恋情 - the treachery -



 ゲアハルトが部屋を飛び出した後、すぐにそこに集まっていた者たちは動き出した。しかし、レックスも第二騎士団を半数に分けるための内訳を軍令部の包囲を任された兵士と話し合うも、すぐには彼のように部屋を飛び出すことは出来なかった。納得がいかなかったのだ。すぐに動かなければならないことは分かっている。けれど、どうしてという吐き出すことの出来なかった疑問がこの場に足を縫い付けているかのようだった。


「……レックス」


 見かねた様子のレオが気遣わしげに声を掛けて来る。彼もまた、すぐに城に戻らなければならない身だ。下手をすれば、軍令部が戦場になるかもしれないのだ。レックスは顔を上げると、早くこの場を離れるようにと口を開こうとする。だが、口から突いて出た言葉はそれではなく、「司令官は、アイリスのことは見捨てたのに……何で、エルンストさんのことは……」という、微かに震えた情けない声音だった。
 どうして、と思った。否、頭では理解できているのだ。けれど、それを認めることが出来なかった。認めたくなかったのだ。認めてしまったら自分も彼女を見捨てたことになるのではないか、と。だが、分かっているのだ。ゲアハルトの命令に従って、アイリスを助けに行かなかった自分は何をどう思ったとしても、見捨てたことに変わりはないのだと。


「助けたいのは、誰だって同じだよ」
「じゃあ、」
「でも、司令官だって言ってたけど、アイリスの為に、たった一人の為に多くの兵士を死なせるような決断はすうべきじゃない」
「だったら、エルンストさんだったらいいって言うのか?!」
「そんなこと言ってない。……今回の場合は、エルンストさんはまだすぐ近くにいる。行軍するような距離でもない」


 声を荒げるレックスに対し、レオは辛抱強く言う。以前までならば、同様に声を荒げていただろうし、レックスのように納得できないと声を上げていたことだろう。そのことが予想できただけに、レオのこうした落ち着いた様子にレックスは言い返すことが出来なかった。無論、落ち着いているからといってレオがアイリスのことをどうでもいいと思っているわけではないということは分かっていた。それでも、その落ち着きがレックスの目には今は違った意味で見て取れてしまう。


「だとしても、……だとしても、エルンストさんには兵を割いてる。怪我人だって、下手をすれば死人だって出るかもしれないのに!」
「……戦力としての価値だよ」
「……っ」
「こういう考え方はオレだって好きじゃない。でも、今は戦争をしてる。エルンストさんの戦力としての価値は……はっきり言って、アイリス以上だよ。それにあの人はベルンシュタインのことを知り過ぎてる。どの道、捕縛出来たにしろ、出来ないにしろ、王都から出すわけにはいかない」


 捕縛が困難ならば手にかけなければならない。ゲアハルトはそのことを口にこそしていなかったものの、想定しているはずだ。捕縛出来たのならばいい。だが、それに失敗した時は――自分の手で彼を手に掛けることになる。その事実にレックスは目を見開いた。冷静になって考えてみれば、容易に思いつくことだ。現にこの場にいる誰もが口には出さなくとも、気づいていたことだろう。
 エルンストには道が残されていない。北の門が閉ざされる以上、逃げ道もほとんど失っているようなものだ。そのことを考えると、ゲアハルトはアイリスを見捨てるという判断以上に苦しい選択をしたとも言える。とは言っても、その選択肢しか存在しないのだ。それでも、彼はそれを選んだということは、きっと今の自分以上に辛く苦しく思っているのだということも想像に難くなかった。


「……そういう判断を下すのが司令官のやらなきゃいけないことで、オレもやらなきゃいけないことだと今なら思うんだ」
「……」
「みんな同じ気持ちだよ。助けたくて仕方ないのに、どうすることも出来なくて歯痒くて……辛くて苦しいんだ」


 そう口にしたレオの目の下には濃い隈が出来ていた。何日も――恐らく、アイリスが誘拐されてからというもの、満足に眠れていないのだろう。苦しんでいるのも、辛いと思っているのも自分だけではないのだ。ゲアハルトもきっと同じ気持ちのはずだ。そして、エルンストに裏切られたことを他の誰よりも辛く感じているのは他ならぬ彼のはずだ。


「それに、お前の所為じゃないよ」
「レオ……」
「アイリスが攫われた日、最後に会ったのが自分だからって……お前の所為じゃない。どうすることも出来なかったんだ。……エルンストさんが、引き越したことなんだからさ」
「……」
「でも、……あの人だって全てが悪いとは言い切れない」


 悪くないわけではない。だが、全てが悪いとは言い切れない。少なからず、エルンストの様子のおかしさには気づいていたのだ。その時点で声を掛けるべきだった。見逃すべきではなかったのだ。止めることは出来たのに、気づいていながらも何もしなかった自分たちにも非はあるのだ。エルンストだけの罪とは言い切れない。
 そして、レックスが自分を責める必要はないのだ。最後に会ったからといって、彼に非があったというわけではない。それこそ、どうしようもなかったことだ。最後に会ったのが自分だったのだからとレックスが責任を感じる必要はなく、だからといって必死になることもない。レオはぽんと軽くレックスの肩を叩き、「だから、せめて今自分に出来ることをやろうぜ」と眉を下げて笑った。


「アイリスはそんなに柔じゃない。今まで生き残ってきたお転婆だろ。それがオレたちが一番よく知ってることだろ」
「……ああ」
「あの子が帰ってきたときにエルンストさんがいなかったら、アイリスが悲しむ。……それに、鴉に捕まってるってことは、きっとアベルがいる。だからきっと、大丈夫」


 アベルがアイリスに危害を加えるわけがない、加えさせるわけもない――何の根拠もないが、それだけは信じられるような気がした。レオの言葉に徐々に自分自身を落ち着かせながらレックスは頷いた。こうして言われなければ気づけないことが多すぎたことに、自分の未熟さを痛感すると同時に少し離れているうちに随分とレオが成長していることにも気づいた。
 負けていられななと思う。アイリスは簡単にやられるような者ではない。アベルだっている。彼は少なくとも、アイリスのことを自分たちと同じように大切に思っている。だからこそ、きっと力になっているはずだと今は信じることを決める。彼女はきっと自力で戻ってくる。ゲアハルトだって、そう思っているはずだ。ならば、アイリスが戻ってきたときにエルンストがいないなんて事態を避ける為には今、自分が出来ることをするしかない。


「……そうだな。今はエルンストさんを止めて、後で全員で一発ずつ殴って目を覚まさせるか」
「顔ぼっこぼこになって誰か分からないなんてことにはならないようにな」


 肩を竦めて笑うレオを見やり、レックスは内心感謝した。そして、「もう行くよ、編成も終わってる頃だと思う。ついでに城まで送る」と声を掛ける。時間を食ってしまったが、迷いは消えた。後は、どのような結末を迎えることになったとしても、悔いが残らないように今、やるべきことに真っ直ぐに取り組むことが第一だ。
 レオは「それじゃあ頼むよ。正直、こうして守られなきゃいけないことには慣れないんだけどさ」と苦笑を浮かべる。けれど、それを厭うわけではなく、受け入れてはいるのだろう。レオの即位式はすぐ間近まで迫っている。そして、それが迫るということはヒッツェルブルグ帝国との全面戦争も間近に迫っていると言えるだろう。そのことを思うと、悩んでいる場合でも足を止めている時間もない。


「歯痒いことばっかりなんだ。国王なんて言っても、オレに出来ることはまだまだ少ない。でもさ、今オレがここを飛び出して戦列に加わったとしても面倒を増やすだけだってことも分かってる」


 軍令部の出入り口を目指しながらレオは少しだけ眉を下げて笑った。城で彼は戦っている。剣を交えるのではなく、駆け引きを繰り返しながら日々、自分よりもずっと年上の臣下と戦っているのだろう。その力に自分がなることは出来ないことに彼が言う歯痒さを感じずにはいられない。それでも、ちらりと見た隣にいるレオの目は真っ直ぐ前を見据えていた。いつも前を見ているアイリスとその眼差しが重なる。


「だから、オレはオレに出来ることをあそこでやるよ」
「……そうだな」


 出来ることは人それぞれだ。レオのように城で戦うことが出来る者もいれば、剣を手に戦う自分のような者もいる。そして、戦う以上は負けられないのだ。負ければ、自分が守りたいと思っているものを守れず、傷つけられてしまう。だからこそ、負けられないのだ。そのためには、自分に任せられたことをするしかない。
 軍令部を出ると、既に編成を終えた第二騎士団の半数の兵士が待ち構えていた。一様に緊張した面持ちだったが、箝口令が敷かれている以上、状況を詳しく説明することは出来ない。その代わりに「オレたちが任された任務は戦闘行為ではなく、あくまで牽制の為の出撃だ」と説明する。
 しかし、出撃する場所が北区にあるシュレーガー家近くとなれば、自ずと対象が誰であるのかということは知れてしまうだろう。しかし、だから言ってそれをレックスの口から伝えるわけにもいかない。ゲアハルトはそれを望んでいない。「本作戦は箝口令が敷かれている。今後、見聞きしたことは口外するな」と新ためて指示を出した後、既に北の門が閉ざされたという報告を聞く。レックスは一つ頷くと、すぐに兵を率いて動き出した。


「ここで十分だ。頑張れよ、レックス」


 北区に向かう途中、王城に続く門の前でレックスは足を止めた。本当ならば、その門の先まで送り届けたいところなのだが、今は時間が惜しい。それを知っていることもあり、レオはここでいいと口にしたのだろう。それでも心配げな顔をするレックスに「平気だって言ってんだろ、心配し過ぎ」と笑う。


「近衛兵だっているんだ。ちゃんと編成し直して、ちゃんと力のある人たちだから平気だ」


 そう言ってレオは、彼の姿を見つけて慌てた様子で城内から駆けて来る真紅の軍服を着込む近衛兵を顧みた。アイリスが異動となった時の近衛兵団は形骸化したようなものだった。キルスティやルヴェルチによって貴族の子弟が集められた集団だったそこも、今では実力が伴わなければ入ることの出来ないように整備され、逆に実力があれば誰でも入れるようにもなった。
 だから大丈夫だというレオにレックスは小さく頷くと、「行ってくる」とだけ言い残し、すぐに兵士らを連れて走り出す。彼らもレオのことを心配しているらしく、その表情は心配そのものだった。共に戦ってきた仲間が次期国王となるのだ。レオのことをよく知っているからこそ、心配にもなるのだろう。現に「あいつ、ちゃんと眠れてるのか?」「お菓子でも差し入れるべきかな」という囁き声が聞こえてくる。
 そのことにレックスは安堵した。レオはきっと誰からも好かれる王になれる。今はまだ力がなくとも、彼の力になりたいと思う者はきっと少なくはないはずだ。それが友情からのもでも、憧れからのものでも、何であったとしても、レオが孤独な王になることはないはずだ。そのことに安堵した。レオが心配してくれていたように、レックスもまた、心配していたのだ。
 だが、今はそのことばかりを考えてはいられない。「気を抜くな!作戦行動はこれからだ」と改めて声を掛けると、彼らも一様に表情を引き締める。やるべきことをやる――その気概が誰の顔にも溢れていた。だからこそ、もう自分も迷ってはいられないのだとレックスは自分に強く言い聞かせ、分厚い雨雲が夜空を覆い尽くす中、シュレーガー家へと急いだ。









 爆炎で視界が塞がる。防御魔法を幾重にも展開しているにも関わらず、容赦なく頬を掠める爆風から視界を守るように腕で庇いつつゲアハルトは巻き上がる炎のその向こうを睨み付けた。用意していた白の輝石の偽物である魔法石がエルンストが放とうとした攻撃魔法の魔力に反応して爆発したのだ。元々、仕掛けた本人であるため、ゲアハルトはすぐに防御魔法を展開することが出来た。それでも多少なりとも掠り傷は負っているのだ。予想外だったはずのエルンストの身を案じるが、爆発する直前にガラスの割れる音とバルコニーに飛び出す姿が見えていたことから、恐らくは爆発には巻き込まれなかったのだろう。
 そのことに一先ず安堵しつつも、いつまでもこの場に足止めを食らっているわけにもいかない。ゲアハルトは消化のために水の攻撃魔法を放つも、鎮火よりも追撃を優先してすぐに踵を返して燃え盛る執務室を後にした。執務室を飛び出すと、こちらに向かってくる兵士らの姿があった。離れているように命じていたが、さすがに爆発したとなると動かずにはいられなかったらしい。


「ゲアハルト司令官!ご無事でしたか!」
「ああ、問題ない。あいつはどうした」
「北区に向かっている模様です。申し訳ありません、包囲は突破されました」
「そうか」


 元より、包囲している兵士らだけで捕えられるとは思っていない。足止めが出来れば上々、最悪でも逃走した方面さえ分かればいいと思っていたのだ。その点、突破されても行方は掴んでいるのだから役目は果たしている。ゲアハルトは切れた頬の血を乱暴に手で拭うと、「執務室の消化を頼む」とエルンストが向かったであろう場所への最短経路を考えつつ、指示を出す。


「それから念のため、さっきの爆発で怪我人が出ていないか確認しろ。手当と消火の人員は包囲に回している兵士を使え」
「りょ、了解です!」
「……あと、レックスに伝令を出せ。あいつが率いている兵士の半分を残し、残り半分を率いてクレーデル邸を包囲させろ」
「人員の補充は?」
「軍令部の消火が終われば全員、クレーデル邸に向かわせろ」


 了解、と返事をするとすぐに兵士らは動き出す。執務室からは未だ赤々とした炎が燃え盛っているため、消火には時間が掛かるだろう。なるべくなら包囲に人員を回したいところではあるのだが、だからといって自分と戦っているエルンストの姿は出来ることなら見せたくはない。しかし、これ以上、逃げられるわけにもいかないのだ。
 ゲアハルトは舌打ちしつつ、軍令部を飛び出すと頬に雨粒が落ちてきた。ちらりと視線を空に向けると、分厚い雨雲にいつの間にか覆われ、雨も降り出している。既に季節は秋に移り、朝晩は冷え込むようになっていた。その上、雨が降るとなると一段と空気の冷たさが増すようであり、彼は眉を寄せる。なるべく早く決着を付けなければと改めて自分に言い聞かせると、ゲアハルトはエルンストも駆け抜けたであろう道を辿り、クレーデル邸へと急いだ。


131125


inserted by FC2 system