過去 - good bye,days -




「あーあ……しばらくあの部屋、使えないじゃねーの?」


 廊下に出たブルーノは室内から聞こえて来る花瓶が割れる音などに顔を顰めながら溜息混じりに言う。部屋の惨状を考えると、とてもではないがすぐには使い物にはならないだろう。カインは「そうだね」とだけ答えると、やけに重たい足取りで部屋に向かって歩き出した。珍しい様子だったためか、ブルーノは足早に開いた距離を詰めると、首を傾げながらどうかしたのかと問い掛けた。


「別に……」
「あ、弟のことだろ。あいつ、カサンドラにあんなこと言って平気なのかよ」


 まあ、すかっとはしたけど――とブルーノは言いつつ、この場にはいないアベルのことを口にした。カインが普段とは異なる態度を取るときは大抵アベル絡みのことであるということを彼も分かっているのだろう。ブルーノの指摘にカインは僅かに眉を寄せながらも、すぐに小さく頷いた。
 普段ならば、アベルはあのような態度を取ることはない。面倒事を嫌う彼はいつだって我関せずとばかりに口を閉ざしていることが多いのだ。何か口を開いたとしても、あのようなカサンドラを煽るような言葉を口にするはずがない。だからこそ、一体どうしたというのかとカインはアベルのことが分からなかった。――アベルのことを分からないと思う自分が受け容れられず、自分の知っている彼と異なる行動をした彼自身のことが、受け容れられない。


「なあ、アベルっていつもああいう奴なのか?俺はあいつと顔を合わせたのが最近だから、あいつのことはよく分からねーんだけど」
「あんな風にカーサに噛みつくところなんて初めて見た。……普段は絶対、あんなことは言わないんだ。カーサにだって、誰にだって」
「……」
「……あんなアベル、初めて見た」


 だからこそ、戸惑いが隠せないのだ。自分の知るアベルではない彼が、目の前にいたように思えてならない。それがどうしても受け容れられないのだ。この世で誰よりもアベルのことを理解しているという自負がカインにはあった。自分以上にアベルのことを理解している人間なんて存在するはずがないのだと、彼は信じて疑っていない。
 しかしそれが今になって初めて揺らいだのだ。あんな態度を取るなんて思いもしなかったのだ。少しずつ、自分の知っているアベルから変わっているように思え、それに気付くと途端に足元がぐらつくようにさえ感じられた。背筋が冷えたのだ。潰した目が鈍く痛みを訴えるようで、堪らずカインはその場に立ち止まり、眼帯をしたそこを押える。


「おい、どうしたんだよ。痛むのか?」


 そうではないのだとカインは首を横に振る。しかし、ブルーノは「無理すんなよ」と言うなり、カインの腕を掴むと程近い自身の部屋へと引き摺るようにして入って行った。されるがままになっていたカインは放っておいてよと弱々しい声音で言うも、ブルーノは何も言わずに彼をベッドへと腰掛けさせる。
 そして、「どうせ部屋に戻ったってアベルがいるんだろ。だったら落ち着くまで此処にいろよ」と困ったような表情のまま言う。顔を合わせ辛いのだろう、と暗に言う彼にカインは言い返す言葉がなかった。どのような顔で会えばいいのか分からない――それは事実だった。今までそんなことを思ったことはなく、考えたことさえなかった。アベルと顔を合わせることなど当然のことであり、気にすることなど何もなかったのだ。
 どうしてこんな風になってしまったのかとカインは片目を抑えたまま俯いた。そんな彼にブルーノは暫し迷った後に、口を開いた。「なあ、」と切り出すその声音はいつもよりも静かで、どこか迷いを含んでいた。聞いていいのか迷っているのだろう。ブルーノが何を聞こうとしているのか、それが分からぬほど察しが悪くはないカインは「ボクとアベルのことでしょ」とブルーノよりも先に本題を切り出す。


「ボクとアベルは北の山奥の小さな寒村で生まれたんだ。ブルーノは何処の生まれ?」
「南の農村だけど……」
「それじゃあまだボクたちよりもマシな暮らしだったはずだよ、厳しくてもね。……冬になれば雪に閉ざされるその村はいつだって食料に餓えてた。そんなところに双子なんて生まれてみなよ」


 どうなるかなんて目に見えている――カインは当時を思い出すように目を細め、自嘲するように笑った。生まれて来なければよかったと言わんばかりの口調にブルーノは一瞬口を開くも、すぐに閉ざした。カインは相変わらず視線を床に落としたまま、「その上、アベルは魔法が使えた」と淡々と口にする。その言葉にブルーノは僅かに眉を寄せながら、お前だって魔法が使えるではないかと東の塔を燃やし尽くした時のことを思い返しながら言うも、カインは違うのだと首を横に振った。


「元々、ボクは魔法が使えなかった。アベルだけだよ」
「じゃあどうして使えるんだよ」
「使えるようにしてもらったからだよ。……ボクたちの生まれた村はとっても閉ざされた村で、魔法というものが存在していることは知っていても、それを使えた者は今までいなかったんだ」
「……」
「いや、いたかもしれないけどね。どちらにせよ、村の人たちからしてみたら恐ろしい……違うな、気味が悪い存在だったんだ。そういう存在が現れた時、どうするかは決まってる」


 カインの言わんとしていることはブルーノにも伝わっていた。けれど、彼はその時のことを思い出しながら悔しげに顔を歪めて口にした。


「幼い頃、アベルはまだ上手く魔力を制御出来なくてたまに炎とか雷だとか氷を周囲に出しちゃうことがあったんだ。……実の親も気味悪がってたよ。自分は化け物を産んでしまったとか言ってたかな」
「……」
「石を投げられるぐらいならまだよかった。走って逃げればいいし、怪我だっていつかは治る。でも、さすがに寝込みを農具を持った大人に襲われた時は拙かったな」
「お、親はどうしたんだよ」
「ボクをアベルから遠ざけようとしてた。自分の子どもなのに、あの人たちはアベルを殺そうとしたんだ、信じられないよ」


 元々、親だとも思っていなかったけど、と付け足すカインの隻眼はとても昏い色をしていた。聞かない方がよかったのではないかと今更ながらにブルーノは思えて来たものの、もういいと止めることも憚られた。カインの口ぶりは、まるで自分に言い聞かせているように思えたのだ。自分はこんなにもアベルのことを知っているのだから、理解しているのだから大丈夫だと、そう言い聞かせようとしているようにブルーノには思えてならなかった。


「いい加減、そろそろボクもアベルも、村の人たちも限界だった。ボクたちは逃げ回るのに必死で、村の人たちは生活していくのもいっぱいいっぱいになっていた。そんな時に、村に人買いが来たんだ」
「……売られたのか」
「アベルだけね。ボクは労働力として残されることになってた。村の人たちにとっての厄介者はアベルだけで、ボクはそうじゃなかったから。……だけど、アベルを一人にすることが出来なくて、ボクはこっそり人買いの馬車に潜り込んだんだ」


 売られれば、どのような目に遭うかは分かったものではなかった。兵士として拾われることがあれば上々、奴隷にされても致し方ないと思っていた。奴隷になったとしても、今のようにアベルが命を狙われることはないことを思えば、カインにとっては何でもよかったのだ。
 馬車に乗せられているアベルの前に姿を現した時、彼は今まで見たことがないほどに驚いた顔をしていた。そしてすぐにカインを馬車から下ろそうとしたのだ。自分と一緒に来る必要はない、売られる必要なんてないのだと泣きそうな顔で言っていた。けれど、本当は寂しくもあったのだろう。カインの顔を見た瞬間、じわりと両の目に涙を浮かべていた。離れるのが嫌だったのは、何も自分だけではなかったのだということにほっとしたことを覚えている。


「人買いは驚いてたけど、何も言わなかったよ。向こうにしてみれば商品が勝手に増えただけだからね」
「……」
「帝都に着いてからはすぐに売り手が決まったんだ。アベルとボク、揃って買われたことは有り難かったけどそいつがとんだ変態じじいでさ。気持ち悪いことばっかりさせられる日が続いた」


 それが何年か続いたある日、突然そんな生活は終わりを迎えた。カインとアベルを買い取った帝都に住まう貴族の邸に帝国軍が押し寄せて来たのだ。何があってそのような事態になったか、カインも詳細については未だ知らないままだった。だが、帝国軍が押し寄せて来るということは失態を犯したか、もしくは何らかの不正を働いたかのどちらかだろう。今となっては帝国軍が押し寄せて来るのだから不正を働いた可能性の方が高いものの、どちらにしろ、それまでの生活が終わりを迎えたという結果に変わりはなく、それがカインとアベルにとっては転機となったことは確かだった。
 押し寄せて来た帝国軍を指揮していた人物がヒッツェルブルグ帝国第一皇子、ヴィルヘルムだったのだ。当初、カインもアベルも兵士らの指揮を執っている人物が第一皇子などとは思いもしなかった。偉い人なのだろうという程度の認識でしかなかったのだ。自分たちの生活を変えた人物だったが、奴隷として好き放題されることを除けば、衣食住の揃った生活だったこともあって、自分たちの生活を壊した人物でもあった。


「兵士に見つけられて他の奴隷たちと一緒に表に出た時に、アベルが魔法を暴発したんだ。もちろん、わざとじゃないよ。村にいた頃よりも少なくなったけど、時々暴発させてたんだ」
「お前、それでよく殺されなかったな。兵士の手前だったんだろ?」
「殺されかけたよ。アベルは取り押さえられて、ボクは助けようとしたけど兵士に抓み上げられてた。でも、ヴィルヘルム様が助けて下さったんだ」


 心底から嬉しそうにカインは表情を緩めながら言う。何より幸せな記憶を語るようなその様子に僅かにブルーノは顔を歪めた。助けられたことは幸運だっただろうが、とてもではないがそれは幸せな記憶ではないように彼には思えてならないのだ。だが、カインはそんなブルーノの表情に気付くことはなく、「それでね、」と話し続ける。


「魔法が使えるアベルにヴィルヘルム様はご興味を持たれたんだ」
「でも、お前は使えなかったんだろ?」
「そうだよ。……だけど、あんまりボクが騒ぐから……ヴィルヘルム様はボクも一緒に連れて行って下さったんだ」
「ああー……確かに、お前は一緒に連れて行かないと騒ぎ続けそうだもんな」


 今だってそこは変わらないし、と溜息混じりに言うブルーノのカインは眦を吊り上げる。その表情にブルーノは慌てて「悪ぃ悪ぃ」と引き攣った笑みを浮かべながら口にした。少しも悪いなどとは思っていないだろうと思いつつも、カインは溜息を吐くに留まった。自室に戻り難いことは確かであり、カサンドラがリビングをめちゃぐちゃにしている所為でそこも使えないため、こうしてブルーノが部屋に入れてくれていることは有り難く思っているのだ。


「……ボクは、ヴィルヘルム様にご恩返しがしたいんだ」


 自分とアベルを助け、居場所を与えてくれた。その恩を返さなければならないのだとカインは常々思っている。そのためならば、誰がって殺してみせるし、何だってやってのけるつもりだった。現に今までだってヴィルヘルムの邪魔になる者は何人も手に掛け、様々な任務を遂行してきた。悪事だろうが何だろうが、それがヴィルヘルムの為になるならば、何だってよかったのだ。
 彼は、助けてくれただけではなく、自分の願いさえも叶えてくれたのだ。そんな相手に尽くすことはカインにしてみれば当然だった。今はカサンドラの指示に従っているものの、それも全て延いてはヴィルヘルムの為になると思っているからこそだ。だからこそ、同じ気持ちのはずのアベルがカサンドラにあのような態度を取ったことが理解出来なかった。


「願いって何だよ」
「ボクもアベルと同じように、魔法を使えるようにしてもらったこと」
「……でもよ、魔法って生まれ持って使えるものだろ?何でお前は途中から使えるようになったんだよ」


 本来ならば、魔法とは魔力を生まれ持った人間のみが使えるものだ。その人数はそれほど多くはないものの、決して少なくもない。ヒッツェルブルグ帝国では、魔法が使える者はその殆どが軍に入隊し、魔法の制御方法や使用方法を学ぶ。というよりも、魔法の取り扱いについて学べる場所が軍にしかないのだ。
 主に軍が主体となって魔法を管理し、研究しているものの、彼らとて生まれながらに魔力を持たない人間に魔法を使わせることなど出来ない。仮に出来たとすれば、ベルンシュタインとの戦争に手こずることもなく、最大火力で一気に攻め込むはずなのだ。ならば、どのようにしてカインは魔力を手に入れたのだろうかとブルーノが考えていると、唐突ににゅるりとした大きな身体が視界の端にちらついた。


「おわっ!?お前な!俺の部屋に蛇を入れるなよ!」
「煩いなあ……それぐらいいじゃん。ねえ、ヨル」
「よくねーよ!此処は俺の部屋だっつの!」


 そう言うも、カインは聞く耳を持たずにゆっくりと身体を蠢かしながらやって来る蛇の頭を膝に乗せ、そこを指先で優しく撫でる。ヨル、と呼ばれる灰色の大蛇は気持ち良さそうに目を細めると、やがて瞼を下ろしてカインの膝で気持ち良さそうに眠り始めた。蛇は苦手だとばかりに壁に寄っているブルーノを一瞥し、彼は「ヨルのお陰なんだ」と唐突に口にする。


「何がだよ」
「ボクが魔法を使えるようになったこと」
「……は?何でその蛇が関係して……」
「ヨルは魔法がどうしても使えるようになりたかったボクの願いを叶えてヴィルヘルム様が与えて下さった召喚魔法で異界から呼び出した使い魔だよ」


 召喚魔法、という言葉にブルーノは目を見開くも、すぐに表情を厳しくする。そして彼は、「お前、召喚魔法ってかなり危ない魔法だろ」と眉を寄せながら口にした。それほど魔法については明るくないブルーノも召喚魔法が禁術とされていることは知っている。そのように認定される以上、危険なものだとも思っていた。まさかそれをカインが使用しているなどとは思いもしなかったのだ。


「そうだよ。というか、ずっとヨルを連れてるのにどうして気付かなかったの?」
「ただの蛇好きかと思ってたんだよ!」
「だとしても、ヨルぐらいの大きさの蛇なんてなかなかいないよ」


 馬鹿なの、と言わんばかりのカインの様子にブルーノは舌打ちする。そんな彼にカインは僅かに表情を緩めて、「危なくてもいいんだよ。ボクはアベルと一緒に、同じになりたかったんだ」と口にした。
 これで一緒だと思っていた。魔法が使えるようになれば、アベルと同じになって、彼も寂しくはないはずだと思ったのだ。そう信じていた。これでやっとアベルと同じになったのだと、とても嬉しかったのだ。けれど、「ボクはヴィルヘルム様とヨルのお陰で魔法を使うことが出来るようになった。……でもね、ボクにはやっぱり才能がないから。アベルみたいに上手くは使えなかった」と当時のことを思い出すように彼は言う。今でこそ、アベルほど細かく使用することも、様々な攻撃魔法を使うことは出来ないものの、ある程度は制御できるようになったが、それまでは何度も暴発させてしまっていた。


「でも……アベルは喜んでくれなかった」
「……」
「ボクが魔法を使えるようになっても、少しも喜んでくれなかった。寧ろ怒られたよ、何で召喚魔法になんて手を出したんだって」
「そりゃあ、やっぱり危ないもんに手を出してんだから……」
「それでもよかったんだ。ボクは命なんて惜しくない」


 膝の上で眠る大蛇に額を顔を寄せながら、カインは隻眼を伏せて口にした。命など、惜しくはないと本気で彼は思っていた。それ以上に、弟のことの方がずっと大切だったのだ。同じになりたいとずっと思い続けていた。それが漸く叶えられたのだ。もちろん、最初から無事に、安全に、それが手に入るとは思っていなかった。何かを差し出さなければ得られるはずはないと思っていたのだ。そして、彼は魔力を得る代わりに自分自身の命を差し出した。


「召喚魔法の対価は契約者の命。ボクは命を対価に魔力を得たんだ」
「お前……っ」
「これはボクは自分で選んで決めたこと、後悔なんてしたことはないよ。ボクはヴィルヘルム様にご恩返しがしたい。アベルと同じにしてくれたヴィルヘルム様の為なら、アベルと一緒にいる為なら……ボクは命も惜しくない」


 それなのに、今になってアベルのことが分からないなんて滑稽すぎる――顔を俯けたまま、カインは自嘲した。アベルを一人にしたくなくて、一番の理解者でいたくて、ここまできた。それなのに、今更何を考えているのか分からないなんて、いつからアベルとすれ違ってしまっていたのだろうかとカインは隻眼を伏せた。失ったはずの右目が、ずきんと痛んだ気がした。


 






 東の庭園から掘り起こした箱の中から白の輝石と手紙が出てきた。シリルによって残された三通の手紙はそれぞれエルザ、レオ、そしてアイリスに宛てられたものであり、それぞれの手元に手渡された。レックスとレオは掘り返した場所に土を戻してから軍令部に戻ることとなり、アイリスはゲアハルトとエルンストと共に先に戻っていた。
 一度、軍令部にある与えられた自室に戻ったアイリスはシリルからの手紙を読んだ。そこには、たくさんの謝罪の言葉が並んでいた。無理矢理、近衛兵団に異動させたこと、そのせいで嫌な思いをたくさんさせてしまったこと、キルスティに暴力を振るわれたことなど、様々なことが挙げられていた。本当はどれも直接謝るべきところだが、これを読む頃にはこの世にはいないだろう――シリルは自身の死を悟っていたらしい。
 そして続く文面には、これから先のアイリスのことを気遣う文面が続いていた。無理はしないように、自分を責めないように。それが彼にはとても気掛かりなことだったようで、アイリスは目頭が熱くなった。読み進めていくうちにいくつか分かったこともあった。近衛兵団への異動は、ルヴェルチがシリルに指示したことだった。今にしてみれば、より確実にアイリスを鴉に引き渡す為に騎士団から引き離すことが目的だったのだろう。また、レオの移送はシリルの独断であり、その頃からルヴェルチや鴉とは距離を置きつつあったらしい。思えば、その頃からシリルの様子は変わっていったように思える。
 手紙を読み終えたアイリスは目の端に浮かんでいた涙を指先で拭った。シリルにはきっと、自分が俯いてしまうことが分かっていたのだろう。だからこそ、彼は手紙を残してくれた。封筒に戻したそれをぎゅっと抱き締めた彼女はそれを大切そうに引き出しにしまった。そろそろレックスやレオも軍令部に戻って来ているはずであり、今後の方針についてのゲアハルトの話が始まるはずだ。本来ならば、そのような話を聞くほどの立場にないアイリスだったが、鴉が求めている養父の白の輝石の研究内容についての手掛かりが何かしら託されているのではないかということもあり、声が掛かっていたのだ。


「失礼します、アイリスです」
「入ってくれ」


 与えられている部屋の外にいた護衛の兵士らと共にゲアハルトの執務室に向かうと、すぐに返事が返って来た。共に来てくれた兵士らに頭を下げると、アイリスは室内に足を踏み入れる。そこには既にレックスとレオの姿もあり、どうやらアイリスが一番最後だったらしい。そのことを謝りながら空いている席に着くと、「そこの二人も今来たところだから気にしなくていいよ」と隣に座っているエルンストが口にした。
 言われてちらりと向かい側に腰かけているレックスとレオに視線を向けると、レオの目元が赤かった。その様子から泣いたことが伺えるも、シリルの手紙を読んだのだろうと結論づけ、アイリスは何も言わなかった。恐らくは自分に宛てられたものと同様に謝罪の言葉があったのだろう。彼はとても不器用な人だった。本当はきっと、レオのことを誰より心配していたのだろう。


「早速だが、今後の方針について話す前に現状を確認する。先ほど報告が来て、第十と第十一の監査が終わった。数名、ルヴェルチと繋がっていた者がいたようだ。彼らの尋問はエルンストに任せる」
「了解。後でその名簿ちょうだい」
「ああ。第十と第十一は今後、重要任務から外し、前線配置中心とする。それも含めて騎士団と警備兵近衛兵は再編中だ、先の交戦で被害も出ているからな」


 先日のバイルシュミット城での一件では騎士団や警備兵団、近衛兵団にも少なくない被害が出ている。特に警備兵や近衛兵の被害は騎士団の比ではなく、彼らがいかに日頃から鍛錬を疎かにしていたのか、実戦経験が少なかったのかが浮き彫りとなった。普通であれば、城を直接攻撃されるということは王都が陥落しない限りは有り得ないことだ。だからこそ、仕方がないと言えばそれまでだが、ゲアハルトらにしてみればそれはただの言い訳に過ぎない。
 だが、これを機に軍部が主導権を握ることが出来たという意味ではそれも僥倖ではあった。しかし、問題は山積している。ゲアハルトが敵国の元第一皇子という事実は変わりはなく、そんな彼は司令官には不適任だという声も相変わらず内外から上がり続けている。日が経つにつれて、軍部からはその声も少なくなっては来ているものの、軍閥ではない貴族らにしてみれば唯一付け要ることの出来る箇所であるためか、ゲアハルトの司令官解任が日々叫び続けられている現状にある。


「レオの王位継承権復活の手続きは滞りなく進んでいる。早ければ、シリル殿下らの国葬を執り行う時に間に合うはずだ」
「……そうですか」
「柄にもなく緊張してる?」
「き、緊張ぐらいしますよ!……元々、オレは王位を継ぐことなんてないと思ってたし……」


 言葉を濁すレオに「自分だけで全てを決めなければならないわけではない。大丈夫だ」とゲアハルトは元気づけるように言う。しかし、彼の表情はそれでも晴れず、小さく一度頷くだけだった。国を背負うということは決して楽なものではなく、一人で全てを決めるわけではないにしても、最終決定を下すのはレオだ。彼の命令一つで、国の命運が変わる。無論、それが間違った決定であれば、周囲にいる人間が止めるだろう。それでも、決定を下し、その結果を背負うのもまたレオなのだ。彼は逃げることも隠れることも出来なくなる。どれだけ辛くとも、生きてる限りは立ち続けなければならないのだ。
 それを思うと、アイリスは何も言葉を掛けることが出来なかった。生半可なことは言えない、気休めなど言ったところで少しも意味はないのだ。レオの隣に腰かけていたレックスが「今はこっちの話に集中しろよ」と肩を叩く。いつもであれば、すぐにレオは集中してる、と言い返すだろう。けれど、今はやはり頷くだけで、見ているだけでも彼が重圧に押し潰されそうになっているのが見て取れた。だが、手を差し出すわけにもいかなかった。これはレオが一人で乗り越えなければならないものだ。誰かの手を借りて立ち上がったのであれば、彼はこの先も人の手を借り続けなければ立てない弱い王になってしまう。見ていることしか出来ない歯痒さを感じるも、アイリスは心の中で頑張れ、と応援するしかなかった。


「それから白の輝石の確保の件はしばらく内密にしておいて欲しい。いたずらに周囲に知らせても面倒なことにしかならないからな」
「あの、司令官。よろしいでしょうか」
「どうした、レックス」
「その石……白の輝石とは、一体どういうものなのかを教えて頂くことは出来ませんか」


 国宝だということも、それが失われていたことも知っている。だが、目にしたそれはただの白く濁った石でしかなく、奪い合うほどの価値があるとも思えない。それはアイリスやレオも共通して思っていることだった。だが、ゲアハルトは首を横に振ると、「今はまだ教えられない」と口にした。


「ある程度の仮説は立てている。だが、それを立証するだけの証拠がない」
「で、それを確保する為にアイリスちゃんが必要ってこと。まあ、裏付けが欲しいというよりかはコンラッドさんの研究内容そのものが欲しいんだけどね」


 ゲアハルトの言葉を引き継いだエルンストの一言に全員の視線がアイリスに集まる。だが、彼女は申し訳なさそうに視線を伏せ、「でも、わたしは父からは何も……」と首を横に振った。
 養父が白の輝石の研究を行っていたなどとは知りもしなかったことだ。カサンドラが口にしていた為、事実としては知っている。だが、少なくともアイリスの目の前でそのような研究を行ってはいなかった。いくら記憶を辿っても、養父が邸で仕事をしている姿さえ見たことがなかったぐらいだ。


「だが、クレーデル殿が託すとすれば一緒に暮らしていたアイリスだけだ。気付いていないうちに、きっと何か託されてるはずだ」
「焦らなくていいから少し思い出してみて欲しいんだ」


 エルンストは焦らなくていいと言う。だが、それは無理な話だった。自分に託されているはずだという白の輝石の研究への手掛かりを何としても見つけ出さなければならない。それを見つけ出さなければ、せっかく手に入れた反撃の機会を生かすことも出来ないのだ。焦るなという方が無理だとアイリスはテーブルの下で拳を握り締めた。
 そうしている間にも話は進み、一先ず手掛かりを探すべく、翌日、クレーデル邸に向かうこととなった。アイリスにとっては予想外の帰宅になるものの、此処で悩んでいるよりも共に生活を送り、恐らくは隠されているであろう邸で手掛かりを探した方が余程賢明だった。「分かりました」とアイリスが頷くと、その場は解散となった。事態は確実に好転している。だが、誰の表情も決して晴れやかとは言い難いものだった。



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