恋情 - the treachery -



「この辺りでいいだろ。お前、何人か連れて裏門に回ってくれるか?念の為に言っておくけど、あくまでも牽制だからな。こっちから打って出るようなことはするなよ」
「了解。……それにしても、雨も強くなってきたな」


 北区にあるシュレーガー邸付近に到着したレックスは共にゲアハルトの話を聞いていた兵士に裏門の警戒を任せると、雨脚が徐々に強くなっている曇り空を見上げた。夜も冷え込むようになってきていることもあり、雨の中、立ち続けなければならないとなると辛いものがある。レックスは周囲の兵士らをちらりと見遣ると、「軍令部からテントでも持って来るか」と呟く。
 それほど長期戦になる予定ではないのだが、それはあくまでゲアハルト次第であり、エルンストが逃げ遂せるのならば数日に及ぶことになるかもしれない。ならば、テントを用意して交代しつつシュレーガー家に対して牽制する方がいいのかもしれない。無論、シュレーガー家がエルンストを庇い立てしなければ済む話ではある。だが、少しでもその可能性があるのならば、エルンストが捕縛されるまでは少なくとも現状を維持しなければならない。
 レックスは近くにいた兵士らに一度軍令部に戻ってテントを取って来させようと指示を出そうとした時、不意に「何か、あっちの方、明るくないか?」という言葉が耳に届いた。徐々にどよめきが大きくなる兵士らに倣い、レックスは彼らが向いている方向に視線を向けると、目を大きく見開いた。


「軍令部が……っ」


 雨が降りしきる宵闇の中、自分たちが先ほどまでいた建物が闇夜を照らし出すように赤々と燃えていた。それほど広範囲に及んでいるようではないようだが、火の勢いは強いことが見て取れる。一体何があったのかと思うも、さすがに軍令部から離れたこの場所からは事情を窺い知ることは出来ない。
 どうする、と指示を仰がれたレックスは視線を燃え盛る炎に釘づけられながらも、「……任務続行だ」と呟く。軍令部には第二騎士団の半数と他にも兵士が多くいるのだ。既に消火活動も始まっているはずであり、軍令部にいた人間も退避しているはずだ。不幸中の幸いは、レオをレックス自身が城まで送り届けていたということだろう。
 だが、軍令部が燃えているということはゲアハルトとレックスがあの場で一戦を交えたということでもある。つまり、この場にエルンストが現れる可能性も高いのだ。レックスはすぐに「裏門に行ってくれ」と傍にいた先ほど兵士を促す。彼も同じことを考えていたのか、すぐに返事をすると周囲の兵士らですぐに隊を編成するとシュレーガー邸の裏門に向かって駆け出した。


「レックス……一体どうなってるんだよ」
「そうだよ。軍令部は燃えるし、シュレーガー先生の実家に対してこんな……」
「……悪い、緘口令が布かれてる」


 不安げな表情で問い掛けて来る兵士らに対し、レックスが話せることはなかった。それでも、何となく察するところはあったのだろう。彼らは互いに顔を見合わせている。第二騎士団しか動いていない時点で、出来るだけ近しい者だけで何とかしたいというゲアハルトの考えが現れているようなものなのだ。それが分からないほど、彼らはゲアハルトという人間のことを知らないわけではない。
 何となく察せられてはいても、「シュレーガー先生が裏切ったとか……」「いや、シュレーガー家が反旗を翻したのかも」と口々に憶測を飛び交わせてもいた。緘口令が布かれているということも相まって、何か大きなことが起きているということは想像に難くないからだ。飛び交う憶測はどれも不穏なものである。それでも、一様に彼らの表情は信じられない、というものだった。


「シュレーガー先生、何だかんだ文句言ったり面倒そうにしたりするけど、ちゃんと手当してくれたよな」
「冷たい人だけど、頼りになるからな。怖いところがかなりあるけど」


 口々にエルンストのことを述べる兵士らは恐れや苦手意識を抱いてはいても、嫌いではなかったらしい。ただ、エルンストが多くの人間を遠ざけるような態度ばかりを取るために、彼の周りには限られた者しかいなかっただけなのだ。そして、きっとエルンストは彼らがどのように思っていたかなど、知りもしないのだろう。
 知っていたなら、何か変わっていただろうか。そう思うも、今となってはどうしようもない。既にエルンストは動き出してしまっているのだ。ならば、後は出来るだけ被害を最小限に抑えて捕縛するしかない。そのためには、今は自分に任せられているシュレーガー家への牽制をやり遂げなければならない。
 そろそろ、シュレーガー家から何かしらの反応が返って来ることだろう。邸の前に兵が差し向けられているのだ。手は出してこないにしろ、それを捨て置けるはずもない。ゲアハルトからは対応については特に指示は出されていないものの、シュレーガー家から何か言われたからといってすごすごと戻ることは出来ない。エルンストが戻って来ても庇い立て出来ないように、たとえ来たとしても自分たちで捕縛することが出来るようにする為の配置なのだ。そしてそれが、今自分に出来ることなのだから、それを全うするしかないのだ。


「……雨脚が強くなって来てる。誰か軍令部に戻ってテントを取って来てくれないか。それから状況の確認も、」
「おい、一体これはどういうつもりだ!」


 任務を続行するためにも状況確認とテントを用意しようと指示を出す最中、唐突に嫌悪巻を露にした厳しい声音が背後から聞こえてきた。振り向くと、そこにはシュレーガー家の私兵らしい数名の若い男が立っていた。それぞれ厳しい表情を浮かべているが、それも無理のないことだ。彼らにしてみれば、何もしていないにも関わらず、いきなり国軍の兵士が差し向けられているのだ。
 特に接触がなかったとしても、そうした状況に心当たりがないにも関わらず置かれたとすれば、相当なストレスだろう。しかし、怒鳴られたところで退くほど、レックスも気弱ではない。早口に「状況確認とテントを頼む」と改めて指示を出すと、真っ向から私兵らに向き直った。


「第二騎士団所属、レックス・クルーゲです。緘口令が布かれている為、詳しくお話することは出来ませんがゲアハルト司令官の命令による配置です。配置以外の命令は受けていませんので、害することは致しません」
「ゲアハルト司令官の?……いや、それでもこうして監視されるような仕打ちを受ける謂れはない。即刻戻れ」
「上からの指示がなければ動けません」
「貴様、」
「我々は軍属の人間、ゲアハルト司令官の指揮下にあります。貴方の命令もシュレーガー家の方の命令も聞く謂れこそない」


 真っ向からはっきりとした声音と視線をもって言い切るレックスのシュレーガー家の私兵らは言い返す言葉もなかった。彼らも自発的にと言うよりは、シュレーガー家の人間に追い払うように言われてやって来たのだろう。だが、それこそレックスらにしてみれば、聞く謂れのない命令である。たとえ、それが当主であるディルク・シュレーガーの言葉であろうとも、レックスが言ったように彼らは軍部の司令官であるゲアハルトの指揮下に属している。彼の命令を聞いても、ディルクの命令を聞く謂れも意味もないのだ。
 私兵らが顔を見合せながら、その中の一人が指示を仰ぐべく邸へと取って返す。しかし、出てきた私兵らの殆どはその場に残りレックスら第二騎士団の兵士らを睨んでいた。こうなることは予想していたことではあるものの、雨の中、シュレーガー家の私兵らと睨み合うことは出来れば避けたいところではあった。先ほども口にしたように、牽制以外の命令は受けてはおらず、剣を交えることには命令がない限り――それこそ、シュレーガー家の私兵らが斬りかかってこない限りはないのだが、何も感じないというわけではないのだ。あまり長引かなければいいがとこっそりと内心、溜息を吐いていると、「レックス!」と背後から慌ただしい声音で自身を呼ぶ声が聞こえてきた。


「お前、確か軍令部の方に分けられてたんじゃ……」


 振り向くと、そこには馬に乗った兵士が一人、慌てた様子で向かって来たところだった。その顔を見るなり、レックスは目を見開く。第二騎士団の兵士を半分に分け、軍令部とシュレーガー家への牽制に回したのだが、やって来た彼は前者に分けられていたはずだった。その彼が馬を駆って、それも顔や衣服を煤で汚した状態で来たとなると、レックスも含めた周囲の人間は自然と表情を険しくする。
 レックスはちらりとシュレーガー家の私兵らを確認する。彼らも何事だと目を丸くして視線を交わし合っている。なるべく状況を知られない方がいいだろうと判断したレックスは自身が馬を下りているところの兵士に近付き、「何があったんだ?」と問い掛ける。馬で来たということは何かしら追って連絡が託されたのだろうということは間違いないのだろうと考えていると、呼吸を整えた兵士は声を潜めて口を開いた。


「司令官と包囲していた俺たちを突破して逃走した」


 誰が、とは言わずともすぐに分かった。つまり、ゲアハルトがエルンストの説得に失敗したということである。そのことにレックスは柳眉を寄せ、舌打ちした。説得に応じていたのなら、まだ何とか収めることは出来たはずなのだ。だが、逃走したとなると、そうもいかなくなる。


「軍令部はどうなってるんだ?」
「俺も詳しくは知らない。ただ、司令官が執務室に入ってから暫くして爆発したんだ。どっちも防御魔法を使ったから軽傷ではあるらしい」
「……そうか」
「司令官は追撃中。軍令部に配置されてた第二と居合わせた奴らで消火中だ。レックスはすぐにこっちの兵を半分連れて司令官の援護に回ってくれとのことだ」
「了解した。悪いが、こっちの指揮はお前が代わってくれるか?」
「ああ。それから場所だが――」


 クレーデル邸だ、と告げる彼にレックスは僅かに目を瞠った。しかし、すぐに納得もする。レックスもクレーデル邸の地下研究室については知っているのだ。確かのあの場所は隠し場所にはうってつけである。軍令部が爆発炎上したようなことにならなければいいが、と脳裏にコンラッド・クレーデルやアイリスを思い浮かべながら、レックスはきつく拳を握り締めた。
 だが、今は感傷に浸っているような余裕はない。レックスは兵士らを振り向くと、「別命だ。半数は現在の任務を続行。残りはオレと一緒に来てくれ」と言うと、すぐに隊を編成する。なるべくエルンストの件を知っている者、信頼できる者を選りすぐり、レックスはその場を別命を伝えに来た兵士に任せると、すぐにクレーデル邸に向かって走り出した。
 次が最後の機会なのだ。エルンストを止めることの出来る最後の機会であり、それに失敗すれば彼を処断することも止むを得ない。否、ゲアハルトも説得が不可能であると判断すれば、その時点で処断するかもしれない。出来るだけ穏便に済ませたいと考えているゲアハルトだが、いざとなれば処断も辞さないはずだとレックスは思っていた。彼は決して甘い人間ではない。複雑な心境ではあるものの、最後の一線だけは守る人間だとレックスはゲアハルトのことを信じていた。
 だからこそ、出来ることならそのようなことになっては欲しくないとも思っていた。ゲアハルトに、彼の一番の友人であるエルンストを手に掛けるようなことをして欲しくない。エルンストに対しても、それは同様に思っていた。ゲアハルトにそのようなことをさせないで欲しい、と。きゅっと、レックスは唇を噛み締める。雨脚が強くなり、前方の視界も煙る中、彼は兵士を率いて懸命に走り続けた。







 


 鬱蒼と生い茂る森の中、アベルは兎に角、隠れ家から離れることに必死だった。カインやカサンドラらと鉢合わせない為に、南方からも王都からも離れる為にフェンリルを走らせ続ける。
 時折、ぎゅっと腰に回されたアイリスの腕に力が籠る。狼はおろか、馬でもこんなに速く走ることは出来ないのだ。怖いと思ってもおかしいことではなく、アベルは何も言わなかった。彼女に言ったことは嘘ではない。自分がこうして連れ出さなければ、遅かれ早かれ、アイリスはカサンドラらに殺されていたことだろう。それだけは避けたかった。だからこそ、自分が連れ出すことに関しては少なくとも後悔はしていない。
 だが、何も思わないというわけではないのだ。感じないわけでもない。ずきんずきんと、胸が、心が痛んでいる。けれど、今はそれに気付いていないふりをしているだけだ。気付いてしまえば、迷うかもしれない――その迷いが、どうしようもなく怖かったのだ。自分の迷いはアイリスを傷つけることになるかもしれない。彼女はもうぼろぼろなのだ。それに追い打ちを掛けるようなことだけはしたくない。それを思うと、気付かないふりをするしかなかった。ただ、自分の腰に回される頼りない手の力と温もりだけを感じて、それだけのことを考えるしかなかった。自分が宛てにしているものはとても儚く弱いものなのだと思いつつも、それでも、今はそれだけが自分を繋ぎとめる確かなものだったのだ。


「……雨だ」


 どれぐらい、森の中を駆けていたのか。気付くとぽつりぽつりと雨が降り始めた。既に季節は秋になり、冷たい雨に降られて身体を冷やせば風邪などすぐに引いてしまう。そろそろ休憩も入れた方がいい頃合でもあるため、アベルはフェンリルに何処か雨を凌げる洞窟を探すようにと声を掛けた。
 出来ることなら何処かの村に厄介になった方がいい。しかし、ある程度方向を定めて逃げているため、村の有無は分かるものの、出来るだけ人との接触は避けたかった。何処から嗅ぎつけられるかなど分からないのだ。ならば、出来るだけ人目を避けて王都まで辿り着いた方がいい。途中、国境連隊に保護を求めるにしても、それでもやはりなるべく王都に近しい場所に配置されている部隊まで辿り着く方が追手が追い付いたとしても王都まで逃げ切ることもまだ容易のはずだ。
 今後のことを考えていると、不意にフェンリルが速度を緩め始めた。どうやら洞窟を見付けたらしい。こういう時、夜目の効くこの狼は頼りになる。緩やかに速度を落としたフェンリルはそのままぽっかりと開いた洞窟の中に入ると、足を止めてゆっくりとそのまま足を折ってしゃがみ込んだ。アベルは腰に回されたままのアイリスの手を軽く叩き、「少し休憩するよ」と声を掛けると、フェンリルの背から降り立った。そして、彼女に手を貸して背から下ろす。


「……真っ暗だね」
「そりゃあね。火を付けるからあんたはそこから動かないで」


 目を凝らして見つけた石を並べると、二人を下ろしたフェンリルはゆったりとした足取りで洞窟の外に出て行った。アイリスが「いいの?」と出て行った狼を見送りながら言うも、アベルはすぐに戻って来るよとだけ答えた。そして、石を並べ終えた頃、フェンリルが再び洞窟に戻って来た。そして、アベルの足元に咥えていたもの――枯れ枝をぱらぱらと落とすと、元の場所に戻ってしゃがみ込む。どうやら焚き火の為の枯れ枝を拾って来たらしい。
 アベルはそれらを石で作った円の中央に置くと、魔力を練り上げてそこに火を灯す。雨に濡れてしまっている為、なかなか火が大きくならないものの、橙色の温かな火がぼんやりと洞窟の中を照らし出す。すぐ近くにいるというのに、真っ暗闇で見ることが出来なかったアイリスの姿も露になり、アベルはどこかほっとした気持ちになる。
 立ち上がったアベルはすぐ傍で身体を落ちつけているフェンリルの頭を撫でながら感謝の言葉を口にする。その様子を少しだけ目を見開いて見ているとアイリスの視線に気付きながらも、彼は何も言わずに袋を開けるとそこから布を取り出した。そして、それをアイリスの頭に被せると半ば強引にぐしゃぐしゃと拭き始める。


「じ、自分で出来るよ」
「いいから。僕だって使いたいんだ」


 あんたに任すと時間が掛かる、と言いながら、アベルは僅かに顔を歪めた。単純に、触れたかっただけのことだ。触れなければ、今自分が確かにアイリスと共にいるということを実感出来なかったからだ。
 まだ、何処か実感がなかったのだ。カインを裏切ったのだということの実感が、なかった。けれど、布越しにアイリスに触れて、その温もりが掌に伝わると、彼女が生きているのだということは実感する。アイリスが生きているということは、そのことに安堵しているということは、彼女を傷つけ、死を望むカインへの裏切りに等しい。
 ずきんと、胸が痛んだ。安堵する反面、それと同じぐらいに急速に自分の中で何かが冷えていくような感覚に襲われる。堪らず、アベルはアイリスから手を離した。そして、そのまま布を取り去って自分の頭に被せて顔を隠す。


「アベル?」
「……何でもない。ほら、これ被ってしばらく仮眠でもしなよ」


 そう言いつつ、アベルは袋から新しい厚手の布を取り出すとそれをアイリスに投げ渡した。「それじゃあ、アベルも」と口を開く彼女に対して首を横に振ると、更に袋から取り出したパンを彼女に握らせ、乱暴に頭を拭きながら洞窟の出入り口に向かって行く。今はアイリスの傍にはいられない、いたくないと、そう思ったのだ。


「ちょっと見回って来る」
「一人じゃ危ないよ!せめてこの子を連れて、」
「平気。フェンリルがいると目立つ。兎に角、あんたは休んでて。すぐ戻って来るから」


 それだけ言うと、アベルは足早に洞窟を出た。しとしとと降り始めた雨に舌打ちしつつ、彼は周囲を見渡す。特に今のところ、変化は見受けられない。だが、いつ追手が迫るかは分からないのだ。出来るだけ、森の中を通って王都に近づきたいところではあるが、それはすぐにカインにも見破られるだろう。
 フェンリルに跨れば移動距離も速度も簡単には追い付かれることはない。だが、その巨躯はどうしても人の目を引いてしまう。夜に限って動くとしても、それでも人目を避けるには森の中を移動するしかない。しかし、それではある程度まで移動経路が限られてしまう為、追手に見つかる可能性は高くなる。
 危険を冒して人目を気にせず駆け抜けるか、迂回しながら途中で馬を手に入れるか――兎に角、今は周囲を見回り、危険がないことを確認してから仮眠を取ることに決める。出来るだけ、カインのことを考えないように努めながらも胸の痛みは消えそうになかった。 
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