恋情 - the treachery -



「おかしい、人の気配がしないぞ」
「……裏に回ってる奴らにも伝えてくれ、予定通り、合図の後に突入だ」
「了解」


 邸の周囲から中の様子を探っていた兵士からの報告に、ゲアハルトの指示通りに中隊を率いてアトバトフ邸に到着していたレックスは厳しい面持ちで口にした。中には鴉の人間や帝国兵が潜んでいるかもしれないということ、そして、アイリスやクレーデル邸の人間が捕まっているかもしれないことは既に兵士らには伝えてあった。
 突入後はアイリスら人質救助を優先、帝国兵の掃討、鴉の人間は出来るだけ捕縛という指示を出していた。無論、鴉の人間――カサンドラらを容易く捕縛出来るとは思っていない。捕えられるのであれば情報を引き出す為にも捕縛した方がいいものの、そのために多くの兵が犠牲になるのならば、速やかに排除する方が犠牲も少なくて済む。
 けれど、レックスには躊躇もあった。鴉の人間と対峙するかもしれないということはアベルと顔を合わせるかもしれないのだ。また、彼と剣を交わすことになるのかと思うと、気分は重たくなってくる。自分のその躊躇いが足を引っ張ることになるということは分かっている。捨て去るべき甘さだということも分かってはいるのだ。しかし、だからといってアベルのことを敵として捉えるには、彼はあまりに近しい存在だった。


「……おい、レックス、大丈夫か?」
「あ、ああ。悪い……」
「アイリスが心配なのも分かるけど、この場の指揮官はお前なんだからしっかり頼むぞ」
「……分かってる」
「表情が硬いぞ。大丈夫、お前がさくっとあいつを助けてやれば、アイリスだってお前に惚れること間違いなし、だ」
「ば、っ!?お前、何言ってんだよ、こんな時に!」
「こんな時だからこそ、だろ。もうすぐ時間だ、しっかりやれよ、指揮官」


 慌てるレックスの背を叩きながら軽口を口にする兵士は表情を引き締めて配置に就く。そんな彼に僅かに顔を赤くしたレックスは舌打ちしながらも、合図を出す攻撃魔法師に頷いて見せた。彼が上空に杖を使って閃光を放ち、それを合図にして突入する予定なのだ。合図を任されている攻撃魔法師は緊張した面持ちながら杖を掲げると、上空に目掛けて練り上げた魔力を放出する。
 そして、眩い光が夜空に放たれ、それと同時に表と裏門から同時に兵士が邸内に突入した。殆ど蹴破るようにして邸の扉を破壊し、中へと兵士らが雪崩れ込んでいく。邸内は暗く、しんと静まり返り、人の気配もない。既に逃げられた後なのかとレックスは舌打ちするも、鴉や帝国兵がいなかったとしても元々アルバトフ邸に仕えている家人が誰一人としていないことに違和感を感じた。たとえ別邸であったとしても、普通ならば手入れの為に少なくとも数人の家人は残っているはずなのだ。
 そんなことを考えながら次々に手近なところから部屋を検めていると、「怪我人、発見!」という声が邸の奥から聞こえて来た。レックスは突入した兵士らでごった返している廊下を走り抜け、怪我人が発見されたという部屋に飛び込んだ。そして、そこに頭から血を流しながらうつ伏せに倒れている人物を見遣り、目を見開いた。


「アルヴィンさんっ」


 そこに倒れていたのはアルヴィンだった。レックスはすぐに彼の傍に膝をつくと、手当を始めようとしていた回復魔法師に彼の容体を尋ねた。出血が酷いように見え、さっとレックスの顔から血の気が引いた。今も尚、その傷口からは血が溢れていたのだ。しかし、どうやら見た目が酷いだけらしく、「頭を強く殴られているようですが、命に別条はないかと」と答える兵士にほっと安堵の息を吐きつつ、アルヴィンのことを回復魔法師に任せるとすぐに部屋を出た。
 彼がこの邸にいたということはアイリスもやはりこの邸を訪れていたはずなのだ。しかし、その後、どれだけ邸の中を探ろうとも彼女の姿どころか、手掛かり一つ見つけることが出来なかった。その代わり、元々アルバトフ邸に仕えていたも見られる数人の家人の遺体が地下の倉庫から発見された。一撃で急所をナイフで刺されたらしき傷を確認すると、手慣れていることが窺える。どちらかと言うと、暗殺に従事している手口から鴉の人間もこの邸にいたことはほぼ間違いないだろう。そうなると、アイリスも彼らによって連れ去られたと考えられる。


「レックス、どうする」


 突入前に軽口を叩いていた兵士が気遣わしげな様子で声を掛けてきた。ゲアハルトが到着していない以上、レックスが指示を出さなければならない。間に合わなかった、と自分を責めている余裕はない。もしかしたら、まだ追い付くかもしれないのだ。自分を鼓舞するようにレックスは力一杯、自身の頬を両手で叩く。そのあまりの強さに乾いた音が響き、周囲にいた兵士らはぎょっとした顔つきになった。


「いって……」
「やり過ぎだ、この馬鹿」
「うるせー、力加減ミスったんだよ。それより、すぐ王都から外に続く門を全て閉鎖するように門兵に伝達してくれ。それから以後、門兵には検問を実施するようにも伝えろ。既に出入りがあった場合は出ていった方面、人相と様子を確認してくれ」
「了解です!」


 はっきりとした声音でレックスは指示を出し始める。その様子は常と変わらぬものであり、彼が出す指示に次々と兵士が動き始める。


「アルヴィンさん……、発見された怪我人は容体が落ち着き次第、軍令部に搬送してくれ。……それから、お前はいつもの連中とクレーデル邸に向かってくれ。被害がないかの確認と警備を頼む」
「了解。……あんまり無理すんなよ、お前も」
「分かってる。指示を出すのも司令官が来るまでの間だからな」


 先日から何度かクレーデル邸に出入りしていることもあり、先ほどから気遣わしげに自分を見て来る仲間にレックスは指示を出した。彼らも白の輝石の全容を知らされているわけではないものの、クレーデル邸に何かあるということは知っている手前、頼める相手は彼らしかいない。何も知らない者からすれば、この忙しい時に邸の警備に当てられることなど納得出来ないだろう。
 足早に踵を返す仲間を見送り、レックスは「アルバトフ邸本邸に卿が無事かどうか確認するよう、国境連隊に連絡を入れてくれ」と次の指示を出す。エラルド・アルバトフの本邸はベルトラム山方面――王都より北にあり、すぐに到着することは出来ない。こちらから出向くよりも国境連隊から早馬を出した方が余程早く確認することが出来る。


「卿が無事だった場合は事情聴取の為に王都に呼び出すよう伝えて欲しい。それから王都の別邸の家人が殺害されたことも併せて伝えておいてくれ」
「了解です」
「残りは全員、この邸を起点に四方の門に向けて不審者の捜索に当たってくれ。怪我人が負った傷の血はまだ固まっていなかった。それほど遠くにはまだ行っていないはずだ!」


 門は既に閉鎖の指示を出している。検問だってすぐに始まるだろう。王都から脱出するには四方の門か、周囲の壁を上るしかない。それ以外の方法となれば、王城の地下通路があるものの、アイリスを連れて王城に潜入するとは思えない。
 レックスの指示に兵士らはすぐに四方に分かれて駆け出した。それを見送りつつ、彼は唇を噛み締める。ゲアハルトへの報告をしなければならないこともあり、レックスはこの場を離れることは出来なかった。そうでなくとも、邸の中には家人らの遺体もあるのだ。それを捨て置くわけにもいかない。
 だからこの場から離れるわけにはいかないのだと、レックスは自分に強く言い聞かせる。そうでもしなければ、すぐにでも走り出してしまいそうだった。闇雲に、当てもなく、夜の街を走り続けていただろう。けれど、それだけでは駄目なのだ。走り回って見つかるならば、わざわざ門を閉鎖して検問を設置する必要もない。


「……言えばよかった」


 絞り出すような声で彼は呟いた。指先が白くなるほど、強く手を握り締めて顔を歪める。行くな、と言えばよかった――レックスは唇を噛み締めながら強くそう思った。行くなと、その手を掴んでいたらよかった。背を押す様なことを言わずに、行くなとそう言えばよかったのだ。
 背を押してしまったとしても呼び止めればよかった。行先は知っていたのだ。迎えに行くことだって、止めることだって出来た。邪魔をすることだって出来たのだ。けれど、出来なかった。それをした後のことを考えると、出来なかった。怖かったのだ。仮にも貴族の縁談だ。それをただの庶民の自分が破断にしたとなれば、アイリスが迷惑を被るだけでは済まない。
 否、それだけではない。送り出した彼女に、どうしてとと言われることが怖かったのかもしれない。喜ばれないかもしれない、邪魔をするなと言われるかもしれない。酷く、悲しい顔をさせてしまうかもしれない。そう思ったのだ。けれど、それ以上に――自分が傷つくことの方が怖かった。だからこそ、行けなかったのだ。


「……っ」


 それでも、傷つくことを恐れなければこのようなことにはならなかったかもしれない。無論、それが結果論でのことだということは分かっている。けれど、分かってはいても、後悔せずにはいられなかった。








「うわっ、あぶっねー……門閉められんぞ」
「思ったよりも動きが早かったわね」


 急いで王都から離れているということもあり、馬車は激しく揺れていた。しかし、そのようなことを感じさせないほどに落ち着いた様子で書類に目を通しているカサンドラに後方を確認していたブルーノは何とも言えない表情になる。こうなることは予想済みだったらしいが、だったら自分にも教えておけよ、というのが彼の言いたいことである。
 しかし、口にしたところで完膚無きまでに言い負かされることは分かっているということもあり、彼は結局口を噤むのだ。それでも、何も言わずにいられるというわけではない。書類をぺらりと捲るカサンドラに「あいつのこと、信用してもいいのかよ」と眉を寄せたまま口にする。


「あいつ?」
「その書類を、白の輝石の研究内容を寄越して来たあいつのことだよ!」
「ああ、エルンストのこと。そうね……別に信用することはないでしょう。単純に利害が一致している間、手を組んでるだけなんだから」


 あっさりと信用する必要はない、と口にするカサンドラにブルーノは目を瞠った。そして、「そ、その研究内容だって本物かどうか分からないのに、いいのかよ!」と早口に言うも、彼女はそうね、とあっさりと口にする。そのあまりにもどうでもよさそうな反応にブルーノは顔を顰め、「お前なあ!」と声を荒げた。彼にしてみれば、エルンストの為に色々とカサンドラにこき使われたのだ。何かしらの確かな結果がなければ報われなさすぎるのだろう。


「全て嘘で作り変えた研究内容のわけがないでしょう、そんなものなら私が見ればすぐに嘘だと分かるもの」
「でも、」
「エルンストは嘘を吐かないわ。……違うわね、吐けないのよ。アイリス嬢は此処にいるのだから」


 そう言ってちらりとカサンドラは自身の膝の上に視線を向けた。つられるようにし視線をそこに向けると、彼女の膝には目隠しと猿轡を噛まされ、手足を縄で縛られたアイリスが寝かされていた。まさかカサンドラの膝に寝かされているとは思っていないだろう、とブルーノは何とも言えない表情になった。
 アルバトフ邸に潜んでいたブルーノらはアイリスとアルヴィンを離すと、まずアルヴィンの口を封じる為に動き出した。とは言っても、実行したのはブルーノであり、カサンドラは部屋の隅で紅茶を喫していたのだが。予想外だったことは、殺すなと命じたことだった。普段ならば口封じの為にたとえそれが子ども相手であっても手に掛けるようなカサンドラが今回に限って殺さなくていいと言ったことにブルーノは驚きを隠せなかった。


「そういや、どうしてあいつを殺さなかったんだ?」
「執事のこと?殺したら面白くないじゃない。彼女は養女なのに、とっても大切にされてきた。……そんな大切なご主人様を奪われるのよ?面白いじゃない」
「……悪趣味な理由だな」
「いいじゃない、別に」


 事も無げに言うカサンドラにブルーノは深く溜息を吐いた。何かしら大きな理由があるとばかり思っていただけに、そのような瑣末な事で生かしておいたのか、と思わずにはいられない。しかし、それと同時にそのように考えるなんて、生かしておいたことを惜しいと思っているようではないかとブルーノは自分自身の考えにぞっとした。
 いつからこんなに殺しを望むようになったのかと顔を青くするブルーノに気付いたカサンドラは「どうしたの?」と向かい側から声を掛ける。しかし、そのような話をすれば面白がって次々と殺しの任務を回してくることは目に見えている為、ブルーノは「何でもねーよ」と語気を強めて言う。


「それより、本当にどうするんだよ、あいつ。このまま仲間に引き入れるのか?」
「さあ、それは彼次第よ」
「引き入れたっていいことなさそうだぞ。女一人の為に国も仲間も全部捨てるような奴だぞ、二重スパイかもしれない」
「そうね。でも、好きな子を手に入れる為に全てを投げ打つなんて素敵じゃない?私は好きよ」
「……お前の好き嫌いなんて知らねーよ」


 くすくすと楽しげに笑うカサンドラにブルーノはどっと脱力した。そんな彼に対し、相変わらずの笑みを浮かべながら彼女は「でもね、いい手札になることは間違いないわ」と口にする。エルンストにとっての人質であるアイリスは自分たちの手にあるのだ。手引きの報酬として手渡された白の輝石の研究資料も内容を疑うのであれば、彼女の存在をちらつかせて正しいものを奪えばいい。それだけのことなのだ。
 しかし、そこまで考えると、どうして自分の弱みになると分かっているにも関わらず、エルンストはアイリスの身柄をカサンドラに預けたのか――そのことがブルーノには納得がいかなかった。どのような目に遭わされるかも分からないのだ。少なくとも、自分たちはともかくとしても、カインはアイリスにとって好意的ではない。


「何であいつ、こいつを俺たちに預けたんだよ」
「ベルンシュタインに置いておくことは危険だから、かしら」
「危険?」
「エルンストにとっては他の誰かに奪われることだけは避けたかったのよ。それだけが許せないことなのよ、きっとね」
「……自分と似てるから、分かるのか?」
「そうね。だって私もかつて同じことをしたもの。私の場合は、殺したけれどね」
「……」


 懐かしそうにカサンドラは目を細めて言う。それはどこか狂気を含んだものであり、ブルーノはすぐに視線を伏せた。エルンストもそのような目でアイリスを見ていたのだろうか、とぼんやりと考える。彼のことをよく知らないブルーノにしてみれば、どうしてそのような気持ちになったのかが理解することは出来ない。だが、エルンストもカサンドラと同じぐらいには普通ではなくなっているのだろうとも思う。


「きっと、エルンストはアイリス嬢が自分の手を取ってくれると思っていたはずよ。それが彼にとって一番いいことだもの。そうしたら、私たちには二重スパイとして接していたでしょうね」
「……でも、違った」
「そう、エルンストの望む結果にはならなかった。話は聞こえていたけれど、アイリス嬢は真面目なのよ。本当に、エルンストのことを想って答えを保留にした。ちゃんと考えてからって、身代りのようにしたくはなかったのね」


 けれど、エルンストは身代りでも何でもよかったのよ、そこが違っていたのね。
 カサンドラは目を細めて言う。その声音はかつての仲間を憐れんでいるかのようだった。


「エルンストはね、本当はベルンシュタインなんてどうだっていいのよ。あの子があそこにいる理由はただ一つ、自分が必要とされていたからでしかない。家を疎み、周りを疎み、そんなあの子にとってゲアハルトとアイリス嬢は支えだった」
「……」
「元々危ういところはあってけれど、今となっては支えさえ失ってしまった。あの子はね、利害関係を結ぶことしか安心が出来ないのよ。無条件で相手を信用することが出来ない。だからこそ、軍の裏の汚れ仕事をゲアハルトに任されることで安心感を得ていた。歪んでいるのよ、あの子はね」


 汚れ仕事は誰にでも簡単に任せることは出来ない。それこそ相手と一蓮托生になることだ。明るみに出れば、自分も相手もただでは済まない。だからこそ、エルンストはそれを自分に任せてくれるゲアハルトを信頼していた。


「でもね、あの子はそれだけでは満足できなくなった。アイリス嬢に出会ってね」
「……」
「エルンストはどうしてもアイリス嬢が欲しくなった。優しくて、自分のことを見てくれて、自分のことをただの一人の人間として扱ってくれる彼女をね。元々、ギルベルトに何もかも奪われて何も持っていない子だったのよ。そんなあの子はね、力ずくでしか欲しいものを手に入れる方法を知らなかった。可哀想な子よね」
「……」
「愛されず、認められず、自分のことを見てもらえなかった時間があまりにも長過ぎた所為ね。あの子は孤独だったのよ。環境にも才能にも恵まれていたのに、あの子は人には恵まれなかった。孤独だったのよ。独りぼっちだった」


 カサンドラの語るエルンストの過去にブルーノは何も言うことが出来なかった。口を閉ざす彼を他所にカサンドラはそれまで目を通していた資料から視線を膝の上で未だ意識を失っているアイリスに向ける。


「けれど、彼女も残酷よね。自分に必死に手を伸ばして助けを求めている男の手を振り解くんだから」
「……それは……」
「そうでしょう?事情だって知らなくはなかったはずよ」
「……」
「私の所為だって言いたげね、ブルーノ。でもね、私がしたことはただ少し追い詰めただけ。でも、アイリス嬢がその手を掴んでいたなら止めることが出来た程度にね。……だから、やっぱりエルンストを叩き落としたのは他の誰でもなく彼女なのよ」


 あの時、手を取っていたのなら――戻れたかもしれなのに。
 そう言って唇を歪めてカサンドラは嗤う。そんな彼女を見ていられず、ブルーノは顔ごと逸らした。何を言っても口では勝てないことぐらいは分かっていた。そして、その通りなのではないかとも思ったのだ。
 もしもアイリスがエルンストの手を取っていたのなら、今此処に彼女はいなかったかもしれない。それだけでも、事態は大きく違っていたはずだ。それを思うとやはり、アイリスが選択を間違えたとしか思えなかった。彼女がエルンストのことを想って返事をするのではなく、自分の利益を考えて選択していたのなら――そこまで考え、だから言ったではないか、とブルーノは内心舌打ちする。お前は偽善者なのだ、と。
 激しい揺れは変わらず馬車を襲う。空はまだ暗く、太陽が昇る気配もない。そんな外を眺めながらたとえ太陽が昇っても、気持ちは同じようには晴れないだろうなとぼんやりと考えていた。



 

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