過去 - good bye,days -




「お待ちしてました、司令官」


 翌朝、アイリスはゲアハルトとエルンスト、そして、レオと共に北区にあるクレーデル家の邸にいた。そこには既に前日から警備に入っていたレックスと先日も彼と共に騎士団を抜けて別働隊として動いていた兵士の姿があった。それほど長い時間を過ごした邸ではなかったが、やはりこうして軍人が出入りするとなるとアイリスの知っている雰囲気とは異なって見えた。
 軍に入隊してからというもの、殆ど帰ることもなかったということもあり、邸の管理を任せている家人らと顔を合わすのは久しぶりのことだった。実際のところ、彼らはアイリスが軍に入隊することに反対していたということもあり、彼女は顔を合わせ辛く思っていたというところも大きい。どのような顔で会えばいいのだろうかと思っている間にも話は進み、レックスは数枚の書類をゲアハルトに手渡していた。


「オレの独断ですがクレーデル邸の家人の方の身元を検め、人相などもまとめておきました」
「そうか。確かに、奴らのうちの誰かが化けて入り込むかもしれないからな。人数はこれで全てか?」
「はい、執事のアルヴィンさんに確認も取っています」
「上出来だ。アイリス、君も一応確認しておいてくれ」
「あ、はい」


 差し出された書類には名前や人相などがまとめられていた。クレーデル邸に仕えている者はそれほど多くはなく、すぐに書類には目を通すことが出来た。アイリスが邸を出て宿舎で生活するようになってからも特に入れ替わりもなかったらしい。彼らにはよくしてもらっていただけに、だからこそ、会い辛さが増した。
 そんな彼女の思いを他所に、ゲアハルトらは邸に入るべく足を踏み出した。アイリスは慌ててそれに続き、久しぶりに戻って来た邸を眺めた。それほど大きい邸ではないものの、庭は美しく整えられ、色とりどりの夏と秋の花が入り乱れて咲いていた。その懐かしい様子を目を細めて見ていると、「ようこそお越し下さりました」という懐かしい声が聞こえて来た。


「突然訪問してしまって申し訳ない」
「とんでも御座いません。国民として軍に協力することは当然ですし、何よりお嬢様もお許しになっていらっしゃりますので」
「ア、アルヴィンさん!その呼び方は止めて!」


 堪らずアイリスは顔を赤くして声を張り上げた。どのような顔で会えばいいのだろかと悩んでいたことさえ馬鹿らしくなるほど、彼女は慌てふためいていた。自分はお嬢様などと呼ばれるほどの者ではないのだと早口に言うアイリスにアルヴィンと呼ばれた初老の燕尾服の男は一つ咳払いをすると、じとりとした視線を彼女に向ける。


「これはこれはアイリスお嬢様。顔を合わせた第一声がそのようなお言葉とは……」
「だ、だから!」
「我々の反対を押し切って勝手に軍の入隊試験を受けに行った挙句、邸を飛び出して半年も何の音沙汰もなしとは実に嘆かわしい」
「う……ご、ごめんなさい……」
「お嬢様の御身に何かあれば我々がコンラッド様に顔向け出来ないというのに」


 額に手をやり、溜息混じりに口にするアルヴィンにアイリスは返す言葉が見つからなかった。まさかそのような状態であったなどとも思わなかったらしいゲアハルトらも驚いた様子であり、アイリスはますます肩身の狭い思いになってしまう。無論、自分に非があるということは分かっている。何かしら連絡を入れるべきだったのだということは重々分かっているのだ。
 だが、どうにも手紙を出すことさえ躊躇われ、後回しにし続けるうちに今日になってしまったのだ。けれど、アイリスにしてみれば、このような態度を取られることも意外だったのだ。彼女にしてみれば、自分はただの養女だ。引き取られた戦争孤児であり、クレーデル家の血が流れているわけでもない。養父が戦死している以上、そこまで大切に扱われるような存在でもないと、アイリスはそう思っていたのだ。


「……でも、わたしは……」
「お嬢様が養女だということは事実ですが、そのようなことはどうでもいいのです。コンラッド様がご息女として迎えられた以上、貴女はクレーデル家の人間です。……だから、いつだって帰って来ていいんですよ、此処は貴女の家なのですから」


 ずい、と顔を近付けられ、アイリスは上擦った声で「わ、分かった!分かったから!」と声を上げる。昔から何かとアルヴィンのペースに巻き込まれてばかりだった。だからこそ、黙って軍の入隊試験を受けることを決めるに至ったのだ。
 自身が養女である為、邸にいても周囲に対して遠慮していることが多かった彼女はアルヴィンのこのような部分に苦手意識を持っていた。それは彼に対してだけでなく、邸に仕えている者たち全てに言えることだった。クレーデル家の家人は誰もがアイリスには温か過ぎたのだ。
 けれど、レオやシリル、エルザの様子を見ていると彼らの場合は半分は血が繋がっているものの、血縁というものが決して重要視されているわけではないのだということが身に染みて分かったのだ。たとえ半分しか血が繋がっていなくとも、本来ならば政敵となる存在だとしても、シリルやエルザはレオのことを弟として大切にしていた。それを見ていると、自分も同じではないかとそう思ったのだ。


「おかえりなさい、お嬢様」
「た、ただいま……でもその呼び方は止めて」
「嫌です。我々の反対を押し切って勝手に軍に入隊されたのですから、これぐらいの勝手は許して頂きます。皆様も、今後ともよろしくお願い致します」
「もっ、もういいから!いつまでも玄関先で待たせてないで中にお通しして!」


 アイリスは顔を赤くしたまま早口に言うと、アルヴィンの背を押して邸の玄関へと走り出す。けれど、余計なことを言わなくていいのにと思う反面、彼の言葉が嬉しくもあったのだ。だからこそ、玄関で立ち止まった時、彼女は小さくありがとう、と呟いた。それはちゃんとアルヴィンの耳に届いていたらしく、彼は目を細めて笑うと「普段からそうして素直になされていればいいのですが」とからかうように言う。
 途端にアイリスは言い返そうと口を開くも「まあまあ、落ち着いて」とエルンストが間に入る。そして、彼はアルヴィンに向き直ると「早速ですが、捜索を始めさせて頂きます。兵士が邸を出入りしますが、よろしいですね?」と確認する。兵士が出入りするということは、周囲からあらぬ噂を立てられることが予想されているのだ。しかし、否と答えることは容易く出来ることではなく、頷かざるを得ない場合が多い。


「ええ、お好きになさって下さって結構です。よろしいですね、お嬢様」
「あ、はい」
「現当主のお嬢様もこう仰っています。それに、お嬢様に家出されただ何だと噂された当家がこれ以上、外聞を気にする必要などありませんので」
「悪かったと思ってるからもう言わないで!」
「本当でしょうか」


 そう言ってアルヴィンは肩を竦めて見せると、ゲアハルトに向き直り「まずは旦那様の書斎にご案内致します。室内は生前と変わらぬままにしてあります」と口にする。ゲアハルトは一つ頷くと、レックスが連れて来ていた兵士に対し、邸の離れや庭を含めて何かしら変わったところがないかを調べるようにと指示を出した。その後、近くにいた兵士の一人を呼び付け、彼に何かを耳打ちするとゲアハルトは書斎まで案内してくれるようアルヴィンに頼んだ。
 歩き出したアルヴィンの後に続きながらアイリスは首を傾げていた。ゲアハルトと養父は懇意にしていたのだという。ならば、邸にも訪れたことがあり、邸の内部のことも知っているのではないだろうかと思ったのだ。首を傾げていることに気付いたエルンストに声を掛けられ、アイリスは考えていたことを口にする。すると、「アルヴィンさんの顔を立てただけだよ」と微苦笑を浮かべて言う。


「アイリスちゃんにとっては此処は勝手知ったる家で俺たちにも好きに動けばいいって思ってるかもしれないけど、此処は貴族の邸なんだから礼儀作法は守らないと。分かった?お転婆お嬢様」
「エ、エルンストさん……!」
「冗談だよ。まあ、お転婆であることに変わりはないけどね」


 アルヴィンさんも苦労したんだろうなあ、と言ってからかうエルンストに言い返す言葉が見つからずにいると、「此方です」とアルヴィンは足を止めていた。そこは養父であるコンラッドの書斎であり、その部屋に入ること自体、アイリスには久しぶりのことだった。コンラッドを失って以来、足が遠のいている部屋でもあったのだ。
 しかし、だからといって入ることを躊躇っている場合ではない。この部屋に何かしらの手掛かりが眠っているかもしれないのだ。それを何としても見つけ出さなければならない。アイリスは意を決した様子で書斎に足を踏み入れた。「それでは、私はこれで。邸内はご自由に出入りして頂いて構いません。何か御座いましたら遠慮なくお申し付け下さい」とだけ言うと、アルヴィンは一礼した後に書斎を後にした。邪魔をしてはならないと思ったのだろう。
 扉が締められた後、十分に靴音が遠のいてからゲアハルトはぐるりと書斎を見渡した。アイリスにとっては見慣れた場所であるものの、この部屋の何処かに帝国軍さえも狙う白の輝石の研究内容が隠されている可能性が高いのだ。まさかそのようなものが隠されていたとは、と思うも、この部屋に存在しているという確証があるというわけでもない。現時点で最も可能性が高いと思われるだけなのだ。だが、何の手掛かりもない以上、その手掛かりを見つける為にもあるかどうかも分からないものを探すしかない――それは途方もないことのように思えるも、可能性が僅かでもある以上はやってみる価値はあるのだと自分自身に言い聞かせる。


「早速だが書斎を捜索する。どのような形で研究内容が残されているかも分からない。だが、城には白の輝石に関する一切の書物が何処かに移動させられた形跡があった。恐らく、ホラーツ様がコンラッド殿に与えられたはずだ」
「元々、城の保管庫にあった文献がいくつも行方が分からなくなってる。全て同じ頃に。保管に関する書類や一覧もその頃に全て作り変えられているようだから、盗まれたということも考え難いんだ」


 ちなみにこれが行方が分からなくなってる文献の一覧、と言ってエルンストは数枚の書類をアイリスに手渡した。それを両側からレックスとレオが覗き込む。量はそれほど多くはないものの、決して少ないとも言い切れない。しかし、そこに書かれている文献の名前にアイリスは見覚えがなかった。


「でも、行方不明になってるならどうしてここまで詳細に調べられたんですか?書類も一覧も全部作り変えられてたんですよね?」
「そりゃあ勿論、司令官にあれやこれやと指示されて時間を見つけて色々と調べ続けた結果だよ。ねえ、司令官」
「……兎に角、アイリスとレックス、レオはこの文献の捜索に当たってくれ。どれか一冊でもこの邸から見つかれば、コンラッド殿がこの邸で研究していたという可能性が高くなる」
「司令官、外の奴らも読んではいかがですか?」


 さすがに三人で邸の中を捜索する、というのは骨が折れる。レックスの提案にゲアハルトは暫し考えた後、「本の題名は告げずに明らかに隠されている状態の本を探すようにとだけ伝えてくれ」と口にした。やはり、まだ白の輝石に関する捜索を行っているということは伏せておきたいのだろう。この邸に連れて来る程度には外で捜索に当たっている兵士のことは信用してはいるのだろうが、全面的に信用しているわけではないのだろう。
 レックスは僅かに物言いたげな顔をするも、すぐに了解しましたと返事をする。それから書類を手にしているアイリスとレオを前に「分担決めて先に始めてくれ」とだけ言うと足早に書斎を後にした。それを見送ると、ゲアハルトやエルンストもそれぞれ動き出し、アイリスとレオは顔を見合わせると手元の書類に視線を落とした。


「アイリスは見覚えないのか?」
「うん……、あんまりこの部屋にも入ったことはなかったから。とりあえず、この部屋から探してみよっか。木を隠すなら森の中って言うし」
「そうだな。それじゃあオレはここから左半分を二枚目の書類見て探すな。アイリスは右半分で一枚目を頼む」


 手渡された書類に目を通し、アイリスは言われた通りに壁一面に詰められている本棚の前に立った。気が遠くなりそうになるも、やらないわけにはいかない。もしかしたらこの本棚の何処かに隠されているかもしれないのだ。アイリスは自分自身にそう言い聞かせて鼓舞すると、早速取り掛かった。
 とは言っても、さすがに天井近くの本の背表紙を確認することは出来ない。ひとまず見える範囲のものから確認することにしたアイリスは手元の書類に書かれている題名と照らし合わせながら本を探し始める。集中し始めると、周囲の物音が大きく聞こえるようでコンラッドの机や部屋そのものを検めているゲアハルトやエルンストが動き回る音がよく聞こえて来た。しかしそれも、次第には遠くで聞こえるほどに彼女は作業に没頭する。そうして途中でレックスが合流して残りの書類を使って捜索を開始した矢先、ごつんと鈍い音がした。


「い、った……」
「っつ……」


 右側から始めたアイリスと左側から始めたレオが周りを見ずに動いていた為、ごつんと互いの頭をぶつけたのだ。予想外の痛みに二人揃って床に座り込むと、反対側の壁一面に敷き詰められた本棚を担当していたレックスが振り向き、ゲアハルトやエルンストさえも手を止めて何事かと振り向いていた。


「う……レオ、大丈夫?」
「ああ……うん、平気。お前は?ごめんな、ちゃんと横見てなくて」
「大丈夫だよ、わたしこそごめんね」


 互いにぶつけてしまった箇所を抑えていると「気を付けないと危ないぞ」というレックスの呆れた声が聞こえてきた。言い返す言葉もないアイリスとレオは互いに何とも言えない顔で頷いていると、彼はますます呆れた顔をして溜息を吐いた。すると、「一度休憩を入れよう」と微苦笑を浮かべたゲアハルトがしゃがみ込んでいた机の傍から立ち上がる。自分たちの所為で中断するわけにはいかないと慌てて二人は立ち上がって言い繕うのだが、ゲアハルトは苦笑を浮かべて首を横に振る。


「そろそろ休憩を入れようと思っていたところだ。丁度いい。なあ、エルンスト」
「え……ああ、うん。いいと思うよ」


 話を振られたエルンストは視線を逸らしながら言う。珍しく歯切れの悪い言い方をする彼にその場にいた誰もが首を傾げる。先ほどまでは常と何ら変わらない様子だった。それなのに一体どうしたのだろうかと思うも、エルンストは視線だけでなく背も向けてしまったが為にどのような顔をしているのかは伺い知ることが出来なかった。
 兎に角、休憩を取ることになったのだからとアイリスはお茶の用意をすると書斎を後にする。手伝いをレックスとレオが申し出てくれたものの、それほど大変なことをするわけではないのだからと断った。一応――こういう言い方をするとアルヴィンらが顔を顰めるのだが――この邸は自身の家であり、彼らは捜索で訪れているものの、客人であることに変わりはない。自分は持て成す側なのだからとアイリスは勝手知ってる我が家とばかりに足早にアルヴィンらの元へと急いだ。


「でも、どうするんです?さすがにこれ以上、お嬢様に秘密にしておくわけにも……」


 声を掛けようとした矢先、そんな会話が扉の向こうから聞こえて来た。アイリスは咄嗟に足を止め、息を殺す。立ち聞きなんて決して褒められたことではないということは重々分かってはいるのだが、自分の話をしていると分かっていて、何も知らぬ振りをして扉を叩くことは出来なかったのだ。そのまま立ち尽くしていると、重たい溜息を吐いたアルヴィンの声が聞こえて来る。


「しかし、お嬢様のことだ。縁談の話が来ているなんて知らせれば、家の為にと頷くに決まっている。そのようなことは旦那様もお望みではないだろう」
「そうだとは思いますけど……だからっていつまでも相手方に返事をしないわけにもいきませんよ」
「分かっている。……だから困っているんだ」


 その声音は心底困り果てている様子だった。彼らにしてみれば、アイリスに政略結婚など望んではいないのだろう。それらは会話の様子から伺い知ることが出来る。しかし、そう簡単に断ることも出来ないからこそ彼らは困り果てている。自分に言えば、どのような返事をするかも全て分かっているのだろう。
 アイリス自身、縁談の話が持って来られたとすれば、自分がどのような返事をするかなど、分かり切っていた。引き取ってもらった恩を返す為にもその話を受ける――受けざるを得ないのだ。たとえアルヴィンらが受けなくていいと言っても、アイリス自身の気持ちがそういうわけにもいかないのだ。引き取られて以来、とてもよくしてもらったのだ。何不自由ない暮らしをさせてもらったことを思えば、少しでも何か彼らに返さなければと思わずにはいられない。
 そんな彼女の考えをよくよく分かっているからこそ、彼らは何も言わないのだろう。アイリスは扉に触れ、その心遣いの温かさに嬉しさを感じながらも、いつか来るだろうとは思っていたその話がすぐ目の前に迫っているという事実に胸が痛んだ。ちくりと、心が痛んだのだ。その痛みは絶えることなく、ちくりちくりと苛み、心は靄に覆われていくようだった。どうしてだろう、覚悟していたはずなのに――そんなことを考えながら、アイリスはなかなか扉を叩くことが出来ないでいた。








 アイリスが書斎を出て行った後、彼女が戻って来るまではと捜索が再開された。エルンストは再び床に膝を付き、隠し部屋の有無を確認していた。コンラッドが戦死した二年前にも一度、書斎を捜索したことがあったものの、その時は何も手掛かりを見つけることが出来なかった。それを改めて再び行う理由は、今回はアイリスがいるからだ。
 彼女はコンラッドに引き取られ、何かしらの手掛かりを知らぬうちに託されているかもしれない。その点では、長くコンラッドに仕えていたアルヴィンの方が可能性は高そうではある。しかし、誰もがそう思う為に何も託されてはいないのではないか、たとえ何かしら託されていたとしても、それが偽物である可能性の方が高い――ゲアハルトはそう踏んでいた。エルンスト自身、彼の考えを否定するつもりもなく、だからこそ、文句を言うこともなく微かな手掛かりも見落とさないように床や壁に目を凝らしている。
 だが、どうにも手が進まず、頭が上手く働かなかった。考えなければならないことは山ほどある。しかし、思考は結局、昨夜の話に行き着くのだ。そして、先ほどのアイリスとレオの様子が脳裏を過り、その度に苛立ちと焦りに苛まれ、エルンストは内心舌打ちをする。


「エルンスト?」
「え、ああ……何?」
「いや……少しぼんやりとしているようだったからな。疲れが溜まってるのか?」
「そりゃあ、司令官にあれやれこれやれって押しつけられたら疲れも溜まるよ」


 声を掛けられるまでゲアハルトが傍に来ていたことに気付かなかった。そのことにエルンストは一瞬奥歯を噛み締めるも、すぐに何ら変わらないいつもと同じ表情を浮かべる。そんな彼にゲアハルトは僅かに眉を寄せるも、それ以上は何も言わず、「だったら今は座って休め」と口にする。
 けれど、座って休んだところでどうにもなるわけではないことをエルンストはよくよく分かっていた。この苛立ちも焦りも、そう簡単にどうにか出来るものでもない。それを解決する手段がないわけではない。それを使ってしまえば少なくともこの苛立ちと焦りは消え失せるだろう。だが、それと同時に申し訳なさや後ろめたさが鎌首を擡げるのだ。結局のところ、何をしたって心は苛まれるのだということを思うと、何もしたくはないという思いでいっぱいになる。


「いいよ、平気」
「エルンスト」
「大丈夫だよ、司令官は心配し過ぎ」
「……昨夜、何かあったのか?」


 笑ってやり過ごそうとするエルンストに対し、ゲアハルトは心配げな顔で言う。そんな彼を前に、エルンストは一瞬全てを話してしまおうかとも思った。けれど、すぐにその考えを頭の外へと追い出し、「面倒な話をされてちょっと苛立ってただけ」とだけ口にした。ゲアハルトに言わずとも、どのような結果であれ、いずれは彼の耳にも届くことになるだろう。
 それを思うと、言えなかった。友人だと思っているからこそ、言えなかったのだ。エルンストはそのまま「ちょっと外に出て落ち着いて来るよ。すぐ戻るから」と言うと、ゲアハルトの傍をすり抜けて書斎を後にした。


「……結局、逃げただけじゃないか」


 廊下を歩きながらぽつりとエルンストは呟き、奥歯を噛み締める。ただ、有耶無耶にしただけだ。何の解決にもなっていない。自分自身、はっきりすることが出来ずにいることが歯痒かった。そして、それと同時に気付いたのだ。こんな風に悩んでいるからこそ、ディルクはあのような言葉を口にしたのだ、と。
 以前のお前になら家督を譲ってもいいと思っていた――その言葉が脳裏に蘇る。以前の自分ならば、このように迷いはしなかっただろう。欲しいものならたとえどのような手を使ってでも手に入れようとしたはずだ。今のように周りへの影響など殆ど考えることもなく、自分の欲を優先した。
 周りからすれば、成長したと褒められるだろう。けれど、本当のところは弱くなったようなものでしかない。周りを慮れることは優しさと呼ぶことは出来る。だが、一部の者からしてみれば、弱くなったようにしか見えないだろう。牙を折られたようにしか、見えないのだ。それが分かっているだけに、エルンストは唇を噛み締め、拳を握り締めるしかなかった。
 そんな時、不意にバイルシュミット城でカサンドラと相対した時に言われた言葉を思い出す。彼女は言ったのだ、手伝ってあげようかと。思い出したそれは脳裏に響き、彼は思わず足を止めた。しかし、すぐに何を思い出しているのだと頭を乱暴に振った。だが、まるで絡められたかのようにその言葉が頭の中で反響する。その矢先、幻聴だけでなくふわりと彼女が纏う薔薇の香水の香りさえ
鼻腔をくすぐり、何なのだとエルンストは舌打ちした。これではまるで傍にカサンドラがいるようではないか、と――そこまで考えて彼ははっと目を見開き、周囲を見渡した。


「まさか、」


 エルンストはすぐに走り出した。鼻腔をくすぐったの香りが残滓であるとすれば、カサンドラはまだすぐ近くにいるはずなのだ。そうして辺りを見渡しながら廊下を駆け抜けて行くと、曲がり角から出て来たメイドとぶつかり掛ける。咄嗟に止まるも、勢いを殺しきれず、肩がぶつかってしまう。「失礼」と早口に謝りつつ、曲がり角の先へと視線を向けるも、エルンストははたと気付く。
 そして、立ち去ろうとしているメイドを呼び止め、彼女との距離を僅かに詰める。呼び止められたメイドは「何でしょう」と柔らかな笑みを浮かべながら振り返っている。そして、エルンストは真っ向から彼女を見つめ、それから吐き捨てるように「相変わらずだな」と口を開く。


「メイドは香水なんて付けないぞ」
「いえ、これは私ではなく、」
「じゃあ誰?この邸でそれが許されてる子はこんなものは付けてない」
「あの、」
「下手な言い訳はやめろ。この邸にお前の人相に当てはまるメイドはいない。昨日のうちに先行していた兵士が昨日の時点で邸にいた家人全員の人相と名前を確認してる。今日メイドが増えたなんて報告もない、……カサンドラ、お前此処まで何しに来たんだよ」


 はっきりと名前を言い当てると、それまでおどおどとした様子だった彼女は表情を消し去り、そして唇を撓らせて笑った。「こんなに早く気付かれるなんて思わなかったわ」と愉しげな声音と共に彼女は顔を覆うように手を翳す。次の瞬間には、それまであった顔は消え去り、まとめあげられた赤紫の髪に血のように赤い瞳をした常と何ら変わらぬカサンドラの姿がそこになった。
 だが、いつもとは異なり、その頬には痛々しいガーゼが貼り付けられている。その様をエルンストは鼻で嗤った。「シリル殿下に上手く出し抜かれたみたいだな」と口にすれば、目に見えてカサンドラの表情は強張る。それと同時に苛立ちと憎しみ、恨みに顔が歪み、目は射殺さんばかりの様子でエルンストを睨みつけていた。これ以上、煽るのは危険かと判断した彼は「どっちにしろ、お前はその香水を止めない限りはすぐに見破られるぞ」と鼻で嗤いながら言う。


「尤も、それを使わなかったら兄さんの身体の腐敗臭が取れないんだろ」
「あら……知っていたの?」
「そんな臭いほどに香水を付ける理由なんてお前の鼻が悪いわけではないならそれぐらいしか理由がない」


 気持ち悪さはあった。ギルベルトの話になった途端にうっとりとした顔をするカサンドラに、胃の底から込み上げるような吐き気さえ感じる。だが、今はそれを気にしている場合ではない。彼女が潜入した目的を問い質さなければならないのだ。そして、この場での戦闘は出来る限り避けなければならない。もし、この場に白の輝石に関する何かしら手掛かりがあったとしたら、と思うと、とてもではないが邸内では普段と変わらぬ動きをするわけにはいかなかった。


「どうして此処にいるんだ」


 努めて冷静にエルンストは口にした。出来るだけ早くカサンドラを追い出したかった。それを知ってか知らずか、彼女は先ほどまでとは打って変わって愛想のいい様子で「貴方に会いに来たのよ」と笑みを浮かべて言う。その声音と笑みにぞわりとした寒気を感じ、鳥肌になる。
 しかし、それを押し殺し、エルンストは顔を顰めながら何の為にかを問い掛ける。自分に何か用があるとしても、それはギルベルトに関することだけだろうと考えていた。だが、考えてもカサンドラが自分に用があるとは思えない。ならば、わざわざ変装してまで彼女の来る理由は何なのかと考えていると「聞いたのよ、私」とカサンドラが口を開いた。


「貴方が縁談を勧められてるって話」
「……誰から」
「人の口には戸が立てられないものよ」


 まさか昨夜の話がこんなにも早くカサンドラの耳に届くなどとは思いもしなかったエルンストは一瞬目を瞠るも、すぐに顔を顰めた。白の輝石の研究内容を狙って彼女が潜入していたのならば話は分かる。だが、そうではなく、自身の縁談話を聞いて此処まで来たというのだから、意味が分からなかった。そのためだけにこのような危険を犯す意味が分からないのだ。それだけの価値ある話というわけではない。一体何が目的だと目を細め、カサンドラの表情からそれを読み取ろうとするも、彼女は笑みを深めるばかりだった。


「手伝ってあげましょうか?」
「何を」
「貴方はアイリス嬢が欲しいんでしょ?それにはレオ殿下が邪魔じゃない」
「馬鹿言うな。レオはこの国にとって必要な存在だ」
「だったら従妹のハンナ嬢を差し出してしまえばいいじゃない。それで万事解決、レオ殿下は存命でシュレーガー家も王妃を輩出出来る。貴方は大好きなアイリス嬢を手に入れられて万々歳」
「煩い、黙れ!」


 声を荒げると、カサンドラは愉しげに嗤った。そんな顔をするなんて図星じゃない、とくすくす笑いながら彼女は一歩踏み出した。反射的にエルンストは一歩引いてしまう。それが駄目だった。引くべきではなかったのだ。引けば、それだけカサンドラに負けたようなものだ。図星だと認めているようなものでしかない。現に彼女はまた一歩踏み出し、笑みを深めている。


「いいじゃない。どうして周りを気遣う必要があるの?」
「煩い、」
「昔の貴方ならこんな風に悩んでいなかった。欲しいものは何でも貪欲に手に入れようとしていたもの。……なのに、今のエルンストは牙を抜かれたただの獣ね、人に噛みつく勇気すらない獣」
「……っ」


 壁が背中に当たった。そこで漸く、壁際まで追い詰められていたのだということに気付いた。冷や汗が背筋を伝う。返す言葉がなかったのだ。何か言わなければと思うのに、何を言っても全て切り捨てられるのだということが分かっているが為に、何も言うことが出来ない。それこそが、牙を折られたと言う彼女の言葉が当たっているのだということを嫌でも実感させられる。


「婚姻は相手を手に入れる為の合法的な手段なのにどうして使おうとしないの?」
「……それは……、」
「アイリス嬢が可哀想だから?ゲアハルトたちにも申し訳ないから?……周りの人間のことを気にしている余裕なんて、貴方にあるの?今日だってアイリス嬢には縁談の話が来ているのに」
「え……」


 その言葉にエルンストは目を見開いた。ディルクの口振りではまだだとばかり思っていた。時間の問題ではあるものの、まだ先のことだと思っていたのだ。だが、証拠だとばかりにカサンドラはポケットから取り出した手紙をエルンストに差し出す。受け取ったそれの中身を読み進めると、それは確かにとある貴族の男がアイリスを妻にと望む内容が書かれていた。
 途端に心に重苦しく、冷たい何かが沈殿していくようだった。気分が酷く悪く、苛立ちに満たされていく。そんな彼を前にカサンドラはエルンストの手から手紙を引き抜くと、「迷っている時間が無いってことが分かった?」と彼女は嗤った。


「踏ん切りがつかないなら私たちが手伝ってあげる」
「……だとしても、お前たちに何の利点があるんだ」
「あるわよ。それはね――」


 カサンドラは唇を撓らせ、歌うように囁いた。その言葉にエルンストは目を見開くも、その頃には既に彼女は後方へと飛び退り、十分に距離が離れてしまっていた。「貴方が私のお願いを聞いてくれるなら手伝ってあげる。勿論、その後の貴方とアイリス嬢の安全だって約束してあげるわ」とカサンドラは口にした。煩い黙れ、と切り捨てることは出来た。けれど、告げられたその言葉がじわりとじわりと心の隙間に入り込んで来るようで、「それじゃあね」と口にするカサンドラをただ、見送ることしか出来なかった。
 エルンストはそのままずるずると床に座り込む。そして、膝を抱えて顔を俯けた。そうでもしなければ、カサンドラの吐き出した言葉から逃げられそうになかったのだ。自分自身を守ることが出来ずに、そのまま飲まれてしまいそうな気がした。自分はこんなにも弱かったのか、それとも弱くなったのか――今となっては分からないものの、ただ、唇を噛み締めて沸き上がる感情を抑えることしか、今は考えられなかった。



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