過去 - good bye,days -




「ヴィルヘルム殿下、ベルンシュタインに潜入中のカサンドラ様より報告が届いております」
「報告、か。どうせ任務失敗の報告だろう」


 ヒッツェルブルグ帝国、帝都アイレンベルグ――分厚い雲に覆われ、雨がしとしとと降り続いていた。一体いつからこの雨が降り続いているのかも今となっては分からない。少なくとも、一ヶ月以上はまともに太陽の光さえ見ていない気もする。だが、ヒッツェルブルグ帝国――特に帝都に住まう者にとってはそれが日常でもあった。
 この十数年の間、まともに空が晴れたことはなく、常に分厚い雲が空を覆い、雨が降り続いている。当初は誰もが疑問に思った。何とかしようともした。だが、それをするにはあまりにも気候が荒れ、食糧さえまともに確保することが難しくなったのだ。帝都であっても、食糧は決して豊かではない。領土の端の僻地の村ともなれば、とてもではないが日々の食事さえままならないだろう。だからこそ、餓えた帝国が食糧と豊かな土地を求めて周囲の国々に攻め入った。そしてついには大小合わせて十の国々が属国となり、その植民地があって漸くヒッツェルブルグ帝国という国は成り立っているのだ。
 そんな帝国が次に狙いを定めているのが未だ抵抗を続けているベルンシュタイン王国だ。大陸の南に位置するベルンシュタインは国土に恵まれた豊かな国であり、帝国にしてみれば喉から手が出るほど欲しい国でもある。だが、それ以上にベルンシュタインには帝国が――正確に言えば、帝国を統べる一部の人間が求めてやまない宝を持っていた。それを求めてあらゆる手段を講じ、ついには特殊部隊を投入してあと一歩というところまで迫っていたのだ。


「しかし、一応確認してみなくては……」
「だったら貴様が確認しろ。もしも成功し、白の輝石を手中に収めていたのなら、カサンドラならば直接この場で報告する」


 それをせずに未だベルンシュタインに留まっているということは失敗したのだと手元の書類に視線を投じているヴィルヘルムは淡々とした声音で口にした。取り合うつもりが毛頭ないらしいヴィルヘルムを前に困惑した様子で副官の男は届けられた報告書に視線を向ける。
 内容を確認した副官は「やはり、失敗したとのことでした。引き続き、奪取を試みると書いていますが……」と恐る恐る口を開く。そんな副官の様子を気に留めることなく、ヴィルヘルムはやはり淡々とした感情の抜け落ちた声音で好きにさせろ、と短く命じた。


「よろしいのですか?」
「ああ。カサンドラらがベルンシュタインで動けば動くほど、ゲアハルトの注意もあいつらに向く」
「それはそうでしょうが……」
「カサンドラらに白の輝石の奪取は不可能だろう。恐らく、既に白の輝石はゲアハルトの手に渡っているはずだ。……こういう時、あいつはいつも運がいい」
「運、ですか?」


 ヴィルヘルムの口から出るにはらしくない運という言葉に副官は思わず聞き返す。ヴィルヘルムは一つ頷くと、手にしていた書類を執務机に戻し、碧眼を細めて既に十年以上、顔を合わせていない従兄のことを脳裏に浮かべる。
 元々、ヴィルヘルムはゲアハルトとは異なり、皇族の傍流に当たる血筋の生まれだった。彼の父親がゲアハルトの父親であり、当時の皇帝の弟だったのだ。父親同士の仲はよく、その当時は植民地など必要としないほど、帝国自体も豊かだった。今のように空を覆い尽くす分厚い雲もなく、青々とした空が広がっていた。従兄弟同士だったヴィルヘルムとゲアハルトの仲もよく、今では考えられないほど、穏やかな時を過ごしていた。
 ヴィルヘルムの記憶には、その頃のゲアハルトしかなかった。彼と敵対する立場となってから一度も顔を合わせたこともなければ、手紙のやりとりさせしたこともなかった。だが、ヴィルヘルムにとってはそれでよかったのだ。既に記憶は過去のものであり、今更、過去のような関係に戻れるはずもない。ないものねだりをするつもりなど、ヴィルヘルムには毛頭なかった。


「ああ。……だが、その幸運もここまでだ」


 ぼそりと呟いたその言葉は地を這うような響きであり、空中を睨むその碧眼は苛立ちや憎しみ、恨みに塗れていた。何があってそのような感情を彼が抱いているのかを知らない副官にしてみれば、この執務室にいるだけで背筋が粟立って、今すぐにでも逃げ出したい衝動に駆られるほどだった。だが、そういうわけにもいかず、話を合わせるように「く、黒の輝石の覚醒も目前に迫っていますし、もう恐れるものはないでしょう」と引き攣った笑みを浮かべながら早口で言う。
 黒の輝石の研究は進み、既に覚醒も目前に迫っていた。だからこそ、黒の輝石の対抗策になるであろう対となる白の輝石を手中に収めたかったのだ。しかし、その目論見は外れてしまった。元より、必ず成功するとヴィルヘルム自身、確信していたわけではなかった。カサンドラにその役目を一任したのも、彼女ならば黒の輝石の研究により近付く為にも積極的に動くと考えたからだ。
 その目論みに関しては成功した。カサンドラは是が非でも白の輝石を手に入れようと動いている。これ以上の失敗は黒の輝石の研究に手が届くことはなくなると分かっているのだろう。そのこと自体、ヴィルヘルムにとってはどうでもいいことではあった。既に彼女の協力がなくとも、輝石の覚醒は目前なのだ。後は目一杯動いてゲアハルトの邪魔が入らないようにしてくれればそれでよかった。


「もうすぐヒッツェルブルグ帝国による大陸統一です、殿下!」
「……」
「あ、あの……ヴィルヘルム殿下……?」
「統一、か……」


 宙に視線を向けながらヴィルヘルムは副官の口から出た言葉を反駁する。大陸を統一するということは聞こえこそいいかもしれない。偉業を達したと思われるかもしれない。だが、ヴィルヘルムには然程興味のないことだった。いくら領土が広がろうと、餓えていては意味がない。何より、統一するほどの価値をこの大陸に見出してはいないのだ。
 彼にしてみれば、この大陸は死に向かって歩んでいるようなものだ。黒の輝石が覚醒すれば、土地の荒廃は一気に進むだろう。その打撃を直に受ける場所は間違いなく黒の輝石が在る帝都アイレンベルグだ。だが、それさえもヴィルヘルムにとっては然して気になることでもなかったのだ。


「この大陸に、この世界にそれほどの価値があると思うか」
「殿下……?あの、それはどういう……」
「私には生温く、少しずつ腐っていくようにしか見えない。……そんな場所は、一度粉々に壊してから創り直した方が余程いいと思わないか」


 それだけのことが出来る力がこの手にはあるのだとヴィルヘルムは自身の手を見つめる。自分自身が本来ならば、手にすることのなかった力であり、それによって多くのものも失った。数えきれないほど、失ったのだ。決して望まなかった地位に押し上げられ、自分が得るはずのなかったものを得るということは、ヴィルヘルムにとってはただの苦痛でしかなかった。
 だが、それももうすぐ終わる。その前にどうにか自身に全てを押し付けて来たゲアハルトにその仕返しが出来ればいい――ヴィルヘルムにとっての望みはそれだけだった。


「殿下!ヴィルヘルム殿下!」


 視線を掌へと向けていた矢先、慌ただしい足音が近づき、ノックもなく扉が開け放たれた。その勢いに副官は身を竦ませながらも眦を吊り上げて、「此処を何処だと心得る!ヴィルヘルム殿下の御前だぞ!」と声を荒げた。だが、そんな彼を横目にヴィルヘルムは何事かと問い掛ける。
 執務室に走り込んで来た兵士は依然として眦を吊り上げている副官をちらちらと気にしながらも顔を青くしながら「こ、皇帝陛下が……!」と息を整えながらやっとのことで言葉を発した。続きを聞かなくとも、その言葉だけで兵士の言わんとしていることが伝わったヴィルヘルムはそこで漸くその碧眼に感情を宿した。
 大きく目を見開くと、ヴィルヘルムはすぐに立ち上がり、呼びに来た兵士の脇をすり抜けて副官さえも置き去りに執務室を飛び出した。数日前から彼の父親であり、現皇帝であるメレヴィスは臥せっていた。長くはないと、主治医からは聞かされていたのだが、もう少しそれは先だとばかり思っていたのだ。ヴィルヘルムは奥歯を噛み締める。本当は、こんなはずではなかったのだと悔しさと憎しみ、そして悲しみが、胸の中を渦巻く。それを押し殺すように唇を引き結び、彼は真っ直ぐにメレヴィスが寝かされている居室へと急いだ。









 話が途切れたところを見計らってアイリスはアルヴィンらにお茶の用意をして欲しい旨を伝えた。彼女が顔を覗かせると、彼らは揃って驚いた顔をしていたが、アイリスが素知らぬ顔をしていると聞かれていないと思ったらしくすぐに用意をしてくれた。アルヴィンが運ぶと主張したものの、彼女はそれを断るとティーセットや茶菓子を載せたカートを自分自身で押し始めた。
 このままアルヴィンと共にいれば、知らぬ振りを貫き通すことが出来ず、すぐに見破られてしまうと思ったからだ。だが、こうして無理に彼の仕事を取り上げているのだから、様子がおかしいぐらいには思われているかもしれない――アイリスは自分の演技力のなさに呆れたように溜息を吐いた。
 そして、気持ちを落ち着ける為にも用意してもらった茶が冷めない程度に遠回りしてコンラッドの書斎に行こうと思い、曲がり角を曲がった矢先――壁に背を預けて座り込んでいるエルンストが目に飛び込んで来た。そのぐったりとした様子に何かあったのだろうかとアイリスは慌てて「エルンストさんっ」と名前を呼びながら駆け寄る。すると、予想に反して彼の顔はすぐに上がり、驚いた顔をしていた。


「アイリスちゃん……どうかした?」
「どうかした、じゃないですよ!どうしたんですか、こんなところに座り込んで」


 気分でも悪いのだろうかとエルンストの様子を伺うも、これといって体調が悪い様子でもなく、顔色も然して悪くはない。ただ、その様子はいつもとは異なり、どこか思い詰めたような雰囲気さえ漂っていた。何かあったのだと直感的に理解するも、エルンストを促しても彼が話してくれる気配はなく、アイリスは困り果てた様子で眉を下げた。


「具合は悪くないみたいですけど、疲れてるならちゃんと休んだ方がいいですよ。空いてる部屋に案内しますから、」
「いいよ、そういうんじゃないから」
「でも……わっ」
「ちょっとだけ、こうさせてよ」


 立ち上がるように促そうとエルンストの腕を掴むも、彼は立ち上がるどころか逆にその手を掴み返し、自身の方へと引き寄せる。半ば強引に膝立ちの状態になったアイリスの腰に腕を回し、そのままぐりぐりと甘えるように頭を彼女の腹部に押し付けた。微かに鈍い痛みが襲ってくるも、アイリスはそれを奥歯で噛み殺し、恐る恐るといった様子で押しつけられるエルンストの色素の薄い黒髪に指を通した。


「本当に、どうしたんですか?」
「……」


 普段の彼らしくない――そう思いつつ、何があったのかを話すように促すも、エルンストはなかなか口を開こうとしない。ちょっとだけだと言ってはいたが、本当にどうしたものかとアイリスは肩を竦める。このままでは茶が冷めてしまうと思うも、このような状態のエルンストを放り出すわけにも、蔑ろにするわけにもいかず、そのようなことが出来るはずもなかった。
 されるがままになりながらゆっくりとエルンストの頭を撫でていると、不意に「痛い?」と微かな彼の声が聞こえて来た。それが何を指しているのかが分かったアイリスは微苦笑を浮かべながら今はもう痛くないと口にした。頭を押しつけられた時は痛みはしたが、それも些細なものなのだから決して嘘ではないと心の中で付け足す。


「……この怪我を見た時、ぞっとしたんだ」
「……」
「すごく、怖くなった」


 誰かの怪我を見てそんな風に思ったのは初めてだった。
 淡々とした声音で彼はそう言った。呟かれた言葉にアイリスは目を瞠るも、開きかけた口を閉ざす。


「酷い怪我だったけど致命傷とまではいかない傷で手当をすれば大丈夫だってすぐに分かった。……だけど、それでも怖かったんだ。アイリスちゃんを失うかもしれないと思うと、怖くて怖くて仕方なかった」
「エルンストさん……」
「君の不調に気付いていたのにただの不調だと思った過去の自分を恨んだよ」


 自嘲するようなその言葉にアイリスは申し訳なさそうに顔を歪め、「心配掛けてごめんなさい」と口にする。そして、エルンストが自分自身を責める理由はないのだと、無茶をした自分が悪いのだと付け足す。しかし、彼は微苦笑を浮かべて顔を上げ、そんなことはないとのだと首を横に振る。


「アイリスちゃんがすぐ無茶をする子だってことも分かってた。……全部、分かってたんだ」
「……それでもやっぱり、自分のことを責めて欲しくはないです。それにこれだけが理由ではないですよね、エルンストさんが寂しそうな顔をしてる理由」
「寂しそう、俺が?」


 自分でも意外だったらしく、エルンストは目を瞬かせた。しかし、すぐに納得がいったらしく少しだけ目を細めて笑うと、「そうだね、……でも、多分、理由は違ってないと思う」と彼は言った。どういう意味なのかと首を傾げていると、エルンストは再び顔をアイリスの腹部に押し付けた。けれど、それは先ほどまでとは違い、逃れようと思えば逃れられるほど、緩いものだった。


「俺は、アイリスちゃんが近くにいてくれないのが寂しいんだよ」
「……」
「馬鹿なことを言ってるのは分かってる。……でもね、それでも俺は君に一緒にいて欲しいと思ったんだ」


 その言葉にアイリスはすぐに返事が出来なかった。どういう意味合いでエルンストがそれを口にしたのかは知れない。だが、そう簡単に返事をしていいとは思えなかったのだ。それをするには、あまりにも囁かれたその声音が震えていた。彼らしくもなく、とても声が震えていたのだ。


「……一緒にいられる限りは、一緒にいますよ」


 無視することも出来ず、なかったことにも出来ず、だからといって、冗談と受け流すことも出来ない。アイリスは悩んだ末に、その言葉を絞り出した。ずるいことを言っているという自覚はあるのだ。何と答えるべきかということも分かっていた。エルンストが求めている答えにだって気付いていた。それでも、その用意された答えるべき答えを口にすることは出来なかった。彼のことを想えばこそ、迂闊に口にしていい言葉ではないと思ったのだ。


「そこは普通、ずっと一緒にいますよ、じゃないの?」
「不確かなことは言いたくないから」


 ずっと一緒にいられるものなら一緒にいたいという気持ちもある。だが、それはエルンスト一人に向けられたものではなく、周囲の人間全てに向けられる思いだ。そして、彼が求めているものでもないだろう。それが分かっているだけに、不確かなことは言いたくなかったのだ。それが彼の為に出来ることだと、アイリスは思っていた。


「エルンストさん……わたしは、この邸の人たちが大好きなんです」


 言おうか迷いもしたが、自分の気持ちを話してくれた彼にはちゃんと向き合いたいと思った彼女は口を開いた。脳裏にはアルヴィンを始めとするクレーデル邸に仕える人々の顔が浮かんでくる。彼らとの付き合いはそれほど長いわけではないものの、彼らはとても温かみのある人であり、とてもよくしてくれたことを心の底から感謝してもいる。だからこそ、思ったのだ。彼らの為に自分に出来ることがしたい、と。


「みんな優しくて、とってもよくしてくれました。……だから、わたしはこの邸の人たちの為に自分が出来ることをしたいんです」
「……アイリスちゃん」
「それに、エルンストさんのことも同じぐらい大事に思ってます。だから、その場限りのことなんて言いたくはありません」


 目を見開いていたエルンストが一瞬顔を歪めると、そのまま最初と同じように頭をぐいっと押しつけて来た。鈍い痛みはある。だが、アイリスは微苦笑を浮かべると宥めるように彼の頭を撫でる。ちゃんと伝わっただろうかと窓から差し込む夕焼けを見つめる彼女は、押しつけられたその表情がどれほど歪められていたのかなど、気付くことはなかった。



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