恋情 - the treachery -



 雨脚がだんだんと強くなる中、エルンストは追っ手を振り切ってクレーデル邸に辿り着いていた。ゲアハルトに付けていたシュレーガー家の私兵の報告から考えると、彼が白の輝石を隠したと思われる場所はこの邸の地下――コンラッドが使用していた研究室だ。もちろん、ゲアハルトが肌身離さず持ち歩いているという可能性も捨て切れない。しかし、それはないとエルンストは踏んでいた。
 白の輝石を保有しているということを明かしている以上、それを奪わんとする内外の者から狙われることになる。つまり、いつ襲われてもおかしくはない状況にあるのだ。ゲアハルトがそう簡単に襲われるとは思えないものの、その可能性が低くない以上、万が一の時には他の誰かが回収出来るように何処かに隠している可能性の方が高い。
 そういう意味では、レックスを捕えて尋問してもよかった。ゲアハルトは彼のことを信頼している。それは明らかなことであり、隠し場所も知らされている可能性が高い。だが、エルンストはそうしなかった。自分に教えられている隠し場所こそが正しいと、信じたのだ。けれど、結果は外れていた。そこには確かに白の輝石が隠されていたが、それは偽物だった。


「……っ」


 ずきんと、痛みが走った。魔法石が爆発した時に負った掠り傷が痛んだのではなく、心に痛みが走った。信用してくれていると思っていた。信頼してくれているとも思っていた。だが、そうではなかった。自分の教えてくれた隠し場所にこそ、本物の白の輝石があると思っていたのだ。だからこそ、胸が痛んだ。その痛みに堪えるようにエルンストは唇を噛み締める。
 エルンストはクレーデル邸の敷地内に侵入すると、改めて周囲を見渡した。夜更けだということを差し引いても、人気があまりになかった。アイリスはいないものの、アルヴィンらはこの邸で変わらず生活を送っているはずなのだ。どういうことだろうかと思いつつも、誰もいないならばそれはそれで好都合ではある。違和感を感じながらも、エルンストはコンラッドの書斎がある方へと足を進める。
 そして、ひんやりと冷たい書斎の窓に触れ、掌に魔力を集中させる。じゅわ、っと微かな音を立ててガラスは溶け始め、程なくして鍵の近くのガラスは溶け落ち、エルンストはそこから手を差し入れて鍵を開けると、なるべく音を立てないように気を付けながらそこから書斎に侵入する。


「ああ……そういや、石がないのか」


 濡れた髪が頬に張り付く。エルンストはそれを頭を振って水気を飛ばすと、衣服が吸い込んだ雨水を絞りながら暖炉へと近づく。階段を出現させる為にはアイリスが使っていた杖の先端に嵌められていた特殊な魔法石が必要だ。だが、それをエルンストは手にしていない。こんなことならば奪っておけばよかったと思うも、すぐに思考を切り替える。
 入口にこそ仕掛けは作られてはいるが、物理的に突破することは不可能ではない。出来ることなら、あまりこの邸に傷を付けたくはないのだが、手段を選んでいるわけにもいかない。エルンストは自身が階段を下りて行った時のことを思い出しつつ、暖炉から階段が続いているであろう方向の見当をつける。さすがのコンラッドも地下道の側面にまで何か仕掛けを施すような余裕はなかったはずだ。
 エルンストは大体の見当をつけると、自身の周囲に防御魔法を展開した後、ある本棚の床付近に向けて攻撃魔法を放つ。鋭利な切っ先を持つ氷柱を作り出し、それを次々とある本棚の床付近に向けて放ち続ける。床が破壊される度に足元は揺れ、埃が舞い、本棚が壊れ、書物が落ちては氷柱に貫かれていく。
 アイリスがこの光景を見たなら悲しむだろう――それは分かっていた。だが、止めることは出来なかった。意地なのかもしれない。引くに引けないからこそ、何かと理由をつけてエゴを貫いているに過ぎないのかもしれない。そんな自分が情けなくもあり、滑稽でもあった。エルンストは自嘲に唇を歪めつつ、徐々に破壊され尽くしてぼろぼろになっている本棚へと近づいた。


「……案外呆気なかったかな」


 攻撃魔法を止め、床に大きく出来上がった穴を覗き込む。すると、穴の底には小さな穴が更に空き、ぽっかりとしたその穴から真っ暗な空間が微かに顔を覗かせていた。階段から続く通路に横穴を開けたのだ。コンラッド自身、横穴を開けられることは想定していなかったのか、想定していたとしても対処する余裕はなかったのかもしれない。否、その先に続く仕掛けがあるということに安堵していたのかもしれない。つまり、そこから先には横穴に対する処置も施してあるのかもしれないが、それこそエルンストには容易く突破できる仕掛けでしかなかった。
 炎を纏った手で穴を埋める氷柱を溶かすと、エルンストは迷うことなく自身が作った横穴へと飛び込んだ。真っ暗闇の中、何とか通路内に辿り着くと、彼は掌に炎を灯し、それを灯りに最奥の研究室へと歩き出した。途中、アイリスでなければ開くことの出来なかった鍵盤の仕掛けも容易く突破し、エルンストは最後の仕掛けの前で足を止める。この仕掛けを突破する為にもアイリスの杖の魔法石が必要だった。


「司令官が立ち寄っている以上、念には念を入れて持って来てはいるけど使えるかどうか……」


 アイリスの杖の魔法石を持って来れればそもそも強引に横穴を開ける必要もなかったのだが、それこそゲアハルトが常に持ち歩いているものであり、奪うことは困難だった。それでも何の用意もなく行動に移ったわけでもなく、エルンストはポケットに手を入れるとそこから小石のようなものをいくつか取り出した。
 いくつかの白く濁った小石と黒々とした小石を掌に転がしながらエルンストは呟く。上手くいくかは分からない。失敗すれば、この場に生き埋めになる。しかし、エルンストは小さく息を吐き出して肩を竦めるとちらりと文字を書き込む為の石版を見た。元より、行動に移すと決めた時点で既に命は捨てたようなものなのだ。ならば、生き埋めになろうとどうなろうと恐れる必要はない。
 恐れることがあるとすれば、それはアイリスを誰か別の人間に奪われることだ。彼女が生きて、自分の手の届かないところにいってしまうことの方がずっと怖い。エルンストは掌に転がしていた小石を握りしめると、意識を切り替えるように何度か深呼吸を繰り返す。そして、伏せていた顔を上げると、掌の小石に視線を向け、そのいくつかを手に取った。
 黒々とした小石を手に、エルンストは研究室の扉が現れる付近の壁の前に立つ。そして、それを半ば強引に壁にめり込ませた。途端にばちんと大きな弾けるような音がすると同時に壁がぐにゃりと変形し始める。だが、それは扉が現れるというよりも壁にめり込む異物を吐き出そうとしているような動きであり、ばちばちと弾けるような音を響かせながらもめり込んだ黒い小石を中心に徐々に壁が薄くなり始めた。


「こんなの造り出すなんて、あいつやっぱり頭は悪くないんだな」


 ぼそりと呟きながらエルンストは黒い小石――カサンドラが黒の輝石から造り出し、ライゼガング平原で工作任務に就いていたアイリスらに対して試作品として導入した防御魔法を無効化する矢の鏃を見つめる。アイリスが持ち帰ったそれの研究をしていたエルンストが念の為にと持ち出していたのだ。
 しかし、徐々に扉が露出し始めてはいるものの、やはり壁一面を無効化するには量が足りない。このまま扉が完全に露出するまで待つとなると、ゲアハルトに追いつかれてしまうだろう。そのため、エルンストは扉から離れた場所に移動すると、そこの壁に残りの白く濁った小石――魔法石をめり込ませ、そこに僅かに魔力を注ぎ込んだ。
 魔力に反応した魔法石はすぐに小規模の爆発を起こし始める。すると、それを攻撃と判断した壁はすぐにそちらへと反応を示し、どろりと壁が溶け、爆発を繰り返す魔法石を包み込みにかかる。その隙に、カサンドラが造った黒い魔法石はより速度を上げて壁を無効化し、ついにはエルンストの手が露出した扉に触れることさえ出来てしまった。扉に触れることさえ出来れば後は容易だ。露出いている扉を蹴破るようにしてエルンストは研究室への侵入に成功した。


「さて、と……後は、白の輝石が何処に隠されているか……」


 ランプに火を付けたエルンストは改めて研究室を見渡す。隠そうと思えば何処にも隠すことは出来る。決して広くはない場所だが、それでも薄暗いこの小さな研究室から時間を掛けずに隠されているであろう白の輝石を見つけ出すと簡単なことではない。ゲアハルトも追って来ているのだ。あまり時間を掛けているわけにもいかず、出来ることなら鉢合わせたくもないのだ。
 エルンストは早速探し始める。ゲアハルトならば何処に隠すだろうが――そのことを念頭に置きながら書棚を検め、執務机の中をひっくり返す。それを繰り返し、いくつ目かの引き出しを開けた時、そこには無造作に白く鈍い色をしたそれが転がり出てきた。あまりにも無造作に置かれていた白の輝石に目を瞠りながらエルンストはそれを掴み取った。だが、すぐに顔を歪める。


「……これもっ」


 偽物じゃないか、とエルンストはそれを床へと投げ捨てた。力一杯、床に投げつけられた偽物の白の輝石――魔法石には罅が入り、微かな破片を散らしながら床に転がった。それを睨みつけ、エルンストは苛立ちのまま執務机の上の資料を床にぶちまけた。だが、それだけでは衝動が抑えられない。
 本物でなかったことへの苛立ちか、それともそもそも教えられていた場所に本物がなかったことに対する悲しみや怒りが再び込み上げて来たのか、感情が抑え切れなかった。焦りもあった。白の輝石がなければ、そもそもアイリスを手に入れることは出来ないのだ。幽閉されている場所は知っている為、強引に連れ出すことは出来る。だが、それではそもそもカサンドラと手を結んだ意味がない。
 激情のままに机の上を荒らした彼は肩で激しい呼吸を繰り返す。自分を抑えることが出来ない。込み上げて来る苛立ちや焦り、悲しみを抑えることが出来ないのだ。信用してくれていると思っていた、信頼してくれていると思っていたのだ。無論、裏切った自分がゲアハルトを責めることが出来ないということぐらい分かっているのだ。だが、それでも、どうしてと、傷つく自分がいた。
 自分勝手だと知りながらも、それでも、もしも執務室に本物の白の輝石があったなら、まだ立ち止まれたかもしれない――そう思う、自分がいたのだ。ゲアハルトはまだ自分のことを信じてくれている、必要としてくれているのだということを思えらなら、立ち止まれたかもしれない。話を、聞く気になったかもしれない。だが、それと同時に本当にそうだろうかと考える冷静な自分もいた。そのように簡単に揺らぐ決意でカサンドラと手を結んだわけでもないだろう、と。


「……エルンスト」


 それからどれだけ時間が経ったのかは知れない。この場に白の輝石がない以上、すぐに離れるべきだったのだ。けれど、足は縫いつけられたかのように動かなかった。否、もしかしたら待っていたのかもしれない。彼が、ゲアハルトがこの場に辿り着くことを待っていたのかもしれない。
 現に、ゲアハルトはこの場所まで辿り着いた。肩で呼吸を繰り返しながら、雨に濡れたその姿のまま、彼は壊れた扉のすぐ傍で立ち止まっている。そんな彼を、エルンストは見ることが出来なかった。それでも無視することはせず、先ほど壊した偽物へと視線を向けながら「此処にあったのも偽物だった」とぽつりと呟いた。このようなことを言わずとも、この場に偽物を隠したのはゲアハルト自身だ。それでも、言わずにはいられなかった。


「本物は何処にあるの?」
「……言えない。だが、此処にはない」
「執務室にあるんじゃなかったの?俺にはそう教えてくれたよね。信用してたんじゃなかったの?信頼してくれてたわけじゃなかったの?」


 女々しいことを言っているという自覚はあった。自分らしくないとも思っていた。信用も信頼も下らないと思っていたではないか、と頭の何処かで自嘲するような声が聞こえてくる。それでも、止められなかった。徐々に大きくなる声は引き攣り、ヒステリックなものになる。けれど、対するゲアハルトは何処までも落ち着いていた。


「……信用していた、信頼していたさ。本当に本物の白の輝石は執務室に置いていた」
「じゃあ、」
「お前がアイリスを攫うまでは」


 はっきりとした声音でゲアハルトは言った。その言葉が、エルンストの胸に突き刺さる。彼は事実を言っただけかもしれない。けれど、その言葉の裏に、お前が裏切ったからだという言葉が見え隠れしているように思えたのだ。自分が裏切ったからこそ、隠し場所を変えたのだと。信用していたのに、信頼していたのにという非難が内包されているように思えてならない。
 責められることをしているのは他ならぬ自分自身だ。けれど、改めてそれを告げられたように感じると、途端に胸が痛くなった。自分勝手な心の痛みだと嘲笑う自分の声音が内側から聞こえて来るようだった。


「もう止めろ、エルンスト。今ならまだどうにか出来る。緘口令も敷いた、隠蔽だって念入りにする。だから、」
「だから、何?戻って来いって?俺が何したか分かってる?」
「分かってる。その上で、お前には戻って来て欲しいんだ。頼む、もう止めてくれ。これ以上は庇いきれなくなる」
「……そんなこと、元々頼んでないよ」


 全てを捨てて実行に移したのだ。カサンドラと手を結ぶことを選んだのは。アイリスを奪われたくなくて、ゲアハルトの隣で笑う彼女を見たくなくて、攫ったのだ。それなのに、どうして彼に戻って来いと言われなければならないのだろう。敵として処断すればいい。それだけのことをしているのだ。文句も言えないぐらいのことをしている。
 それなのに、どうして未だに仲間として扱って、自分の立場が危なくなることも顧みずに連れ戻そうとするのだろう。それがエルンストには理解出来なかった。理解したくなかった。


「ああ、俺が勝手にしていることだ。エルンスト、俺にはお前が必要なんだ」
「俺なんていなくても、レックスがいるじゃないか」


 女々しいなと自嘲する。それでも、止められなかった。自分が結局、代替品なのではないかという思いを打ち消せなかったのだ。ゲアハルトがレックスを頼る度にその思いが込み上げて来た。挿げ替えに効く代替品――それは自分だけでなく、兵士ならば誰だってそうだろう。そのことは分かっている。けれど、父親から兄の代替品として扱われ、実際に兄が死んでから挿げ替えたような扱いを受けて来た。だからこそ、自分だけを見てくれる者が欲しかった。それがゲアハルトであり、アイリスだった。
 勝手な気持ちや期待の押しつけであるということは分かっている。彼らが自分をどう扱おうがそれは彼らの自由だ。自分だって同じことを周囲の人間にしているのだ。だが、どうしても、ゲアハルトとアイリスにだけは代替品などという扱いをして欲しくなかった。自分のことを一人の人間として見てくれた二人だからこそ、期待してしまったのだ。


「お前とレックスは別だろう。俺にはどちらの存在も必要だ」


 本当はただ、認められたかっただけだ。必要とされて、認められて、そしてたった一人にだけでもいいから、愛して欲しかった。そんなものは有り得ない、ただの幻だと思っていた。兄が生きている限りは必要とされず、どれだけ頑張っても認められず、愛されることもなかった。全ては兄のものだった。だからこそ、奪ってやろうと思って生きてきた。
 自分のものには成り得ないと思い続けて来たからこそ、必要とされることも認められることも、愛されることだってただの夢や幻でしかなく、存在するものでもなく、いつしか自分には必要とないものだと考えなくなった。けれど、そうじゃなかった。本当は、誰よりもそれを求めていたのは他ならぬ自分自身だったのだ。それにも関わらず、そんなものを求めているということを自分自身のことだというのに、認めることが出来なかったのだ。
 必要とされたかった。認められたかった。愛して欲しかった。たった一人だけでいいから、自分だけの傍にいてくれる人が欲しかった。それがエルンストにとってはアイリスだった。自分のことを見てくれる優しい彼女に、縋ってしまった。


「……もう、無理だよ」
「無理じゃない。……エルンスト、本当にこのままでいいのか?今ならまだ間に合う。アイリスだって助けられる。このままにしておけば、彼女の身が危険に晒される。それでもいいのか?」


 ふるふると首を横に振るエルンストに対し、ゲアハルトはゆっくりと慎重な足取りで歩み寄って来る。研究室はそう広くはない。これ以上、近付かれたくはないと、エルンストは掌を翳して牽制する。


「……いいよ」
「エルンスト、」
「俺はね、司令官……アイリスちゃんに傍にいて欲しいんだ。考えたいって、断られちゃったけどさ」
「……彼女は本当に考えようと、」
「どうだろう。アイリスちゃんは優しいから、そう言っただけかもしれない。……自分勝手だって分かってるよ。俺がしてることはただの気持ちの押しつけだ、いい歳した男がやることじゃない」


 冗談めかして言いながらもエルンストには隙がなく、いつでも攻撃魔法を放つ準備をしていた。だが、攻撃する意思はない。もう、心の痛みさえ感じなかった。ぽっかりと穴が空いてしまったように思えてならない。


「司令官……ずっとずっと、どうしようもないぐらい胸が痛かったんだ」
「……」
「俺は司令官から頼み事される度に安心してた。まだ俺のことを必要としてくれるんだって……でも、アイリスちゃんが来てから少しずつ変わっていったんだ。俺が変わったのか、司令官が変わったのかは分からない。けど、少しずつ、痛くなった」


 嫉妬だったのかもしれない。ずっと兄であるギルベルトに対して感じていたそれとはまた違う痛みであり、すぐには気付くことは出来なかった。だが、恐らくはずっと嫉妬していたのだろう。ゲアハルトに、レックスに、レオに、アベルに、他の人間に。それを顔に出さずに、気付かないふりをしていた。自分に与えられるはずの指示をレックスが受ける度にも胸は痛んだが、それにも気付かないふりをした。もしかしたら、それが間違っていたのかもしれない。
 話していたら、何か違っていたのかもしれない。今更ながらにぼんやりと考えながら、エルンストは微かに笑った。自分が求めるべきものではなかったのだろうと、思ったのだ。ゲアハルトのことにしろ、アイリスのことにしろ、自分には過ぎた感情だったのかもしれない。必要として欲しい、認めて欲しい、愛して欲しい――そのようなことを思わなければ、自分の心だって乱されることはなかった。求めなければよかったのだとエルンストは自嘲する。


「こんなに痛いなら、辛いなら……好きにならなきゃよかった。たった一人の親友を裏切るぐらいなら、こんな気持ちはいらなかった」


 この気持ちがあったからこそ、ゲアハルトと親しくなれたのだということは分かっている。酷く歪な友情だとも思う。それでも、エルンストにとってはそれが友情の形だった。そして、愛情でもあった。歪んでいる、それでも大事にしたいという気持ちは確かにあったのだ。だからこそ、今だって胸が痛いのだ。ゲアハルトの傷ついた顔を見て、最後に見たアイリスの泣き出しそうな顔を思い出して、胸が痛んでいるのだ。
 けれど、その痛みに耐えることが出来るほど、心が強くないことも分かっていた。ゲアハルトは自分を必要としてくれているが、もうこれ以上は共にいられなかった。許されないことをしたのだ。そして、それを悔いてもいない自分が傍にいていいはずがない。自分の存在がゲアハルトを害するぐらいなら、自分のエゴを最後まで貫き通してしまいたかった。
 もう、以前のようには戻れないのだ。自分で居場所を壊したのだ。壊して、自分のエゴを貫いて、大事にしたかったアイリスを傷つけて、ゲアハルトやレックスたちを裏切った。全て、自分の弱さ故のことだ。そんな自分が、以前と変わらぬまま、彼の隣に立つことは出来ない。


「エルンスト、」
「ごめん、弱くて」


 ゲアハルトを遮り、エルンストは彼に向けて防御魔法を展開する。幾重にも分厚くそれを重ね掛けする度に足元の罅割れた魔法石が明滅し始める。「やめろ!」と叫ぶゲアハルトの対し、エルンストは軽く首を横に振った。
 恐らく、既にクレーデル邸自体、包囲されていることだろう。そこをゲアハルトを出し抜いて単身で突破することは難しい。彼のことだ、既に門も閉鎖していることだろう。シュレーガー家にも兵が差し向けられているはずであり、逃げ場はない。応援に来ると言っていたカサンドラが介入すれば話は別だろうが、エルンストにはもう、彼女と顔を合わせる気も失せていた。
 勝手だと思う。アイリスのことをそのままにして、自分は楽になろうとしているのだから。それでも、彼女の居場所は言いたくなかった。それをしてしまえば、それこそゲアハルトを裏切った意味がない。だからこそ、言えなかった。


「司令官と一緒にいて楽しかった。アイリスちゃんのことを好きになれてよかったと思ってる。でも、俺が誰かを好きになるのは間違ってた」
「そんなことはない!」
「無理だったんだよ。俺のはただの気持ちの押しつけだ。ガキみたいな、ただの独占欲しかない。……その結果なんだよ、自業自得の成れの果てだよ」


 足元の魔法石の明滅が早くなる。それでも、エルンストはゲアハルトに防御魔法を掛け続けた。決して広くはない場所であり、地下だ。魔法石が爆発すれば、生き埋めになってしまう。自分は兎も角としても、ゲアハルトはベルンシュタインにとっても、ヒッツェルブルグ帝国にとっても必要な人間だ。このような場で死んでいい人間ではないのだとエルンストは微かに笑った。
 周りに必要とされる彼が眩しくもあり、ずっと羨ましくもあったのだ。彼は誰も代替品には成り得ない、たった一人の人間だった。それがずっとずっと、本当に、羨ましかったのだ。


「迷惑掛けてごめん。辛くさせてごめん。でもやっぱり、あの子の居場所は言えない。酷いことをしてるのは分かってるのに、言いたくないんだ」
「……」
「誰にも奪われたくない。お前を裏切ってまで実行したことなんだ。だから、最後までこのエゴは貫き通す」
「……エルンスト、」
「ごめん。ごめんな、こんなに弱くて。でも、レックスなら大丈夫だ。ライルを支えてくれる」
「ああ。でも、頼りになるのはお前だって同じだ!」


 必要としているのだということをゲアハルトは声の限り叫ぶ。普段は声を荒げることのない彼のその姿に僅かに目を瞠ったエルンストは顔を歪めて笑った。嬉しかったのだ。本気でそう思ってくれているのだということが伝わって来て、胸の痛みが少しだけ、収まったようにも思えた。


「……そう言ってくれて嬉しかった」
「なら、」
「でも駄目だ。俺はもうライルの横には立てない、並べない。俺が弱いから、こんなことを引き起こした。このけじめは付けるよ」
「そんなことは許さない!やめろ、エルンスト!」
「迷惑掛けたくないんだ、これ以上。俺はライルの弱みになりたくない」


 自分勝手な暴走だ。それをゲアハルトが庇う必要なんてないのだ。いつものように冷徹に処断してくれていい――それだけのことをしているのだ。それにも関わらず、助けようとしてくれた。戻って来いと言ってくれた。それは捨て切れなかったゲアハルトの甘さなのかもしれない。だが、今の彼にはその甘さが命取りになる。いくら羨ましくとも、眩しくとも、エルンストは何もゲアハルトを死なせたいわけでも、窮地に立たせたいわけでもなかった。
 ならばこそ、自分が最後に出来ることはせめてゲアハルトの弱みにならないことであり、自分自身の手でけじめを付けることだ。勝手に暴走して何がけじめだとも思った。それでも、このまま生きていれば彼の迷惑になることは確かだ。生きていれば、ゲアハルトはどうにか自分を助けようとするだろう。彼は優しいのだ。自分はその優しさに、今まで甘えて来たに過ぎない。
 エルンストは微かに笑った。心は変わらず痛みを訴えている。アイリスに対しては申し訳なさしかない。彼女を深く傷つけることをしてしまった。申し訳ないと思うもなら、ゲアハルトに居場所を伝えるべきなのだ。だが、それだけはどうしても出来なかった。深く傷つけたとしても、それでも奪われたくはない――もう、何も誰にも、奪われたくはなかったのだ。ごめん、と心の中で呟く。出来ることなら守ってあげたかった。隣で笑っていて欲しかった。傷つきやすい子だから、本当に、守ってあげたかったのだ。だが、彼女を守るどころか、傷つけてしまったのは他ならぬ自分自身だった。弱くてごめん、こんな弱い自分が好きになってしまって、ごめん――出来ることなら顔を合わせて伝えたかったと思いつつ、エルンストは視線をどうにか防御魔法を破ろうと躍起になっているゲアハルトに向けた。破られないように力を増せば、それだけ魔法石の明滅も激しくなっていく。


「……ありがとな。必要としてくれて、嬉しかった」


 小さな室内に視界を焼く閃光が満たす。目を閉ざす瞬間、手が伸ばされたようにも思った。けれど、エルンストは瞼を閉ざす。そして、すぐ傍で爆発した魔法石の衝撃が直撃する。その瞬間に脳裏に過ったのは、これまでの決して楽しいだけではなかった日々の出来事だ。辛いこともあった、苦しいこともあった。けれど、どれもエルンストにとってはいつしか大切な記憶となっていた。ゲアハルトやアイリス、レックスにレオ、アベルやヒルデガルト、エルザらの顔が浮かぶ。自分がもっと強かったなら今も彼らと一緒にいることが出来たかもしれない――彼は微かに笑い、意識は暗闇の中に落ちた。


 
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