恋情 - the treachery -



 ブルーノと睨み合うアベルはちらりと視線を背後のアイリスに向けた。数日間、幽閉されていたわけだが、動けないほど身体が弱っているというわけではないらしいことに安堵する。ブルーノを切り抜けた後も、離れにいる帝国兵らと鉢合わせるかもしれないのだ。戦えなくとも、走れなければ逃亡することなど出来ない。
 目の前にいるブルーノは相変わらず何を考えているのか分からなかった。頭を掻き、時折唸り声を上げている。困惑しているような様子も見て取れるものの、どうして困惑しているのかがアベルにはその理由が分からない。しかし、隙がない以上、下手に動くわけにはいかないのだが、だからといって強引に突破することはあくまでも最終手段だ。出来るだけ騒ぎ立てずに迅速に抜け出したいところなのだ。こうして悩んでいる時間さえ惜しく、アベルは致し方ないと内心舌打ちすると、「フェンリルっ」と自身が契約している召喚獣を呼び出す。


「そりゃなしだろ……」
「ありもなしも関係ないね」


 名前を呼ぶと同時にアベルの背後の空中に浮かび上がった魔法陣からブルーノよりも大柄な体躯、鈍く光る鋭利な牙を持った狼が現れた。絨毯を切り裂く研ぎ澄まされた爪が床を掻き、すぐ傍に現れた狼の姿にアイリスが短い悲鳴を上げる。けれど、今はそれに気遣っている暇はない。
 兎に角、ブルーノの相手に時間を割いているわけにはいかないのだ。彼に手こずればそれだけ他の帝国兵らが騒ぎを聞きつけて来るかもしれない。何より、カインが戻って来るかもしれないのだ。それだけは避けたいからこそ、アベルは惜しむことなくフェンリルを召喚した。これでアベルは圧倒的に優位な形勢に立った。たとえ、カサンドラから留守を任されるブルーノであってもアベルと召喚獣を一気に相手にすることは容易なことではないはずだ。
 現に今、ブルーノは顔を引き攣らせて僅かに一歩、後退した。無意識の行為であったとしても、一歩でも後退するということはそれだけ勝ち目がないということを本能的に理解していると言える。アベルは一歩踏み出し、ナイフを突き付ける。


「ああ、もう分かった、降参する」
「嘘だ」
「本当だっつの。召喚獣まで出されて俺に勝ち目なんてあるかよ」


 ナイフを突き付けた途端、やってられないとばかりにブルーノは両手を上げた。思ってもみなかった彼の降参の宣言にアベルとアイリスは目を見開いた。カサンドラに留守を任されている以上、何が何でも逃がさないとばかりに思っていたのだ。だからこそ、アベルはすぐにはブルーノの言っている意味が理解出来なかった。否、少なからずカサンドラという人間を知っている者にしてみれば、ブルーノの降参の宣言は気でも狂ったのではないかと思えてならないようなものだった。
 しかし、ブルーノの様子を見ている限り、気が狂ったとは思えない、正気そのものの様子だった。だからこそ、アベルにしてみればどうして、と思わずにはいられない。それはアイリスも同じらしく、困惑した様子が伝わって来る。


「どういうつもり」
「どういうつもりも何も言っただろ、俺に勝ち目はないって」
「……だとしても、こんなにすんなり降参するなんておかしいと思わないわけないでしょ」
「疑い深いな、お前も。こんなところでそんな問答してる場合でもないだろ」
「それは……」


 ブルーノの指摘通りだ。時間が惜しいということに変わりはなく、ブルーノが降参の意を示している以上、どういうつもりかは気になるものの、すぐにでもこの場を離れるべきなのだ。しかし、やはりすぐにはナイフを下げることは出来ない。そんなアベルの様子にブルーノは「お前も面倒な奴だな」と呆れたように溜息を吐いた。


「俺はお前らを負うつもりはない。が、逃げる前に俺を殴ってからにしろ。さすがに無傷で逃げられたとなると俺も困る」
「……あんたに何か得でもあるの?僕たちを逃がして」
「あるわけねーだろ。寧ろ、大損だ」
「だったら……」
「何度も言わせんなよ、勝ち目がないからっつってんだろ」


 そう言いながらブルーノは溜息を吐く。しかし、「まあ、他に理由を強いて挙げるなら」と付け足すように口を開くと、あっけらかんとした様子で緩々とした動作でアベルとアイリスを指差して「お前らがまだガキだから」と何気ない口振りで言った。その然も当たり前だと言わんばかりの様子にアベルとアイリスは揃って目を見開いた。


「ガキが痛めつけられてるところなんて見たくねーし、やりたくもねーよ。そういう趣味はねーし、後味悪過ぎんだろ」
「……何、甘いこと言ってるの。子どもだとかそんなこと関係ないでしょ。分かってるの?僕らは逃げ出そうと、」
「それでも俺にとってはガキだっつの。それに俺が甘いからお前らは助かるんだろ、ああだこうだと説教してねーでさっさと俺を殴って逃げろよ」


 それで精々後で有り難がれ、とブルーノは鼻で笑う。それが本心であるのかどうか、アベルには分からない。本心であったとしても、どうして今この状況で自分たちが子どもだからとそのような理由で後々どうなるかも分かっているというのに逃がそうという結論に至るのかが理解出来なかった。
 殺されるかもしれないのだ。それでも自分たちを逃がすことでブルーノに何かしらの得があるとは思えない。彼も何処かから差し向けられた内通者なのだろうかとも思うも、恐らくそのような類ではないということは短い間ではあったがブルーノを見ていた為、その可能性はすぐに切り捨てる。
 根っからのお人好し、ということなのだろうが、それこそ自分の身を滅ぼしかけない性情だ。馬鹿じゃないのかとも思う。だが、彼のその甘さに自分たちは助けられることも明らかだ。しかし、ブルーノは後味が悪いとは言ったが、それはアベルらにも言えることではある。ブルーノがこれから戻って来たカサンドラやカインにどのような目に遭わされるかを考えると後味の悪さは堪ったものではなかった。


「あの、だったら一緒に行きませんか」
「は?俺は帝国の人間だぞ」
「司令官は生まれで判断するような方ではありません。ちゃんと話も聞いてくれるし、手荒なことだってしないはずです。……貴方を此処に残していくのは、わたしたちも後味が悪いです。だから、一緒に、」
「行かねーよ。その気持ちだけで十分だ」


 微苦笑を浮かべてブルーノは首を横に振った。「どうして」とアベルと問うも、彼は曖昧に笑ってフードを目深に被り直す。思えば、彼がその黒いローブを脱いでいるところは一度も見たことがなかった。そのローブの下に一体何を隠しているのだろうかとも思うも、「だって、此処に残ってたら貴方だってどんな目に遭わされるか分からないのに!」とアイリスが言い募る言葉が耳に届いた。


「いいんだよ。俺は此処を離れる気はねーし、離れられねーんだよ」
「……どういう意味?それ」
「気にするな。いちいち説明してる時間も惜しい。ほら、さっさと行けよ。ただし、俺を殴ることを忘れるなよ」


 アベルとアイリスは顔を見合わせる。どうにかしてブルーノを連れて行こうと思うも、連れ出そうとすれば抵抗することは間違いないだろう。この場に残るという彼の意志はアベルらが思っているよりもずっと強いものらしい。この場に残ることに何かしらの意味があるのかもしれない。だが、それが何であるかを推測するにしても、アベルとブルーノの付き合いはあまりに短く、手がかりさえなかった。
 仕方ない、とアベルはナイフを仕舞うと、その代わりに拳を握り締める。そして、それを「ほら、来い」と緩く笑うブルーノに思いっきりぶつけようとする。が、寸前のところで力がどうしても抜けてしまう。無抵抗の相手を殴ることに抵抗があるというわけではない。いくらでもやって来たことだ。ただ、少なからず自分たちを逃がしてくれることへの感謝もある手前、どうしても思いきれないところはあった。
 大して力も入っていなかったその一撃は僅かにブルーノをふらつかせるに留まった。それでも痛みはあるのだろう。ブルーノは殴られた箇所を押えて、「もっと思いっきりやれよ」と肩を竦めた。しかし、これ以上、繰り返させたところで上手くいかないということも分かっているのか彼はそれ以上、殴るように促すことは言わなかった。


「思いっきりやれって言ってんのに……甘いのはどっちだよ。ほら、もう後は俺が適当にやっておくからさっさと、」
「待って。……何、その傷」
「あ?……ああ、これか」


 ブルーノの首元に見えている大きな傷跡にアベルは顔を歪めた。回復魔法が一般的に広がっていることもあり、傷痕を身体に残すような人間はそもそも多くはない。それこそ、回復魔法師のいない地域や治療が遅れた者などが身体に傷痕を残すことが多いのだが、ブルーノの首元のそれは死んでいてもおかしくはないような、そんな大きな傷跡だった。
 見るからに決して古いものではなく、比較的新しい傷痕にも見え、アベルは眉を寄せた。そんな彼から傷痕を遠ざけるようにブルーノは左手でその傷跡を掴み、隠した。その時に捲れたローブの袖から見えた手首には目に鮮やかな赤い布が巻き付けられていた。「え、」と僅かに驚いたようなアイリスの声が聞こえ、どうしたのかと振り向いていると「兎に角、お前らはもう行けよ。ぐずぐずするな」とアベルはブルーノに背を押された。


「……分かった。アイリス、フェンリルに乗って」
「乗って、って……ええ!?」
「大丈夫。大人しいから」


 アベルはフェンリルの頬を撫でながらしゃがむように促すと、フェンリルは足を折り曲げてしゃがみ込む。アイリスは戸惑いながらも恐る恐るその背に跨った。落ちないように姿勢を整えさせつつ「馬だとすぐに追い付かれるだろうから我慢して」とだけ言うと、アベルはバルコニーに続く扉を開け放ち、慣れた様子でフェンリルの背を一撫でした後にアイリスの前に跨った。そして、自分にちゃんと掴まるように言うと、軽く柔らかな毛に覆われた背を叩いた。


「……一つだけ聞いてもいいですか?」
「何だよ」


 行こう、と言おうとした矢先、背後にいるアイリスが口を開いた。ブルーノは不思議そうな目で彼女を見返し、軽く首を傾げて先を促している。


「どうして、わたしに良くしてくれたんですか?」


 彼女にしてみれば当然とも言える疑問であり、アベルにとっても不思議だった。ブルーノはアイリスが攫われて来てから彼女の面倒を見るように命じられ、それ以前に接触はなかったはずだ。その割に、甲斐甲斐しく面倒を見ていたようであり、アイリスもそのお陰で幽閉されているにも関わらず、特に不自由はしていなかったようだ。偏にブルーノの性格故、と思うには、少々無理があるようにアベル自身も思っていた。


「……お前には一宿一飯以上の恩があるからな」
「一宿一飯以上って……道案内をしただけですよ」
「違う、そっちじゃない」
「え?」
「いいよ。知らないままで。……ほら、もう行けって」


 ぐずぐずしてると厄介なことになるぞ、とブルーノは急かすようにフェンリルの足を軽く叩く。行かなければならないことは分かっている。けれど、ブルーノに対して掛ける言葉が見つからないのだ。ありがとう、と言っていいものなのか、それとも謝るべきなのか、何も言わない方がいいかもしれないとも思う。
 けれど、結局は言葉は見つからず、アベルは目を一度閉ざすと深呼吸をする。そして、「アイリス、姿勢を低くして」とだけ言うと、最後に一度だけブルーノを振り向いた。彼がどういう意図で自分たちを逃がしてくれるかは知れない。もしかしたら、これもカサンドラに命じられていることの一つなのかもしれない。だとしても、アベルには逃げ切る自信があった――否、逃げ切らなければならないという責任があった。
 アイリスを生きて帰すのだということを決めたのだ。何が何でも、帰してあげたいと思った。そのためならば、どのような困難であっても切り抜けなければならない。アベルはブルーノに対して、一度だけ頭を下げるとそれっきり振り返ることはなく、「フェンリル、行こう」と声を掛け、自身も姿勢を低くすると絨毯を切り裂き、床を傷つけながら勢いよく夜の森へと巨大な狼が飛び出した。ぶわりと冷たい夜の風が身体を包み込む。それでも、腰に回された腕は温かで、その温もりだけが前に進む為の活力だった。








 耳触りな金属音が鳴り響く。暗い室内の中でさえ鈍く光る剣がぶつかり合い、その度に金属が室内に響いた。それ以外にも本棚や家具が倒れる耳障りな音が聞こえる。それでも、他に誰も駆け付けて来ないということは既に人払いが済まされているということであり、自分には見張りが付けられていたことが自ずと明らかになる。
 そういった者には慣れていたからこそ、それなりの対応をしてきたつもりでいた。しかし、全てを撒くことが出来なかったからこそ、ゲアハルトがこの場に現れたのだろう。たまたまではないことは剣を手にし、必要以上の問答しなかったことからも明らかだった。自分は泳がされていたのだろうかとエルンストは僅かに口元を歪めた。
 しかし、今となってはどうでもいいことだ。ゲアハルトには既に知られてしまっている。そして、自分の気持ちも変わらない。ならば、することは何も変わっていないのだ。アイリスを手に入れる為に白の輝石をカサンドラに渡す――たったそれだけのことだ。それだけのことが出来れば、自分は心の底から欲しいと思ったものを、初めて手に入れられるのだ。


「エルンストっ、もう止めろ!悪いようにはしないと約束する、だから、」
「止めないよ。止められたぐらいで止められることなら、最初からそもそもやらないよ。……もう戻れないんだよ」


 戻るつもりもない。否、戻れないのだ。自分は選んでしまった。自分のことを大事に思ってくれている友人よりも、それ以上に欲しいと思ったアイリスを手に入れることを選んだのだ。そのために、他の全てを切り捨てた。
 シュレーガー家を切り捨てることは容易かった。元より、厭ってきた存在だ。忌み嫌い、呪ってきた場所だ。自分が反逆することで少なからず害することになるだろうが、それでもよかった。これまで自分を抑圧して来た存在に対する復讐だとさえ思ったのだ。ディルクはきっと、自分がこのような行動に出るなどとは露とも考えていないことだろう。いい気味だと思った。
 けれど、他の全てを切り捨てることを選んでも、実行しても、少しだって胸が痛まなかったというわけではない。今もこうして剣を振るう度に未だに捨て切れていない心が痛んだ。自分のことを必死に止めようとしてくれる目の前の親友の姿に胸が痛む。分かっていたのだ。ゲアハルトが自分のことを信頼してくれていることも友人として大事にしてくれていることも、自分だって同じぐらいに信頼していたし、大事に思っていた。
 ただ、その方向性が自分とゲアハルトでは異なっていたことにも気付いていた。自分のそれは彼への依存そのものだ。裏の仕事を任されることでしか、信頼されているという実感を得られなかった。裏の仕事がある限り、ゲアハルトが自分を裏切ることはないのだと思うことでしか安心できなかった。歪んでいたのだ。他者との関係とは全て利己的なものだと考え、それを何よりも厭ってきた。そして、何の見返りもない関係性なんてものは幻想に過ぎないと蔑み、けれど、心の何処かでそれを渇望してもいた。自分の信じられないものを本当は何よりも信じたかった。
 彼とならば、そんな関係が築けるかもしれないと思っていた。もしかしたらゲアハルトは築こうとしてくれていたのかもしれない。だが、自分がそれを出来なかった。望みながらも、渇望しながらも、それを信じられなかった。何より厭った利己的な関係を自分自身が歪ませて作り出していた。そんな自分にエルンストは反吐が出る思いだった。


「……もう、いいんだよ。ライル」


 優しくしてくれなくていい、手を伸ばしてくれなくていい。もうその手を取ることは出来ないし、取るつもりもない。自分に止めるつもりはないのだ。それでも止めようというのなら、殺すつもりで来てくれないと――そう思いながらエルンストは微かに顔を歪めて笑った。
 止めようとしてくれるゲアハルトの優しさが痛かった。胸が痛んで痛んで、仕方なかった。そして、その痛みは僅かに正気を取り戻させもしたのだ。もっと早くに彼に話していればよかったのか、相談していればこんなことにはならなかったのか――今更ながらのことばかりが浮かんでは消えていく。
 けれど、もうそれらのことを思い出したくはなくて、考えたくもなくて、エルンストは一気にゲアハルトから距離を取った。そして、握り締めた白の輝石を一瞥する。これさえあれば、それでいいのだ。後は念の為に応援に来ているというカサンドラと合流し、これを手渡してアイリスを迎えに行けばそれでいい。そうすれば、後はカサンドラが手引きしてくれた帝国領の移動し、そこで戦争からも何もかもから離れて、彼女と二人だけで過ごせる。


「俺はもう行くよ。……じゃあね、」
「待てっエルンスト!」


 掌をゲアハルトに翳し、攻撃魔法を放とうと魔力を練り上げる。兎に角、この場を脱出することが先決だった。既に軍令部も包囲されているのだろうが、ゲアハルトがこうして説得している以上、緘口令を敷いている可能性は高く、包囲の為の人員も足りていないはずだ。包囲網を突破することは決して難しいことではない――そこまで考えた上で攻撃魔法を放とうとした時、「止めろ!」と一際大きなゲアハルトの制止の声が聞こえるのと同時に、翳していない方の手、白の輝石を握り締めている掌に猛烈な熱が襲った。
 咄嗟に視線をそちらに向ければ、白の輝石が光を放っていた。だが、それは覚醒を示す輝きではなく、魔法石特有の魔力に反応した状態だった。「偽物!?」とエルンストは声を荒げながらも咄嗟により光を増す白の輝石――魔法石を放り投げると、自身は防御魔法を幾重にも重ねて展開し、バルコニーの方へと駆け出す。そして、そこに飛び出した直後、大きな爆発音と共に背後から襲う爆炎に煽られて空中へと放り出される。
 エルンストは両腕で視界を守りながらも何とか姿勢を立て直して地面に転がるようにして着地し、炎に煽られるゲアハルトの執務室を見上げる。白の輝石の隠し場所として教えられていた場所にあったものは偽物だった。つまり、本物は別の場所にあるということであり、エルンストはすぐにゲアハルトに付けていた私兵から上がって来ていた報告を思い返す。この数日の間、彼が立ち寄った場所で白の輝石を隠しそうな場所、それは一か所だけだった。


「……クレーデル邸か」


 数日前、怪我を負ったアルヴィンを送る為にゲアハルトはクレーデル邸を訪れていた。だが、やけに戻りが遅かったという報告も併せて上がって来ていた。そこから考えられることは、彼がコンラッドの地下の研究室に白の輝石を隠した、ということだ。確かにあの場所ならば隠し場所に持って来いである。
 アイリスがいなければ本来ならば立ち入ることの出来ない場所である。しかし、ゲアハルトはどうやら彼女がコンラッドから託された曲を聞き覚えていたらしい。だが、それは何もゲアハルトにしか出来ない芸当というわけではない。試したことはなかったが、それでもエルンストには同じことをやってのける自信があった。否、やり遂げなければ意味がないのだ。
 エルンストはちらりと視線を炎が燃え盛る執務室へと向けた。ゲアハルトの無事は分からない。だが、白の輝石の偽物を仕込んでいた以上、自身が攻撃魔法を繰り出そうとした瞬間、防御魔法を展開することは難しいことではない。何より、このようなことでやられるほど柔な人間でもないことをエルンストは誰よりも知っていた。
 好機は今しかない――彼は自分自身にそう言い聞かせると、すぐに北区にあるクレーデル邸に向かって駆け出した。今ならば爆発の衝撃で軍令部に敷かれている包囲網も緩んでいるはずだ。エルンストはそのまま一気に駆け出すと、クレーデル邸への最短経路を頭の中で構築し、雨が降り出した夜闇の中を駆け抜けた。



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