過去 - good bye,days -



「準備出来たってよ」


 全ての準備をブルーノと連れて来ていた兵士に任せ、ソファに座って紅茶を飲んでいたカサンドラは溜息混じりに彼の声に顔を上げた。声音と同じく呆れた顔をしているブルーノは肩を竦めながら「こっちの準備は出来ても、肝心の奴が来なけりゃ意味ねーぞ」と口にする。そんな彼にカサンドラはカップをテーブルに戻しながら平気よ、と笑う。


「彼は、……エルンストは来るわ」
「何で分かるんだよ」
「だってそうせざるを得ないところまで追い詰められてるもの。……それに」
「……」
「エルンストと私は似た者同士だもの。エルンストは此処に来るわ、必ずね」


 爛々と輝く赤い瞳を瞼の裏に隠し、カサンドラは串の端を吊り上げて笑う。溜息を吐くブルーノの気配を感じつつ、彼女は数日前のことを思い返していた。




「ねえ、知ってる?エルンスト」


 その日、カサンドラはクレーデル邸から騎士団宿舎に戻ろうとしていたところのエルンストの前に立ち塞がっていた。声を掛けると彼は足を止め、剣呑な雰囲気を醸し出しながら背後に立つ彼女を振り向いた。以前ならば、問答無用で攻撃魔法を放たれていたはずだが、最近はそのようなこともなかった。会話も成り立つようになった。依然として憎しみの籠った視線を向けられてはいるものの、そこに見え隠れする殺意は自分自身に向けられたものなのかそうではないのかが分からないほど、エルンストの中には別の感情も芽生えているようだった。そのことに気付きながら、カサンドラは何も知らぬように微笑みを浮かべる。
 

「アイリス嬢、縁談の話がまとまったらしいわ」
「……嘘だ」
「嘘なんて言ってどうするの?私は貴方を応援するって言ってるのに、こんなことで嘘なんて言わないわ」
「……」
「お相手はアルバトフ家のエラルド卿ですって」


 カサンドラの口にした人物を思い起こすようにエルンストは視線を僅かに彷徨わせ、そして、思い当たったらしく目を見開いた。その様子を眺めていた彼女は内心ほくそ笑む。「エラルド卿って、……あの方には奥方がいるだろ」とエルンストは顔を顰め、睨むようにカサンドラを見た。


「正確にはいた、よ。数年前にお亡くなりになってるわ。要はアイリス嬢を後妻に欲しいということよ」
「……でも、」
「歳が離れすぎてる?でも、大した問題でもないでしょう。貴族の婚姻で歳の差なんて珍しいことではないじゃない」
「それは……」


 言葉を濁すエルンストを前にカサンドラは目を細めて笑った。今までならば、戯言だと聞く耳さえ彼は持たなかっただろう。けれど、今はこうして思い悩むまで話を聞いてしまっている。まさかここまで引き込むことが出来るとは彼女も思っていなかったのだが、こうして揺らぐということは少なからずゲアハルトらに対して思うところはあるのだろう。
 元々、エルンストは決して強い人間ではなかった。力はある、頭の回転も早い。けれど、そこに心が伴っていない。兄であるギルベルトを超えたいという思いだけが彼の原動力だった。けれど、その原動力も、カサンドラによって奪われてしまう。そんなエルンストがすぐに立ち直れたはずもなかった。ゲアハルトらが手を貸し、何とか立ち上がったのだろう。そして、アイリスとも出会った。だからこそ、エルンストにとってゲアハルトとアイリスの存在は何より大きいもののはずだ。
 そこを心の拠り所にしていることは明らかだった。だが、今のエルンストはそのどちらも失いかけている。ゲアハルトのことをどこか信じ切れず、アイリスには縁談の話が来ている。他にも様々な要因があるものの、そのどれもがエルンストにとっては良いものではなかった。そこまで分かっていれば、彼を引き込むことは決して難しいことではない。


「それにね、聞いてしまったのよ」
「……何を」
「ディルク様が身内の妙齢の男性にアイリス嬢との縁談を打診してるって話」
「な、」
「それだけじゃないのよ?貴方の縁談のことも同時に打診しているのよ、貴方のお父様」


 今度こそ、エルンストは開いた口が塞がらない様子だった。ディルクがこのまま何もしないと思っていたわけではないのだろう。だが、まさか自分の縁談も同時に打診しているとは思いもしなかったのだろう。面白いほどに狼狽する様子にカサンドラは腹を抱えて笑いたくなった。憎しみしかないであろう自分の前でそのような無防備な様子を見せていいのだろうかと思いながら、彼女は笑いを噛み殺して「ねえ、このままでいいの?」と優しく囁きかける。


「手が届かない存在になってしまってもいいの?どうでもいい子と結婚させられてもいいの?」
「……、」
「あの子を好き放題されたっていいの?」
「……っ」
「ねえ、エルンスト。……どうしても欲しいモノを手に入れる為にはね、何もかも捨てる覚悟が必要よ」
「それは……」
「本当に欲しいっていうのは何もかも捨ててでも手に入れたいってことではないの?」


 私はそう思うし、そうして来たわ、と赤い瞳を細めて言う。深い青の瞳は揺らいでいた。その揺らぎを真っ直ぐに見据えながら、彼女は赤い唇を撓らせて笑う。「大丈夫よ。私たちが手伝うもの」と言いつつ、距離を詰める。普段ならば、後退するはずにも関わらず、エルンストはその場から動かなかった。口の端が更に釣り上がる。カサンドラはひんやりとした冷たい手を握り、「貴方の望みは叶えてあげる。だから、私の願いも叶えてくれないかしら」と優しい声音で囁いた。




「……まあ、あいつが来なければ来なければもう片方の作戦を実行するだけ、そうだろ?」
「そうね。その心配はないと思うけれど」
「そうかよ」
「やきもち?」
「そんなわけねーだろ、頭沸いてんのか!これ以上失敗したらら上から何言われるか分かんねーだろ!」


 途端に捲し立てるように文句を口にするブルーノはカサンドラは「冗談よ」と肩を竦めて見せる。彼はまだ、挽回の機会があると思っているらしい。そのことにカサンドラは随分と目出度い頭だと内心嘲った。自分たちを統括しているヴィルヘルムが失敗を許すような甘い人間だと思っているのだろうかと唇を歪めた。
 恐らく、ヴィルヘルムは既に自分たちを見限っていることだろう。少なくとも、自分は既に見限られているはずだと彼女は考えていた。それが分かっている以上、ヴィルヘルムの信頼を回復することは難しい上にそこまでする必要性も感じてはいなかった。要は、彼と交渉できる手札を揃えればいいのだ。そうすれば、何も彼の為にも様々なことをしなくとも自分の望むものが得られる。無論、失敗すれば命はない。だが、このまま何もせずとも命に危険が及ばないということはないのだ。ならば、自由に動けるうちに打てる手は打ってしまった方がいい。


「……で、此処にはあいつらはいないのか?」
「アウレールたちのこと?三人には王都の外……ベルトラム山の方に隠れ家を準備してもらっているわ」
「ふーん……。それで、アウレールの奴は何者なんだ?」
「あら、今日はやけに質問が多いのね」
「お前が碌な説明を今までせずにいたからだろ」


 溜息を吐くブルーノにカサンドラはそうだったかしらと惚ける。彼の言っていることは間違いないものの、自分でアウレールに尋ねているとばかり思っていたのだ。それさえしていないということは、やはりただの馬鹿なのだろうかとこっそりと溜息を吐く。仮にも命を預けることになる仲間なのだ。相手をよく知りもせず、よく今まで平気だったなと思いつつ、「ヴィルヘルム殿下直属の兵士よ」と事も無げに言う。


「殿下の?」
「そう、元傭兵のね。そして、私に付けられたお目付け役、といったところかしら」
「お目付けって……お前、余程信用されてなかったんだな」
「当然よ。私は元ベルンシュタインの兵士。そんな人間を簡単に信用するような方でもないし、信用したらそれこそ疑うわよ」
「……それ、自分で言うことかよ」


 呆れた様子の彼を前にしてもカサンドラは特に気にした様子もなく、「本当のことよ。お目付け役を付けられて当然、本当なら失敗した時点で私を切り捨ててもおかしくないもの」と口にする。
 本当は、ヴィルヘルムとゼクレス国の王城で顔を合わせたとき、殺されるかもしれないとも思ったのだ。それだけの失敗をしたという自覚はあった。けれど、彼は予想に反して、機会を与えてくれた。それが気まぐれだったのか、何か目的があってのことだったのかは知れない。だが、単純な気まぐれで失敗を許す様な男ではないということもカサンドラは知っていた。
 ヴィルヘルムはゲアハルトのように甘くはない。無論、ゲアハルトも決して甘い男というわけではないものの、ヴィルヘルムのそれは比ではない。アベルやカインは多少可愛がっている様子だったが、それも本気かどうかは知れない。ただの気まぐれで情けをかけているだけかもしれない。それを思うと、心の底から彼を慕っているカインのことを多少哀れに思うも、今のカサンドラに他者を気に掛けている余裕はない。


「そろそろ時間ね。貴方は指示通りに動いてくれたらいいから、他の子たちにもそう伝えてちょうだい」
「分かってる。……今回の作戦、成功したら、」
「成功してもしなくても、ヴィルヘルム殿下の一声でアウレールが私たちを斬るでしょうね」
「なっ!?」
「その為のお目付け役だもの。……だから、精々、彼が何も命じないことを祈るのね」


 そう言いながら立ち上がると「だったら何もしない方がいいんじゃないか?」とブルーノは焦りの表情を浮かべる。このまま何もしない方がいいのではないかという彼の主張も分からなくもない。だが、こうして独断で動いていても何も言われない以上、動き続けるしかないのだ。立ち止まれば、それこそそこで終わってしまうかもしれない。
 不都合なことがあれば容赦なく切り捨てられる。独断で動いているにも関わらず、それをされないということは少なくとも動くこと自体にヴィルヘルムには不都合はないらしい。「何もしなくても切り捨てられるかもしれないなら動いていた方がまだマシよ」と彼女は言った。


「それに、どうせ貴方は私がいなければ生きていけないのだから一蓮托生じゃない」
「それは……」
「だからね、ブルーノ、貴方は今まで通り、私に従っていればいいの。その限り、貴方は生きていられるんだから」


 カサンドラは懐から小さな小瓶を取り出し、それを目の前で軽く振って見せる。からからと中でぶつかり合う音がした。色のついた小瓶の中には薬のようなものが入っている。それを引っ手繰るようにして奪い取ったブルーノは大切そうに小瓶を懐に仕舞い込む。そんな彼の様子にカサンドラは口の端を吊り上げて笑った。
 この薬がある限り、彼は自分から離れることは出来ない。否、離れることが出来ないわけではない。ただ、離れたとなれば彼の身に何が起きるのか分からず、そのまま命を落とす可能性が高いというだけのことだ。本気で逃げ出したいならば逃げればいいと彼女は思っていた。ブルーノのような勝手遣いの出来る人間がいなくなることは不都合だが、だからといって何が何でも引き止めなければならないということもない。
 薬を奪い取るということはまだ当分は従う気らしい彼にカサンドラは「それじゃあ作戦通りに頼むわね」と言って背を向ける。痛いぐらいに視線を感じるも、彼女はそれを黙殺した。今はあまりブルーノに構っている場合ではないのだ。この作戦が成功するか否かによって、カサンドラはヴィルヘルムに対する交渉に優位に立てる手札を手に入れるかもしれないのだ。しかし、成功するかどうか、不確定要素が多すぎる。それでも、やるしかないのだ。ここで立ち止まるわけにはいかないのだと、彼女は指先が白くなるほどに拳を握り締めた。










「お嬢様、到着です」


 緩やかに速度を落とし、馬車はとある邸の前に停まった。アルヴィンに促され、アイリスは物憂げな表情を浮かべたまま、彼の手を借りながら馬車から下りた。いつまでも物憂げな顔をしていてはならないのだということは分かっている。それでも、心は重苦しいままだった。
 アイリスは胸に詰まったその重苦しさを吐き出しように顔を伏せて深呼吸を繰り返す。そうして、いくらか自分自身を落ち着けた後、顔を上げて「行きましょう、アルヴィンさん」と彼を促した。一瞬驚いた表情をした後に、アルヴィンは僅かに顔を歪ませながら笑みを浮かべると小さく頷き、彼女と共に歩き出した。


「ようそこお出で下さいました」


 玄関に足を踏み入れると、そこには数名の家人らしき人間がいた。頭を下げて迎え入れられたアイリスは居心地の悪さを感じながらも、招待してくれたことに礼を述べる。そして、ちらりと視線を邸内に向けるのだが、やけに静かすぎるように思えてならなかった。生活している者の気配を感じさせないような気もするが、どういうことなのだろうかと考えていると「こちらへどうぞ。ご案内いたします」と執事らしき人物が既に用意されているであろう顔合わせの為の部屋に向かって歩き出した。
 アイリスは慌てて彼の後に続きながらも、足を進めるごとに感じる違和感が強くなっていくことに気付いた。それが何によるものかまでは分からない。不安が胸の中に湧き上がり始めた頃、唐突に「執事の方はこちらでお待ちください」とすぐ後ろから声が聞こえた。顔合わせの部屋までアルヴィンが同席することは無理だろうとは思っていたのだが、こんなに早く引き離されるとは思いもしなかったのだ。


「あの、」


 堪らずアイリスが声を上げ、アルヴィンも「しかし……」と言葉を濁す。しかし、「アイリス様はこちらにどうぞ」と扉を開け、入室を勧められては断ることも出来ない。既に室内には顔合わせの相手であり、毎日のように縁談の申し入れの手紙を送り続けていたという相手、エラルド・アルバトフがいるかもしれないのだ。
 入り渋っていたことが知れれば、何を言われるか分かったものではない。アイリスは腹を括ると、心配げな顔をしているアルヴィンに「平気。行ってくるね」と努めて明るく言う。それがただの強がりだということが分からない彼ではないことも分かってはいた。だが、あまり心配は掛けたくはなく、彼女はきゅっと口角を吊り上げて笑みを作ると、促された部屋に足を踏み入れた。


「あ、あれ……?」


 愛想のいい笑みを浮かべながら部屋に入るも、そこには誰もいなかった。長机の両端に食事の用意がされてはいるものの、向かい側に座っていると思っていたエラルドの姿はなかった。これから呼びに行くのだろうかと思いつつ、アイリスは一先ずほっと息を吐きながら椅子に腰かける。
 どのような人物だろうか、上手くやっていけるといいのだがとぼんやりと考えるも、待てども待てどもエラルドが現れる気配はなく、そのまま三十分ほどが経過していた。その間、誰一人として部屋には現れず、声を掛けられることもない。どうしたのだろうかと思いつつ、一度部屋を出てみようかとも考える。しかし、勝手に動き回るわけにもいかず、浮きかけた腰を落ち着けると、見計らったかのように扉がノックされた。
 アイリスはぴんと背筋を慌てて伸ばすと、控えめに「は、はい」と返事をした。そして、聞こえて来た「失礼致します」という声に僅かに首を傾げる。見知った声のように思えたのだ。だが、聞こえて来た声はアルヴィンから聞いたエラルドの印象とはかけ離れた若い男の声であり、彼女は余計に首を傾げる。
 がちゃり、と扉が開いた。アイリスは緊張に身を縮み込ませそうになるも、胸を張って背筋を伸ばす。しかし、すぐ脇を通り抜けて向かい側に腰かけた人物を見遣り、彼女は大きく目を見開いた。


「どうして……」
「代わってもらったんだよ、アルバトフ卿に。俺じゃ嫌?アイリスちゃん」


 そこに座っていたのはいつもの白衣ではなく、正装に身を包んだエルンストがいた。どうして彼がいるのかと、エルンストが口にした言葉もすぐには理解出来なかった。それほどまでに驚いていたのだ。けれど、エルンストがこのような場で嘘を吐くとは思えなかった。
 しかし、もしもエルンストが言うようにエラルドではなく彼が縁談を申し入れて来たのであれば、エラルドが何かしら言ってきてもおかしくはない。無論、文句などは全てシュレーガー家にいくのだろうが、それでもアイリスに何らかの断りは入れるはずだ。それが筋というもののはずなのだが、一向にエラルドが姿を見せる気配はない。
 エルンストは答えを待つように笑っている。けれど、彼が浮かべている笑みはいつも通りのものだが、どこか薄ら寒さや重圧を感じさせるものでもあり、じわりと掌に汗が滲んだ。いつもと何ら変わらぬその笑みが、怖かったのだ。けれど、それを口にすることは出来ず、アイリスは好転したはずの現状に嫌な予感を感じていた。



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