過去 - good bye,days -



「付き合ってもらうことになってすみません、ヒルダさん」
「いや、気にするな。誰にでも簡単に任せられることではないからゲアハルトも私に頼んだんだ」


 厳かに国葬が執り行われる中、アイリスは城内の別室にヒルデガルトと共にいた。不特定多数の人間が訪れるということもあり、それに紛れてカサンドラらが襲撃する可能性もある為、先に献花を済ませて別室で待機することになったのだ。その護衛としてゲアハルトが付けた者がヒルデガルトであり、彼女も同様に先に献花を済ませ、国葬には参列しないことになった。
 自分は兎も角としても、ヒルデガルトまで参列出来なくなるのはさすがにどうかと思ったアイリスだったが、自分自身が養父が残した白の輝石の研究内容に通ずる鍵のようなものであるという自覚はある為、何も言えなかった。守られなくても平気なぐらい、自分に力があればよかったのに――常々感じていることではあるものの、改めてそう実感していると「なあ、アイリス」と唐突にヒルデガルトが口を開いた。顔を上げると、彼女はどこか心配げな様子であり、どうかしたのだろかと首を傾げながらアイリスは言葉の続きを待つ。


「最近、ゲアハルトとエルンストの様子がおかしいんだ。……アイリスは何か知らないか?」
「え……」
「お互い、何でもない風を装ってはいるがさすがに分かるさ。付き合いは長いからな」
「……」


 その言葉にアイリスは口を閉ざした。理由を知らないわけではない。ただ、それが正しい理由であるという確証はなく、何と説明したら良いのかも分からないのだ。何より、理由に少なからず自分自身が関わっているかもしれないのだ。それを思うと、人に容易く説明することは出来そうになかった。
 自惚れで済むならそれはそれでいいのだ。その方がいいに決まっているとアイリス自身、思っている。けれど、そうではないということも頭の何処かでは理解しているからこそ、彼女の口は重く、動かないのだ。
 そんなアイリスを一瞥したヒルデガルトは急かすこともなく、聞き出そうとするのではなく、「正直、私自身、戸惑ってもいるんだ」と微苦笑を交えながら口を開いた。


「昔のエルンストならまず間違いなく、何でもない風を装うことなんかせずに顔にありありと出していた」
「そうなんですか?」
「ああ。尖っていたというか何というか……今のあいつは、昔に比べて随分と丸くなってる。昔のあいつを知ってる人間からすれば、驚くほどの変化だよ」


 多分、ゆっくりゆっくり変わっていったんだろうな、とヒルデガルトは目を細めて笑った。そして、「まだ国葬は終わりそうにないからな。私たちがまだ第一に所属していた頃の話でもしようか」と言うと、彼女は懐かしむような笑みを浮かべた。


「私たち三人が元第一所属の同期だということは知ってるだろうが、元々は同じ小隊の所属でもあったんだ。そこには私たちの他にも二人いた。一人は小隊の隊長を任されていたギルベルト・シュレーガー」
「エルンストさんのご兄弟の方ですよね、……亡くなられた」
「ああ。それからもう一人、カサンドラ・ヘーゲリヒ。二年前にエルンストの兄であるギルベルト隊長を手に掛け、他にも複数人の女性兵士を殺した上に出奔し、帝国に寝返った裏切り者だ」


 吐き捨てるようにカサンドラの名を口にしたヒルデガルトにアイリスは視線を伏せた。そのような態度を彼女が取ったところは見たことがなく、それだけカサンドラのことを憎く思っているのだということがありありと伝わってくる。けれど、友人の兄を手に掛けられたというだけでヒルデガルトがここまで苛立ちや憎しみを露にするとは思えなかった。
 無論、上官や仲間を手に掛けられたこと、ベルンシュタインを裏切って帝国に寝返ったことを考えれば到底許せるはずもないことだ。同じ小隊に属していたという近しい間柄だったからかもしれないが、それにしてもヒルデガルトが見せる反応からはそれだけではないように思えてならなかった。
 そんな機微に気付いたアイリスの探るような視線に気付いたのか、ヒルデガルトは口の端を歪めて視線を伏せると、「私が親しくしていた子もカサンドラに殺されたんだ」とぼそりと彼女の質問に答えるように呟いた。告げられたその言葉にアイリスは目を見開く。そして、すぐに「すみません」と彼女は頭を下げた。


「いや、気にしなくていい。……アイリスはゲアハルトやエルンストからカサンドラのことをどれぐらい聞いているんだ?」
「エルンストさんから……その、お兄さんをカサンドラに殺されて、それで……」
「そうか。本人から聞いているんだな。……正直、驚いたよ。あいつが自分で他人に話すなんて」


 やっぱりあいつは変わったよ、とヒルデガルトは呟く。その言葉にアイリスが何も言えずにいると、彼女は「カサンドラは隊長に恋をしたんだ」と窓の外を眺めながら口にした。最初から報われるはずもなかった恋だったが、と付け足すヒルデガルトにアイリスはエルンストから聞いたことを思い出す。


「ギルベルト隊長はエルザ様とご婚約なさっていたんですよね」
「ああ。元々お二人は幼馴染でもあったからとても仲睦まじい様子だったよ、ご婚約も自然な流れだった」


 その当時のことを思い出すようにヒルデガルトは目を細めて言う。そして、彼女はとても優しい人だったのだと口にした。紫色の目をした、とても優しい人で優れた軍人でもあったのだと。
 ヒルデガルトさえもそう言うのだから、とても優れた人物であったのだということを伺い知ることが出来る。けれど、そんな人物がすぐ近くにいたならば、その弟であるエルンストはずっと比較され続けていたのではないのだろうかという考えが脳裏を過った。親兄弟というものがいないアイリスにしてみれば、家族内でどのようなやりとりがされるのかも、親が子をどのように扱うのかも詳しくは知らない。それでも、時折見え隠れするエルンストの弱いところを見ていると、自分の予想が間違っていないように思えた。


「隊長は誰が見ても、どこからどう見ても完璧な人だった。文武に優れ、人望に厚く、優しい人柄。……そんな兄がすぐ傍にいたエルンストは、とても辛い思いをしていたようだった」


 私は本人ではないから、その辛さや苦しみがどれほどのものかは理解出来ないがと言い置くヒルデガルトにアイリスは視線を伏せた。やっぱりそうだったのか、という思いで胸がいっぱいになった。今でこそ、彼がそのようなことを気にしているような人物には見えない、飄々とした人物に見えるものの、決してそれだけではないこともアイリスは分かっていた。
 エルンストはいつだって軽薄な笑みを浮かべている。けれど、その下に隠されている本心はどちらかと言えば、陰鬱としたものなのだろう。彼は決して強くはない人だ。力ではなく、心が強くはないのだ。その弱さが見え隠れする様を知っているからこそ、アイリスは沈鬱な表情を浮かべた。


「シュレーガー家は国内でも屈指の名家だ。数代前には正妃も輩出している。それもあるからシュレーガー家は今の地位を安定させることに固執しているところが見受けられるんだ」
「地位……」
「ああ。貴族なんて何処もそのようなものだが、シュレーガー家は頭一つ飛び抜けているようにも思えるよ」


 肩を竦めて言うヒルデガルトにアイリスは何も言えなかった。貴族は結びつきを強く求める。婚姻という手段を使って少しでも一族を安泰させたい、地位を向上させたい、強い力を得たいとそれを願い、それを求め、それを継続させることばかりを考えている。無論、そうではない者たちもいる。だが、それは決して多くはない部類の人間だ。
 ベルンシュタインという国自体は穏やかな気風の国ではある。けれど、内部全てがそうであるとは限らない。力を得ようとしている者はいるのだ。国を売ってでも力や地位を得ようとする者、国を割ろうとする者、勝者に付こうとする者、それらは確かに存在している。


「あいつは貴族として恵まれた環境にいた。才能にだって恵まれていた。……でも、環境にも才能にも恵まれているからといって、必ずしもそれが本人を幸せにするとは限らない」
「……」
「ギルベルト隊長はエルンストよりも更に優れていた。あの人に出来ないことはないんじゃないかって思うぐらい……実際、あの人が何かを苦手にしているところなんて、食べ物の好き嫌いぐらいしか思いつかないぐらいだ」


 そんな人とずっと比較され続けて来たら、多少性格が捻くれたって仕方がないよなとヒルデガルトは言う。多少、とは言っているものの、彼女の表情を見ていると、とても苦労させられた様子が伝わってくる。恐らく、多少などと言える程度のものでもなかったのだろう。今の彼を見ていると、あまり想像がつかないだけにアイリスは戸惑いの表情を浮かべた。


「あいつは多分きっと、孤独だったんだと思うよ」
「……孤独」
「ああ。どれだけ努力をしても両親には認めてもらえず、兄を超えられず、……あいつはひとりぼっちだったんだよ」
「……」
「勿論、声は掛けたし、あいつをゲアハルトと一緒に色々引っ張り回したりもした。でも、根本的な解決にはならない。……エルンストは、隊長を超えたがっていたし、両親に認めてもらいたかったんだ」


 だから、隊長が手を差し伸べてもあいつはその手を取らなかった。
 ヒルデガルトの言葉にアイリスは胸が締め付けられる思いがした。差し伸べられた手を握り返さなかったのではなく、本当は握り返せなかったのだろう。彼の矜持がそれを許さなかったのかもしれない、負けを認めてしまうのではないかと、超えられないことを認めてしまうのではないかと恐れたのかもしれない。エルンストの時折見せる不器用なところを思うと、きっとそうだったのだろうと思えてならなかった。
 だが、彼が差し伸べられた兄の手を取る前に、ゲアハルトやヒルデガルトによって漸く考えを改めてギルベルトと向き合うことが出来るようになっていたのに、奪われてしまった。もう二度と手さえも届かないところに、触れられないところに、かつての仲間の手によって奪われてしまった。


「あともう少しだった……もう少しで隊長とエルンストは仲のいい兄弟になれるはずだった」
「……」
「でも、エルンストにとってはそれからも辛かったはずだ。それまでギルベルト隊長に向けられていた両親や親戚の目が一気に自分に向いたんだから」


 それは確かにエルンスト自身が望んでいたことでもあったのだろう。彼は兄であるギルベルトを超えたいと思っていた、超えようともしていた。それによって両親に、父親であるディルクに認められたいと思っていたのだから。けれど、その求めていたものが必ずしも自分自身が望んでいたもとであるとは限らない。


「あいつは何も言わなかったけど重荷に感じていたかもしれないな。それまでは輝いて見えていたものも、心底欲しかったものも手に入れてみれば案外いいものでなかったなんてよくある話だからな」
「……そうですね」
「それに言ってしまえば、シュレーガー家にとってあいつはギルベルト隊長に何かあった時の予備だ。だから、」
「待ってください、そんな言い方……!」
「だけど、事実だ。アイリス、お前だって分からないわけではないだろ?」


 眉を下げながら言うヒルデガルトにアイリスは顔を逸らした。彼女の言わんとしていることが分からないわけではない。ベルンシュタインにとってもシリルという第一王子に何かあったとしても、国を存続させる為に存在していた者が第二王子であるレオだ。言ってしまえば、それこそレオもエルンストと同様に兄が不測の事態に陥った時の為に存在している予備だ。
 それは分かっている。けれど、予備だなどと扱われることがアイリスにはどうしても受け容れられなかったのだ。無論、彼女が受け容れられるにしよ、出来ないにしろ、実際にそのように存在しているのだからどうすることも出来ない。本人だって分かっているはずのことである。だが、それでも心に重く圧し掛かるのだ。


「エルンストの上には一気に重圧が圧し掛かって来た。今もだ。ギルベルト隊長の弟、シュレーガー家の次男だったあいつは次期当主になった。周りの目も一気に変わった。……あいつは飄々と笑って毒を吐いて周りと距離を置いて、私やゲアハルトにも頼らずに一人で耐えてきた」
「……」
「辛いなんて、一言も言わないんだよ、あいつは。言えばいいのに、代わってやることも何かしてやれることも私にもゲアハルトにもないけど、話を聞いて一緒にいることぐらい出来るのに、だ」


 ここまで分かってるのに何も出来ずに、踏み出せずにいる私が言えたことではないけどさ、とヒルデガルトは自嘲するように笑う。だが、そう簡単に口にしたことを実行できるはずもない。肝心のエルンスト自身がそれを求めていないのだ。彼は一人で背負いこむことを決めてしまっていたのだから。そんな相手に出来ることなど、殆どないと言っても過言ではない。


「だけど、あいつは変わったよ。アイリスに会って変わった」
「わたしに、ですか?」
「ああ。……多分、あいつは嬉しかったんだよ、アイリスの優しさが。自分をシュレーガー家の人間として見ず、次期当主として扱わず、ただの一人の人間として自分と対等に向き合ってくれたことが、きっと」
「でもそんなの、わたしだけじゃなくてヒルダさんや司令官だって……」
「私たちの他にはってことだよ。あいつにとって友人って呼べる存在はずっと私とゲアハルトだけだった。そんなところにアイリスだけが自分を周りと何ら変わらず扱ってくれたんだ。……大したことないことかもしれないけど、あいつにとってはそれが嬉しかったんだよ。今まで得られなかったものなんだから」


 ヒルデガルトの言葉に納得した。だからか、と合点がいったのだ。どうしてエルンストが自分に興味を持ってくれていたのか、優しくしてくれたのか、その理由がやっと分かったのだ。それと同時に、自分は彼に酷いことをしたのではないだろうかとも思った。傍にいて欲しいと言ったエルンストに何と言ったのか――そこまで考えたところで、「だから、これからもあいつのことを頼むよ、アイリス」と力無く笑うヒルデガルトの言葉が耳に届き、アイリスは慌てて笑みを浮かべて頷いた。









 しめやかに執り行われた国葬が終わり、広間から次々と参列者が退場していく中、エルンストはその波から抜け出して一人、静かな廊下を歩いていた。そして、廊下の脇の部屋の前で足を止めると何度か深呼吸を繰り返す。国葬の最中、終わり次第、話があると実の父親であるディルクから呼び出されていたのだ。
 どのような話か、大体の予想がついているということもあり、エルンストは重たい溜息を吐き出した。それでも呼び出しを放り出すことが出来ない辺り、自分は父親から逃れられていないのだということを改めて実感する。何もかもを放り出す勇気なんて自分にはないのだということが突き付けられているようでもあり、そのことが一層、彼の心に重く圧し掛かる。


「父上、エルンストです」


 それでもいつまでも扉の前で立ち尽くしているわけにもいかず、エルンストは意を決して扉をノックした。程なくして入るようにというよく知った父親の声が聞こえ、彼は最後に一度、深呼吸をした後に「失礼致します」と声を掛けた後に扉を開いた。
 そこにはディルクの姿しかなかった。他には誰もいないであろうことなど予想出来ていたことではあったが、父親と二人きりだということを考えると息苦しささえ覚えてしまう。いつからこんなにもディルクのことを苦手だと思うようになったのだろうか――昔は彼にただ認めてもらいたい一心だったのに、と思い返しながら考えていると自分と同じ色をした深い青の瞳が向けられる。


「返事は決まったか?」


 切り出された言葉はそれだけだった。何の、とは言われずとも分かってはいた。その話だろうという予想もしていた。それでも、答えは見つけ出せなかった。どうしたいのかという希望はある。けれど、それをディルクに対して口にすることは出来そうになく、口に出したところで一蹴されることも分かっていた。
 父親に否定されることが怖いのだろうか――頭のどこかでそのようなことを考えながらエルンストが言葉を濁していると、ディルクはそれを叱るでもなく、呆れるでもなく「エルンスト」と諭すようにその名を呼んだ。


「貴族というものは婚姻を繰り返すことで繋がりを深めていく。それによって一族の地位を安定させ、繁栄させることが出来る」
「……」
「特に今は大事な時期だ。大きく政局も変わろうとしている。その中でもシュレーガー家が変らずにいる為には何が必要かは分かるな?」


 諭す様なその言葉にエルンストは内心、困惑していた。このようなことを言うような男だっただろうかと、自身の父親を前にして思ったのだ。以前の父親ならばこのように諭すのではなく、きっぱりとした口調で有無を言わさず命じていた。老いたからだろうかと考えていると、唐突に「エルンスト」と名前を呼ばれる。以前は殆ど、自身の名前を呼ばれることなどなかったことをぼんやりと思い出しながら彼は返事をした。


「シュレーガー家の次期当主として、役目を果たせ。貴様もあれほど役立ちたがっていたではないか」
「……っ」


 細められた視線を向けられ、エルンストは僅かに唇を噛んだ。老いたからだろうかなどと考えていた自分を情けなく思う。ディルクは少しも衰えてはいなかった。しおらしく説得するような、諭す様な口振りで話していただけだ。どうすれば自分を思い通りに動かすことが出来るのか、彼はよくよく知っていた。
 役立ちたいと以前はよく口にしていた。シュレーガー家の役に立ちたいのだと、それをきっかけに兄を超えてやろうとそればかりを考えて事ある事にディルクに進言していた。それが報われることはなかったものの、今になってそれを引き合いに出すかとエルンストは唇を噛み締めた。
 けれど、既に家の為に役立ちたいという気持ちはエルンストの中では掻き消えていた。家のことよりも大切なものがあるからだ。ディルクに認めてもらう必要もないのだ。それよりもずっとずっと、欲しいものがあるのだ。だからやはり、ディルクに従うことは出来ないのだと口を開こうとした矢先、「それとも、貴様は相手に納得がいかないのか」と彼は口にした。


「アイリス嬢はクレーデル家の養女ではあるが元々は戦争孤児。血筋も定かではない……まあ、ただの平民だとは思うが。確かにそのような人間の血をシュレーガー家に入れることは受け容れがたいが……まあ、所詮は家同士の繋がりを求めての婚姻だ」
「父上、」
「納得がいかないなら、外で納得のいく女を囲えばいい。それともお前がどうしても無理だというのなら、親戚に丁度良い歳の頃の男もいる。そちらを宛がってもいい」


 先日以上にあんまりな言い方をするディルクにエルンストは目を見開き、唖然としていた。どうしてそのような酷いことを言えるのかと、彼は奥歯を噛み締めた。自分のことを好き勝手言うことは構わない。ディルクに何を言われようと気にしなければいいだけのことだ。実際、彼の期待に自分は応えられていない自覚もあったのだから。だが、アイリスのことはそうではない。彼女はエルンストにとってとても大切な存在だ。自分のことを真っ直ぐに見てくれた、優しい子なのだ。
 そんなアイリスを貶されたとなれば、とてもではないが許せるはずもなかった。その上、自分ならまだしも、自分以外の男を宛がうとまで言われたのだ。ディルクなら本当にやりかねず、シュレーガー家はクレーデル家よりも家格が上だ。とてもではないが、断り切ることも出来ないだろう。焦りが胸の中に溢れ、エルンストは小さく舌打ちした。


「あと数日だ。国葬も終えた以上、レオ殿下の御即位まで時間もない。アイリス嬢への縁談話も増え始めるだろう。自分で決められないのなら、話は私が進める」


 それだけ言い残すと、ディルクは足早に部屋を後にした。一人残されたエルンストはそのまま壁に寄りかかると、ずるずると力が抜けたようにその場に座り込んだ。膝に頭を預け、奥歯を強く噛み締める。
 どうしたらいいのか分からなかったのだ。アイリスを傷つけるようなことだけはしたくはなかった。けれど、他の誰かが彼女と婚姻するなどとは考えたくもなかった。それならば自分が、とさえ思うのだ。だが、それと同時に思ったことは、そのようなことをすればもう笑ってくれなくなるのではないのか、ということだ。
 アイリスは自分のことをシュレーガー家の次期当主であるエルンスト・シュレーガーではなく、エルンストというただの軍医として見てくれた。損得勘定ではなく、ただの友人のような存在として一緒にいてくれた。話してくれた。笑ってくれた。ただ、そんな些細なことが、本当は嬉しくて仕方なかったのだ。
 ギルベルトが生きていた頃、自分は何だって兄の持っているモノが欲しかった。兄がいなければ、自分が得られたかもしれないモノばかりなのだ。兄よりも優れていたならば、自分に与えられていたかもしれないモノなのだ。だからこそ、それらを全て奪ってやりたかった。そうしなければ気が済まないとさえ思っていた。けれど、兄が殺され、惰性で軍人を続け、ゲアハルトに言われるままに任された仕事をこなしていた中、アイリスを見つけた。
 兄と同じ色の目をした誰かを傷つけることを酷く嫌がる少女だった。とてもではないが軍人には向いていない、早く辞めた方が身の為なのに――そんなことさえ思っていたのだ。それでも、アイリスは戦い続けて今日まで生き抜いた。危ないこともあった。泣いているところだって見たことがある。けれど、諦めずに立ち続けているのだ。そんな彼女が眩しくて、強さが羨ましかった。
 そしていつしか、傍にいて欲しいと思うようになった。自分が彼女のことを想う分だけ、自分のことを想って欲しいと思った。ただ、それだけだった。触れたいだとか、そういうことよりも、ただ、傍にいて欲しかったのだ。けれど、それさえも叶いそうにない。壊してしまうような気さえしたエルンストは奥歯を噛み締め、膝を強く握り締めた。どうすればいい――そればかりを考えていると、ふと耳にあの女の声が蘇った。それはまさに、悪魔の囁きであり、耳を抑えても繰り返し繰り返し聞こえ続けるようだった。



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