過去 - good bye,days -



 遅めの夕食を終えて軍令部へと戻りつつ、ゲアハルトは常と何ら変わらない賑やかさを醸し出す下町の光景を眺めていた。帝国兵が王城を直接襲い、その残党が城下町に逃げ込んでからの数日はひっそりと静まり返り、ゲアハルトによって出された戒厳令によって誰も家の外に出ることはなかった。しかし、国葬も終えて日も経つと、それまでのことが嘘かのように常と何ら変わらぬ賑やかさを取り戻した。
 彼らにしてみれば、城での出来事も国境で繰り広げられている戦争も絵空事のようなことなのかもしれない。無論、彼らの家族や友人が誰一人として戦争に関わっていないということはないだろう。徴兵制を採用していないとはいっても、兵力不足の為に若者が軍に入隊することは決して珍しいことでもない。とは言っても、どちらかと言うと、地方出身者が多く、王都の民が入隊することは多いとは言えない。
 この差もどうにかしなければならないことの一つかと考えながら足を進めていると、唐突にガラスや食器が割れ、椅子がひっくり返る騒々しい物音が聞こえて来た。何事かと足を止めて音が聞こえてきた方向を振り向けば、そこには見知った姿があった。酷く酔っ払い当たり散らしてテーブルに載せられていた皿やグラスを全てひっくり返したらしい。周囲の客や店の人間も顔を見合わせて困惑している様子を見ると、ここで捨て置くわけにもいかない。ゲアハルトは溜息をひとつ吐くと、「おい、レックス」とテーブルに突っ伏した部下に声を掛けた。


「ん……ああ!ゲ、」
「こいつが迷惑をかけて申し訳ない」


 半ば強引にゲアハルトは名前を呼び掛けたレックスの口を封じると明らかに迷惑そうにしている店主や客に頭を下げた。今はローブもマスクも取り払っているのだ。ただでさえ、城下にも既に自身の出自の件が出回っていてもおかしくない以上、ここで名前を呼ばせるわけにはいかなかった。 
 シリルとキルスティの国葬の際、そこに集まった貴族や兵士らに一応の説明はしたものの理解や納得が得られたというわけでもない。不信感は少なからずあるだろう。それでも司令官の地位にいられる理由は、ゲアハルト以外に任せられる者がいないからでしかない。つまり、一度でも失敗すれば掌を返されるような状況だ。
 出来ることなら面倒事には首を突っ込みたくはなかったものの、だからといってどういうわけか酔い潰れているレックスを捨て置くわけにもいかない。財布から十分すぎるほどの金を抜き出してそれをテーブルに置くと、引き摺るようにしてゲアハルトはレックスを連れてその場を後にした。


「それで、何でこんなに飲んだんだ」


 宿舎まで送るにしても、もう少し酔いを醒ましてからの方がいいだろうということで近くの公園に連れて来たのだ。ベンチに座らせて途中で買った水を飲ませながら、落ち着いた頃を見計らってこんなにも酔うまで酒を口にした理由を尋ねた。元々、レックスはそれほど酒が得意というわけでもなく、好んで飲むことも多くはなかったはずだ。
 何より、後先考えずに酒に手を出すような性格でもない。理由がなければこのようなことをするはずもないのだ。顔を伏せて浅い呼吸を繰り返るレックスにゲアハルトは僅かに眉を寄せた。酔っ払いの介抱をしたことがないわけでもないが、やはりエルンストに診せた方がいいだろうかと思っていると「……嫌なことが、あったんです」とぼそりと溜息混じりにレックスが口を開いた。


「嫌なこと?」
「……とは言っても、嫌なことと言うか、自分自身に腹を立てたというか……あんなこと言わなけりゃよかったと後悔したりだとか……色々と」


 言うんじゃなかった、思ってたことだけど願ってたことだけど言わなければよかった。
 そう言ってレックスは酷く後悔している様子だった。彼がこんなにも自分を責めて後悔するなど、ゲアハルトには心当たりが一つしかなかった。


「アイリスと何かあったのか?」
「……っ」


 レックスが得意でもない酒に手を出し、潰れるほどに飲み続けるなど彼女と何かあったとしか考えられない。言わなければよかったと口にするのだから、何か余計なことを言ったのか、言わなくてもいいことを言ったのか、ということは分かる。しかし、内容まではさすがに分からない。言いたくないならばそれで構わないのだが、アイリスは今日、どうしても邸に戻らなければならない用事があるからと言って軍令部を離れたのだ。
 そんなアイリスと顔を合わせたということはレックスは邸に行ったということでもある。無論、何処かでたまたま遭遇したのかもしれないが、兎にも角にも、彼女と顔を合わせたということに変わりはないはずだ。しかし、二人が喧嘩したとは考え難い。そこまで考えて、これでは詮索し過ぎか、とゲアハルトは内心、溜息を吐く。
 つい、気になってしまったのだ。あくまで二人の個人的なことに首を突っ込むことは褒められたことではないことぐらい分かっているのだが、それでも何を話して何があったのか、気になって仕方なかった。これでは妬いているみたいではないかとゲアハルトは自嘲するように微かに笑みを滲ませる。


「……あいつに」
「何だ?」
「アイリスに……縁談が来たんですよ」
「……」


 あまりにも予想していなかった言葉がぽつりとレックスの口から零れた。縁談、のその二文字の言葉がすぐに理解出来ず、ゲアハルトは目を見開いていた。しかし、頭のどこか冷静な部分では来るであろうとは分かっていたことではないかと淡々と囁く自分がいた。
 アイリスはコンラッド・クレーデルの養女であり、レオの母親である第二妃アウレリアの後ろ盾であったクレーデル家の当主であり、一人娘だ。彼女と婚姻関係になりたい貴族は決して少なくはないだろう。それぐらいのことは最初から分かっていたことだ。それでも、頭のどこかでアイリスは何処にも行かないと、確かなことなど何一つないことを信じていたのだ。


「……そうか」


 それだけしか言うことは出来なかった。レックスがこんな風になるまで酒を浴びるように飲んだということは、彼女はその縁談を受けたということだろう。そして、今日が相手と会う日だったのかもしれない。どうしても外せない用事というものは、それだったのだろう。
 アイリスを送り出した時のことを思い出し、ゲアハルトは奥歯を噛み締めた。そうだと知っていたのなら――そこまで考え、彼は噛み締めていた奥歯から力を抜いた。脳裏を過った考えに、自分がそのようなことを、アイリスの選択を妨害する資格なんてないではないかと視線を伏せた。
 彼女が選んだことだ。家の為にと選んだことのはずだ。それを邪魔することなど出来るはずもない。邪魔をしたところで、次から次に相手は現れることだろう。その度に邪魔をすることなんて出来るはずもないのだ。けれど、それがただの言い訳だということも自覚していた。存外、一歩も踏み出せない自分の女々しさに口の端を歪めていると、「何か、意外でした」と幾分か落ち着いた様子のレックスが呟いた。


「何がだ?」
「てっきり、根掘り葉掘り相手のことを聞かれると思っていたので」
「ああ……知ってるのか?」
「師匠のところのメイドさんから聞きました。本当はアルヴィンさんに口止めされていたらしいですけど、エラルド・アルバトフっていう貴族です」


 ぽつぽつと足元に視線を投じながら口にするレックスの言葉を耳にしたゲアハルトは僅かに眉を寄せた。ベルトラム山方面に領地を持つ高齢の貴族だったことを思い返しながら、ふと違和感を感じた。数日前にもその名前を何処かで見聞きしたような気がしたのだ。一体何処でだっただろうかと記憶を遡った彼は不意に「場所は分かるか?」と顔を上げてレックスに視線を向けた。


「場所、ですか?」
「ああ。アイリスとエラルド・アルバトフがいる場所だ」
「た、確か……相手の邸だと言ってましたけど……あの、司令官、まさか今から行く気じゃ……」


 さすがにそれはどうかと思います、とレックスは口にする。その口振りからも、自分がアイリスに向けてる気持ちにも気付いているのだということが窺える。だが、そのために行こうとしているわけではない。ゲアハルトは「そうじゃない」と早口に言うと、数日前に見聞きしたエラルドの名前があった書類のことを思い返す。


「エラルド・アルバトフは今、王都内にはいないはずだ」
「え……でも、確かにエラルド・アルバトフが相手だって……」
「相手と言ってもそれまでに直接顔を合わせていたかどうか……さすがにそこまでは分からないか。だが、国葬前後の王都への出入りは全て門兵に報告させている。国葬後に出て行った人間の報告書の中にエラルド・アルバトフの名前があった」
「じゃあ、アイリスは誰と……」


 上げられた報告が正しければ、エラルド・アルバトフは王都内にはいないはずの人間である。無論、アイリスが王都の外に出たのであれば、何の心配もない。しかし、レックスにアイリスと最後に会った時間を聞いて計算すると、少なく見積もってもベルトラム山方面に到着する頃は夜明け前だ。さすがにそのような時間に顔合わせをするはずもない。
 ならば、やはりアイリスは主が不在であるはずのアルバトフ邸に向かったはずなのだ。しかし、そこにはエラルドはいないはずであり、そうなると彼女は一体誰に会いに行ったのか――否、誰がアイリスを呼び出したのか、ということになる。そうなると、自然と導き出される結論は一つしかなかった。


「……罠だ」
「司令官、」
「動けるか?すぐに宿舎に戻って第二の中隊を連れてアルバトフ邸に向かってくれ」
「は、はい!でも、相手は貴族です、邸に中隊を送り込むことは……」
「構わない。何事もなかったとしても叩けば埃の出る相手だ、行け。俺もエルンストと合流したらすぐに向かう」


 すっかりと酔いも醒めたらしいレックスはすぐに立ち上がると一瞬体勢を崩すも、すぐに宿舎に向かって駆け出した。それを横目で見送り、ゲアハルトもすぐに動き出した。
 今回の一件を仕組んだ相手は間違いなくカサンドラだ。アイリスを狙うということは人質とするつもりなのか、白の輝石の研究内容を手に入れるつもりなのか、白の輝石そのものを手に入れるつもりなのかは知れない。それともレオやエルザの命を奪うべく動き始めたのかもしれない。兎に角、彼女が何の目的もなく動くはずもないのだ。
 いくつもの可能性が考えられる以上、手分けをしなければならない。ゲアハルトは半ば飛び込むようにして宿舎の中を駆け抜けると、医務室の扉を開け放った。「エルンストっ」と声を掛けるも、そこは暗く、月明かりが差し込む静かな空間でしかなかった。いつもならこの場にいるはずの人物の姿はなく、涼しい夜風にカーテンが揺れていた。





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