恋情 - the treachery -



 アイリスが隠れ家の一室に閉じ込められてから既に数日が経っている。そろそろカインも南方から戻って来ることは明らかであり、タイムリミットが迫っていた。それでも、未だにアベルは彼女と顔を合わせられずにいた。何度も部屋の前まで足を運ぶにも関わらず、あと一歩、踏み出すことが出来ないのだ。声を掛けることも出来ず、ただ、扉に触れて、それで終わる。
 それでも、今日の彼は違っていた。その手には大きな袋が抱えられ、アベル自身の格好も身動きの取りやすい軽装の着替えたものだった。アイリスが閉じ込められている一室の前に立ち、その扉を真っ直ぐに見つめる。それから窺うように階段の方を一瞥し、それから意を決した様子でひんやりと冷たいドアノブを握り締めた。
 ゆっくりをそれを回すと、微かな音を立てて扉が開いた。本当はノックをしてからの方がいいのだろうが、それをする余裕も今のアベルにはなかった。少し力を入れただけで扉はすんなりと開いてしまう。そうしたのは他ならぬ自分自身だが、思っていたよりも大きく開いたドアにどきりと心臓が緊張で跳ねた。そして、薄暗い部屋の中、ベッドの上には手錠と足枷を嵌められて拘束されたままのアイリスがいた。月明かりに照らされたその顔は驚きに満ち、掠れた声でアベルの名前を呼んだ。


「……うん」


 それしか、言えなかった。もっと他に、言いたいことは山ほどあったのだ。痛いところはないか、苦しくはないか。何もされていないか。言いたいことも聞きたいこともあったのに、アイリスの顔を見た瞬間、それらは全て吹き飛んでしまった。
 囚われている彼女は、それでも綺麗だった。着飾った姿を見たのは今が初めてであり、これではまるで物語に出てくるお姫様だと思うも、それならば今からアイリスを連れて逃げ出そうと考えている自分はどこかの国の王子かと思うも、アベルはそれを自嘲気味に鼻で笑って一蹴した。彼女は兎も角としても、自分が王子などおこがましいにも程がある、と。


「……迷って迷って、ずっとこの数日、迷って……やっと決めたんだ」


 音を立てないように注意しながら扉を閉め、アベルは少しだけアイリスに近付いた後に呟いた。本当に、迷っていたのだ。アイリスに合わせる顔がないと思っていることは勿論のこと、彼女と会えばきっと自分はもうこの場所に戻って来ることはなくなるだろうとも思っていた。つまり、鴉の人間を――帝国を裏切るということだ。
 カインは自分を許さないだろう。そのことを思うと、どうしようもなく胸が痛んだのだ。彼を捨ててまで、アイリスを助けてこの場を逃げることを、自分は選ぶことが出来るのだろうか――その選択に後悔はないのかと、悩みに悩んで、苦しかったのだ。


「……アイリス」
「……」
「僕はあんたを帰したい。あんたは、此処にいちゃいけない」
「……アベル」


 エルンストがこのような強硬な手段に出た理由が、分からないわけではないのだ。アベル自身、ベルンシュタインにいた頃は少なからずエルンストの危うさに気付いていた。それでも、アベルがいた頃はこのような手段に出るほど危うい状態ではなかったのだ。いつから拗れ始めたのかは知れない。けれど、このまま仮にエルンストがアイリスを迎えに来たとしても、彼に彼女を預けることはどうしても出来ないと思った。
 それでアイリスが幸せならば、自分は彼女の前に姿を現すことはなかっただろう。けれど、そうではない。エルンストがたとえこの場所に辿り着いたとしても、それはアイリスの幸せにはならない。ならば、彼女が深く傷つけられてしまう前にあるべき場所に帰してあげたいと思ったのだ。


「あの馬鹿軍医は此処まで辿り着けないと思う。司令官だって馬鹿じゃない。いくらあんたが誘拐されたからって判断が鈍る程、甘い人間じゃないのは僕だって分かってる」
「……」
「馬鹿軍医は司令官が止めるよ。だから、あんたは帰ってあの馬鹿に説教しなきゃいけない。……だから、あんたは僕が帰してあげるんだ」


 自分に言い聞かせているみたいだなとも思った。言葉にしなければ、アイリスを前にはっきりと宣言しなければ、翻意してしまいそうになるほど、今もまだ自分は揺れているのだとも自覚する。アイリスを帰すということは帝国への裏切りだ。とは言っても、彼女の誘拐は帝国の意思ではなく、カサンドラとエルンストの個人的な契約によるものだということをこの数日のうちに知った。
 エルンストはどうしても、アイリスを手に入れたかった。その焦り故に、カサンドラに付け込まれる結果となり、彼は今にもベルンシュタインを裏切ろうとしているはずだ。それを止めることは、恐らく出来ないだろう。アイリスを帰す頃にはきっと、全ては終わってしまっているはずだ。
 カサンドラはエルンストの応援に行くと言っていた。しかし、だからといって状況が大きく変わるとも思えない。彼女が捕まるような失敗を犯すとは思っていないが、少なくともエルンストは捕まるだろう。そうなると、カサンドラがアイリスを生かしておく理由はなくなる。――やはり、今しかないのだ。彼女やカインがいない、今しかない。


「……アベル、でも」
「……あんたが言おうとしてることは分かってる。だから、今まで迷ってたんだ」


 カインのことを言おうとしているのだということはすぐに分かった。彼女も、どのような形であれ、カインがアベルのことを本当に大切にしているのだということは分かっているのだろう。それを、自分の所為で裏切らせることで関係を拗らせることを危惧しているのだ。こんな状況なのに、僕のことまで心配しなくていいのに――アベルそう思いながらも、アイリスのその変わらない優しさが、嬉しくもあった。
 自分はどうしようもないほど、彼女のことを傷つけていた。許されないことをしたのだ。それでも、王都では自分を探し出そうとして無茶なことまでした。どうしてアイリスはこんな自分のことに、今も変わらず優しさを見せてくれるのか、気遣ってくれるのか、それが不思議でならなかった。けれど、彼女はこういう性格だったことも思い出す。捨て切れない甘さだと言ってしまえばそれまでだが、その優しさに自分は救われもしたのだということも思い出した。
 けれど、その優しさは毒と紙一重だ。自分にとってアイリスのそれは優しさだった。だが、エルンストにとって、それは毒と同義だったということだ。一度でも触れてしまえば、じわじわと心の奥底まで染み渡る、甘い甘い毒だ。それが毒だと気付いた頃には既に遅い、そんな性質の悪い優しさなのだとアベルは目を細める。


「僕はカインのこと、あんなだけど、大切に思ってる。僕の為に色んなものを捨ててくれた」


 だから、僕はカインに捨てさせてしまったもの以上のものを与えなくちゃいけない。
 ずっとそう思っていたのだと、アベルは言った。自分と共にいる為に、家族を捨てさせてしまった。自分は兎も角としても、カインのことは少なくとも両親は可愛がっていた。自分と一緒に来なければ、カインはきっと家族の中で幸せに暮らしていたはずだった。だから、彼に捨てさせてしまったことで得ることの出来なかった幸せを与えなければいけないと思ってきた。自分に今までそれが出来ていたかどうかは知れない。それでも、そう思ってずっとカインの傍にいたのだ。
 隣にいると、兄は笑ってくれた。嬉しそうにしてくれた。幸せそうに、してくれたのだ。だから、これでいいと思っていた。自分がどうしたいかなどどうでもよかった。けれど、今はそうではない。ベルンシュタインに行って、カインや鴉の人間以外と関わるようになって、汚いだけの人間と関わり合っていた頃よりもずっと、毎日が少し、楽しく思えた。アイリスと会ってからは、もっと、楽しくなったように思う。
 その楽しさを感じる度に胸が痛んだ。自分はスパイとしてベルンシュタインに来たのだ。楽しんでいる場合ではない、彼らは仲間ではない――何度となく自分自身に言い聞かせて来たことだった。それでも、駄目だった。心の底からそう思うことは出来ず、出来ることなら一緒にいたいとさえ、思ってしまった。


「でも、いつの間にかあんたのことがカインと同じぐらい、大切になった」
「……アベル」
「あんたと一緒にいたいんだって、……本気でそう、思ったよ」


 こんなことを本人に言うことになるとは思ってもいなかった。本当は、口にするつもりはなかったのだ。けれど、今言っておかなければもう言えないように思えて、気付けば口を突いて出ていた。
 アイリスは驚いたように目を見開いている。だが、すぐに顔を歪めてじわりと紫色の瞳の端に涙が浮かんだ。泣き虫なところは少しも変わっていなかった。そのことについ、苦笑を浮かべてしまう。離れてから時間が経っているように思えてならないが、まだ半年も経っていないのだ。しかし、半年しか経っていないにも関わらず、あまりにも今と以前とでは状況が違っている。今だって刻々と状況が変化していることを思うと、これ以上、ゆっくりしているわけにはいかない。
 アベルはアイリスの傍に膝を付くと、ポケットから取り出した針金を彼女の足を拘束している足枷の鍵穴に差し込んだ。そして、ものの数秒で足枷を取り去ると、今度は手錠を解除しに掛かった。


「これが取れたらそこの袋の服に着替えて。さすがにその格好は目立つし動き難い」
「でも、アベルは本当に、」
「いいんだ。……どっちにしろ、後悔はするんだから。あんたを見捨てても、カインから離れても。だったら、あんたを帰す方がずっといい」
「……」
「僕がカインから離れてもカインは死なないし、あんたを見捨てたとしてもカインは死なない。でも、あんたは違うでしょ」


 あんたは僕が今ここで逃がさなきゃ、多分カサンドラに殺される。
 それだけは紛れもない事実であり、それこそはアベルが何が何でも回避したい事柄だ。ならば、自分が取るべき選択は悩まずとも最初から決まっていたようなものだ。後はその選択をする為に踏ん切りを付けなければならないというだけのことだった。思い返してみれば、最初から答えは出ていたようなものなのだ。
 それでも悩んでいたのは、カインが自分のたった一人の肉親だったからだろう。たった一人の兄であり、家族であり、血を分けた存在だ。誰よりも特別だったからこそ、自分の中から切り捨てることが容易ではなかった。
 アベルはかちゃりと小さな音を立てて外れた手錠をベッドへと放り、赤くなっているアイリスの手首に触れた。「痛い?」と尋ねると、彼女は首を横に振った。そのまま顔を伏せてしまうも、黙り込んだのは僅かな間であり、すぐにベッドから立ち上がると近くに放り出していた袋を開け始めた。そこにはアイリスに用意した服だけでなく、数日分の食糧が入っている。


「あっち向いてる。用意が出来たら声を掛けて」


 それだけ言うと、アベルは扉の近くに立ち、アイリスに背を向けた。暫くすると微かな衣擦れの音がする。それを意識的に聞かないようにしながら、これからどのように逃げるかを算段した。隠れ家にはブルーノが詰めている。が、彼はあまり見張りとしての仕事をする気はない様子だった。どういうつもりかは知れないものの、だからといって油断するわけにはいかない。
 隠れ家の離れには帝国兵らが寝起きしているが、その殆どが今はカインに連れられて南方に任務の為に出払っている。そのため、隠れ家を脱出するだけならば、決して難しいことではない。ブルーノがどの程度の手練かはアベルも詳しいことは知らない。カサンドラが留守に残すぐらいであるため、それなりに手強いことは予想出来るものの、普段の態度からはまるで実力を推し量ることは出来なかった。それ以上に脅威に感じられる者はやはりカインである。彼と上手く鉢合わせないように王都ブリューゲルまで辿り着かなければならない。それが問題だった。大きく迂回すれば鉢合わせする可能性もぐっと低くなるだろうが、その分、王都まで時間が掛かる上に迂回することは脱出したことが知られればすぐに勘付かれるだろう。
 かと言って、最短距離で王都に向かうことも危険だった。王都には今、カサンドラとアウレールがいるのだ。彼らと鉢合わせすることを考えると、やはり迂回して時間を稼ぐべきかとも思う。脱出するにしてもどちらが確実かと考えていると「……アベル、準備出来たよ」というアイリスの声が聞こえて来た。


「それじゃあすぐに、」


 出よう、と口にしようとした矢先、がちゃりと音を立てて扉が開いた。扉が開くまで接近されていたことに気付かなかったアベルとアイリスは揃って目を見開くも、すぐさま彼はナイフを取り出すとそれを部屋に足を踏み入れた人物に突き付けた。が、刃先が身体を抉ることなく、「あっぶねーなー」という声が聞こえてくる。


「そろそろ動くだろうとは思ってたけどマジかよ……あー面倒くせ」
「……ブルーノ」
「別に会うのは勝手にしろとは言ったけど、連れ出されるとなるとな……」


 さすがに見過ごすわけにもいかねーし、とブルーノは面倒そうに言いながら頬を掻いた。口ではこう言い、態度からも絶対に逃がさない、という意志は感じ取れない。だが、態度とは裏腹に隙はなかった。
 それでも、見つかったからといって退くわけにはいかない。この機を逃せば、アイリスを連れて逃げ出すなんてことは出来ない。元々、アベルも簡単に逃げ出せるとは思っていなかった。ナイフを構えながら彼は油断なくブルーノを睨みつけた。



 





 夜も更け、薄暗い医務室には月明かりが差し込んでいた。離れた食堂も既に人が疎らになっている頃合なのか、宿舎も全体的に静まり返っている。そんな中、エルンストは執務机と向き合っていた。引き出しから取り出した便箋にペンを走らせては手を止め、そしてまた、ペンを走らせる。
 時折、窓を叩く少し肌寒い風の音とペン先が便箋を引っ掻く音しか聞こえない、とても静かな夜だった。


「……案外、書くことって多いな」


 新たに便箋を取り出しながらエルンストは微苦笑を浮かべた。もっと書くことなどないかと思っていた。しかし、一度便箋にペンを走らせると後から後から言葉が溢れて来た。他にも手紙を残したい人物が増えてきた。最初はゲアハルトだけで十分だと思っていた。けれど、エルザにも書いておこう、ヒルデガルトにも書いておこう、レックスやレオにも書いておこうと思ってしまう。そして、どうなるか分からないからこそ、アイリスにも書いておこうとも思った。
 正直、自分勝手だとも思った。この時ほど、自分勝手だと思ったことはなかったかもしれない。自分にはこうして手紙を書いておきたいと思える相手がいた。自分で思っていたよりもずっと、居心地のいいだと思っていたらしい。今更ながらにそれを知ったところで、もうどうすることも出来ない。
 自分は完全に道を踏み外してしまった。一番大事なものを手に入れる為に、他の大事なものを捨ててしまった。壊しそうとしている。そして、一番大事なものさえ、他のどこよりも危険な場所に置き去りにしてしまった。あの時はそれが正しいと思ったいた。ならば、今はどう思っているのか――道を踏み外したとは思っている、間違っていたとも思っている。それでも、彼女のことに関してだけ言えば、まだどこかで、正しいと思っている自分がいることも確かだった。
 こうして冷静になってみてもまだそう思っている自分がいるのだ。相当、自分は狂っているらしいとエルンストは客観的に考えていた。追い詰められた人間ほど、何を仕出かすか分からないとは常々思っていたし、それを見てきたが、まさかそれが自分の身に起きるとは思っていなかった。自分はそれほど弱い人間だったのだろうかと思うも、今更そのようなことを思ったところで遅い。


「謝ることが出来ればいいけど……」


 謝らなければならないことだらけだ。本当に、申し訳なさでいっぱいだ。それでも、もう戻ることは出来ない。此処で立ち止まることが出来ればいいのだろう。けれど、その気にもなれなかった。堕ちるところまで堕ちたのだ。後戻りする道などなくなっている。自分が立ち止まれば、アイリスは殺されるだろう。彼女を手に入れる為に、彼女を担保に悪魔と取引したのは他の誰でもなく自分自身であり、まだ、アイリスを諦めたわけではないのだ。
 今はまだ冷静になっているものの、恐らくこの手紙を書き終えればまた焦りに満ちた自分に戻るのだということにも分かっていた。何を捨ててでも、今でも本当に、アイリスのことが欲しくて堪らなかった。たとえ拒否されたとしても、それでも傍にいて欲しかった。いつからそんな風に思うようになったのかも知れない。気付いた時には、彼女はなくてはならない存在になっていた。
 エルンストは小さく唇を噛む。もう戻れない。だから謝るしかない。謝って、許してくれなくていいから、せめて謝らせて欲しかった。自分は裏切り者だ。自分の欲を何よりも優先して、守りたかったはずの彼女を危険に晒してでも、手に入れようとした。手に入れたなら、後はベルンシュタインを離れて二人でひっそりと生きたかった。誰にも邪魔されず、二人だけになりたかった。その為に、カサンドラの手を取ったのだ。そうでもしなければ、自分はベルンシュタインから離れることは出来ないからだ。


「結局、俺は自分のことばかりだ」


 絞り出す様な声音でエルンストは自嘲した。アイリスの意思を無視し、自分の気持ちばかりを押しつけた。自分の願いだけを押しつけたのだ。挙句、このような暴挙に出るのだ。誰も許してはくれないし、アイリスも自分のことを許さないだろう。嫌われるだろう。それでも、もう駄目なのだ。
 ペンを置くと、エルンストは感慨深げに医務室を見渡した。明るいうちからなるべく綺麗にしようと掃除もした。私物も片付けた。それでも、医務室を見渡せば、様々な記憶が蘇る。それはどれも、医務室には似つかわしくない、温かな思い出ばかりだった。それが自分を押し留めようとしているようにも思え、エルンストは頭を振って記憶を外へと追いやろうとする。


「……さようならだ」


 ぽつりと彼は呟くと、椅子から立ち上がった。そして、着ていた白衣を脱ぐと、それを折り畳んで机の上に置いた。書き上げた手紙をその上に残し、エルンストはソファに投げ出していた剣を持つ。第一騎士団に所属していた時に使っていたものであり、まさかまた使うことになるとは思いもしなかった。使わずに済めばいいが、こればかりはどうなるかは分からない。
 使いたくないのならば今すぐ剣を捨てればいい。アイリスが何処にいるのかも教えて、全て自供してしまえばいい。そう叫ぶ自分もいる。そうすればまだ間に合う、と。けれど、エルンストは耳を塞ぎ、そんな最後の良心さえ切り捨てる。もう戻れるはずがないのだ。自分が堕ちるところまで堕ちてしまった。もう以前の自分とは違うのだ、と唇を噛み締める。
 カサンドラの手を取った時点で、今までの自分は死んだ。憎み、心の底から憎悪し、殺してやりたいとさえ思っていた相手の手を取ったのだ。その時に、自分は壊れてしまった。否、もうずっと壊れていた。兄が死んだ時に、一緒に自分も壊れていたのだ。それでも、ゲアハルトに支えられ、ヒルデガルトやエルザにも支えられて、何とか立っていただけのことだ。そうして、心の底から欲しいと思った相手が出来てしまった。そして、想えば想うほど、心は枯れて、また罅が入っていった。
 自分は弱い人間だ。欲にも勝てず、独りよがりな弱い人間だ。自分ではもう止まることさえ出来ない、壊れた人間なのだとエルンストは顔を歪めた。それでも、どうしてもどうしても、欲しいのだ。自分のことだけ見て欲しい、自分のことだけ想って欲しい。それが無理なら、どうか傍にいて欲しい。自分の一番近くに、いて欲しい。その思いだけが胸の奥深くに巣食ってしまった。


「さようなら」


 ぽつりと呟く。それは自分自身に告げたようだった。自分に残っていた、切り捨てた良心への別れの言葉だったのかもしれない。エルンストは医務室の裏口から外に出ると、足早に軍令部に向かった。慣れ親しんだ道であり、抜け道も知っている。人目に付かずにゲアハルトの執務室に行くことは決して難しいことではない。
 そして、彼の行動パターンも熟知していた。今頃、執務室を離れて食事に出ている頃だろう。その隙に有事の時の為にと知らされていた白の輝石を隠している場所を暴けばいい。それだけのことだ。たったそれだけのことをして、白の輝石をカサンドラに手渡せば、それで終わりだ。
 脳裏にアイリスの顔が過った。それと同時に焦りと申し訳なさと喜びが綯い交ぜになった複雑な気持ちになる。全て自分の欲の押し付けであり、独りよがりなことだとは分かっている。このようなことをしても決してアイリスは喜ばないことぐらい、分かっている。他の誰をも苦しめることでしかないことも全て分かっているのだ。それでも、彼女の顔の後に浮かんだゲアハルトやエルザらの顔に罪悪感が込み上げる。
 本当は、止めて欲しかったのかもしれない。心の何処かで、気付いて、自分の凶行を止めてくれることを望んでいたのかもしれない――そう思うと、何て自分は身勝手なのだろうかと反吐が出そうになった。辿り着いた執務室の扉の鍵をこじ開け、エルンストは室内に身体を滑り込ませる。


「……何か、泣きそうだ」


 これでいい、あともう少しだと思うのに、白の輝石があるであろう場所を前にしても手が動かなかった。じわりと目頭が熱くなる。この期に及んで、泣きそうになるなんてと自己嫌悪に陥るも、それと同時に急に、怖くなったようにも思えた。自分が心の底からしようと思ったことは今まで何だって他者に止められて来た。自分の欲しかったものは全て兄が持っていた。兄から全て奪おうと思うと今度はカサンドラに兄自体を奪われた。何かを成し遂げたことなど、思えば一度たりともこれまでになかったかもしれない。
 だからこそ、今回も何処かで誰かが止めてくれるかもしれないなどと、思っていたのかもしれない。そんな自分があまりに情けなくてエルンストは拳を握り締めた。戻れないことぐらい分かっている。何をしたところで、もうどうしようもないのだ。アイリスを手に入れる為に全てを捨てた。そのことに後悔はない。ならば、さっさと白の輝石を手に入れて少しでも早く彼女の下に行くことが、せめてもの償いだろうと自分に言い聞かせ、エルンストが白の輝石をゲアハルトが隠したという本棚に並ぶある一冊の書籍に手を伸ばした。その頁をくり抜いて作った本の中に隠してあるのだという。
 本を手に取り、エルンストは恐る恐るそれを開く。そこには確かに、白く鈍い色をした小さな石があった。が、それを握り締めると同時にがちゃ、と扉が開く。ばさりと本が足元に落ちた。開いた扉を振り向くと、そこには、酷く悲しげな顔をしたゲアハルトが立っていた。



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