恋情 - the treachery -



 ゲアハルトが会議室を出て行くと、後を任されたエルンストがその場を解散させた。誰もが口々に会議で出たことについて言葉を交わしている。しかし、彼らにもそれぞれ与えられた役割があるため、その場に留まる者はおらず、すぐに会議室には人気がなくなった。
 残っていたのはレオと少し離れたところにいる彼の副官、そして、エルンストである。レオも先に出て行った者たちと同じく、やらなければならないことは山のようにある。即位が前倒しになったこともあり、その量は増える一方だろう。それでも、すぐには立ち上がることは出来なかった。
 アイリスのことを考えていたのだ。誘拐されたなどと思いもしなかった。否、その可能性は十分にあったのだ。だからこそ、彼女は騎士団の宿舎ではなく、軍令部で寝起きしていた。周りには護衛の兵士もいた。けれど、アイリスが誘拐されたその日――彼女は軍令部を離れ、実家であるクレーデル邸の外せない用事で護衛も外していたのだという。
 しかし、たとえ護衛が付いていたとしても、相手はカサンドラらだ。一時はバイルシュミット城を陥落させかけた力量の持ち主が関わっているのだ。護衛がいようがいなかろうが、結局のところ、結果が変わることはなかっただろう。たとえ、自分がすぐに動ける立場であったとしても、どうにもならなかっただろうとも思う。それでも、歯痒かったのだ。このような出来事が引き起こされてしまう前にカサンドラらを捕縛出来なかったことが、見つけ出せなかったことが――自分はただ、城にいて、誰よりも守られていたことが、歯痒くて仕方なかった。


「……行かなくていいの?」
「……エルンストさん」


 顔を伏せていたレオにエルンストはどこか遠慮がちに声を掛けて来た。珍しい彼のその様子に顔を上げたレオはすぐに視線を逸らした。行かなければならない。副官も急かしては来ないが、早く、とは思っていることだろう。けれど、レオは動けなかった。
 即位を間近に控えた次期国王とは名ばかりであり、自分がいかに無力であるのかということを思い知らされた気がしたのだ。そして、その事実が重く、レオに圧し掛かる。たった一人、守りたいと思った人さえ守れず、何も出来ず、動くことさえ出来ないのに、自分は本当に王になれるのだろうか、と。そして、それと同じぐらいに今すぐ此処を飛び出すことの出来ない意気地のない自分を嫌悪した。


「アイリスちゃんのことなら……」
「……ゲアハルト司令官の判断は間違っていないと思います。正しいかどうかは分からないけど、少なくとも間違っていないとは思うんです」
「……」
「オレは国王になるんだから、……アイリスだから、ってそんな理由で動くわけにはいかない。助けたいって思うけど、アイリス一人の為により多くの兵士に死ねとは言えないし、言ってはならないとも思います」


 その声は苦しげな彼の心境をそのまま映し出したかのようなものだった。個人の感情と国王としての感情に板挟みになっているのだ。そして、優先させるべきものが個人ではなく国王としてものであるということを理解しているからこそ、心はこんなにも苦しく、立つことさえ儘ならなかった。
 瞼を閉じれた、アイリスの顔が浮かんだ。笑っている顔、悲しんでいる顔、泣いている顔。様々な表情が、思い出が浮かんでは消えていく。もう会えないかもしれない――名前も呼んでもらえないかもしれない、それを思うと、どうしようもなく苦しく、悲しく、どうして彼女がこんな目に遭わなければならないのかと叫びたいほどだった。
 それでも、動くことは出来ない。自分が動けば、それこそ一大事になる。以前のように形振り構わず動くことは、もう出来ないのだ。自分はもう第二騎士団所属の兵士ではないのだということを改めて実感する。


「……オレは飛び出しちゃいけないんです。動いちゃいけない。自分の命を投げ出すようなことも出来ない。……オレが今生きているのも、オレの命を今日まで繋いでくれた人たちがいたからだ」
「……」
「それにもう、オレは自分一人だけで生きているわけではないから」


 兵士として生きていた間、死に掛けたこともあった。それでも今日まで生きて来られたのは、自分を守って生かしてくれた者たちがいたからこそだ。レオは視線を伏せて、アベルやシリルのことを思い出す。アベルは裏切り者だった。けれど、彼は可愛げはなくとも、何だかんだ言いながらも面倒見がよく、口喧嘩ばかりしていたものの、決して嫌いではなかった。一緒にいて、楽しいとも思っていた。友人だと思っていたのだ。だからこそ、工作任務中に彼を置き去りにしなければならなくなったことをアベルが生きていたという報告を聞くまでは辛く苦しく思っていた。――たとえ裏切り者だったとしても、生きていてくれて嬉しかったのだ。
 シリルだって同じことだ。彼とは分かり合うことは出来なかった。それでも、自分を閉じ込めていたあの牢獄はきっと、鴉や城に蠢く欲望から自分を守る為のものだったのではないかと思った。最後の最後に漸く、それに気付いたのだ。兄は決して自分のことを疎んではいなかった。不器用ながらにも、弟として、家族として愛してくれていた。大切に思ってくれていた。自分がここにいるのも、レックスが助けてくれたからであり、それまでの間、自分の身を守る場所を用意してくれていたシリルがいたからこそだ。
 自分は決して一人で生きてきたわけではなかった、多くの人に守れて今まで生きて来たのであり、これから先は多くの人の為に生きていくことになる。それこそ、顔も名前も知らぬ、けれど、ベルンシュタインという国に生まれ、生きる人々の為に生きることになるのだ。国王は国にとって必要なものであり、簡単に挿げ替えの出来るものでもない。だからこそ、自分の身を個人の感情で危険に晒すわけにはいかない。
 けれど、それも他者から見てみれば、自分に言い聞かせているようにしか聞こえないだろう。本心からそう思っているということに嘘はなく、間違いもない。本当に、そう思ってはいるのだ。けれど、それと同じぐらいに、身動きが取れないことを歯痒くも思っている。アイリスの存在は決して軽いものではない。本当に、大切に思っているのだ。だからこそ、口にしたことが本心でも、自分に言い聞かせているように聞こえてならなかった。


「……すみません、こんな話して」
「いや……」
「それにしても、少し意外でした。……案外、落ち着いてるんですね」


 珍しく歯切れの悪い様子のエルンストをちらりと見遣り、レオは何気なく口にした。その一言に僅かにエルンストは目を瞠るも、「もっと早くに聞いてたからね」と視線を伏せながら答える。レオが聞いた時には既に全てが終わった後だった。恐らく、レックスらと共に明け方近くまで城下を走り回っていたのだろうと思った彼は今一度歯痒さに唇を噛み締める。
 今さっきまで知らなかったのはきっと自分だけだ。否、知らされなければ知ることが出来ないほど、遠く離れてしまっているのだから致し方ないことではある。次期国王と言っても全て自分の思うがままに出来ないことも、自分の知りたいことが何でもすぐに耳に出来るわけではないということも、分かっている。それでも、次期国王なんて名前だけで結局のところ、自分が無力であることに変わりはないのだということを思い知らされたようだった。
 寧ろ、次期国王となることが決まってからの方が自分はずっと無力だ。無論、力を得る為に様々なことを学ぼうとは思っている。けれど、それが自分の力となるまでは長い時間が必要となるだろう。けれど、それが確かな力となった時に、傍にアイリスはいない。その事実に目の前が真っ暗になる。これでは、母親を守れなかった父王と同じではないかと、レオは拳を握り締めた。


「……殿下、そろそろ」


 話に一区切りがついた頃、見計らったかのように控えていた副官が口を開いた。そろそろ執務に戻るようにということだろう。今は時間が惜しいことは確かであり、自分に出来ることをしなければならないとも思う。けれど、それ以上に、何かに打ち込まなければアイリスのことばかりを考えてしまいそうだったのだ。
 レオは重たい腰を持ち上げると、エルンストに「オレはこれで」と覇気の欠けた声で言うと重たい足を引き摺るようにして歩き出す。だが、会議室を出る直前、「俺の方こそ意外に思った」とエルンストの声に足を止める。


「お前なら……形振り構わず、飛び出すと思ってた。レックスも……そうすると思ってた」
「……そんなことをしたってアイリスはきっと、喜ばないし望んでないから」


 彼女は優しい子だ。自分の所為で誰かが傷つくことは喜ぶはずもなく、自分を助ける為に無茶をすることなど望まないだろう。だから、何もしなくていいというわけではない。そう思わなくてはやっていられないというだけのことだ。そう思っていなければ、他のことなど手につくはずもないのだ。半ば無理矢理、アイリスならばこう思うはずだからと、結論付けて納得しようとしているだけのことだ。
 本当に、ただそれだけのことであり、同様のことをレックスもしているのだろうと思う。それはきっと、アイリスを知る誰もがしていることであり、自分の無力さを呪いながらも、彼女ならばきっと、国の為だから仕方がないのだと、自分に言い聞かせているはずだ。今は戦争の最中なのだ。全体の為に個を捨てる――そのような選択が正しいとされる、より多くの人間を手に掛け、敵国を滅ぼした者が勝者であり、正義とされる時代なのだ。


「それに、……オレはまだ諦めてません」
「え?」
「……アイリス、結構お転婆なところがあるから。案外、自分でどうにか抜け出してひょっこり戻って来そうだなって……」


 それがただの願望であると知りながらもレオは微苦笑を浮かべながら口にした。此方からは何も出来ない。けれど、彼女はきっと簡単には諦めないはずだ。此方が何も出来ないことも、きっと分かるはずだ。だからこそ、アイリスは自分の生存と脱出を最優先に動くことも出来るはずだ。
 そうなればいい、そうなって欲しいとレオは心底から願っている。此方から動くことは出来なくとも、脱出に成功して国内に点在している国境連隊まで辿り着くことが出来れば、彼女は助かる。今はその微かな可能性が現実のものとなるように祈るしかない。今の自分が彼女の為に出来ることは、それぐらいしかなかった。


「エルンストさんも、そう思いませんか?」
「……あ、ああ。うん、戻って来そうだよね、ひょっこりと」


 言葉を詰まらせるエルンストにレオは違和感を感じた。普段ならば、自分が口にしたようなことは彼が言うはずの言葉だ。飄々とした様子で軽口を叩くように「そのうち戻って来るよ」と言うとばかり思っていたのだ。けれど、レオの予想とは異なり、エルンストの様子は普段とはまるで違っていた。
 だが、それほどまでに動揺しているのだと思うと、無理もないとも思うのだ。恐らく、明け方近くまで探していたのだろうと思うと、今のこの様子も仕方がないものに思えた。レオは「エルンストさん、少し休んだ方がいいですよ」と心配げに言うと、会釈した後に会議室を後にした。




 





「なるほど。俺たちが最初にクレーデル邸を訪れた頃からアルバトフからの手紙が届くようになった、と。それからいくら断りを入れても連日の手紙、か」


 クレーデル邸へと向かう馬車の中、ゲアハルトと頭に包帯を巻き、血の気の失せた顔をしているアルヴィンは向かい合って座っていた。意識を取り戻したアルヴィンから昨晩の出来事の詳細を聞きながら彼を邸へと送り届けている最中なのだ。既に回復魔法で治癒されてはいるものの、痛みそのものが完全に消え去るというわけではない。時折頭を押える仕草をするアルヴィンを気遣いながら、ゲアハルトは彼から聞いたことを思案する。
 アルバトフの手紙が連日届く、という時点でその手紙を送りつけていた相手がエラルド・アルバトフ本人ではなかったことはまず間違いない。国葬が終わると同時に彼はベルトラム山方面にある本邸に戻っているのだ。その本邸から王都にあるクレーデル邸に連日、縁談を申し込む手紙を送りつけることは距離的に不可能なのだ。
 無論、最初の一通は本人だったかもしれない。しかし、ゲアハルトは恐らく、それもカサンドラによる仕業であろうと考えていた。つまり、彼女はバイルシュミット城での一件以降、続けられていた城下の探索に引っ掛かることなく、動いていたということだ。ベルンシュタインに属していただけあり、此方の手の内を知っていることも大きいのだろうが、もっと捜索に力を入れるべきだったとゲアハルトは内心舌打ちした。


「……元々、仕組まれた縁談だったということか」
「仕組まれていた、と?」
「そうでなければ連日手紙を送りつけて精神的に貴方方を追い詰め、引き受けざるを得ないような状況を作るとは思えません」


 クレーデル家が断れない少し上の家格の貴族を騙っての行動だ。しかし、ならばなぜ、エラルド・アルバトフだったのかということが気になる。エラルド・アルバトフは決して褒められるような人物ではなく、どちらかと言うと、悪い噂の絶えない男だ。わざわざそのような人物を選ばずとも、もっとすんなりと受け入れられそうな貴族を騙った方が手間はより少なかっただろう。
 それを考えると、エラルド・アルバトフでなければならなかった理由があるはずなのだ。どのような理由なのだろうかと、彼は知り得る限りの人と成りを思い起こす。だが、やはり、悪い噂の尽きない男であり、叩けばいくらでも埃が出るという印象しかない。エラルド自身に意味があるのではなく、他に何かあるのだろうかとゲアハルトは僅かに眉を寄せた。
 恐らく、カサンドラらにとって益があるからこその選定だ。彼女らにとってエラルド・アルバトフを選ぶことで得られる益とは何なのか――そもそも、潜伏中の彼らがアイリスを誘拐すること自体、益があるとはとてもではないが思えなかった。彼女の存在は間違いなくカサンドラらにとっては重荷でしかない。そんな存在をわざわざ面倒な手間と時間を割いてまで誘拐した理由が何だったのかも分からない。


「……どうして」
「司令官?」
「いや、何でもない」


 どうして、アイリスが誘拐されたのか。その理由はまだ思いつきやすかった。彼女を交渉材料にする、もしくはコンラッド・クレーデルの白の輝石の研究内容に通ずる鍵であるから、など、いくらでもそれらしいことは思いつく。だが、どれもしっくりこなかった。一番可能性としては高い、白の輝石の研究内容を求めての誘拐ならば、すぐにでもクレーデル邸をアイリスを連れて襲撃しているはずだ。頃合を窺うようなことをすれば、逆に警備体制を敷かれて襲撃することが難しくなる。
 ならば、交渉材料にするつもりだろうかとも思うも、それもやはり考え難い。アイリスはクレーデル家の養女であり、レオが即位した後にはクレーデル家の当主として彼の後ろ盾になることだろう。だが、言ってしまえば、それだけだ。白の輝石の研究内容に関して言えば、アイリスは既に鍵としての役目を終えている。ならば、何かとアイリスの身柄を交換しようと言うのだろうか――例えば、白の輝石との交換を言い出すのではないかとも思うも、すぐにそれはないと可能性を切り捨てる。
 カサンドラも分かっているはずだ。たとえアイリスが交換として差し出されようとも、自分の白の輝石を手放すことがないことなど、分かっているはずのことだ。そんな馬鹿げた交渉をしてくるはずがないと小さく溜息を吐き出す。だが、それと同時に僅かにゲアハルトは目を瞠る。
 今回の行動から察するに何かしらの目的の下にカサンドラらが行動していたことは間違いない。そして、何かしらの益があるからこその行動であり、その為にアイリスを手中に収めることが必要であったということは恐らく間違いないだろう。ならば、その目的の達成とは何なのか、仮に交渉に彼女を使うにしても、誰との交渉なのか――ベルンシュタインを相手取ってでなかったとすると、カサンドラは誰と手を結ぼうとしているのか、そもそも、カサンドラらは自分たちに何かしら仕掛ける気があるのか、根本的に考えが間違っているように思えたのだ。
 しかし、思考に沈み込む前に緩やかに馬車の速度が落ち始める。どうやらクレーデル邸に到着したらしい。ゲアハルトは窓の外に見える見慣れた景色に目を細めながら、「アルヴィン殿、一つ頼みたいことがあるのですが」と向かい側に腰掛ける彼に言った。


「それでは、私は用意をして来ますので」


 アルヴィンはそれだけ言うと、足早にメイドらに指示を出すべく立ち去った。
 クレーデル邸に到着した頃、ゲアハルトはアルヴィンに頼み事と共にある命令を下した。無論、彼は軍属ではない為、ゲアハルトの命令に従う理由はどこにもない。しかし、状況が状況であることもあり、アルヴィンはその命令―暫く、メイドらと共に邸を離れることを受け入れた。
 そして、ゲアハルトが口にした頼み事をすんなりと了承したアルヴィンは邸に戻るなり、彼を真っ直ぐにコンラッドの書斎に通したのだ。ゲアハルトは壁一面の書籍を見つめ、コンラッドが使っていたであろう執務机に触れた。温かみのある深い茶色の机を撫で、彼は目を細めた。少し前まで、此処でエルンストやレックス、レオとアイリスと共にいることが多かったことを思い出したのだ。
 けれど、今は感傷に浸っている場合ではないとゲアハルトは机から離れると、ポケットから取り出したアイリスが使っていた杖の先端に嵌め込まれていた魔法石を取り出す。自分が持っていて奪われてはいけないのでと預けられたままになっていたのだ。透明のその石を掌に転がしながら、ゲアハルトは小さく唇を噛んだ。
 だが、浮かび上がる後悔や無力感、苛立ちなどを黙殺し、暖炉の中に膝を付いて地下に続く階段を作り出す。何度も通っているうちに、すっかりとその手順にも慣れてしまっていた。途中、仕掛けられている鍵も解除する――アイリスしか弾けないはずのピアノも、いつしかゲアハルト自身の手によって弾くことも出来るようになっていた。まだ皇子としてヒッツェルブルグ帝国にいた頃に習った音楽の教養がこんなところで役立つとは、と内心自嘲しながらも、ゲアハルトは地下通路の最奥の小さな研究室に辿り着いた。


「……もう来ないつもりだったんだが」


 既に用は済んでいた。だから、アルヴィンらに迷惑を掛けない為にも近付かない方がいいと思っていたのだ。けれど、結局は来てしまった。ゲアハルトは改めて小さな研究室の中を見渡す。コンラッドが此処でたった一人で白の輝石について、それが手元になくとも研究していた姿を思い浮かべる。
 孤独ではなかったのだろうか。辛くはなかったのだろうか。様々なことを思うも、結局のところは、彼がどのような気持ちで研究に励んでいたのかは想像するしかない。自分は彼が調べ上げたことを存分に生かすことは出来るのだろうか――黒の輝石を止めることは、出来るのだろうかと不安にもなる。
 元々、成功させる自信があるわけではないのだ。それでもこの方法だけが黒の輝石の影響を打ち消すはずなのだ。仮に、白の輝石が伝承通りに願いを一つ叶えてくれるとしても、今の自分が何を置いても黒の輝石の消滅を願うとは思えなかった。そこに少なからず個人の感情が流れ込まないとは言い切れなかった。割り切ったつもりでいても、本当に割り切れている自信もゲアハルトにはなかったのだ。
 何より、白の輝石に願いを託したとして、その代償がないとも限らない。今更、どのような代償であれ、それが個人で贖えるものであるのならばゲアハルトは構わないのだが、周囲に何の影響もないという確証がない以上、迂闊なことは出来なかった。何より、願いを叶えるということは奇跡に等しいことだ。そのような奇跡を目の当たりにすれば、人間の欲深さは前面に現れることになる、恐らく新たな戦争が起きる。そのようなことになるのならば、やはり、黒の輝石だけでなく白の輝石も共に消滅させてしまった方が余程いいと思い直した。
 ゲアハルトはコンラッドが腰かけていたであろう椅子に腰を下ろし、ローブのポケットに手を差し入れた。そして、取り出したそれを掌で転がすと、彼は徐にそれを運び込まれている執務机の引き出しの中に入れた。鈍い白のその石を見つめ、彼は引き出しを戻すと椅子から立ち上がった。用は済んだ。ならば、長居は無用だと彼は足早に書斎に取って返した。


「アルヴィン殿、俺はこれで失礼します」


 書斎を後にしたゲアハルトは邸を離れる為にメイドらと共に慌ただしく動き回るアルヴィンに声を掛ける。彼は足を止めると、「大したお構いも出来ず、申し訳ありません」と恐縮した様子で眉を下げながらゲアハルトの方に足を進めた。そんな彼に気にしないようにと口にするも、不意にアルヴィンが物言いたげな様子をしていることに気付いた。考えるまでもなく、アイリスのことだろうと気付いたゲアハルトは僅かに視線を伏せた。


「……司令官、お嬢様は見つかるでしょうか」


 アルヴィンの口から漏れた声は悲痛な響きが籠っていた。彼が最後に会ったのだ。最後まで一緒にいたのは、アルヴィンだった。アイリスと離され、すぐに鈍器で頭を殴られたのだと言っていた。そんな彼が自分を責めていないはずがなかった。アイリスから離れなければ、そもそも、彼女に縁談の話をしなければよかったと、そう思っているに違いない。
 握り締められた拳は微かに震えるほどであり、見ていてとても痛々しかった。ゲアハルトは、アルヴィンの問い掛けに口を噤んだ。アイリスの捜索を中止したことを、伝えられるはずもなかった。アルヴィンの激昂が恐ろしいわけではない。掴み掛かられたとしても、それを止めることは容易いのだ。
 ただ、単純に、伝えられないと思ったのだ。伝えたのならば、彼がどのような行動に出るか分からない。そのような指示を出したゲアハルトを詰るかもしれない――それならばまだいい。アルヴィンが一人で邸を飛び出してしまうかもしれないことを思うと、憚られたのだ。勝手な行動を取られて、それでまた何かあったのなら、それこそゲアハルトはコンラッドに顔向けできない。
 とは言っても、アイリスを易々と誘拐されてしまった上に捜索を打ち切るという指示を出した自分は、コンラッドに顔向けすることなど既にできないようなものなのだ。今更、気にしたところでどうにもならないことは分かってはいるのだが、それでもアルヴィンまで同じような目に遭わせるわけにはいかない。


「……手は尽くしますが、何とも」


 だからこそ、結局は当たり障りないことを口にすることしか出来ない。アルヴィンも恐らくは分かっているのだろう。ゲアハルトがどのような指示を出したかまでは分からないかもしれないが、彼も決して世情に疎い人間ではない。ヒッツェルブルグ帝国と戦端を開いている以上、最優先される事柄は帝国のことであり、兵士が最優先に回される事案も帝国に関することであると。ならば、手を尽くしているというゲアハルトの言葉の裏に込められた意味も何となくは理解しているはずなのだ。
 現にアルヴィンの顔から血の気が失せている。それでも、元々は彼がアリイスに縁談の話を打ち明けたのだ。声を荒げてゲアハルトを詰るようなことを、彼はしなかった。出来なかったのだ。仕組まれていたことに気付かず、根負けしてアイリスに打ち明けてしまったのは他の誰でもなく、アルヴィン自身だったのだから。


「……失礼します」


 それ以上、掛ける言葉はなかった。ゲアハルトはきゅっと唇を噛み締め、拳を握り締めた後にアルヴィンの傍をすり抜けた。そして、そのまま足早にクレーデル邸を後にすると、待たせていた馬車に乗り込む。そして、付いて来ていた兵士にアルヴィンらに暫くの間、付いているように伝える。
 さすがに今の彼らを放り出しておくことは気が引ける。こちらの都合で邸を離れてもらうのだから、兵士を数人付けることぐらいはするべきことである。何事もなければ数日のうちに邸に戻れるだろうが、万が一のことがあれば彼らは帰る場所を失うかもしれないのだ。ゲアハルトは敬礼の後に邸へと取って返す兵士らを見送ると、残っていた兵士を一人、呼び付ける。


「“ふくろう”に昨晩のあいつのアリバイを調べさせろ」
「了解です」


 特に特徴らしい特徴のない顔をした兵士は浅く頷くと、そのまま近くの路地裏へと消えていった。恐らく、彼が戻る頃には何かが動き始めているだろうというある種の予感を感じながらゲアハルトは彼の背中を見送る。何者かが、カサンドラと手を結ぼうとしていると仮定した時、思い当たる人物が一人だけいたのだ。しかし、出来ることならば、自分の予感など外れて欲しいと思うも、こういう時の予感ほど、外れてはくれないことも知っていた。頭のどこかでこの予感は的中すると分かっているからこそ、今から様々な仕掛けをしているのだろうとも思った。
 ゲアハルトは眉を寄せる。何処で何を間違えたのかが分からない。気付いた時には何もかもが手遅れで、雁字搦めになってしまっていた。自分がもっと早くに気付いていたのなら、状況は変わっていたのだろうかとも思うも、結局のところは、分からない。分からないからこそ、最悪に備えて今自分に出来ることをするしかない。
 ローブのポケットから小袋を取り出した彼は近くにいた兵士に「軍令部でアイリスが使っていた部屋を片付けて、荷物は一先ず騎士団の宿舎に移動させてくれ」と伝える。そして、取り出していた小袋をその兵士に手渡し、これも荷物と共に宿舎でアイリスが使っていたベッドに置いておくようにと言い渡す。


「了解しました。ご指示は以上でしょうか」
「ああ。出してくれ」


 ゲアハルトが頷くと馬車は緩やかに動き出した。それと同時に護送についていた兵士らも馬を駆って並走し始める。ゲアハルトはその様子から視線を外すと、瞼を閉じて深く息を吐き出した。どうしようもなく、心が重たかった。少しでも気を抜けば、彼女がどうしているのかを考えてしまう。どうにか出来なかったのかと後悔の念が押し寄せてくる。
 だが、今はそれを考えている余裕はない。アルヴィンとの話の中で浮かんで来た事柄を考えなければならないのだ。どうしてアイリスが誘拐されなければならなかったのか。エラルド・アルバトフでならなかった理由は何なのか。そもそも、カサンドラらは誰と手を結ぼうとしていたのか――その答えが外れることを、ゲアハルトは心の底から願っている。
 けれど、その答えが出るのも何事もなければ恐らくは数日後だ。逆に言うと、まだ時間はあるということだ。思い浮かんだそれがただの可能性に過ぎず、杞憂に過ぎない証拠を見つけ出せばいい。ゲアハルトは浮かんだ疑念を打ち消してそう強く自分に言い聞かせるも、一度浮かんだ疑念はなかなか晴らすことは出来そうになかった。



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