感情が追い付かないのだ。今まで散々人には前を向くようにと、顔を上げるようにと言い続けて来たのに自分はこの体たらくかと彼女は自嘲するように笑った。そんな時、ノックもなく小さな軋む音を立てながら扉が開かれた。
 誰だろうかと思うも、それを問う気力さえなかった。昼食も夕食も取らなかった為、エルンストが来たのだろうかと考えていると「アイリス、起きてるだろ」というレックスの声が聞こえてきた。その声に僅かに肩を震わせつつも、アイリスは返事をしなかった。だが、彼はそれを咎めることもなく扉を閉めるとゆっくりとした足取りでベッドに近付いて来た。


「何かあったらいつもそうやって小さく丸まって寝てる。そういう時のお前はいつも眠れなくて起きてる」


 それぐらいはオレだって知ってたよ、と言いつつ、レックスはベッドの脇に腰掛けた。微かにベッドが軋む音がする。それでも、アイリスは何も言えなかった。しかし、やはり彼はそのことには何も言わず、「腹の怪我のこと、聞いたよ」とだけ口にした。その声音はどこか自身を責めるような響きがあり、それに気付いた彼女は目を見開くと、咄嗟に身体を起こした。
 怪我をした時、レックスには何もない、大丈夫なのだと言い張って怪我を負ったことを黙っていたのだ。アイリスは「黙っててごめんね。でも、あれはレックスの所為でも何でもない!」と背を向けてベッドに腰掛けているレックスに言う。彼の髪の色は元の目に鮮やかな赤に戻っていた。


「それでも、あの場にいたのに、それ以降だって城で会ってたのに気付いてやれなかった」
「それは、」
「オレが勝手にルヴェルチの邸に行った時だってそうだ。……ずっと痛いの、我慢してたんだよな」


 ごめん、とレックスは呟いた。気付いてやれなくて悪かったと謝るレックスにアイリスは首を横に振る。決して彼の所為ではないのだ。隠していた自分の方が謝らなければならないのだと言うと、彼は背を向けたまま、微苦笑を浮かべた。


「隠していたことを咎めてるわけじゃあないんだって」
「……でも」
「そりゃあ痛いってちゃんと言ってくれた方がいい。気付いてやりたいとは思ってるけど気付いてやれないことの方が多いからさ」
「……」
「オレはさ、アイリスにもっと周りを頼って欲しいだけ」


 お前一人でいるわけじゃないんだから、一人だけで頑張らなくてもいいんだよ。
 近衛兵団に異動になってからというもの、ずっと自分だけで何とかしなければと思っていた。けれど、本当は一人ではなかったのだ。すぐ近くにはいなくとも、レックスだって城の中にいた。エルンストも頻繁に様子を伺いに来てくれていた。ゲアハルトに知恵を借りることだって出来たし、自分は一人なのだからなどと思わず、近衛兵団の中にも入って行けば、もっと違っていたかもしれない。
 今更ながらに、一人で何とかしなければならないと思っていた自分が間違っていたことに気付く。もっと周りを見ればよかったのだ。そうすれば、もっと違った結果になっていたかもしれない。息を詰め、アイリスは込み上げて来る涙を必死に耐える。それでも堪え切れずに涙が一筋零れると、次から次へと頬を伝い始めた。


「……もっと、……周りを見てたらよかった」
「そうだな」
「もっと、ちゃんと……っ」
「うん」
「……エルンストさんにも、言えばよかった……痛いって、言えば……」
「ああ。アベルのことを思って黙ってたんだよな。……でもさ、あの人はやっぱり軍医だから、怪我をしてるのに黙ってられると嫌だったり辛かったりしたんじゃないか?」


 レックスに言葉にアイリスは頻りに頷く。背を向けているレックスは気配で何となく察したらしく、「朝になったらちゃんと謝んなきゃな」とだけ言った。その言葉にも頻りに頷いていると、深い溜息を吐いた後にレックスはアイリスと向き直り、困ったように笑う。
 そして、両手で彼女の頬を包み込むと親指で次から次に溢れてくる涙を拭った。頬に伝わってくる手の温かさにじわりとまた涙が浮かんだ。レックスの手は温かく、頬を包むそれに手を重ねながらアイリスは握っていた手が冷たくなっていったシリルのことを思い出す。


「殿下のこと……守れなかったの……っ」
「ああ」
「わたしが、わたしが、強かったら……お守り出来たはずなのに……!」
「そうかもしれない。でも、殿下がそれを望まなかったかもしれない」


 幕引きって言ってたんだよな、とレックスはエルザから聞いたのだと口にした。ルヴェルチと手を結び、本来ならば彼が率先して守るべきであるベルンシュタインを危機に陥らせた。その自覚があったからこそ、彼にまだ王族としての矜持があったからこそ、自身の手で幕引きしようとしたのではないのかとレックスは言う。
 その意味は分かる。シリルは自分自身の手で終わらせようとしていた。そのために、様々な手を打っていたのだろう。それが結局のところ、成功したかはさておき、アイリスに今よりももっと力があったと仮定してあの時のことを考え直してみるも、やはり結果は変わらなかったのではないだろうかと頭の隅では分かっていた。


「守らなきゃいけない人間に拒まれるのは辛いし、苦しいし、悲しいと思う。……それにお前、……誰かを目の前で亡くすの、初めてだったんだよな」
「……っ」
「本当はもっと小さい時に経験しているはずのことを今の今までしてなかったんだ。心が追い付かないんだよな」
「……わたし、」
「分かってる」


 お前の父さんも言ってた――レックスの言葉にアイリスは涙で濡れた目を見開いた。レックスの口から養父のことが出てくるなどとは思わなかったのだ。どうして、と問う彼女にレックスは僅かに視線を伏せた後に「リュプケ砦の制圧戦の時に言ったろ」と口を開く。


「オレのことを引き取った軍人がいたって。……オレはその人に師事して剣を学んだんだって」
「……それが、お父さん……だったら、どうしてもっと早く教えてくれなかったの?わたしが引き取られたことも知ってたんだよね」
「ああ。……でも、会いに行かない方がいいと思ったんだ」


 会いに行ったら昔のことを思い出して悲しい思いをすると思ったんだ、とレックスは言った。コンラッドには会いに来るように何度も言われたのだという。しかし、彼はそれを断り続けたのだ。自分を気遣ってのことだということは分かった。けれど、それならどうして今になって、それを口にする気になったのだろうかと考えているとレックスは眉を下げて困ったような笑みを浮かべた。


「師匠に引き取られてお前は貴族の娘になったんだ。……戦争から離れて幸せになる方がいいって思ってた」
「……レックス」
「師匠が戦死した時に遠目にだけどお前を見たことがあった。小さかったお前は大きくなってて驚いた。……それでもやっぱり、声は掛けられなかった。オレはその時にはもう入隊していたし、戦争にも参加してた。関わらせたくなかったんだ」


 だから、宿舎でお前に声を掛けられた時は驚いた。
 意味が分からなくて混乱したのだとその時のことを思い出しながら言うレックスにアイリスは何も言うことが出来なかった。そこまで考えてくれていたなどとは思いもしなかったのだ。そんなにも心を砕いてくれていたにも関わらず、宿舎で軍に入隊した自分と会った時のことを思うと、レックスが入隊していたとは知らなかったとはいえ、申し訳なさを感じずにはいられなかった。
 ごめんなさい、と謝罪の言葉を口にするアイリスにレックスは微苦笑を浮かべながら首を横に振る。「お前だってオレが入隊してることなんて知らなかったろ」と肩を竦めて言う彼に彼女は小さく頷いた。養父も教えてくれればよかったのにと思うも、恐らくはレックスから硬く口止めされていたのだということは想像に難くなかった。


「……でも、間違ってたんだって思った」
「……」
「オレはちゃんとアイリスと向き合うべきだったんだ」
「……でもそれは、」
「お前の為にと思ってた。それは本当だ、その気持ちに嘘はなかった。……でも、自分の為でもあったんだ」
「……」
「……オレ、最初は騎士団じゃなくて国境連隊志望だったんだ」
「え……」
「戻るつもりだったんだ、ローエに」


 国境連隊所属となれば育った場所であるローエの近くに赴任出来る。そして、実際に配属は国境連隊に決まっていたのだとレックスは言った。彼の剣の腕前ならば、国境連隊ではなく騎士団入りは確実のはずだ。それを敢えて蹴ってまで戻って来ようとしていたことにアイリスは驚く。しかし、それならばどうして今、騎士団にいるのだろうかと不思議に思う。
 だが、それは聞くまでもなかった。レックスの口振りから、表情からその答えが読み取れたのだ。配属する場所自体がなくなってしまったのだ、と。それに気付いたアイリスはすぐに「でも……レックスの自分を責める必要なんてどこにもないよ」と口にする。彼のことだ、もっと自分が早くローエに戻れていたら、と考えていたのだろう。だが、そればかりはどうにもならないことだ。そのようなことを気にしていては気が持たないとレックスに言うと、彼は苦笑を浮かべる。


「お前がそれを言うなよ」
「でも、」
「オレは……一度だって行かなかったんだ」
「え?」
「ローエが攻め込まれたって聞いてから一度も。ああ、まただって……また壊されたって、ただ、絶望しただけだった」
「……」
「救助の手伝いに行けばよかった。もう遅いだとか、壊されただとか考える暇があったら絶望してる暇があったらオレは行くべきだったんだ」


 だけどそれをしなかった、お前がたった一人、生き残ってたのに、オレはみんな死んだと思ってた。
 口では守りたいと言い続けながらも、真っ先に諦めたのは自分自身であり、そのことに負い目を感じているようだった。昔のことを思い出させたくはない、悲しませたくはないと尤もらしい言い訳を並べなければならないほど、アイリスと顔を会わせることが本当は辛かったの。そのようなことがあれば、確かに会い辛かっただろう。けれど、それでも会いに来て欲しかったとアイリスは思った。もう誰もいないと思っていたのだ。孤児院で過ごした家族は誰一人としていないのだとばかり、思っていたのだ。
 何より、レックスが自分自身を責めるほどにアイリスは彼のことを責めていないのだ。彼がローエの戦禍に巻き込まれなくてよかったとさえ思ったのだ。レックスのことだ、きっと攻め込んで来た兵士らを見れば後先考えずに突っ込んだに違いない。それを思うと、やはり巻き込まなくて済んだことに安堵した。


「オレは自分の為に目を逸らすことを選んだんだ。お前に詰られて、責められることが怖かったんだ」
「そんなこと……」
「……ああ、お前はそんなことしないよな。そんなこと、オレだって分かってた。それでも、怖かったんだよ」
「レックス……」
「でも、戦争なんかに関わらないで欲しかったのは本当だ。本気で思ってた」


 ずるずるとその思いを引き摺って、お前の為にもちゃんと向き合わなきゃいけなかったのに、そのことからもオレは逃げてた――レックスは顔を上げ、赤い瞳をアイリスに向けた。その色はカサンドラのものよりも落ち着いた赤い色だったけれど、シリルの身体から流れ出た血を思い起こさせもした。
 視線を逸らしそうになるも、すぐに「アイリス」とそれを咎めるように名前を呼ばれる。アイリスはぎゅっと拳を握り締めると、弱々しくレックスと目を合わせる。


「お前がシリル殿下の死を目の当たりにして戸惑うのは当然だ。今まで誰かを目の前で喪ったことがなかったからな」
「……うん」
「でも、こんなことはこれから何度でも続く。今までが単に運がよかっただけだ」


 それでも、彼女の周りには死で溢れていた。ただ、今までは全て息絶えた後だった。今回のように生々しく死を目の当たりにしていたわけではなかった。だが、レックスが言うように、それは単純に今まで運がよかっただけのことだ。戦禍に巻き込まれても、たまたま周囲の惨劇を目の当たりにすることがなかっただけだった。戦争に参戦しても、たまたま仲間を目の前で喪わなかっただけのことだ。全ては偶然、運がよかっただけのことだった。
 こんなことがいつまでも続くはずがない――頭のどこかでは分かっていたのだ。次は自分の番かもしれない、目の前にいるレックスの番かもしれない。現につい先日はエルザとゲアハルトが殺され掛かっていた。自分だって一度は、殺され掛かったのだ。それらを回避出来たのは単純に運がよかっただけのことだ。そしてそれは、いつまでも続くことではない。そのことをシリルの死を持って理解しなければならなかった。


「それに今度は、お前が敵を殺す番かもしれない」
「……っ」
「血で血を洗わなきゃ、前に進めないところまで来たんだ」


 次はもっと大きな戦いになるのだとレックスは言う。今回はあくまで城内に被害を留めることが出来たものの、城を直接攻められるなど前代未聞のことだった。陥落させられはしなかったが、危ういところまで来ていたということに変わりはない。そのことを考えると、次がまたすぐあるかもしれないのだ。そして今度こそ、城を、王都が陥落してしまうかもしれない。
 その事態を避ける為には此方から打って出るしかないのだ。今までのような国境沿いの小競り合いではなく、ライゼガング平原の時のように大規模な白兵戦を仕掛けることになる。そうなれば、否応なく、アイリスもレックスも戦地に投入されることだろう。目の前に敵が迫れば、それがどのような敵であれ、倒さなければ自分自身が殺されるのだ。


「そんなの、分かってる……それにもうわたしは帝国兵を殺したことだってあるんだから、」
「だけど、強化兵だった。オレたちと同じ身体じゃなかった。生身の人間を殺す感覚とは違う」
「でも……っ」
「お前は自分が生き残る為に他の人間を殺せるか?」


 敵を殺すということは結果的にはそういうことだ。自分が生き残る為に他の人間を手に掛けている。ただ、それだけのことだ。それを国の為に、という大義名分で覆い隠しているに過ぎない。頭のどこかでは分かっていたことなのだ。だが、それをはっきりと目の前に突き付けられると、アイリスは何も言えなかった。
 目を瞠り、言葉を詰まらせる彼女を暫し見つめた後、レックスはゆっくりと立ち上がった。そして、アイリスに背を向けたまま口を開く。


「それが無理なら今ここで軍を抜けた方がいい」
「……」
「今ならまだ後戻り出来るはずだ。……その方が、お前の為だと思う」


 ちゃんと飯も食えよ、とだけ言い残すと、レックスはそのまま部屋を後にした。アイリスは何も言うことが出来ないまま、膝の上の自分自身の手を見つめた。まだ後戻り出来るはずだと彼は言った。けれど、後戻りするには自分はもう深みに沈んでいるように思えてならないのだ。たった一人でも、他人を手に掛けた自分が入隊以前の自分に戻れるはずもないではないかと、じわりと浮かんだ涙が頬を伝った。


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