恋情 - the treachery -



 ぱりんぱりん、と耳障りな音が響く。手当たり次第、陶器という陶器をカサンドラが床に叩きつけているのだ。それを壁に凭れかかって黙って見ているブルーノはいい加減にしろよ、と心の中で溜息を吐く。片付けるのは彼の仕事になるということは分かり切っているのだ。それでも、止めようとせず、口を挟まずにいるのは偏にその苛立ちの矛先が自分に向けられたくがない為だ。
 けれど、意外でもあったのだ。普段のカサンドラならば、まず間違いなく物に当たる前に気が済むまでアイリスに暴力を振るったはずだ。手を上げはしたものの、それもたったの一度っきりだ。それがブルーノには意外で仕方なかった。無傷でエルンストに身柄を渡すとは言ってはいたが、まさかそれを守るとは思いもしなかったのだ。


「……何の騒ぎ?」
「何だよ、お前。今起きたのか?」
「そうだけど。……あの人、何であんなに機嫌悪いの」


 そのようなことを考えながら壁に凭れかかっていると、唐突に声が掛けられた。視線をそちらに向けると、居間の扉を少し開け、入り辛そうにしているアベルがいた。虫の居所が悪いカサンドラと顔を会わせたくはないのだろう。アベルの腫物を扱うようなその様子にブルーノは何とも言えない表情を浮かべる。
 アベルの様子から、彼がアイリスを攫って来たこともそのことにエルンストが関与していることもまだ知らないということが分かる。だが、いつまでも隠し通せることでもない。下手な形でその事実を知るよりも早いうちに自分の口から伝えた方がまだいいだろうと判断したブルーノは「……実はな」と昨夜の出来事を掻い摘んでアベルに話した。
 アイリスが今この隠れ家にいるのだということを聞いた彼の驚きようはブルーノが想像していた以上のものだった。今ままで見たことがないほど、大きく表情が動いたのだ。目を見開き、開いた口も塞がらないといった様子であり、無防備な表情を浮かべた。「……嘘だ」と微かに震えた声で呟くアベルにブルーノは首を横に振る。


「こんなことで嘘なんて吐くかよ。あいつがカサンドラに言い返して、痛いところを突いてきたからこそ、こうして怒り狂ってんだから」
「……アイリスは無事なの?」
「引っ叩かれてたけど、まあ大したことはないだろ」
「……」


 アベルは僅かに眉を寄せるも、それっきり視線を伏せるとブルーノの顔さえ見ようとしなくなった。後ろめたさや罪悪感を滲ませるその表情を見つめながら、その場から動こうとしないアベルに僅かに首を傾げる。心配している、気遣っているのだということはアベルの様子を見ていれば分かる。けれど、自分の目でアイリスの様子を確認して来ようという意志はまるで感じられないのだ。


「あいつのところ、行かねーのか?」
「……僕が?行かないよ。……行けるわけないじゃない」


 僕に、アイリスに会わせる顔なんてあるわけがない。
 自嘲するような声音でアベルは言った。けれど、それは自分に言い聞かせる為に口にしているようなものであり、本当は会いたいのだということは想像に難くない。ブルーノにだってそれぐらいのことはすぐに分かるぐらい、アベルの態度にその気持ちは現れていた。指先が白くなるほどきつくドアノブを握っているのも、本当は駆け出したくなる身体をこの場に留め置く為にしているに過ぎないのだ。
 そんなアベルからブルーノは視線を逸らす。彼だって馬鹿ではないのだ。自分がアイリスに近付くことが許されていないということも分かっているのだろう。それをすれば、自分だけでなく彼女にまで害が及ぶかもしれない――そのことまで考えると、迂闊に動くことも出来ず、自分の気持ちも押し殺すしかない、特に、カインの前では。


「まあ、お前がそれでいいならいいけど」


 ブルーノは溜息混じりに肩を竦めながら言うと、壁から背を離す。カサンドラの苛立ちはまだ暫く収まりそうにない。ならば、その間にアイリスの様子を見に行こうと思ったのだ。彼女の面倒を任されている以上、何かあって文句を言われることは避けたい。ブルーノは未だドアの近くにいるアベルに対し、「お前も暫く近付かねー方がいいぞ」とだけ言うと、彼の脇をすり抜けて階段へと向かった。
 既に陽が昇っている。様子を見てから食事の用意もした方がいいだろうと思いながらブルーノは二階の突き当たりの部屋に向かった。そこがアイリスを幽閉している部屋なのだ。部屋の前まで来ても、相変わらず階下でカサンドラが苛立ちのままに物を壊している音が微かに届き、そのことに溜息が出る。あの調子で物を壊し続けたとなると、食器が足らなくなりそうだと考えながらブルーノは「入るぞ」と一応、声を掛けてから扉を開いた。


「なっ?!お前っ、何やってんだよ!」


 扉を開けるなり、ブルーノはぎょっとした様子で室内に駆け込んだ。アイリスは身体を起こし、ベッドに背を預けていた。そこまではよかったのだ。けれど、カサンドラに顔を打たれて口の端を切ってはいたようだったが、今はそれ以上の血がアイリスの口から零れていたのだ。
 一目見て、舌を噛み切ろうとしているのだということが分かった。痛みに耐えるように硬く瞼を閉じ、小さくしゃくり上げるアイリスの前に膝をついたブルーノは舌打ちしながら半ば強引に口を開かせる。僅かに開いた口からは血が溢れてくるものの、その奥にまだ噛み切られてはいない舌が見えた。そのことにほっとしながらも、猿轡を噛ませておくべきだったと自らの失態に彼は眉を寄せた。
 こうなることぐらい、予想は出来たはずなのだ。どのような理由であれば、敵に捕縛されたのだ。そのような事態になれば、生真面目な軍人であればあるほど自害することなど考えるまでもないことだ。アイリスならばやりかねないと――彼女はゲアハルトに近い立場にいたのだから、余計に情報を守る為にやりかねないと、予想出来るはずのことだった。
 それでも、あと一歩、彼女は思いきることが出来なかった。どれほど生真面目であったとしても、自害することに恐怖がないはずがない。差し迫った危機に瀕していたのであれば思いきることも出来たかもしれないが、身柄の安全は一応保障されていたのだ。言ってしまえば、エルンストが迎えに来るまでの辛抱なのである。けれど、アイリスはそれを選ばなかった。彼の迎えを待つということは、彼女にとってはベルンシュタインへの裏切りと同義だ。どうしてもそれを選ぶことが、受け入れることが出来なかったのだろう。


「……ったく、世話掛けさせやがって」


 ブルーノは舌打ちしつつ、ベッドのシーツをナイフで斬り裂き、出来た布切れをアイリスに噛ませる。それを頭の後ろできつめに結ぶと、自身はすぐに回復魔法師を連れて来るべく部屋を飛び出した。階段を下りた頃には既にカサンドラの癇癪も一応は落ち着いたらしく、新たな破壊音は聞こえなかった。だが、今ここでアイリスが自害しようとしていたことを伝えれば逆戻りであることは確かであり、黙っていることに決めたブルーノは帝国兵らが寝泊まりに使っている離れに急いだ。
 そして、丁度詰めていた回復魔法師を連れてアイリスの元に戻り、すぐに手当をさせる。彼女は抵抗しなかった。ただ、酷く自分自身を情けないと感じているのか、治療が終わってもずっと顔を伏せたままだった。ブルーノは近くにしゃがみ込むと用意した水に濡らしたタオルで血が付いたままの口元をごしごしと拭った。


「……お前さー、何でここで諦めようとしてんの?」


 ブルーノはしゃがみ込んだまま、相変わらず顔を伏せているアイリスに問い掛けた。彼女が自害しようとした理由は分からないでもない。しかし、本当にそれだけだろうかとも思ったのだ。今のアイリスは以前会った時とはまるで違っていた。事態に混乱する気持ちも分かる。けれど、それ以上に、全てに対して投げやりになっているように思えてならないのだ。


「軍人だからだとかそういうことを抜きして、お前、生きたいと思わねーの?」
「だから……わたしは、」
「本音を話せよ。建前なんかいらねー。逃げ帰ったっていいだろ、この隠れ家のことを手土産に戻ればいいだろ?何でお前はここで諦めて死のうとしてんだよ、生きろよっ」
「……っ」


 アイリスの肩を掴み、ブルーノは声を荒げた。以前、会った時――アベルを追いかけて、彼を取り戻そうと必死になっていた姿とはまるで違っている今の状況にブルーノは顔を歪める。仕方がないのだということは分かっている。心が折れてしまいそうになっていることぐらい、分かっているのだ。
 けれど、こんなところで心が折れて死を選ぶような、そんな弱い人間だとブルーノは思っていなかったのだ。何より、彼女の場合、死を選ぼうとすることは軍人としての行為ではなく、単純に逃げようとしているだけなのだと彼は思った。考えることを放棄して、楽になろうとしているだけのように思えてならないのだ。そしてきっと、その気持ちがアイリスにないというわけではないのだということも、ブルーノは確信していた。


「潔すぎるだろ、何で這いつくばってでも生きようとしないんだよ!」
「……だって、」
「だってもクソもねーよ!お前、あの時……必死になってアベルを取り戻そうとしてたよな。その時のお前は何処に行ったんだよ!」
「……っ、けど、今のわたしは足手纏いにしかなって、」
「それが綺麗事だって言ってんだろっ」


 半ば無理矢理顔を上げさせ、ブルーノは真っ直ぐにアイリスを睨みつける。涙で濡れた紫の瞳は視線を逸らすことさえ出来ず、弱々しく見返して来る。


「お前はいつだって綺麗事を並べすぎだ。そりゃあ耳ざわりはいいもんな。でもな、その結果、どうなったのかってことぐらい、お前だって分かってんだろ」
「それは……」
「お前が綺麗事を並べて、あいつのことを追い詰めたんだ。止めを刺したのはお前だよ」
「……っ」


 はっきりと言ってやらなければ気が済まなかった。ブルーノははっきりとした声音でエルンストを追い詰めて、このような行動を取らせたのはアイリス自身に他ならないのだということを告げる。その自覚は少なからずあったのだろう。彼女は目を見開き、言葉を詰まらせた。
 アイリスが考えたくなかったことは、逃げたかったのはそれだ。自分がエルンストを追い詰めたのだということを、認めたくはなかったのだろう。分かっていても、それを認めることなど簡単に出来ることではない。認めることが、怖くて怖くて仕方なかったのだろう。


「言ったよな、カーニバルで会った時……お前は偽善者だって」
「……」
「その上、お前はずるいよ。死んで楽になろうってんだから」


 ブルーノは目を細めてじわりと浮かべた涙を流すアイリスを見つめた。彼女は楽になろうとしたのだ。考えても考えても苦しく、理解することも、認めることも怖い。だからこそ、彼女は建前を利用して死んで楽になろうとした。けれど、敵ながらブルーノはそれを間違っていると思うのだ。


「簡単に死んで楽になろうと思うな。……お前が、あいつを止めてやらなきゃいけないだろ」
「……」
「お前が止めてやらなきゃ、誰が止めるんだよ」


 しっかりしろ、とブルーノはそこまで言うと、顔を伏せたアイリスの頭を軽く叩いた。このようなことを言ったところで、所詮はまだ十六歳の子どもだ。酷なことを言っているし、彼女が向けられる感情全てを受け止めきれるはずもないことぐらい、ブルーノも分かっている。俺、一応敵なんだけどな、とここまで説教してしまった自分自身に呆れた溜息を吐きながら、「とにかく、お前はこれ噛んで暫く寝てろ」と言うと、取り出した布を噛ませるとベッドの上に軽く放り投げた。
 アイリスは身体を起こすことなく、そのまま寝転がっている。今はとにかく頭を冷やさせて落ち着かせた方がいい。ブルーノは世話が焼ける、と肩を竦めながら「後で飯持って来る」とだけ言い残すと、足早に部屋を後にした。





 
 

「……ねえ、近いんだけど」


 アベルは疲れ切った声音でぼそりと呟いた。それは自分の隣にくっついて座り、腕を握り締めているカインに向けた言葉だ。顔を合わせてからというもの、ずっとこの調子なのである。歩けば後を付いて来る、座れば隣に腰かけてこの調子である。自分がアイリスのところに行かないか見張っているのだということは分かっているのだが、それならばもう少し離れていてもいいはずである。
 いい加減、この近さに辟易としたアベルは溜息を吐く。しかし、一向に離れるどころか、腕を掴む手が離れることはない。カインが心配する気持ちも分かるが、アベルにしてみればアイリスに会わせる顔なんてないのだ。だからこそ、このような心配なんてしなくとも、彼女のところに行くつもりはないのだ。行ったところで、掛けられる言葉もなければ会わす顔もなく、カインやカサンドラに知れれば自分もアイリスもどうなるか分からないのだ。それが分かっていて尚、動く勇気はアベルにはない。


「アベルがあいつのところに行かないか、見張ってるんだよ。我慢して」
「見張るにしてもこんなに近くで、それも腕を掴んでる必要なんてないでしょ」
「じゃあ、約束してよ。あいつのところには行かないって」


 あまりにも必死すぎる様子にアベルはうんざりとした。カインの気持ちが分からないわけでもないのだが、兄がこんなにも執着心に満ちた人間だとは思っていなかったアベルにしてみれば苛立ちを募らせてしまう。自分のこれまでの行動がカインをこのような気持ちにさせていると分かっているからこそ、口には出さないものの、アベルは溜息を吐き出した。


「はいはい、約束すればいいんでしょ。離れてよ」
「アベルっ」


 何でそんな投げやりなの、とでも続きそうな咎める響きの籠った声にアベルは眉を寄せた。先ほどからこの調子で延々と話が続いているのだ。アイリスの様子を見に行ったブルーノに代わり、カサンドラが居間を出た後、陶器の破片を片付けている時からずっと。以前からこのようなところはあったとはいえ、長時間に及ぶと投げやりになりたくもなるでしょ、とうんざりとした溜息を吐いたとき、「はあ?お前、本気かよ」とどこか呆れた様子のブルーノの声が聞こえて来た。
 声が聞こえた扉の方に視線を向けると、カサンドラに続いてブルーノが居間にやって来た。それに続き、アウレールも姿を現す。どうやら何かしらの行動を起こすつもりらしい。アベルはカインの腕を振り解き、半ば押し退けるようにして距離を取った。カインは眉を寄せて物言いたげな顔をしたものの、カサンドラらの手前、文句を口にすることはなかった。


「本気よ。これから王都に戻ってエルンストが白の輝石を奪い取る為に手伝うの」
「あそこは今、厳戒体制になってるだろ。行って捕まったらどうするんだよ」
「そんなヘマを踏むはずないじゃない。アウレール、貴方も来てちょうだい。ブルーノは此処に残って、あの子を逃がしたら許さないから。それから、カインは南での工作に当たって」
「アベルは!?ボクはアベルと一緒じゃなきゃ、」
「我儘言わないでちょうだい」


 頭が痛いとばかりにカサンドラは柳眉を寄せながらカインを遮る。要は、アベルのことを全く信用していないということだろう。一人で行動させて裏切られては堪らないからだろう。そうでなくとも、カサンドラにしてみれば自分はベルンシュタインに未練があると思われているのだ。このような対応をされても致し方ないという自覚はアベルにもあった。
 ただ、カインと離れられることは正直、有り難くもあった。尚もカインはカサンドラに対して言い募っているものの、アベルはそれから目を逸らした。窮屈だったのだ。一人になりたかった。カインが自分のことを大切に思ってくれることは有り難いと思っている。嬉しいとも思う。けれど、それがあまりにも度が過ぎているように思えてならなかった。
 自分の為にカインはあらゆるものを捨ててくれた。そんな彼を蔑ろにするべきではないと思う。良心が痛まないわけではない。けれど、息苦しくて仕方ないのだ。カインが自分に向ける執着心や独占欲が、重くて仕方ない。受け止めきれないのだ。


「カーサ……!」
「これは命令よ、カイン。すぐに出立してちょうだい。アウレールも準備が出来たらすぐに出るわ、急いで」
「待ってよ、ボクは……!」
「工作を終えれば戻って来て構わないわ。けれど、上手くやってちょうだいね。……失敗すればいくら貴方でも許さないから」


 それだけ言うと、カサンドラは足早に居間を後にした。それに続いてアウレールも居間を出て行き、カインは地団太を踏んだ。言いたいことは山ほどあるのだろう。唇を噛み締め、握り締めた拳は微かに震えている。余程今回の任務が許せないのだろう。けれど、工作任務を終えればすぐに戻って来れるのだ。カインは「約束だからね、アベル」とだけ言うと、足早に居間を出て行った。
 乱暴に扉が閉められ、そこで漸くアベルは重苦しい溜息を吐き出した。どういう理由でカサンドラがエルンストの援護に向かうことを決めたのかは知れない。今更、保身に走ったとも思えない。何かしら狙いがあって動き出したのだろうと思うも、真意は何処にあるのか――アベルがそれを考えているうちに慌ただしくカサンドラらは出立した。
 最後にカインが顔を見せることはなく、アベルも彼を見送らなかった。再会してからというもの、アベルはカインに対して苦手意識を持っていた。ずっと近くに居られることも、自分と同じになるために目を潰したことも、受け容れられない理由の一つだ。けれど、きっとそれ以上の大きな理由は、カインがアイリスを刺したところにあるのだということもアベルは分かっていた。彼女を傷つけたことを許せないでいるのだ。


「あー、清々した」


 カサンドラらを見送っていたブルーノが戻って来ると、彼はソファに座って大きな溜息を吐いた。そして、そのままソファにごろりと横になりながら「監視の目がないのに、お前はあいつのところ行かねーの?」とブルーノは欠伸を噛み殺しながら言う。その言葉に眉を寄せながら、あんたがいるでしょ、と言うと、彼は肩を竦めた。


「真面目だなー、お前」
「あんたが不真面目なだけだよ」
「それは確かに。……でも、お前だって気になってんだろ、あいつのこと。気になるなら行って来いよ、誰にも言わねーから。それとも、会わせる顔なんてないとでも思ってんのかよ」
「……っ」


 言い当てられたアベルは僅かに顔を歪める。それをちらりと視線を向けて確認したブルーノは鼻で笑うと、「お前がいいならそれでいいけどな」とだけ口にした。それから、寝返りを打つと「そういや、さっき飯持って行ったけど」と独り言を言い始める。


「あいつ、ちゃんと飯食ってんのかな。まだ舌は痛いだろうけど」
「……舌?」
「そ。あいつ、噛み切ろうとしたんだよ」
「なっ!?」
「生真面目な奴だよなー」
「それを先に言ってよ、この馬鹿!」


 アベルは声を荒げると、そのまますぐに立ち上がって居間を飛び出した。アイリスがそのようなことをするとは思っていなかったのだ。けれど、よくよく考えれば舌を噛み切ろうとするかもしれないことぐらい、すぐに分かったことのはずだった。会わせる顔がないのだと、自分に言い聞かせるあまり、気付くことが出来なかった。
 彼女にしてみれば、この場は敵ばかりだ。エルンストがいずれ迎えに来るとは行っても、それは白の輝石を入手した上で、だ。それが失敗すれば、アイリスは用済みだ。彼女の存在はエルンストに奪取させる為だけにこの場に置かれているようなものなのだ。奪取に成功しなければならないという、圧力を掛ける為だけに――恐らく、それ以外にもエルンストに何らかの思惑があるのだろうが――攫われた。アイリスがそのことを知っているかどうかは知れないが、彼女はゲアハルトに近い位置にいたのだ。何かしらの情報を得ている可能性は高く、生真面目なアイリスならばそれを守る為に、規則に則った行動をしないはずがない。
 階段を駆け上がり、アベルは突き当たりの部屋に向かった。ブルーノが食事を持って行ったということは既に手当もされているのだろう。それでも、顔を見なければ安心出来そうになかった。けれど、部屋の前で足は止まってしまう。ドアノブを、握ることさえ出来ない。彼女と顔を合わせてしまえば、言葉を交わせば、自分はどうなってしまうのか――冷や汗が背筋を伝い、足は縫いつけられたかのようにその場から動けなくなってしまった。
 怖かったのだ。自分で自分の気持ちを制御出来なくなってしまいそうで、形振り構わぬことをしてしまいそうで、一歩踏み出せばもう、元には戻れないように思えて、動けなくなってしまったのだ。そのことを情けなく思いながら、アベルはやっとの思いで扉に触れる。そして、そこに額を寄せて、情けなさに唇を噛み締めた。



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