恋情 - the treachery -



 途中、何度か馬車を乗り換えながらも北へと進み続け、空が白み始めた頃、漸く隠れ家まであともう少し、というところまで辿り着いた。鬱蒼と木々が生い茂る中、カサンドラが隠れ家として用意した決して大きくはないが、小さくもない古びた邸が木々の隙間から見え隠れしている。
 ブルーノはぐったりとした様子で横になっていた。王都ブリューゲルを抜け出した後、遠目にだが、すぐに門が閉められるところを確認したのだ。恐らく、既に追手は放たれている。そのことを思うと気が気でないのだ。そわそわと落ち着かないまま、夜も明ける今まで眠らずにいたこともあり、肉体的にというよりも精神的に疲れきっていた。追手を放たれ、逃亡することなど彼は今回が初めてだったのだ。


「……あいつら、上手く南に追手を引き付けてくれたらいいけどな」
「そうね。でも引き付けてそのまま捕縛されても困るから、上手く撒いてくれるといいのだけど」


 そうじゃなきゃ、あの子たちも自分の任務を果たせないもの。
 カサンドラはそう言いながら、然して疲れてもいないと言わんばかりの表情で口にする。自分以上に修羅場を経験してきているのだろうということは分かっていたブルーノだが、ここまで常と何ら変わりない様を見ると何とも言えない表情を浮かべた。どれだけ元気なのか、と思う反面、それが顔に出ていないだけかもしれないとも思う。しかし、いくら考えたところで実際のところは本人に聞いてみなければ分からない。要らぬことを聞けば面倒なことにしかならないということは既に学習済みのブルーノは疑問にしっかりと蓋をすると、「あいつらの任務って何だよ」と口にする。
 南に逃げたと思わせる為に最初に乗っていた馬車は、最初に辿り着いた街で乗り換え、そこで待機していた他の帝国兵らを乗せて三台の馬車と共にすぐに出立した。一台はブルーノらを乗せて西に移動し、最初にブルーノらが乗っていた馬車も含めた残りの二台はそのまま南に出発した。そのため、王都からの追手は南に誘導されているはずなのだ。
 しかし、カサンドラが彼らには別の任務も任せてあるのだと言う。追手を振り払うことも簡単なことではなく、最悪の場合、捕縛されるかもしれないのだ。そんな兵士らに何の任務を与えたのかと彼が眉を寄せるも、「まだ秘密。成功しても失敗しても、どちらに転ぼうとも問題はないはずだから平気よ」とカサンドラは言う。


「何だよ、それ」
「だから秘密って言ってるでしょ。まあ、これはあくまでアベルが下準備をちゃんと整えていれば、の話だけれど」
「アベルが?」
「それが出来ていないことも踏まえて任務を言い渡しているから平気」


 的を得ないカサンドラの説明にブルーノは渋面を浮かべる。何もかもを話せとまでは言わないものの、中途半端に教えられると気になってしまうのだ。しかし、下手に食い下がれば何を言われるか分かったものでもないため、やはりブルーノは口を噤む。この半年ほどの間に随分と自分は彼女に対して従順になってしまったものだ、と自分のことながら情けなくて仕方なかった。
 それでも、情けなさを感じても我が身がやはり可愛いのだ。出来るだけ痛い思いもしたくはないし、何事もなく過ごしたいところである。その為ならば、多少消化不良になろうとも無理矢理「あっそ」と飲み込んでしまった方が余程いいことも、この半年ほどの間で学んだことの一つだった。


「それで、これからどうするんだよ」
「しばらくは大人しくしているつもりよ。下手に動くとこちらの居場所が知れちゃうもの。しばらく大人しく、エルンストが白の輝石を持ち出してくれるのを待ちましょう」
「はあ!?あいつが?!」
「ええ、そうよ」


 だってアイリス嬢と白の輝石を交換するのよ、とカサンドラは笑みを浮かべて言う。その一言にブルーノは跳ね起きると、空いた口が塞がらない状態で相変わらずカサンドラの膝に頭を預けさせられているアイリスとにこにこと微笑むカサンドラの顔を交互に見遣る。


「こいつと、白の輝石を交換って……馬鹿かよ!どういうレートだよ!」
「それぐらいエルンストにとって彼女は価値があるのよ。まあ、それぐらいエルンストにとって白の輝石はどうだっていいもの、とも言えるけれど」
「……つか、そもそも白の輝石なんてそう簡単に盗み出せるわけないだろ。いくらエルンスト・シュレーガーでも、あのゲアハルトを出し抜けるはずがない」


 ブルーノは身体を起こして座り直すと、眉を寄せて口にする。ゲアハルトを出し抜くことなど簡単なことではないことぐらい、エルンスト自身が一番よく分かっているはずなのだ。それとも、彼は白の輝石が何処にあるのかを知っているのかもしれない。しかし、それでも容易に手に入れることなど出来ないだろう。何の仕掛けや防衛手段も講じていないはずがないのだ。
 無理だ、不可能だと口にするブルーノに対し、カサンドラは「そうね、無理かもしれないわ」と笑う。その然も当然だとばかりの様子を前に、ならばどうして、と彼は顔を顰めた。彼女のしようとしていることが、狙いがまるで分からないのだ。


「エルンストが白の輝石を持ち出して来てくれたなら万々歳よ。けれど、私だってそう簡単に事が運べるとも思っていない。……でもね、一つだけ確かな事はあるのよ」
「……」
「白の輝石をエルンストが狙うということだけは変わらない。つまり、あの子がゲアハルトを裏切ろうとすることだけは必ず起きる確かなことなのよ」
「……つまり、」
「そう。ゲアハルトは信頼していた腹心の部下に裏切られる。いいえ、もう既に裏切られている。けれど、エルンストがその上で更に白の輝石を狙うことで、最悪の形で彼の裏切りが露呈する」


 ゲアハルトは間違いなくエルンストを信頼している。それは彼に汚れ仕事を任せ切っているところからも最早間違いないことだ。本来ならば、そのような汚れ仕事はいつだって切り捨てることの出来る相手に任せた方がいざというとき、対処に困ることはない。しかし、ゲアハルトはエルンストにそれを任せていた。ベルンシュタインの名門貴族の人間に、その死にさえ多かれ少なかれ影響力のある人間に、任せていた。


「エルンストの裏切りが露呈すれば、只では済まないわ。ゲアハルトもシュレーガー家も。軍部も混乱するでしょうし、漸く落ち着いていたゲアハルトの周囲もまた騒がしくなる。ゲアハルトは帝国の元第一皇子、……エルンストが帝国に寝返ったとなると、ゲアハルトが何かをした、嘯いて唆した……色んな憶測が飛び交うことでしょうね」


 それは少なくとも、ゲアハルトの動きに影響を与えることが出来るはずだ。ベルンシュタインも決して一枚岩ではないのだ。特に彼がヒッツェルブルグ帝国の第一皇子であるということが知れ渡っている以上、帝国に関する何かしらのことがあれば、すぐにその話が掘り起こされてしまう。
 つまり、カサンドラにしてみればエルンストがゲアハルトを裏切ることこそが目的だった。そして、彼が白の輝石を奪取してくれたならば手間が省けた、といったことなのだろう。そのためだけによくもアイリスの縁談を用意し、エラルド・アルバトフを殺害したりと手間を掛けたものだとブルーノは呆れた顔をする。


「あら、ブルーノ。面倒なことをしているとでも思っているの?」
「そりゃあそうだろ。こんな手間掛けなくてももっと他にやり方があったはずだろ?」
「やり方の有無に関してはあったかもしれないわね。でも、アイリス嬢をベルンシュタインから引き離す為にはこの方法が一番周囲を掻き乱すことが出来るのよ」


 膝の上で未だ意識の戻らないアイリスを見つめながらカサンドラは言う。その視線の冷たさにブルーノは僅かに冷や汗を背筋に垂らした。


「この子、とってもいい子よね」
「……は?……そりゃあ、お前に比べたら……」
「失礼ね、ブルーノ。でも、確かに私よりもずっとずっといい子よ、この子は。……でもね、だからこそ、引き離さなきゃいけないのよ」
「……」
「この子の真っ直ぐさは危ないわ。周りに影響を与え過ぎる。……駄目なのよ、この子がいると周りは歪んでくれないわ。焦りや苛立ち、嫉妬で歪んでくれない。追い詰められてくれないのよ」


 カサンドラ曰く、アイリスは緩衝材や安全装置の類なのだと言う。どれだけ追い詰められても、負けそうになっても、彼女はたった一人になっても諦めようとはしないのだと、希望を捨てず、絶望を受け容れはしないのだとカサンドラは言った。眩しそうに目を細め、「だからこそ、エルンストはこの子が欲しかったのかもしれない」とぼそりと呟いた声音が耳に届く。


「ベルンシュタインを徹底的に叩き潰す為にはアイリス嬢が軍にいては困るのよ」
「……でも、こんなガキだぞ?こんなガキに何が出来るんだよ」
「その場にいるだけでいいのよ。それにね、ブルーノ。現に“こんなガキ”一人の為に何もかもを投げ打った男がいるでしょう?」
「……」
「そういうことなのよ。……誰もが心も折れて諦めて座り込んでいても、この子はたった一人で立ち続けるような子なのよ。心が強いの」


 心の強さほど厄介なものはないとカサンドラは目を細める。どれほど絶望的な状況になったとしても、それでも尚、立ち続ける心の強さは、周りに伝播してしまう。それがどれだけ頼りなく見える人間であったとしても、見た目とは違うものを内に秘めていることなど決して珍しいことではない。見た目で推し量ることなど、出来はしないのだ。
 そこまで言うとカサンドラは口を閉ざした。それとほぼ同時に馬車は緩やかにスピードを落とし始める。ブルーノは何も言えずに未だ身動ぎ一つしないアイリスを見つめた。彼女にそこまでの力があるとは思えない。けれど、現にアイリスを手に入れる為だけに何もかもを捨てた者がいることもブルーノは知っている。それだけの価値が彼女にあるのかどうかは見ているだけではやはり分からない。けれど、カサンドラが言わんとしていることだけは何となくだが理解することは出来た。


「おかえり、カーサ!こっちはばっちりだよ!」


 馬車が止まるなり、上機嫌なカインが姿をを現した。彼は数日前からエラルド・アルバトフの始末や隠れ家の準備にアベルやアウレールと兵士らと共に当たっていたのだ。そのいつになく上機嫌な様子を見ると、エラルドの始末を請け負ったのはカインであり、相当暴れて鬱憤を晴らしたのだろうということが窺える。
 しかし、その上機嫌さもブルーノが抱えているアイリスを見るなり、音を立てて崩れ去った。どうやらカサンドラはカインにはアイリスのことを話していなかったらしい。しかし、話していたとなれば機嫌を損ねて手綱を取り損ねていたかもしれないのだ。この判断は決して間違ってはいなかったのだろうが、アイリスを抱えているブルーノにしてみれば真っ向から殺意の籠った視線を向けられることとなり、少しぐらい説明しておくなり何なりしておけよ、とつい叫びたくなってしまった。


「どうして……何でこの女が此処にいるの……」
「預かりものよ。生きて返さなきゃいけないから殺しちゃ駄目よ、カイン」
「無理だよ!ねえ!こいつが、この女がアベルをおかしくしたのに殺しちゃいけないなんて!」


 声を荒げながらカインは隻眼を見開く。唾を飛ばして喚き散らすカインを前にブルーノは僅かに眉を寄せた。
 アベルのことが分からないとカインは言っていた。目も当てられないほどに塞ぎ込んでいたのだ。そのことを思うと、今こうして感情を爆発させている方が余程彼らしいとは思う。口走っていることが危険極まりないため、決して喜ばしいとは言えないものの、それでも塞ぎ込んでいるよりもずっとカインらしくあるとは思うのだ。が、アイリスに向ける殺意の程が冗談で済むものではなく、これでは緩衝材や安全装置というよりも火に注ぐ上質な油ではないかとブルーノはこっそりと溜息を吐いた。


「駄目よ、カイン。何度も言わせないで」
「カーサ!」
「殺してよくなったら貴方にやらせてあげるから大人しくてして頂戴」


 それだけ言うと、カサンドラは近くにいた顔を引き攣らせている兵士を呼び寄せ、カインを連れて行くようにと伝える。一瞬、兵士が嫌がる素振りを見せたものの、カサンドラの一言を受けたカインが「絶対だからね、カーサ」と凄まじい剣幕で念押しすると、近くにいた兵士を押し退けて隠れ家の邸に戻って行った。それを見送り、さすがのカサンドラも「あの子に対しては火に油ね」とブルーノと同じ感想を漏らした。
 そして、兎に角、中に入りましょうと促すカサンドラの後に続いて歩き出すも、すぐに「カサンドラ様、至急ご報告したいことが」と迎えに出ていた兵士の一人が険しい表情で近付いて来た。一体何事なのかとブルーノは目を瞬かせていると、緊張した面持ちのまま兵士が口を開く。


「陛下がご逝去されたとの報告が届きました」
「……あら、……それなら、ヴィルヘルム様の御即位が決まったわね」
「……ただ、こちらには昨晩届いた報告なのですが、……どうやら暫く前に、陛下はご逝去されていたらしく……」


 言葉を濁す兵士を前に僅かにカサンドラは目を細めると「……そう。御苦労様」と口にする。僅かに冷やかな空気が漂ってようにも思え、堪らずブルーノは背筋を駆け抜けた悪寒に顔を顰めた。カサンドラはそれだけ言うと、すぐにまた歩き出す。遅れてブルーノもその背に続く。


「……なあ、どうしてこっちへの報告が遅れてるんだ?」


 聞こうかどうかは迷った。今のカサンドラにはあまり話しかけたくはなかったのだ。しかし、捨て置くことも出来ない報告のようにも思え、ブルーノが足を止めると彼女は「本格的に見捨てられ掛けているってところでしょうね」とさらりとした口調で言った。カサンドラはさらりと口にしたが、帝国から見捨てられるということは只事ではない。堪らずブルーノは目を見開き、危うくアイリスを落としそうにさえなる。
 その様にカサンドラは眦を吊り上げると「気を付けて頂戴」とぴしゃりと言い放つが、ブルーノにしてみればそれどころの話ではない。見捨てられる、つまり、切り捨てられるということは帝国軍からも追われることになりかねないのだ。分かっているのか、と彼女に声を荒げそうにもなるがそれよりも先にカサンドラは両腕を組むと冷やかな視線をブルーノに向けた。


「状況がよくないことぐらい分かっているわ。それだけ失敗を続けて来たのよ、寧ろ、今まで切り捨てられなかったことが不思議なぐらいよ」
「それは……!」
「こうなることぐらいは分かっていたわ。……だからこそ、エルンストの協力が必要なのよ」
「……」


 つまり、この状況さえもカサンドラの予想通りということになる。その為にもいくつか既に手を打っているようだが、その一つにエルンストのことがあるとなると、ブルーノが今抱き抱えているアイリスにも何かあるのではないかとさえ思えてくる。しかし、その全てをカサンドラが口にする気はないらしく、「彼女の面倒は貴方に任せるわ。カインと、それからアベルには絶対に会わせないようにして頂戴」とだけ言うと、カサンドラは足早に邸の奥へと行ってしまった。勝手知ったる我が家と言わんばかりのその様子に戸惑いながらも、ブルーノは未だぐったりとしているアイリスを一瞥し、兎に角休ませようと近くにあった階段を上り、寝室を探し始めた。









「そうか、まだ意識は戻らないか」


 早朝、ゲアハルトは軍令部に集まっていた兵士らから報告を聞いていた。昨夜、アルバトフ邸で発見されたクレーデル家の執事であるアルヴィンの怪我は酷く、未だ意識が戻っていないとのことだった。「意識が戻ったら報告してくれ」とだけ言うと、ゲアハルトは集まっている兵士の中でも一際険しい表情を浮かべているレックスに視線を向けた。
 レックスと別れた後、ゲアハルトはすぐにエルンストを呼びに騎士団の宿舎に向かった。しかし、いつもならばいるはずの医務室に彼の姿はなく、結局、すぐに応援の兵士を率いてアルバトフ邸に向かったのだ。その後、残っていたレックスから現状報告を聞き、連れて来た兵士もすぐに周囲の捜索に加わらせたのだ。


「レックス、追撃に出した兵士から連絡はあったか?」
「はい、どうやら南方に逃走中らしく現在も追撃中とのことです。恐らくこのまま南の国境を抜けるつもりではないかと……応援は、」
「応援は必要ない。今も追撃中ということは一度も馬車を乗り換えていないということになる。カサンドラがそんな不手際をするとは思えない、恐らく既に入れ替わっているだろう」
「だったら!尚更応援を出して捜索を、」
「既に夜も明けた。王都から見て南方に逃走してすぐに馬車を乗り換えたとしても、今は国民も起き出して馬車も無数に動いている。行方を掴むことは難しいだろう」


 ゲアハルトは厳しい面持ちで口にする。捜索するにしてもあまりにも範囲が広すぎるのだ。今も南方に逃走中とされている馬車に乗っているであろう帝国兵らを捕縛することが出来たとしても、彼らがカサンドラが逃げた正確な場所まで知っているとは思えない。恐らく、捨て駒だ。仮に居場所を伝えていたとしても、そこが正しい場所である可能性は限りなく低い。
 そうと分かっている以上、下手に兵士を動かすことは出来ない。兵士を動かせば動かすだけ、手薄になるだけでなく、すぐに動かせる兵士の数が少なくなるということだ。かといって、国境連隊を動かすわけにもいかない。彼らを動かせば肝心の国境線を守ることが出来ないのだ。
 それでも、レックスは尚も言い募ろうとする。彼がアイリスと最後に会っているということもあり、何かしら思うところがあるらしいことが見て取れる。ゲアハルト自身、レックスの気持ちが、決して分からないわけではないのだ。けれど、彼の立場でそのような私情を挟むわけにはいかなかった。奥歯を噛み締め、言い募ろうとするレックスの言葉を払い退けようとした矢先、唐突に執務室の扉が開いた。


「アイリスちゃんが連れ去られたって、!」
「丁度、その報告を受けていたところだ」


 姿を現したのはエルンストだった。常と変わらぬ白衣を纏いながらも酷く驚き、焦燥した表情を浮かべている。そんな彼を一瞥したゲアハルトは「怪我人も出ている。昨日は何処にいたんだ」と溜息混じりに尋ねると、彼は申し訳なさそうな表情を浮かべた。


「急な呼び出して家に戻ってた。ごめん」
「……そうか」


 時折、エルンストが実家に呼び出されているということはゲアハルトも知っていた。特に今は、レオの即位前だ。何かとエルンストの父親であり、シュレーガー家の当主であるディルクが動き回っていることもゲアハルトは把握している。その一環でエルンストも次期当主として呼び出されていたのだろう。そう思いながらも、ゲアハルトは明るい青の瞳をちらりとエルンストに向け、詳しい話を兵士らに尋ねている様を見つめた。


「兎に角、司令官、お願いですからすぐに増援を!馬車を乗り換えているのなら、きっと街を調べれば行方は掴めるはずです!」
「だとしても街に着いたのは夜中の話だ。手掛かりは殆ど得られないだろう」
「少しでも手掛かりを得ることが出来る可能性があるのなら、行かせてください!応援を出せないなら、オレだけでも!」
「レックス、」


 言い募るレックスにゲアハルトが眉を寄せながら口を開いた矢先、「ほ、報告です!」と血相を変えた兵士が飛び込んで来た。ノックもなしに顔を青くして飛び込んで来たその姿に報告の為に集まっていた兵士らはぎょっとした表情を浮かべる。帝国軍が攻めて来たのだろうかとゲアハルトやエルンスト、レックスは表情を引き締めながら息を切らせながらも口を開く兵士の言葉を待つ。


「は、半旗が!周辺国で揚げられていると……国境連隊から報告が!」
「……皇帝が崩御した、か」
「それ、メレヴィス皇帝の崩御で間違いないの?ゼクレスとかの国王が死んだわけではなく?」
「ベルンシュタインの各方面の国境連隊から報告です……同日に周辺国の国王や王族が崩御したのでなければ、恐らくは……」


 険しい表情で尋ねるエルンストに対し、兵士は相変わらず顔を青褪めながら答えた。彼が言うように、同じ日に周辺国の国王を始めとする王族が亡くなることは考えられない。特に、何も内乱が起きているといった報告は受けていないのだ。ならば、ここは素直に周辺国を領土としているヒッツェルブルグ帝国の皇帝が崩御したと考えるべきだろう。
 つまり、帝位は息子である第一皇子、ヴィルヘルムに移るということだ。今までもほぼ軍事権はヴィルヘルムに委譲されていたようだが、これからは違う。彼自身が帝国や属国に対して命令を下すのだ。ゲアハルトは柳眉を寄せ、「すぐに体勢を整える」とだけ口にした。


「司令官、」
「お前の独断行動を許すわけにはいかない。追って指示を出す、それまで待機だ」
「出来ません!オレは、」
「お前は軍人だ。勝手な行動は許さない」


 尚も言い募ろうとするレックスに対してゲアハルトはぴしゃりと言い放った。そして、じっと真っ向から燃えるような赤い瞳を見つめ返し、「これは命令だ」ときっぱりとした声音で言い放った。冷たく、感情を排したその声音にびくりとレックスは身体を震わせるも、それでもやはり納得は出来ない様子だった。ぎゅっと指先が白くなるほど強く拳を握り締めている様が目に入るも、ゲアハルトは視線を伏せる。
 現場を任せる指揮官として、レックスは有能だ。彼の気持ちは分かるのだが、それでもヴィルヘルムの即位が決まった以上、すぐにでも体勢を整えて何事にもすぐに対処出来るようにしなければならない。攻め込まれてからでは遅いのだ。そして、その時には必ずレックスの存在が必要になると、ゲアハルトは確信している。
 彼をこの場に留めることは間違っていないとゲアハルトは思っている。けれど、それと同時に恨まれるだろうなとも思っていた。レックスはきっと、このような判断を下した自分を許さないだろう。恨まれ、憎まれるはずだ。それでも、やはり命令を撤回するつもりはなかった。


「……司令官は、アイリスを見捨てるおつもりですか」


 絞り出すような、そんな声が耳に届く。顔を伏せ、胸のうちで荒れ狂う激情を必死で理性で押し留めているのだろう。僅かに震える肩に気付き、ゲアハルトは一瞬口を閉ざす。けれど、すぐに「ああ、そうだ」と感情を排した声音で呟いた。


「この国を守る為なら、俺は兵士を切り捨てる」
「……っ」
「たった一人の兵士の為にその他大勢の兵士に死にに行けと命令することは出来ない」


 迷いのない声だった。たとえ、誰が囚われているとしても彼は同じ決断を下していたのだろう。仮に、状況が違っていたのなら――ヴィルヘルムの即位が決まっていなかったのなら、まだ白の輝石の研究について調査をしていたのなら、あるいは応援を出すことも考えていたかもしれない。けれど、実際にはヴィルヘルムの即位は確定し、白の輝石の研究についての調査は終わってしまっていた。つまり、無理をしてでも、たとえ、多くの兵士を失ってでもアイリスの身柄を奪還しなければならない理由がないのだ。
 そのことはレックスも分かってはいるのだろう。頭では理解出来ているはずなのだ。けれど、そこに心が追い付いていない。納得が出来ないのだ。だからこそ、レックスは何度でも命令を撤回させようと言い募り、自分だけでもと飛び出そうとする。その勢いが心のどこかで、ゲアハルト自身、羨ましくもあったのだ。自分がそれをするには、彼はあまりにも多くのものを背負い過ぎていた。


「対応についてはすぐに協議する。エルンスト、殿下らにも話を通してすぐに場を設けてくれ」
「了解」
「今後の動きについては追って通達する。何か報告があればすぐに上げてくれ。……それから、勝手な行動は慎め。以上だ」


 それだけ言うと、ゲアハルトはすぐに立ち上がるとちらりと顔を伏せるレックスを一瞥した後に執務室を後にした。兎に角、すぐに体勢を整える必要があった。ヴィルヘルムは自身が即位した後、体勢が整うことを待たずに恐らくはすぐ、出兵するだろう。彼には時間があった。そして、手元には既に覚醒間際まで状態が進んでいる黒の輝石がある。ヴィルヘルムに出兵を待たなければならない理由など、何処にもないのだ。
 ゲアハルトは舌打ちする。まさか、こんなにも早く、メレヴィスが崩御するとは思わなかったのだ。もう少し、まだ時間があると思っていた。脳裏に穏やかに笑う叔父の顔を思い浮かばせる。最後に会ってから時間は随分と経ち、自身が覚えている彼の姿とは既に異なるほどに老いていることだろう。自分を守って黒の輝石に触れてしまった叔父のことを思うと今でも胸が痛む。
 廊下を黙々と歩いていた足を止め、ゲアハルトは痛みに耐えるように奥歯を噛み締め、強く拳を握り締めた。脳裏に叔父の顔が過り、そして、アイリスの笑顔が過った。彼女が狙われる可能性は十分あったのだ。分かっていたことだ。けれど、長く何も手出しがなかったが為に気を抜いてしまっていた。狙われる可能性があった以上、護衛を付けておくべきだったのだ。手出しがなかったことも単にこれまではゲアハルトやエルンストが傍にいただけのことだ。


「……っ」


 自分のミスだとゲアハルトは握り締めた拳を壁に叩き付けた。指先に痛みが走る。けれど、そのような痛みは気にもならなかった。連れ去られたアイリスの方がずっと、痛い思いをしているかもしれないのだ。
 切り捨てるという判断を翻すつもりはゲアハルトにはない。それが間違っているとも思ってはいない。ベルンシュタインを守る為には必要な事なのだと、そう思っている。けれど、それでもやはり、心は痛んだ。どうしようもなく痛くて、脳裏を過る彼女の笑顔が彼をどうしようもなく苛んだ。今まで下したどの命令よりも、痛く苦しく、辛かった。



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