過去 - good bye,days -



 翌朝、朝食を済ませたアイリスが居間を訪れると、そこにはゲアハルトの姿しかなかった。レックスらはどうしたのだろうかと首を傾げながらも「おはようございます、司令官」と声を掛けると、彼は目を通していた書類から視線を上げ、「おはよう」と微笑む。レックスらはどうしたのかと尋ねると、彼は持っていた書類の角をテーブルで揃えながら口を開いた。


「レックスはレオの護衛として城に行った。明日はシリル殿下と正妃様の国葬だからな、レオもやらなければならないことがある。エルンストは一度、宿舎に戻ってあいつ自身が行っていた白の輝石の調査書をまとめると言っていたな」
「そうですか。司令官は戻られないのですか?」
「俺が戻ると、この邸が手薄になる。明日の国葬の間は兵を増員するが、そうでない限りはなるべく人をこの場には集めたくはないからな」


 ここは本部ではなく、ただの邸だ。周囲に迷惑を掛けるわけにもいかない。
 そう口にしたゲアハルトの近くに腰かけ、ならば自分は何をすればいいのかと指示を仰ぐ。レックスらが動いているというのに、自分だけ何もしないというわけにはいかず、また、落ち着かないのだと彼女は言う。だが、ゲアハルトは「エルンストにも言われていたが、病み上がりなんだからゆっくりしていてくれればいい」と言われてしまう。
 心遣いは有り難いのだが、だからといってゆっくりすることはアイリスの性格上、難しかった。そのことにも気付いているのだろう。ゲアハルトは微苦笑を浮かべながら、「それなら、供になってくれるか」と彼は口にした。自分でいいのだろうかと首を傾げつつ、アイリスは何処に行くのかを問う。すると、ゲアハルトは明るい青の瞳を伏せながら口を開いた。


「ホラーツ様のところだ」


 その言葉にアイリスは僅かに目を見開いた。けれど、機会があるとすれば今しかないのだということも分かっている為、「分かりました、お供します」と彼女は頷く。
 ホラーツの国葬の際、ゲアハルトはルヴェルチに横槍を入れられ、献花さえ出来なかった。それから地下牢に長らく幽閉され、カサンドラらが城を攻め込んだ後の事後処理や白の輝石に関する捜索に終われて今の今までホラーツの墓に行くことさえ出来なかったのだ。


「でも、邸を離れても大丈夫でしょうか……」
「それなら平気だ。……丁度、帰って来たようだからな」
「何?俺のこと?」
「ああ」


 たくさんの資料を抱えて邸に戻ってきたエルンストが居間にやって来た。てっきり宿舎の医務室で作業に当たるとばかり思っていたアイリスは驚きながらもすぐに立ち上がると、彼が持っている資料の半分を受け取った。その重さに驚きながらも、何とか落とすことなくテーブルの上に置く。


「ごめん、ありがとう。助かったよ」
「いえ、これぐらいは」
「エルンスト、しばらく俺とアイリスは出て来る。邸のことは任せるぞ」
「え?何処行くの?」


 ゲアハルトはソファから立ち上がると、手にしていた資料をエルンストに手渡す。それを受け取りながらも驚いたような顔を一瞬浮かべ、急いたように早口で言うエルンストに彼は「ホラーツ様の墓だ」と短く告げた。彼が足を運びたがっていたことを知っているエルンストにしてみれば、今は確かにいい機会であり、今を逃せば次にいつ行けるか分からない以上、そのことに関してだけは止める気はないのだろう。だが、それにアイリスを伴う必要はないはずだとエルンストは言う。


「わたしも陛下の元には行きたいんです、国葬の前に。シリル殿下をお守り出来なかったことを、謝らなければ気が済まなくて」
「でも、それは君のせいじゃないでしょ」
「わたしの気持ちの問題です。大丈夫です、司令官も一緒ですし、なるべく早く戻りますから」


 心配してくれているのだろうとアイリスはエルンストを安心させるように言う。身体のこともあるが、今はカサンドラらに狙われている身だ。昨夜の研究室の件ももしかしたら既に気付かれているかもしれない――それを思うと、ますます迂闊に出歩くことは避けなければならないことも分かっていた。
 それでも、一人ではなく、ゲアハルトが一緒なのだからと思ったのだ。彼と一緒ならば、大丈夫なはずだという安心感があった。そのような安心感を頼りにするべきではないのだが、今を逃せばまた彼女もゲアハルト同様にいつ、ホラーツの墓に行くことが出来るかは分からない。


「心配してくれてありがとうございます、エルンストさん」


 アイリスはそう言って安心させるように笑みを浮かべる。そして、扉のところで待っていたゲアハルトの元に急ぐと、ホラーツが眠る王家の墓へと向かった。
 王家の墓はバイルシュミット城の北側にあり、周囲を色を変えつつある木々に覆われた静かな場所だ。木々の葉の隙間から木漏れ日が差し込み、涼しい風が吹いている。墓の前には色とりどりの花が供えられていた。此処にシリルやキルスティも埋葬されるのかと思うと、その最期を見た彼女にとってはやはり心に重く圧し掛かる。
 一歩踏み出したゲアハルトは墓前に膝を付くと、いつも目深に被っているフードを脱ぎ去った。木漏れ日を受けてきらきらと光る銀髪に目を細めながら、アイリスもそれに倣って被っていた白いフードを脱ぎ、その場に膝を付いた。そのまま指を組み、瞳を伏せる。シリルを守れなかったことを心の中で詫びながら、レオとエルザだけは必ず守り抜くことを墓前に誓った。
 そして、目を開けるも、少し前で膝を付いている彼は未だ祈り続けている様子だった。アイリスは立ち上がる、その背を見つめる。とても寂しげな背中だったのだ。自分と同じように、守れなかったことを悔い、それを謝罪しているのかもしれない。残されたレオとエルザを守ると誓いを立てているのかもしれない。けれど、祈るだけでは、その背中の寂しさは拭いきれそうになかった。


「ついでと言っては言い方が悪いが、よければコンラッド殿の墓にも行かないか?」
「お父さんの、ですか?」
「ああ。入隊してから行く余裕も殆どなかったんじゃないか?」
「そうですね……。あの、司令官」
「何だ?」
「……お父さんのお墓に着くまででいいので、よければ……お父さんのことを聞かせてもらえませんか?」


 立ち上がり、フードを目深に被り直したゲアハルトはコンラッドの墓にも立ち寄ろうと言った。そのこと自体はアイリスとしても構わないのだ。彼が言うように、これまで忙しくしていたこともあり、立ち寄ることも出来ずにいたのだから。けれど、彼がそれを口にしたのはきっと、自分のことを慮ってではなく、そうでも言わなければこの場を立ち去れそうになかったのだろう。
 それに気付きながらもアイリスはそのことには触れず、気付いていない振りをした。その代わり、今ならば聞けるだろうかと口にしたことが、コンラッドの過去のことだった。彼はきっと自分以上に養父のことをよく知っていると思ったのだ。無論、それは当たり前のことでもある。過ごした時間が違うのだ。自分はコンラッドにとっては養女であり、ゲアハルトとは違う間柄だ。当然、話すことも違って来るだろう。
 だからこそ、コンラッドのことを知りたいと思ったのだ。入隊してからというもの、時折出て来る養父の存在は、アイリスが知る温かな姿とは違っていた。聞く話も決して冷たい人間だと感じるようなものではなかった。ただ、やはり違う印象は受けたのだ。ゲアハルトは驚いた顔をしていたが、「そうだな、いい機会かもしれない」と頷くと、墓に向かうべくゆっくりと歩き出した。


「コンラッド殿はホラーツ様が第二の団長に就任された時からの付き合いだと聞いている」
「司令官とエルンストさんのようなご関係ということでしょうか」
「まあ、そのようなものだ。それからホラーツ様は御即位と共に第一の団長に移られ、コンラッド殿は同じ頃に第七の団長に就任された。ホラーツ様のご信頼も厚く、とても重用されていらっしゃった」


 城を抜け、北区へと戻りながらゲアハルトは当時のことを思い出すように口にする。それは話している彼にとってもいい思い出らしく、その表情は少し緩んだものだった。アイリスはゲアハルトのそんな表情に目を細めて笑みを浮かべながら、いつも見る彼とエルンストの様子に若かりし頃のホラーツとコンラッドを重ね合わせていた。
 けれど、唐突にゲアハルトの表情は翳った。どうしたのだろうかと、口を開くも、言葉が出るよりも先に「ただ、お二人は親しかったからこそ、コンラッド殿は長く苦しまれることになったが」と視線を伏せた。思いもしない言葉にどういうことなのかと問うも、ゲアハルトは言い辛そうな顔をするも、「それは」と口を開く。


「……アウレリア様の存在だ」
「アウレリア様って……確か、レオのお母様ですよね。陛下の第二妃で、お父さんが後ろ盾になったという……」
「ああ。アウレリア様は平民のご出身だ。元々は軍人で所属は第七騎士団だった、コンラッド殿の元部下だ」


 だから、後ろ盾になったのかとアイリスはその話を聞いて納得した。ゲアハルトやレオから第二妃であるアウレリアが平民の出であり、コンラッドが後ろ盾となっていたということ自体は聞かされていた。今までは養父とホラーツが親しい間柄だからこそ、コンラッドが後ろ盾を引き受けたのだとばかり思っていたのだが、彼自身がアウレリアと上司と部下という関係だったということに「そうだったんですね」と口にするも、どうやらそれだけではないらしく、ゲアハルトの表情は先ほど変わらず言い辛そうなままだった。
 しかし、彼も最初、コンラッドは長らく苦しむことになったとも言っていた。後ろ盾でいることは、正妃でありアウレリアを目の敵にしていたであろうキルスティのことを考えると、苦しいことだったかもしれない。だが、そのことだけではゲアハルトがここまで言い辛そうにするとは思えず、他にも何かあるのかもしれないとアイリスは心配げな表情を浮かべる。


「……こういうことをコンラッド殿の養女である君に言っていいのかは分からないが、……コンラッド殿は、アウレリア様のことを愛していらっしゃった」
「え……」
「はっきりとそう明言されたわけではない。ただ、一度だけ……酒の席で酷く酔われた時に少し聞いただけだ」
「……陛下は、そのことを……」
「ご存じではなかったはずだ、アウレリア様も。……本当はきっと、一生誰にも、口にさえするつもりはなかったはずだ」


 そう言ってゲアハルトは口を閉ざし、アイリスも何も言うことは出来なかった。誰にも漏らすことなく、その想いを口にすることもなく、文字通り胸に秘めたまま、墓場に持って行くつもりだったのだろう。余計な諍いを厭い、温和だった養父の性格を思えば、そうするに至ったことは決して不思議なことではなかった。
 きっと、彼は本当に心の底からアウレリアのことを愛していたのだろう。簡単には諦められず、けれど、愛していたからこそ、彼女の幸せを願わずにはいられなかったはずだ。だからこそ、後ろ盾にもなり、アウレリアが産んだレオとも親しく接していた。ホラーツのことも変わらず支え、彼の腹心として帝国軍と戦い、白の輝石の研究もたった一人で続けて来た。
 何も知らぬ者がそれを聞いたなら美しい話だと言うかもしれない。けれど、そんなはずがないのだ。苦しくなかったはずがない、嫉妬がなかったはずもない。辛く苦しく、どうしてと思わなかったはずがないのだ。たとえどれほど優しく温和な人間だったとしても、そのような負の感情が一切なかったとは到底思えない。だからこそ、その負の感情が酒の勢いとは言え、一瞬でも噴き出したのだ。
 いつの間にか足は止まっていた。顔を上げると、そこは既に墓地の敷地内であり、ずっと黙ったまま決して短いとは言えない距離を歩いていたことに気付く。アイリスは同じく立ち止まり、此方を僅かに振り向いているゲアハルトの顔を見上げた。彼は、僅かに眉を寄せ、どこか苦しげにも見える表情を浮かべていた。


「……だからきっと、コンラッド殿はあの曲を作ったのだと思う」
「……口には出せないから、でしょうか」
「多分、な。……手の届かないところに行ってしまえば、口にしてはならない想いになってしまえば、それを曲に込めて弾くしかなかったのかもしれないな」


 漸く、あの曲の旋律があんなにも物悲しいものだった理由が分かった。名前のない曲――きっとそれは、口にしてならぬ想いを込めた、彼女の為に作った曲だ。譜面に残さなかった理由は鍵に用いたからかもしれない。けれど、それ以上に頑なに曲名を口にしなかった理由はきっと、このためだったのだろう。
 再び歩き出したゲアハルトの後に続き、アイリスは久しく訪れていない養父の墓の前に立った。整えられているそこは、恐らくアルヴィンが欠かさず手入れをしているお陰だろう。彼女は墓石の前に膝を付き、指を組んで瞳を伏せ、ゲアハルトに聞かされた今まで知ることのなかった養父の話を思い返す。
 養父は誰とも結婚をすることがなかった。だからこそ、親族の縁に恵まれず、たった一人だった彼は後のことを考えて自分を養女に迎えたのかもしれない。それだけではなかっただろうが、それがなかったとも言えないだろう。だが、アイリスにとってはそのようなことはどうでもいいことでもあった。どのような意図があったとしても、養父は確かに自分のことを大切にしてくれていた。それだけで彼女にとっては十分だったのだ。


「……司令官」
「……何だ」
「お父さんは……父は、幸せだったと思いますか?」
「……」


 目を開き、アイリスはぽつりと漏らした。本当に、心の底から養父は彼女のことを愛していたのだろう。それが辛さや苦しさばかりではなかったということは分かる。けれど、想いは報われることはなく、日々、辛さや苦しさ、嫉妬が増していったはずだ。好きにならなければよかったと、気持ちを消してしまえればと思ったかもしれない。
 今となってはどうだったのか、本当のところは分からない。想像するしかないものの、アイリスには今一つ、実感が湧かなかった。養父のように、誰かを心の底から好きになったことなどないのだ。ぽつりと漏らした彼女の疑問にゲアハルトは暫しの間を置いてから答えた。


「……不幸せだったということは、ないと思う。少なくとも、幸せだと感じることはあったはずだ」
「……」
「たとえ報われていたとしても、辛さや苦しさは同じ分だけあるさ。嫉妬だってある。報われても、全てが幸せだとは限らないものだ」


 少なくとも、アウレリア様はそうだったのではないかと思う――ゲアハルトの言葉にアイリスは視線を伏せた。彼女は正妃であるキルスティに目の敵にされ、執拗にいじめられていたのだとレオから聞いていた。その結果、身体を壊し、命を落とした。人を死に至らしめるほど、いじめ抜くなど簡単に出来ることではない。
 それを思えば、少なくとも彼女にとって報われた結果だったとしても全てが幸せだったとは言えないだろう。そして、ホラーツにもそれは言えることだ。愛した相手を実質的には殺されたようなものだ。王家にとっては政敵に当たる妃同士でいがみ合うことなど珍しくはなく、そこに血が流れることも決して有り得ないことではないだろう。けれど、いくら珍しくはなかったとしても、それを身を持って経験するとなれば話は別だ。
 

「それでも、互いに一人の人を好きになったと知っているよりはずっとマシだとは思うよ、俺は」


 自嘲するような響きの籠った声にアイリスは顔を上げ、顔を歪めて笑っているゲアハルトに気付いた。どうしてそのような顔をして笑うのかと思っていると、彼女の視線に気付いたゲアハルトは顔を背けてしまう。何と声を掛けるべきかと悩みながら立ち上がったアイリスは「あの、」と声を掛けるも、それを遮るように彼は口を開く。


「一つだけ、確かに言えることはある。……誰かを好きだと思う気持ちは簡単には捨てられるものじゃないってことだ」
「……司令官」
「……たとえ、自分のことを好きになってくれなくとも、誰かと奪い合うことになったとしても」


 元々諦めがつく程度のものなら、最初からその程度のものだっただけのことだと、彼はぼそりと呟く。そのいつもとは違う雰囲気にアイリスは何も言えなかった。不意に真っ直ぐに向けられた明るい青の瞳の奥に、焼けるような微かな苛立ちと苦しげな色が見え隠れしている。その様子に、どうしてか胸が痛んだような気がした。アイリスは視線を逸らすことも出来ず、ただ、きゅっと手を握り締め、向けられるその視線に耐えることしか出来なかった。
 そんな彼女を暫し見つめた後に、ゲアハルトはふと力を抜き、「少し喋り過ぎた。今言ったことは忘れてくれ」と肩を竦めて言うと彼はアイリスに背を向けて墓地の入口に向かって歩き出した。慌てて彼女もそれに続くが、隣に並ぶことは躊躇われ、少し離れて後に続いた。その背中は先ほどまでよりもずっと、寂しそうだった。











「何やってんだ、カサンドラ」


 夜半を過ぎてから隠れ家に戻ってきたカサンドラは戻ってくるなり、便箋とペンを取り出すと何やら手紙を書き出した。未だ捜索の手が緩められていないこともあり、てっきりベルンシュタインの兵士に捕縛されたのではないだろうかとさえ思っていたブルーノにしてみれば、何処で何をしていたのかが気になるところだった。彼にしてみれば、彼女には死なれて困る理由があるのだ。だからこそ、嫌々ながらもカサンドラの命令に従っている。どうせまた何か良からぬことを考えているのだろうと思いつつ溜息を吐くと、カサンドラは「手紙を書いてるのよ」と見た通りのことを答えた。


「俺が聞きてーのはそういうことじゃねーよ」


 それぐらい分かっているくせに、と溜息交じりに言いつつ、ブルーノは放り投げられていた宛名が書かれた封筒を手に取る。そこにはアイリスの名前が書かれ、裏側には見知らぬ男の名前が書かれていた。どういうことだ、と首を傾げながら視線をペンを便箋に走らせているカサンドラに向ける。書き記されていく文面を目で追うブルーノはとある単語を見るなり、「はあ?!結婚?!」と素っ頓狂な声を上げた。


「煩いわよ、ブルーノ。静かにして頂戴」
「結婚ってお前、何やらかすつもりだよ」
「何って……そうね、強いて言うなら、切り札を手に入れる為の前段階かしら」
「切り札?……この裏に書いてある男のことか?」
「まさか。その人は関係ないわ、ちょっと名前を借りているだけ」


 愉しげに笑いながらカサンドラは自分が隠れ家を離れている間、何をしているのかを口にした。アイリスらがコンラッドが行っていた白の輝石の研究内容を創作する為にクレーデル邸を訪れているため、メイドに扮して内部を探っていたこと、そこで面白いものを見つけたこと。その面白いものというのが、クレーデル家の当主であるアイリスの縁談話だという。
 それほど彼女個人のことに関して知らなかったブルーノはカサンドラが口にする事実に目を見開いていた。しかし、今にしてみれば、重要人物であるということは知らされてはいたが、名前以外のことなど何も知らなかったのだということを思い出す。「貴族の娘だったんだな」とぼそりと呟くと、カサンドラは然して興味もない様子で元戦争孤児の養女だと口にした。


「戦争孤児って……あいつが?」
「ええ、そうよ。私も詳しくは知らないけれど、アウレールが指揮を執って攻め込んだ南の村の出身だったかしら」


 その言葉に思わず目を見開くも、便箋に視線を落としているカサンドラはブルーノのそのような様子には気付かない。しかし、彼自身、自分がどうしてそんなにも衝撃を受けているのか、理由ははっきりとはしていなかった。一応は見知った相手であるアイリスが自分の仲間の手によって生まれた場所を失い、家族を失っていたなどとは思いもしなかったからかもしれない。押し黙ったブルーノを気に留めることなく、次々と文字を書き連ねていくカサンドラは紅を引いた唇の端を持ち上げ、「それにしても、つくづく私たちと縁のある子よね、彼女」と愉しげに言う。


「……どういうことだよ」
「アウレールに故郷と家族を奪われ、養父は私に奪われ、アベルには裏切ら、」
「待てよ、養父をお前が奪ったってどういうことだよ」
「そのままの意味よ。騎士団の団長だった彼女の養父を殺したのは私」
「……っ」


 さらりと事も無げに言ったカサンドラはそこで漸く視線をブルーノに向けた。その瞳はどこまでも冷やかであり、血のように赤い瞳は彼の奥深くを探り出すかのように真っ直ぐに視線を投げかける。居心地の悪さを感じながらも「……何だよ」と声を絞り出せば、カサンドラは僅かに目を細めて「だから貴方にこういう話をするのは嫌なのよ」と口にした。


「貴方は鴉にいるには優しすぎるもの」
「……」
「あの子にもカインやアベルたちに対してもね。捨て置けばいいじゃない、他人なんだから。カインたちは兎も角としても、特にアイリス嬢は敵よ」
「それは、」
「後で辛くなるのは貴方よ、ブルーノ。……それが嫌なら何も考えないことね」


 黙って私に従っている方がずっと楽よ、と彼女は言うと、書き上がった便箋を綺麗に折り畳み、それを封筒の中に入れる。そして、封をしたそれをブルーノに差し出す。「これをクレーデル邸に届けて頂戴」と話は終わりだとばかりに言う。差し出された封筒を一瞥した彼は暫しの後にそれを受け取った。
 元々、兵士に向いていないことぐらい分かっていた。兵卒として最前線に立っていた時も本当はいつだって怖くて仕方なかったのだ。人を傷つけることも、人に傷つけられることも、死ぬことも怖い。剣やナイフを手にすることさえ、本当は嫌なのだ。それでも、もう戻れないところまで来てしまった。戻れなくもされてしまった。そのことにブルーノは奥歯を噛み締める。


「クレーデル邸からこの男の邸に返事が届けられたら、それも奪い取って頂戴ね」
「……分かった」
「それから、また明日、クレーデル邸に手紙を届けて欲しいの。そして、またクレーデル邸から返事が出されたらそれも奪って」
「何度もする意味はあるのか?」
「考える必要はないって言ったところじゃない。……でもそうね、これは背中を押す為に必要なことよ、直接結果には繋がらないだろうけれど」
「……さっき言ってた切り札を手に入れる為にか?」


 ブルーノの口から出た言葉にカサンドラは愉しげに笑う。その底冷えのする笑みは、バイルシュミット城の一件から一段と歪んだものに変わったように彼は感じていた。唇を撓らせて笑う彼女は「そうよ、その通り。勿論、上手くいかないかもしれない。でも、もうあと少しなのよ。あと少し、揺さぶれば落ちるわ。手に入れることが出来れば、ゲアハルトに対する最高の切り札になるはずよ」と王手を掛けたかのように興奮した様子で捲し立てた。その様をブルーノは顔を歪ませて見つめた後、既に壊れかかっているカサンドラには付き合いきれないとばかりに背を向けた。
 それでも、彼女から逃げる術を彼は持っていなかった。死ぬことが、怖くして仕方ないのだ。だからこそ、たとえどのような無理難題を吹っ掛けられたとしても、心の底から嫌だと思っても、逃げ出したくても、この場にいるしかないのだ。全ては捻じ曲げられてしまったのだ。もう元には戻せない、戻れない。過去には戻れやしないのだとブルーノは部屋を飛び出し、捲れ掛かったフードを乱暴に掴み、まるで自分自身を隠すように目深に被った。



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