過去 - good bye,days -



 まだ日中だというのに、コンラッドが邸の地下に造った研究室は薄暗かった。そこにアイリスはゲアハルトの手伝いとして、研究室内の文献の整理などをしていた。
 国葬を終えてからというもの、ゲアハルトは一日の大半を研究室で過ごしていた。エルンストも忙しいらしく、邸と医務室を行ったり来たりしているらしい。レックスも時折、邸に立ち寄りはするものの、謹慎処分を終えた第二騎士団の再編に忙しくしているようだった。レオに至っては即位を間近に控えていることもあり、城から離れられないらしい。
 そんな中、司令官に再任されたゲアハルトが忙しくないはずもないのだが、此処にいてもいいのだろうかとアイリスは心配にもなった。無論、何もかもを放り出して彼がこの場にいるとも思えず、上手くやっているのだろうとは思う。だからこそ、エルンストやレックスが忙しくしているのかもしれないが、ゲアハルトでなければ出来ない仕事だってあるはずだ。それをこなしていると考えると、彼は一体いつ休んでいるのか――彼女はそれが心配だったのだ。


「どうした?」
「あ、いえ……ちゃんとお休みになられているのかな、と。この数日、ずっと此方にいらしていたので」
「大丈夫だ、これぐらいで倒れるほど柔ではないからな」


 ゲアハルトは苦笑を浮かべながら首を回す。小さくなる関節の音に、それだけ肩や首が凝っているのだということが伺える。そろそろ一度、休憩を入れるべきだろうと「休憩にしませんか?」とアイリスは声を掛ける。休んでくれ、と言っても休んではくれないことは重々分かっている為、「おいしいお茶があるんです、一緒に飲みましょう。それに、お腹も空いちゃいました」と彼女は自分の腹部を抑えながら言う。
 こういう言い方をすれば休憩を取ってくれることをアイリスは知っていた。彼の優しさを利用したずるい言い方だという自覚はあったが、こうでも言わなければ「あともう少し」「先に休憩してくれ」と言われてしまうことも分かっているからだ。それでも、毎度このような言い方をしていれば、ゲアハルトにその真意も伝わっているはずであり、彼は持っていた書物をテーブルの上に置くと微苦笑を浮かべながら頷いた。


「……もうすぐ、レオの即位だな」


 邸から持って来ていたバスケットの中から水筒を取り出し、それをカップに注いでいるとぽつりと呟かれた言葉が耳に届いた。アイリスは一瞬、手を止めるもすぐにまた水筒を傾け、「そうですね」と口にする。彼が即位するということは、これから国王としてレオがこの国をまとめるということだ。以前のように、共に戦場に出るということはないだろう。
 その方がいいとアイリス自身は思っていた。これ以上、王家の人間が命を落とすようなことが続いてはならないというだけでなく、不器用ながらもレオを守ろうとしたシリルも報われないと思うのだ。アイリスは淹れ終えたカップをゲアハルトに差し出し、「レオが即位したらどうなるのでしょうか」と漠然とした不安を口にした。シリルが即位することになったときも、少なからず反対する者がいたのだ。ならば、レオが即位するときにもそのような者が出ても何らおかしなことではないのだ。


「反対する者は少なからずいるだろうな。あいつは残された正統な王位継承者だが、後ろ盾がない」
「……」
「そこに付け入ろうとする者もいるだろうし、第二妃の王子だからと認めようとしない者もいるかもしれない」


 即位までにそういった奴らを黙らせることが必要だ、とゲアハルトは言いながらカップに口を付ける。本来ならば、そういった役割もゲアハルトが担うはずだった。それだけの力が彼にはあったからだ。だが、出自が晒されてしまった今のゲアハルトは迂闊な発言が出来ない状態にあった。下手をすれば、彼自身に飛び火し、また司令官の座を追いやられるかもしれないのだ。
 だからこそ、レオの即位に否定的な人間への対処はエルンストやヒルデガルトが行っているということだった。その分、ゲアハルトは白の輝石の調査に本腰を入れることが出来ているのだという。その分、エルンストやヒルデガルトが忙しくしているため、何としても輝石を覚醒させる方法を見つけ出さなければならないのだ。しかし、この数日の調査では特に芳しい成果は上げられていないでいた。
 そのことに少なからずアイリスは焦りを感じているのだが、向かい側に腰かけているゲアハルトの様子は変わらない。どうしてそんなにも落ち着いていられるのだろうかと不思議に思っていると、ふとした瞬間に視線が合った。明るい青の瞳を前にした彼女は慌てて視線を逸らす。


「どうした?」
「いえ、……あの、司令官、一つお尋ねしてもよろしいでしょうか」
「ああ、何だ?」
「……司令官はどうして、この国に……ベルンシュタインに来られたのですか?」


 それは以前から気になっていた疑問だった。今聞かなければならないことではなかったものの、話題を変えようと咄嗟に口から出た疑問だった。
 ゲアハルトの出自がヒッツェルブルグ帝国の第一皇子であるということを知った時から、どうして彼がこの国にいるのかが不思議でならなかった。何か理由があるのだということも、それが恐らくは白の輝石に関係しているのだということは分かってはいたものの、彼の口から直接聞いたことはなかった。
 だからこそ、いい機会だとも思った。今でなければ聞けない気がしたのだ。ゲアハルトはアイリスの問い掛けに僅かに目を見開くも、すぐに微苦笑を浮かべて「そう言えば、話したことがなかったな」と彼は言う。そして、両手でカップを持ち、そこに視線を落としながら「もう気付いているかもしれないが、俺は白の輝石を求めてこの国に来たんだ」と口にした。


「黒の輝石によって帝国がその影響を受けているという話は以前したが、それを止める為に帝国が何もしなかったというわけではないんだ」


 勿論、何かが出来たというわけではないのだと彼は言う。人の力でどうにか出来るほどのものではなく、だからこそ、第一皇子であったゲアハルトが親書を手に白の輝石を借り受ける為にベルンシュタインを訪れたのだと言う。


「だが、俺が来た頃には既に白の輝石は行方知れずだった。絶望したよ、白の輝石さえあれば国を救えると思っていたんだから」
「……司令官」
「事情を説明した後、ホラーツ様はすぐに捜索を強化して下さった。それでも見つからなかったよ、まさかキルスティ様が隠し持っているなんて思わなかったからな」


 もしもその時、白の輝石をすぐに貸し出せる状態にあったのなら――戦争は起きなかったのだろうか。ふと、そのような考えが脳裏を過った。それと同時に、漸くゲアハルトが気に掛けてくれた理由が理解出来た。これまではコンラッドの養女であり、彼に世話になったからこそ気に掛けてくれているのだとばかり思っていた。それがないわけではないだろう。だが、恐らくは戦争がなければアイリスが両親を失うこともなかったかもしれないと考えてもいるのだろう。
 だからといって、これはあくまでも仮定の話でしかない。ゲアハルトに非があるわけでもなく、誰かが悪いという話でもないのだ。何より、戦争によって家族を失った者はアイリスだけではなく、それこそいくらでもいるのだ。ゲアハルトが罪悪感にも似た気持ちを抱くことも無理はない。けれど、だからといって彼が全てを背負いこむ必要もないのだ。
 少なくとも、故意に帝国が黒の輝石を用いたわけではないと分かった以上、誰かを恨み、憎むことは出来ないとアイリスは思ったのだ。ただ、誰もがそういうわけにもいかないことは分かっていた。誰かに非がなかったとしても、レックスの意思は変わらないのだろう。
 彼には思い出があるのだ。家族と確かに過ごした思い出が、彼の中には残っている。それが、家族との思い出がないアイリスとの違いだった。その思い出がある限り、彼の中の悲しみは消えず、悲しみが消えないからこそ、やり場のない怒りや憎しみも消えることがないのだ。


「白の輝石を借り受けられなかった以上、本当ならすぐに帝国に戻るはずだった。……だが、俺は戻らなかった」
「陛下がお止めになられたとか……」
「ああ。……だが、本当のところはどうだったのかは知れない。父から託された手紙に留め置くように書かれていたのかもしれない。我が子可愛さにな」


 父は恐らく、これからヒッツェルブルグ帝国がどのような道を辿るのか、分かっていたのだろう。
 ゲアハルトは目を細めながら言う。過去を思い出すように遠くを見つめるその表情にアイリスは何も言えなくなった。そうしていると、不意に彼は唇を歪め、自嘲するような笑みを浮かべた。


「どちらにせよ、俺はベルンシュタインに留まった。ホラーツ様に留め置かれたからではない。嫌だと、戻ると言い張れば帝国に戻ることも出来た。戻る方法はいくらでもあった。……だけど俺は、そうしなかったんだ」
「……」
「帝国に戻ることが、怖かったんだ」
「……司令官」
「黒の輝石が恐ろしかった。……俺は、逃げたんだよ」


 自分の国を救うことをせず、家族や友人を捨てて、一人だけ安全な場所に逃げた――ゲアハルトは顔を伏せながら、自分自身を嘲るように笑った。帝国の人間にしてみれば、それは裏切りでしかないのだろう。現に彼も、「俺は帝国の裏切り者だ」と口にした。けれど、少なくともゲアハルトをベルンシュタインに留め置くことを願ったかもしれない彼の父親である皇帝だった人物は、ゲアハルトの選択を責めることはないだろう。
 ただ、皇子としての選択としては決して褒められたことではなかったのかもしれない。とは言っても、ゲアハルトが帝国に戻ったところで、現状が変わっていたとも限らない。結局のところ、変えられない過去を悔いしているだけでしかないのだ。もしもこうしていたのなら、と仮定の上に仮定を重ねているだけでしかない。
 ゲアハルトが悔いる気持ちも分からなくはないのだ。きっと長い間、彼は自分自身を責め続けていたはずだ。戦争が激化するにつれて、帝国軍が周辺国を攻め込んでいくときも、その所為で甚大な被害を被ったときも、ゲアハルトが心を痛めなかったはずがない。それでもベルンシュタインに居続けた理由は決して逃げようと思っていたわけでも、怖いと思っていたわけでもないはずだ。
 彼には力が必要だったはずだ。帝国を止めるにしても、何をするにしても、力がなければどうにもならない。言葉で解決することの出来る時期は遠く過ぎ去っているのだ。ならば、後は力を頼りにするしかない。もうそれしか、方法は残されていないのだ。


「父の訃報を聞いたときだって俺は戻らなかった。俺はただの裏切り者だ。帝国を売ったような、」
「それは違います。……わたしが偉そうなことを言えた立場でないことは分かってます。でも、司令官は裏切ったわけではないと思います」
「……アイリス。だが、」
「だって……司令官は帝国のことだって救おうとしてます。見捨てずに、どうにかしようともがいてる……。確かに、司令官のことを裏切り者だと思っている人もいるかもしれません。だけど、司令官のお戻りを待ってる人だっているかもしれません」
「そんな奴がいるわけないだろ」
「いいえ。数が多くなかったとしても、いないはずありません。少なくとも、司令官のお父様は待っていらっしゃったはずです」


 帝国を救う手立てを見つけて司令官が戻られる日を待っていたはずだと、アイリスはそう思ったのだ。確かに、ゲアハルトをベルンシュタインに留め置こうとした者が彼の父親であるのならば、そこに我が子可愛さゆえに感情がなかったとは言えないだろう。だが、決してそれだけではなかったはずだ。きっと彼ならば何か手立てを見つけてくれると、帝国の中にいては見つからない方法を手に戻って来てくれると信じていたのではないのか――アイリスにはそう思えてならなかったのだ。
 視線を伏せるゲアハルトのひんやりと冷たい手を握る。触れた手はびくりと一度震えたものの、振り解かれることはなかった。アイリスはぎゅっとその手を握りながら、「司令官は帝国の方ですが、ベルンシュタインの為に戦って下さいました。その気持ちが本当だったから、生まれなんて関係なく、今も信任されているのだと思います」と少しでも気持ちが伝わるようにと願いながら唇を動かす。


「帝国からしてみれば、敵国のわたしたちが貴方を信じられるんです。帝国の人たちが司令官を信じられないはずがありません」
「……アイリス」
「きっと、司令官の帰りを待ってる人はいます。だから、そんな風にご自分を卑下するようなことは仰らないでください」


 それではあまりに悲しすぎる、とアイリスはじっと明るい青の瞳を見返した。暫しの後に、視線は外されてしまうも、先ほどまでの陰鬱とした雰囲気は既に掻き消えていた。掌から温もりが移ったのか、ひんやりとしていたゲアハルトの手もじんわりと温かさを増している。そのことにほっと安堵の息を吐きながら、「そうだ、今日はアルヴィンさんがお菓子を用意してくれたんです。食べましょう」とそっと手を離すと、バスケットの中身をテーブルの上に広げる。
 明るく言うアイリスにゲアハルトは目を瞬かせるもすぐに目を細めて笑うと「ああ、そうだな。頂こう」と表情を和らげる。自分が言ったことで全て不安や葛藤を消すことが出来たとは思ってはいない。それでも、口にしたことは本当に思ったことだ。それが少しでも伝わったらしいことに安堵しつつ、アイリスはアルヴィンが用意してくれた焼き菓子をバスケットから取り出した。






 それから陽が暮れるまで研究室で調査を続けたものの、これ以上の進展はなさそうということもありゲアハルトとアイリスは邸に戻っていた。元々、コンラッドの研究自体が完成されたものではなく、研究の最中に命を落としたのだ。ここから先は様々なことを試して自分たちで明らかにするしかないという結論に辿り着き、ゲアハルトは一度軍令部に戻らなければならないということもあって早々に邸を後にした。
 それを玄関で見送ったアイリスは手詰まりとなってしまったことに僅かな焦りを感じながらもふう、と息を吐き出して肩の力を抜いた。養父が生きていたなら、とぼんやりと扉を閉めながら考える。無論、そのようなことを考えてもどうしようもないことだとは分かっている。アイリスは再度溜息を吐きながら今日は早めに身体を休めた方がいいかもしれない、と思いつつ、自室へと踵を返そうとした矢先、「お嬢様」と未だに慣れないその呼び方で呼び止められる。


「アルヴィンさん、どうしたの?」


 振り向くと、そこにはいつになく深刻な表情をしているアルヴィンがいた。一体どうしたのだろうかと不安に思いながら彼の方へと爪先を向ける。そして、数歩歩んで距離を詰めるも、アルヴィンの表情は変わらず強張ったままだった。何かあったのだろうかと問おうとするも、それよりも先に「お嬢様にお話が御座います」と緊張した声色で彼が口を開いた。
 いつも飄々としているアルヴィンがここまで緊張するのだ。一体何事なのかと自然とアイリスの表情も硬くなる。そして、頭のどこかで聞いてはならないと思う自分の声が聞こえたような気がした。嫌な予感が、したのだ。やけにゆっくりと動いて見えるアルヴィンの口元を見ながら、耳に届くその言葉に彼女は目を見開いた。


「お嬢様に縁談のお話が来ております」


 いつかはそうなるだろうと、覚悟はしていたことだった。ゲアハルトらと共に邸に戻り、調査を始めた時にもたまたま耳にしてしまっていたことだった。だからこそ、いつかはそういう日が来るのだとも思っていたのだ。けれど、心のどこかでそんな日は来て欲しくない、せめてまだ先であって欲しいと思っていたことも事実だ。
 縁談、というその言葉に胸が痛んだような気がした。けれど、その痛みには気付いていない振りをしてアイリスは「そっか」とだけ口にした。笑わなければ、と口角を持ち上げるも、きっと上手くは笑えていない――顔の強張りを感じながら彼女は小さく拳を握り締めた。


「わたしになんて縁談を申し込む奇特な人もいたんだね」


 養女とはいえ、貴族の娘であるということに変わりはなく、普通であれば自身の歳であれば既に婚約者がいて、婚姻していても何らおかしくはないことも分かっていた。無論、全ての貴族の娘がそうであるとは限らないものの、アイリス自身、自分が行き遅れている自覚はあった。
 それでいいと思っていたのだ。コンラッドに引き取られた以上、彼の為にも婚姻を拒むわけにはいかなかったし、何不自由なく育ててくれたのだからそれぐらいのことはしなければと思っていた。それでも、誰も何も急かしてこないうちは、逃げていたかったのだ。好きになった人と、自分のことを好きになってくれた人と、一緒にいられたらいいなと――そんな風に思っていたのだ。


「どんな人なの?」
「アルバトフ家ご当主のエラルド様という、北方に領地をお持ちの方で……その、お嬢様よりも少しお歳を召されている方で……」
「そっか。……すぐに婚姻をって?」
「いえ、それはさすがに……まずは顔合わせをとお願いしました。申し訳ありません、私の力不足です……何度もお手紙を頂戴して、そろそろお断りすることが難しく……」


 このところ、アルヴィンの様子がおかしいとはアイリス自身、感じてはいたことだ。疲れている様子であり、どうしたのだろうかと思ってはいたものの、恐らくは自身に縁談を申し込んで来たエラルドという男の手紙を断り続けていたからなのだろう。しかし、とうとう断り切れなくなり、自分に話を持って来たのだと気付いた彼女は微苦笑を浮かべた。
 そんなに申し訳なさそうな顔をする必要はないと思ったのだ。元々、覚悟はしていたことなのだ。それを今日まで引き延ばして、何とか婚姻を結ばなくてもいいようにとしてくれようとしていた。その気持ちだけでも十分に嬉しかったのだ。だからこそ、アイリスは申し訳なさそうに、悔しげな表情を浮かべるアルヴィンに「もういいよ」と優しく声を掛ける。


「本当はね、縁談の話が来てること自体は知ってたの」
「え、」
「帰って来た日に偶然、アルヴィンさんたちの話を聞いちゃって……。でもね、いつかはこういう日が来るとは思ってたし、縁談の話が来てることは知ってたから平気」


 何も知らなかったわけではない。覚悟していなかったわけではないから平気なのだと、アイリスは笑った。相手がどのような相手かは知れないものの、この時期に敢えて自分に縁談を申し入れて来るのだから欲深な男だということだけは分かる。そんな相手と結婚しなければならないのか、と思うと心が重くて仕方なかったが、アイリスは努めて顔に出さないように気を配った。


「わたしはこの家の人たちに本当によくしてもらったんだから、その恩に報いなきゃ駄目だもの。罰が当たっちゃう」
「お嬢様、我々はそのようなことを、」
「望んでないのも分かってる。……でもね、これはわたしの気持ちの問題」


 嫌な言い方をしているなと思いつつ、アイリスは視線を伏せた。こんなことを言いながらも、本当は誰かの為にと思わなければ、それが自分の担わなければならない責務なのだと思わなければ、嫌だ嫌だと泣き喚いてしまいそうに思ったのだ。こんな言い方をすれば、まるでアルヴィンを責めているようだと思いながら、じわりと熱くなり始める目頭を慌てて押えた。


「お嬢様、」
「いい。……ごめんね、こんな言い方して」


 近付いて来ようとするアルヴィンを制すように片手を前に出し、アイリスは顔を伏せた。ここで泣いてしまえば、アルヴィンを困らせてしまう。もしかしたら、婚姻を回避しようと彼は無理をするかもしれない。それを思うと、泣くわけにはいかなかった。今日までずっと連日届いていたという手紙を前に、きっとアルヴィンはあの手この手と様々な手を使って止めようとしてくれたのだろう。けれど、彼はあくまでも執事だ。家格では到底敵わない相手にアルヴィンが出来ることはそう多くはないはずだ。随分と無理をさせてしまっていたのに、これ以上を望むことなど出来るはずがなかった。 


「こんな言い方しなきゃ、いつか来ることだって分かっていても、覚悟はしていても、ちょっと……ちょっとだけ、辛くて」


 漠然とした不安があった。顔も知らない、会ったこともない相手だ。それもアルヴィンの様子から相当歳が離れていることが伺える。貴族間の婚姻では決して珍しいことではないことも分かっていた。それでも、何とも思わないということはアイリスには無理だった。それでも、これ以上の泣き言は言いたくはないと口を噤み、目元を乱暴に拭うと「顔合わせの日程調整はアルヴィンさんに任せるわ」とだけ言うと、今日はもう休むことを伝えて踵を返した。
 自室へと戻る途中、ふと思い出したことは以前、レックスに貴族の娘として生きて欲しいのだと言われた時のことだ。きっと、戦場には出て欲しくはないと、命をいつ落とすかも知れないところから遠く離れて欲しいと思っての言葉だったのだろう。自分のことを慮っての言葉だということは分かっている。そのことを嬉しくも思った。
 けれど、いざこうして貴族の娘らしく縁談の話が舞い込んだとなると、これがレックスの望んでいたことなのだろうかとふと気になったのだ。彼は縁談が決まったことを喜んでくれるのだろうか――そんなことを考えながら、アイリスは一気に疲れ切った様子で自室に戻ると、ぐったりとベッドに倒れ込んだ。








「ほら、持って来たぞ」


 夜、月が昇って暫くした頃、ブルーノは白い封筒を手に隠れ家に戻ってきた。今日も今日とて便箋にペンを走らせていたカサンドラは投げ渡されたそれを受け取ると、手早く封筒を開ける。あの手この手で逃げきろうとしていた文面が続いていただけに、今日もそれを面白おかしくカサンドラが口にするのだろうかと思っていると「漸く諦めたみたいね」と彼女は口角を吊り上げて笑った。


「縁談を承諾したのか?」
「まだ本決まりというわけではないけれど、顔合わせには応じたわ」


 手紙をテーブルの上に置き、彼女は赤い瞳を細めて笑う。その様にブルーノは僅かに視線を伏せた。本決まりではなくとも、顔合わせには応じたということはこれから作戦が動き始めるということだ。少なからず、当事者にされてしまうアイリスは辛い思いをすることだろう。それを思うと、ブルーノは何とも言えない気持ちになった。
 彼にしてみれば、アイリスはどこにでもいるごく普通の少女だ。それこそ、本来ならカサンドラが目に留めるほどの者でもなく、戦争さえも似つかわしくないぐらいの平凡な少女なのだ。しかし、その印象とは裏腹にアイリスは後戻り出来ないところにまで巻き込まれている。自分も殆ど巻き込まれているようなものだからこそ、あまり自分のような者が増えなければいいと思っていることもあって何とも言えない心境だった。


「それにしても、いつも上手く手紙を奪って来るわよね、貴方」
「別に、大したことじゃねーだろ」
「大したことよ。仮にも貴族の別邸、しかも今は国葬後ということもあってまだ主人も使用人もいるのよ。それに城下の警戒はまだ続いているもの。そんな状態で毎日手紙を奪って来ているんだから、大したものよ」


 カサンドラが現在、名義を拝借しているエラルド・アルバトフは王都より北方にある領地ではなく、王都ブリューゲルの別邸で過ごしている。国葬があったからなのだが、仮にも貴族の邸宅なのだ。警備は万全を期しているはずであり、そこから手紙を奪うなど容易く出来ることでもない。
 ブルーノに命じて正解だった、と口にしてカサンドラは椅子から立ち上がった。そのまま機嫌のいい様子で部屋を後にしようとする彼女に「何処に行くんだよ」と問い掛ける。すると、肩越しに振り向いたカサンドラは赤い瞳を爛々と輝かせ、紅を塗った唇をしなたせて笑みを作る。


「エルンストのところよ。最後の一押しをするのよ」


 それだけ言うと、カサンドラは部屋を後にした。それを見送り、ブルーノは溜息を吐きながら「あいつが楽しそうにしてると碌なことがねーんだよ」とぼそりと呟く。彼の脳裏には嫌な予感しか過らなかった。そして、それが大抵は当たるということもブルーノは知っていた。
 深く残った首の傷痕を押えながら憂鬱そうに溜息を吐く。痛まないはずのそこがじくじくと痛んだ気がしたのだ。そこを頻りに擦りながら、ブルーノは「泣いてるところなんて見たくねーな」と誰もいない、薄暗い部屋で口にした。



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