恋情 - the treachery -



 暫くしてからブルーノが食事を持ってきたが、アイリスはそれに手を付けられずにいた。食欲がまるで湧かないのだ。昨夜から何も食べていないため、本来ならば空腹のはずなのだが、今日ばかりは何も食べる気にはならなかった。アイリスはベッドに横たわったまま、硬く目を閉ざしていた。治癒された舌が今もじんじんと痛んでいる。
 けれど、自分が感じている舌の痛みよりもずっと、心の方が痛かった。だが、それ以上の痛みをエルンストは感じていたはずだ。彼を傷つけて、追い詰めたのは他ならぬ自分自身であるのだということをアイリスは漸く気付いた。もっと違うことを言ってたのなら、答えていたのなら、少なくともこのようなことにはならなかったかもしれない――そう思えてならないのだ。


「……っ」


 嘘を吐きたくはなかった。いい加減なことを言いたくなかった。その方が傷つけることになると思ったのだ。けれど、自分が良かれと思ったことが裏目に出た。必ずしも自分が良かれと思ったことが相手にとっても良いことであるとは限らない、それぐらい分かっていたはずなのだ。
 嘘を吐いてでも、その場凌ぎだったとしても、エルンストの望む答えを口にした方がよかったのだろうか――今となっては何が良くて何が悪かったのかは分からない。彼が望む答えを口にしていたとしても、全てが丸く収まっていたのかどうかは知れないのだ。結局のところ、あの時ああしていればよかったのかもしれない、という仮定の話でしかない。
 けれど、どうしようもなく心が苦しかった。辛かった。何も考えたくなかった。自分の所為で、自分が答えを間違えたから、このようなことになってしまったのだということを認めたくなかった。認めることが、怖かったのだ。自分の所為で人一人の人生が変わってしまうなど、到底受け止められるはずもなかった。
 逃げたくなったのだ。ずるくて卑怯なことだと思った。それでも、自分は軍人なのだからカサンドラらに自分が得ている情報を与えるわけにはいかないのだという大義名分を逆手にとって、楽になろうとした。だが、それさえ出来なかった。怖かったのだ。痛くて、怖くて、辛くて、苦しくて、楽になりたいのになれなかった。死にたいと思う反面、それと同じぐらい、死にたくなかった。
 とても矛盾していた。どうしたらいいのかも分からなくなった。それでも、ブルーノに言われた通り、エルンストを止めなければならないとも思った。足枷と手錠を嵌められ、何処にあるのかも分からない館の一室に閉じ込められている。そんな自分に何が出来るのかは分からない。けれど、彼が言ったようにここで諦めていいはずもなかった。


「……食べなきゃ」


 のろのろとアイリスは身体を起こす。酷く身体は重く、相変わらず食欲もない。それでも、今の自分に出来ることは与えられた食事を取って、すぐに動けるようにしておくことぐらいだ。他にも何かカサンドラらの情報を得られればいいのだが、閉じ込められている以上、外部との接触が限られているため、それも難しい。
 そもそも脱出することが出来るのかどうかも定かではなかったが、今はそれも考えないことにした。アイリスは身体を起こすと、ベッドの端に置かれていたプレートを引き寄せた。冷めてしまってはいるが、美味しそうなにおいのするスープだった。スプーンを持つと、アイリスはそれをゆっくりと口に運んだ。口の中に広がる優しい味にじわりと涙が滲む。
 ブルーノは偽善者だと言った。それはきっと、間違っていない。自分が傷つきたくない、嫌われたくないから善人の振りをしているだけだ。エラルドとの縁談話を受けたのも本当はアルヴィンらに迷惑を掛けて嫌われたくはなかったからだ。嫌われたくがない為にいい子でいたかっただけのことなのだ。
 綺麗事を並べて、言い繕って本当は何事からも逃げていただけだ。考えようとせず、向き合おうともしなかった。考えて、向き合っている振りをしていただけに過ぎない。他者と関わる上で傷つくことがあることなど当たり前のことだ。それを恐れていては前になんて進めないのだ。そのことを自分に言い聞かせながらアイリスは頬を伝う涙を乱暴に拭い、一口二口とスプーンを口に運んだ。








 アベルが居間を飛び出した後、ブルーノは面倒そうに上体を起こした。そして、溜息を吐きながらソファから立ち上がると足音と気配を消してゆっくりと階段を上った。聞こえて来るだろうとばかり思っていた話し声は聞こえず、物影に隠れながら廊下の突き当たりにあるアイリスを閉じ込めている部屋の方を窺い、呆れた表情を浮かべた。
 部屋に入ればいいものを、アベルは部屋の前にいた。ドアノブさえ握らず、壁に額を押しつけて唇を噛み締めていた。そんなことをしたところで中の様子が分かるわけでもないだろう。単純に、踏ん切りがつかないのだ。会わせる顔がないこともあるだろうが、顔を会わせたところで何を言えばいいのかも分からないのだろう。
 だが、居間を飛び出したところからも分かるように、アベルは少なからずアイリスのことを大切にしていることは間違いない。壁に凭れかかったブルーノはどうしたものかと頬を掻く。彼としては、アベルがアイリスと接触しようがしなかろうが、どちらでもいいのだ。カサンドラやカインはそれを良く思っていないが――その判断の方が正しいのだが――ブルーノにしてみればどうでもいいことだった。


「どうすっかな……」


 ブルーノにしてみれば、アイリスもアベルも自分の妹や弟のような年齢の子どもである。彼自身としては、好きにさせてやればいいのにと思ってはいるのだ。無論、それは個人的な考えでしかない。ブルーノも自分の方が大事なのだ。アイリスらを逃がせば、カサンドラらにどのような目に遭わされるか分かったものではない。
 この場を離れられるのならばブルーノも迷うこともなかっただろう。しかし、彼にはこの場を離れられない理由があった。それこそ、カサンドラと一蓮托生の身なのだ。彼女から離れることは出来ない。
 深く溜息を吐きながらちらりと突き当たりの部屋へと視線を向ける。相変わらず、アベルはそこに立っていた。ドアノブを握ることさえ出来ずにいる。扉一枚なのだ。それさえ越えることが出来るのなら、触れられる距離にいるのだ。けれど、触れたが最後、引き戻せなくなるのだろうとブルーノは溜息を吐く。
 もっと簡単に心の赴くままに動けたならば、このように拗れることはなかったかもしれない。だが、そのように動くことが出来る者など決して多くはない。何もかもを顧みず動くことが出来る者は強くもあり、愚かでもあるのだ。そして、大事なものさえ捨てられる者でなければ、そのようなことは出来ない。だからこそ、アベルがたった一枚の扉の前で立ち竦むことも致し方ないのだと彼は思うのだ。
 だが、それが最善であるのかどうかもブルーノは分からない。どうなるかは結局のところ、その時になってみなければ分からないのだ。それこそ、ブルーノがアベルを止めるかもしれない。その逆もあるかもしれない。そればかりは、今この瞬間に決められることではなく、ブルーノは肩を竦めると足音と気配を消したまま、ゆっくりと階下へと降りて行った。







「それでは、先ほどの話した通り、殿下の即位は予定を前倒しにするということで取り急ぎ準備をお願いする」


 会議室では誰もが神妙な顔つきをしていた。ヒッツェルブルグ帝国の皇帝が崩御し、第一皇子が即位する――つまり、帝国における全権が即位したヴィルヘルムに移るということだ。これまでも軍事の指揮を執っていたのは彼ではあるが、やはり皇帝に即位する前と後とでは発言力が異なる。それに対抗する為にもすぐにでもベルンシュタインも体制を整える必要があり、レオの即位の予定を前倒しすることになったのだ。
 そのことに関しては誰も文句はなかったらしく、一先ずはゲアハルトも安堵する。しかし、彼にとってはここからが本番だった。ちらりと視線をレオに向けるも、彼の顔色は芳しくなく、覇気もない。やはり、アイリスのことを知らせるのは後にした方がよかったと思うも、下手に耳に入って騒がれでもすれば堪ったものではないかとも思い直し、ゲアハルトは前方に視線を戻す。


「それから、いくつか報告したい案件がある。……先日、失われていた白の輝石を確保した」


 その一言に会議の場に集まっていた誰もがざわついた。彼らにしてみれば、このタイミングで白の輝石の話をゲアハルトによって口にされるなど思いもしなかったのだろう。けれど、そのようなざわつきを気に留めることもなく、彼は「今度、……恐らく、近いうちに起こる帝国との全面戦争では白の輝石を使うことになるはずだ」と重ねて言うと、ざわめきはより大きくなった。
 彼らも一度は白の輝石を目にしたことはあるのだろう。だが、白の輝石は国宝とは言っても何でも願いを叶える石という夢物語においてのものでしかなく、それを本気にしている者も多くはないのだろう。現にゲアハルトが気でも触れたのではないかと囁く声音も聞こえてくる。
 しかし、ゲアハルトは表情を変えることなく、白の輝石が何であるのか、そして、どうしてヒッツェルブルグ帝国が突然周辺国に出兵し始めたのかを話した。そして、白の輝石に願いを託すのではなく、それを使って黒の輝石と対消滅させるつもりなのだということを告げる。それを話し終えた頃、誰もが口を噤んだ。嘘だ、ただの世迷言だと口にする者は誰一人としていなかった。それは、ゲアハルトが真面目に話したこともあるだろうが、この国の頂点に立つことになるレオが何も言わず、それを真実として受け止めていたからかもしれない。


「……白の輝石は現在、どちらに……」
「然るべき場所に保管している。心配無用だ。それとも貴殿は帝国の皇子だった俺の手に委ねることが信用ならないと……そう仰りたいのか」
「それは……」


 口を開いた男の顔を一瞥し、ゲアハルトは目を細めた。以前から白の輝石を捜索していた頃、彼もまた探し求めているのだという報告を受けたことのある男が発した言葉だった。視線を彷徨わせる男から視線を前方へと戻し、「俺が私物化するのではないかと疑うのならそれは無駄なことだ」とはっきりとした声音で決然と口にした。


「そもそも私物化しようとするのなら、ここで確保したなどという話はしない」


 それもそのはずだ。何も言わなければ自由に扱うことが出来るのだ。一斉に口を噤む一部の人間へと視線を向けた後、「この話をした理由は他にある」と一息を吐いた後に言葉を発した。そのことこそが本題なのだ。


「近々、白の輝石の覚醒実験を開始する」
「それは……どのような……」


 覚醒実験についてはまだ誰にも話したことはなかった。知っている者はエルンストだけであり、コンラッドがいくつか考えた覚醒を促す為の方法の中から精査し、組み合わせて編み出した実験方法だ。これによって白の輝石が覚醒するという保証はない。それでも、やらなければならないからこそ、こうしてこの場で宣言したのだ。
 レオにも話を通してはいなかった。話せば、止められると分かっていたからだ。これは決して簡単に出来る実験ではない。少なくとも、とてもではないが人道的だとは言えない方法だ。出来ることなら、ゲアハルトとしてもこのような方法を取りたくはなかった。だが、手段を選んでいられる場合ではない。


「方法は、」
「失礼致します。ゲアハルト司令官、報告が」


 固唾を飲んでゲアハルトの説明を待つ彼らに意を決して口を開いた矢先、それを遮って会議室の扉が開いた。すぐ近くまで来た兵士は「昨夜運び込まれたクレーデル家の方の意識が戻りました。それから、アルバトフ邸に向かった国境連隊から暗号文書が届いています」という知らせを耳打ちする。ゲアハルトは一つ頷くと、丁度いいとばかりに話を切り上げにかかった。
 何もこの場で全てを話して反感を買うことはないのだ。後々、同様に反感を買うことにはなるだろうが、結果を出せば彼らは黙る。この場に集まっているベルンシュタインという一つの国を動かす者たちにとっては、結果が全てであり、より良い結果を得る為に多少なりとも汚い手を使うことは珍しいことではない。それは何処の国だろうと集団だろうと変わらないのだ。


「申し訳ないが、俺はこれで失礼する。説明はまたの機会に。エルンスト、後は任せる」
「了解ー」


 ゲアハルトは知らせに来た兵士と共に足早に会議室を出た。そして「アルヴィン殿はまだ軍令部か?」と確認し、頷いた兵士に礼を伝えて国境連隊から届いたという暗号文書を受け取ると、すぐに軍令部に取って返した。アルヴィンからは直接話を聞きたいと思い、彼の意識が戻るのを待っていたのだ。
 暗号文書に目を通すと、そこには半ば予想していた通り、エラルド・アルバトフが家人共々暗殺されていた旨が書かれていた。死後一週間程度経っていることが窺えるらしく、そのことからも王都から本邸に戻ってすぐに殺されたのだとみて間違いないだろう。その理由は何なのか――それを考えながらゲアハルトは受け取った暗号文書を掌の上に灯した炎で焼き尽くす。消し炭になったそれはひんやりと冷たさを感じるようになった風に吹かれて宙に消え、ゲアハルトはそれを視界の端で見送ると、軍令部の扉を開き、アルヴィンが寝かされている部屋へと急いだ。



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