過去 - good bye,days -



 アベルは与えられている自室のベッドに寝転がり、ぼんやりと天井を見上げていた。しなければならないことがないわけではなかったものの、何もやる気にならないのだ。以前よりも狭くなった視界に映り込む天井を見つめていると、ふとこの数日の間、まともにカインと口を効いていないことを思い出す。
 以前ならば、放っておいても何か話していたにも関わらず、この数日は部屋を空けていることの方がよかった。何かカサンドラから任務を与えられているのかもしれないが、アベルは何も聞いていなかった。どうしたのだろうかとやはり気にはなったが、すぐにこれでいいのかもしれないと彼は目を閉ざした。
 決してカインのことを嫌っているというわけではない。自分にとってはやはり大切な兄であり、家族でもある。けれど、自分をとても大切にしてくれるカインのその気持ちが、アベルには少し、重たくもあったのだ。それを彼に伝えたことは今までなかった。否、伝えることなど出来るはずもなかった。だからこそ、ここまでずるずると引き摺り続け、抉れてしまったのかもしれないとアベルは僅かに表情を歪めた。


「おい、いるか」
「……いるよ、何か用」


 そしてふと扉の向こうに気配を感じて視線を向けると、ブルーノの声が聞こえて来た。アベルがベルンシュタインに潜入してから鴉に入ったブルーノとは、特別親しいというわけでもなく、出会ってからそれほど時間も経っていなければ、口を利いたことさえ数えられる程度のものだった。
 カインに用事だろうかと考えていると、「入るぞ」とブルーノは声を掛けた後、了承の返事を聞く前に扉を開けた。「誰も入っていいなんて言ってないんだけど」とアベルは眉を寄せながら身体を起こす。部屋を見渡すことなく、真っ直ぐに視線を向けて来ることからも用は自分にあるのだということに気付くも、誰とも顔を合わせる気などなかったアベルからしてみれば大したことでなければすぐに追い出してやるという気分になる。


「お前、カインと仲良くしろよ。お前の兄貴だろ」
「だったら何。別に喧嘩なんてしてないけど」
「そうじゃなてもぎくしゃくはしてるだろ。お陰であいつが俺の部屋に入り浸ってんだよ」


 どうにかしろ、とどうやらブルーノは文句を言いに来たらしい。任務でもなく、出歩いているわけでもなく、この隠れ家の中にいたことにアベルは僅かに目を瞠るも、すぐに柳眉を寄せると「僕に言わずにカインに言えば」と溜息を吐く。そのようなことでいちいち文句を言われてもどうしようもないとアベルは思うのだ。
 だが、カインがどうしてブルーノの部屋に入り浸っているのかということは不思議に思った。彼は周囲の人間を見下しているきらいがある。カサンドラには懐いているようだが、ブルーノに対してもそうだとは思いもしなかったアベルは意外だとばかりに彼を見ていると「言っても聞かねーからお前に言ってんだろ!」とブルーノは口にする。


「お前がカサンドラとぎくしゃくするから、カインが困ってんだろ」
「どうして僕がカサンドラとぎくしゃくしたらカインが困るの。関係ないでしょ」
「あのなあ……俺もよく知らねーけど、今までお前はこないだみたいにカサンドラに噛みついたりしなかったんだろ?あいつはそれを見て戸惑ってたんだよ」
「……」


 溜息混じりに呆れた顔で言うブルーノにアベルは顔を顰める。確かに今までは何があってもカサンドラに噛みつくようなことはしなかった。そのようなことをしても面倒なだけであり、言われたことを淡々と確実にこなせばいいとだけ思っていたのだ。そう思った方が、楽だったのだ。
 だからこそ、自分らしくないことをしたという自覚はあった。関係ないと素知らぬ振りを貫けばよかったのだ、いつものように。けれど、気付けば口を開いていた。どうして黙って見ていられないと、口を挟まなければと思ったのかは今でも分からない。ただ、少なくとも失敗したからといってあのように苛立ちのままに詰られるようなことはこの数年――ベルンシュタインに潜入していた間、一度もなかったことを思い出す。


「あいつはお前の兄貴なんだからちゃんと、」
「確かにカインは僕の兄だけど、……僕はカインじゃないし、カインは僕じゃない。蔑ろにする気なんてないし、大事に思ってくれることには感謝してる」


 でも、それが重たくて、苦しくもあるんだ。
 ぽつりとアベルは呟いた。ずっと思い続けて来たことでもある。カインはあまりにも自身に執着し過ぎていると、アベルは常々感じていた。それがたった一人の兄弟であり、家族だからかとも思ってはいたが、それが行き過ぎていると思っていたのだ。それをはっきりと自覚したのは、自分と揃える為に片目を潰した時だ。
 そこまでするなどとは思いもしなかった。目の前でカインが片目を潰すなどと考えもしなかったことを目の当たりにし、彼が感じていた悦びなど受け容れることが出来ず、寧ろ――恐怖さえ感じた。時折、常軌を逸した行動をすることはあった。それを黙認してきたのは自分自身だ。カインに何か言う権利も、彼を受け容れないなんてことも自分には許されないのだと思っていたからだ。だが、片目を潰した時はさすがに受け容れることなんて出来なかった。


「……カインから僕たちのことは聞いてるの?」
「あ、ああ……まあ……」
「そう。意外だね、話してるとは思わなかった。カインはあんたに懐いてるみたいだ」
「……懐かれても嬉しくねーよ」
「そう言わないでよ。……話を聞いてるなら早いけど、カインは僕の為に家族を捨てて、平穏無事な人生も捨ててくれた。だけど、僕はそんなこと、望んでなかった」


 それでも、やはり兄が共にいてくれることに安堵はした。幼い頃のことを思い出しながらアベルは床に視線を投じる。楽しいことなど何もない人生を過ごして来た。それでも、ずっと隣にはカインがいてくれた。自分と同じ顔をした、魔法の使えない双子の兄。その存在は心強くもあり、それと同時に罪悪感と羨望を感じていた。
 魔法が使えないカインが羨ましかったのだ。同じ顔だというのに、誰からも疎まれなかった兄が羨ましかった。そして、自分の為にたくさん嫌な思いや辛い思いをさせてしまったことが申し訳なかったのだ。だからこそ、ヴィルヘルムに拾われてからはもう自分に構わないで欲しいと思っていた。カインが疎ましくなったというわけではない。もう、自分の好きなように生きて欲しいと思ったのだ。
 だが、自分がいる限り、そのようなことが出来るとは思わなかった。だからこそ、ベルンシュタインへの潜入を引き受けたのだ。いい機会だと思っていた。その頃には既に互いに召喚魔法を会得してしまっていたが、何もせずにこのままずるずると引き摺り続けるよりは余程いいと思ったのだ。


「カインは僕の為なら死ねる、とかそんなことを言ってたんでしょ」
「……ああ」
「やっぱりね。……でも、僕はカインの為には死ねない。死んでもいいかなと思ってた頃は確かにあったけど、今はそうじゃない」
「……」
「僕は僕だ。一緒にいてくれたことも大事に思ってくれてることも嬉しいし、感謝もしてる。……でも、このままではもういられないから」


 カインだって本当は分かってるはずだと言いつつ、アベルはベッドから立ち上がった。そのまま部屋から出て行こうとする彼を慌ててブルーノが何処に行くのかと呼び止めれば「ちょっと散歩」とだけ答えた。部屋を出たアベルはそのままカインがいるであろうブルーノの部屋の前を通り過ぎ、階段を下りていく。
 今此処でカインに声を掛ければ、そのまま引き摺りこまれてしまうだろう。それでは駄目なのだとそう思ったのだ。これが正しいのだと自分自身に言い聞かせながら外へ続く扉を開けると、生温い風が頬に触れた。もうすぐ夏が終わる。そうすれば、この気だるい身体もどうにかなるだろうかとぼんやりと考えながら足を踏み出す。 
 夏の日差しが厳しかった頃のことを思い出すと、よく体調を崩していたことを思い出した。その度にアイリスが心配そうな顔をして平気なのかと何度も何度も聞いてくれていた。すの姿がカインに重なるも、今にしてみれば、それは嬉しいことだったのに、どうしてあの時には素直に心配してくれたことを感謝出来なかったのだろうかと思う。今更そのようなことを気にしても遅いものの、彼女は今、無事なのだろうかとそのことだけが気掛かりだった。







 


「司令官、そろそろお休みになった方がいいですよ」


 夜、アイリスはコンラッドの書斎から灯りが漏れていることに気付き、中をそっと覗き込んだ。そこには、未だ一人で捜索を続けているゲアハルトの姿があり、彼女は眉を下げながら遠慮がちに声を掛けた。顔を上げたゲアハルトは微苦笑を浮かべつつ、「ああ、もう少ししたら休ませてもらうつもりだ」と言うも、その様子からしてもあと少ししたら休む、とはとてもではないが思えなかった。それが分かっているだけにアイリスは困り果てた様子で眉を下げた。
 結局、その日のうちに手掛かりを見つけ出すことは出来なかった。アイリスがコンラッドから教わったピアノの曲も何かしらの手掛かりにあるかもしれないということで休憩の後に演奏してみたものの、特に何か得られたということはなかった。ただ、レオはこの曲を以前、コンラッドから聴かされたことがあると言っていた。だが、やはり曲に付けられた名前は相変わらず不明のままだった。
 しかし、その演奏した曲に反応を見せたのはレオだけでなく、レックスもだった。だが、彼の場合はコンラッドが生きていた頃、何度も邸に出入りしていたこともあり、聴いたことがレオ同様にあるのかもしれない――とアイリスは思っていた。楽器を演奏することを趣味としていた養父のことだ、レックスに聴かせていたとしても何らおかしいことはない。結局、こうして振り出しに戻ってしまったのだ。


「そう仰ってもお休みになられないことは分かってます」
「手厳しいな」


 このまま放っておけば、朝まで起きているということは想像に難くない。それが分かっているだけに、アイリスはソファに腰かけて、ゲアハルトが手を止めるまでは自分も眠るつもりはないのだということを意思表示する。そんな彼女に彼は諦めたように溜息を吐くと、向かい側のソファに腰かけた。
 彼も焦ったところで手掛かりが見つかるとは思っていなかったのだろう。ただ、早く何とかしなければという気持ちに突き動かされていただけなのだということは、その姿を見ているとすぐに分かった。何より、結果を出さなければ彼自身の立場も危ういのだ。とは言っても、保身の為に彼が動いているわけではないということも分かっている。


「身体はどうだ?」
「もう平気です。……ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした。広間の警備を任せて下さったのに……」
「いや、俺も君の状態をよく確認せずに任せた。俺の判断ミスだ」
「いえ、わたしが自分の状態を把握し切れず、過信していたからです」


 申し訳ありませんでした、とアイリスは頭を下げた。そんな彼女にゲアハルトはすぐに頭を上げるように言った。そして、僅かに眉を下げながら「シリル殿下のこともあった。無理もない。……もう、気持ちは落ち着いたのか?」と気遣わしげに言う。まだ完全に整理がついたというわけではなかったが、幾分も落ち着いてはいる。アイリスはこくりと頷くと、ゲアハルトもほっとした様子だった。


「ところで、アイリス」
「何でしょう」
「最近……エルンストの様子がおかしいが、何か知らないか?」
「え……」


 思いもしない話の移り変わりにアイリスは目を見開いた。しかし、向き合っているゲアハルトの表情は真剣そのもので、真っ直ぐに向けられるその視線に居心地の悪さを感じる。様子がおかしいことは彼女自身も知っている。昼間のこともあるのだ、それを彼に伝えたらどうしたのか、理由が分かるかもしれない。
 けれど、易々と他者に教えていいこととも思えず、アイリスはゲアハルトの視線から逃れるように視線を逸らした。元々、それほど嘘は得意ではないのだ。特に目の前にいる彼は嘘を容易く見抜くことの出来る人物だ。アイリスが何か心当たりがあるのだということぐらい、視線を逸らしただけでも気付いただろう。だが、彼は「何か知っていたとしても、無理に話してくれなくていい」と口にした。


「ただ、何かあったなら……それを知っているなら、あいつの力になってやって欲しいんだ」
「……わたしが、ですか?」
「ああ。……あいつは、ああ見えて弱いところがある奴だ。そのくせ、人を頼るのが苦手なところがある、不器用な奴なんだ」
「……はい」


 ゲアハルトの言わんとしていることは分かる。エルンストは、決して強い人間ではない。そう見えるだけで、そう見せているだけで、本当はそんなことはないのだということにアイリスは気付いていた。そんなエルンストの為に自分に出来ることがあるなら、何でもやりたいと思っている。けれど、そう思うからこそ、中途半端なこともしたくはなかった。


「あいつをよろしく頼む。大事な友人だからな」
「分かりました。わたしで力になれることなら」
「十分だ」


 彼は安心したように笑うと、そろそろ休むようにとアイリスを促す。しかし、共にソファを立ち上がるも部屋を出ようとはせずにその場に立ったままのゲアハルトにアイリスは「司令官もお休み下さいと先ほど申し上げましたが」と唇を尖らせる。休めるときに休まなければ、次にいつ休めるかなど分からないのだ。今この瞬間は何事もなくても、次の瞬間にはどうなっているか分からない。未だ王都内にカサンドラらが潜伏している可能性も高いのだ。油断するべきではないのだとアイリスが早く部屋に行って下さい、とゲアハルトに手を伸ばした矢先、ふとあることを思い出した。


「アイリス?」
「あ……いえ、ちょっと昔のことを思い出して」
「昔のこと……コンラッド殿のことか?」
「今と同じように父に寝るように促したことがあったのですが……その時、父はそこに立って杖を持っていたんです」
「杖を持って……」
「邸の中では杖なんて持ち歩かない人、というか杖を持ってること自体、その時に初めて見たんです」


 そう言いつつ、アイリスは記憶の中で養父が立っていた場所に立つ。そこは何の変哲もない暖炉の傍であり、特に何かがあるというわけでもない。生前、コンラッドが使用していたときのままの状態で保っていた為、そこにあった何かが移動させられたわけでもなく、何かが増えたということもない。
 ただ、思い返すと声を掛けた時、養父は驚いていたようにも思う。だが、今から二年ほど前の記憶ということもあり、手掛かりが何も得られていないことへの焦りから思い違いをしていることも考えられる。ただ、コンラッドが杖を持ってこの場にいたということは間違いなかった。
 ちらりとゲアハルトを見上げると、彼はアイリスが指し示した場所を見つめ、考え込んでいる様子だった。そして、「その杖というのは、普段使っていたあれか?」とゲアハルトは言う。アイリスは頷くも、それは壊れてしまったのだと伝える。しかし、折れた杖は養父の形見だということを知っていたエルザが回収を命じ、今は馴染みの職人の元に修理に出しているのだということをエマが整理した荷物を届けてくれたレックスから聞いていた。


「そうか。……それが鍵、か」
「鍵、ですか?」
「あくまで可能性だ。レックスを叩き起こして大至急、杖を回収するように伝えてくれ。店には後日、俺が詫びを入れる」
「わ、分かりました!」


 杖があるかないか、それだけで何かが違って見えるのかもしれない。無論、アイリスにはそれがどのようなものかは分からないものの、ゲアハルトの様子からも決して些細なことではないらしい。アイリスは慌ててコンラッドの書斎を飛び出すと、既に休んでいるであろうレックスに割り当てられた部屋へと急いだ。



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