恋情 - the treachery -



 大きな爆発音と共に地面が揺れる。しかし、それは地震というほど広範囲に及ぶものではなく、精々周囲の邸に及ぶ程度の揺れだった。その振動から暫しの後、唐突に地面から幾本もの氷柱が突出した。だが、それもすぐに消失すると、雨の降り続く音だけが聞こえる静けさが戻って来た。
 そんな中、氷柱によって穿たれた穴から這い出す人影があった。より正確に言えば、這い出すというよりも押し上げられるといった方が正しいだろう。穴から出てきた人影は力無く、ぐったりとしていた。身体の半分ほどが地表に出ると、同じ穴から黒い影が息も絶え絶えといった様子で這い出て来る。ぐったりとしている人影よりも尚、色濃いその影の主は肩で呼吸をしながらも立ち上がると、身体の半分ほどしか地表に出て来ていない方の人影を穴から引き摺り上げた。


「……おい、しっかりしろ」


 その声音は憔悴し切っていた。声音は厳しい。しかし、歪められたその顔は酷く悲しげであり、時折痛みに顔を歪めていた。一際黒い人影――黒いローブを纏っているゲアハルトは硬く目を閉ざしているエルンストを一瞥した後、周囲を見渡した。レックスを呼び寄せるように伝令を出してはいるが、まだ到着していないらしい。だが、あともう少しで来るはずだと判断したゲアハルトは一先ず、気を失っているエルンストを連れて雨を凌ぐ為にクレーデル邸の中に向かおうとした。
 コンラッドの地下研究室に隠していた白の輝石も偽物だった。軍令部で片を付けられればそれに越したことはなかったのだが、それ以外にもエルンストを誘い込むことの出来る場所を確保しておく為にクレーデル邸にも偽物を仕込んでおいたのだ。それもあってアルヴィンらには暫く邸を離れているようにと伝えておいたのだが、出来ることならこの場所を使わずに済ませたかったところではある。
 本音を言うと、ゲアハルトはまさかエルンストが白の輝石に似せて作らせた偽物の魔法石を爆発させるとは思っていなかったのだ。そうした行動に出ることも予想してはいた。だが、爆発させずに取り押さえられると思っていたのだ。自分の考えが甘かったということもある。エルンストが自分の予想を越えていたということもある。だが、やはり説得に応じてくれるはずだという、そんな思いがあったのだ。それは捨て切れていない自分自身の甘さだ。捨て切れていたと思っていたのに、結局のところ、少しだって捨て切れていなかった。
 爆発する寸前、エルンストが自身に掛けた防御魔法を破ることを止めて、彼と偽物の魔法石に防御魔法を掛けた。幾重にも重ねて掛け続ける間に爆発し、地下研究室は崩れてしまった。出来だけその被害を抑えようと魔法石にも防御魔法を掛けていたこともあり、何とか燃えずに残ったいくつかの本棚が折り重なるようにして空間ができ、生き埋めになることは免れた。後はそこから地表に向けて攻撃魔法を放って穴を穿ち、そこから爆発を間近で受けて気を失っているエルンストを抱えて外に這い出て来たのだ。


「エルンスト、しっかりしろ」


 彼の身体を担ぎ直しながら、ゲアハルトは声を掛け続ける。エルンストの頭からは爆発の衝撃でぶつけたらしく血が流れ、身体のあちこちから血が滲んでいる。息はあるものの、決して安心できるような状態ではない。今は雨も降っているのだ。冷たい雨に体温を奪われる前に早く手当をしなければならない。
 だが、それはゲアハルトにも言えることだ。彼も決して無傷とは言えない状態であり、ローブの下の身体はぼろぼろだった。どちらも顔色は悪く、ゲアハルトがエルンストを引き摺るようにして歩くその後には血痕の後が続いている。一歩、足を動かす度に身体には激痛が走る。司令官に就任してから第一線を退いたということもあり、このような怪我を負って痛みを感じることは久しぶりの感覚だとぼんやりと考えながらも、ゲアハルトは歯を食い縛って足を動かし続ける。
 そして、邸の方へと歩き続けると、庭の東屋が見えてきた。出来ることなら布などもある邸まで辿り着きたいところだが、そのような余裕も自分自身にはなく、ゲアハルトは爪先を東屋へと向ける。兎に角、雨を凌ぐことの方が先決だった。ローブが雨を吸い、体温が奪われていくのが分かる。寒さに吐き出す呼吸は白くなる。それでも何とか東屋まで辿り着くと、ゲアハルトはエルンストをそこに寝かせ、雨に濡れてぴったりと貼り付いているローブを脱ぎ、顔の半分を覆っているマスクも取り去った。


「……、っ」


 身体に痛みが走る。しかし、漏れそうになる声を喉の奥で噛み殺すとゲアハルトはすぐにエルンストの手当を始めた。一番酷い腹部の怪我に手を翳し、回復魔法を使う。ふわりとした柔らかな光がその傷をゆっくりと癒し始める。先ほどから立て続けに魔力を使い続けているということもあり、それほど余裕があるというわけではない。それでも、エルンストの傷を癒すことぐらいは出来そうであり、そのことにほっとする。
 だが、その安堵も束の間のものであり、ひゅっと風を裂く音が耳に届き、ゲアハルトは咄嗟に音が聞こえた方に向けて防御魔法を展開した。ばちり、と弾くような音が聞こえる。しかし、その次に聞こえるはずの投擲されたものが地面に落ちる音は聞こえず、代わりに防御魔法を打ち破ろうとし、ぴしぴしという防御魔法に罅が入る音が聞こえて来る。
 予想外の自体に目を見開くもゲアハルトはすぐに腰に差していた剣を抜くと、ふらつきながらも立ち上がり、防御魔法を消失させると同時にこちらへと向かって来る黒い刃のナイフを叩き落とした。一際、耳触りな金属音がその場に響き渡る。ちらりと足元に落ちたナイフを一瞥したゲアハルトは、すぐにそれが投擲された方向へと視線を向け、「カサンドラか」と呟いた。防御魔法を打ち破る矢の存在はライゼガング平原での戦いが終わった後、工作任務から戻ったアイリスらから報告を受けていた。そして、持ち帰られた鏃を使ってエルンストは地下研究室の仕掛けを突破し、今さっき自身に投擲されたナイフもそれが流用されたものなのだろうということに気付く。そうすると、自ずとそれを使用する者の存在は絞られた。


「そうよ。久しぶりね、ゲアハルト」
「……ああ」


 くるりと赤い傘を回し、カサンドラは姿を現した。赤紫の髪を結い上げ、美しく化粧を施した彼女は降りしきる雨の中に佇み、紅を差した唇を撓らせて微笑んでいる。それは美しくもあり、異様な雰囲気でもあった。
 ゲアハルトは真っ向から彼女を睨みつつ、周囲の気配を探る。しかし、他に人の気配はなく、どうやらカサンドラしかこの場にはいないらしい。無論、だからといって油断することは出来ない。今の状況からすると、明らかに彼の方が不利な状況にあるのだ。自身が手負いであることも勿論だが、未だ意識の戻らないエルンストを庇いながら戦わなければならない。
 口惜しくもあり、決して逃がしてはならない相手ではあるものの、出来ることなら今回はこのまま退いて欲しい――というのが本音だった。エルンストを傷つけ、追い込んだ張本人を、自分たちを裏切った人間を逃がす様な真似はしたくはない。だが、万全ではない状態で戦って勝てるほど、カサンドラが弱くはないということもゲアハルトはよくよく理解していた。そうでなければ、帝国で生き残ることなど出来なかっただろう。


「そんな怖い顔をしなくてもいいじゃない。エルンストも生きているんでしょう?」
「……」
「まあ、でも……そのまま死なせてあげた方がその子も楽になれるんじゃないかしら」


 赤い目を細めて冷え切った笑みを湛えるカサンドラの言葉に一瞬にして頭に血が昇った。足元に落ちていたナイフを素早く拾うと、それを彼女に向けて投擲する。だが、刃がカサンドラに届くよりも前に耳障りな金属音が響き渡り、ナイフは中ほどの距離でぽとりと地面に落ちてしまった。


「危ないじゃない」
「難なく防いでおいて言う台詞ではないな」


 ゲアハルトが投擲したナイフの軌道を読み、カサンドラは新たに取り出したナイフをぶつけてきたのだ。眉を寄せるゲアハルトに対し、彼女は唇を撓らせて笑うばかりで余裕の態度は崩れない。実際に、カサンドラには余裕があり、優勢であることに変わりはない。寧ろ、時間が経てば経つほど、エルンストを庇っている以上、焦りが募り、劣勢に追いやられるのはゲアハルトの方だ。
 レックスが来れば状況は変わるだろう。だが、来るかどうかも分からない応援を待つわけにもいかない。カサンドラが一人で動いているとは思えないのだ。もしかしたら、応援に向かうべく動いているレックスの動きも読んだ上で布石を打っているかもしれない。そうでなければ、今ここで、彼女が自分の前に姿を現すとも思えない。つまり、最初からカサンドラの掌の上で踊らされていたようなものだ。そのことにゲアハルトは歯噛みするも、だからといって、彼女の予想通りの結末を迎えるわけにはいかない。


「剣なんて構えてどうするの?」
「お前を此処で殺す」
「あら、出来るかしら。そんな身体で」
「ああ」
「……百歩譲ってそれが可能だとしても、貴方、死ぬわよ」


 その時、初めてカサンドラは笑みを消した。淡々とした声音で耳に届くその言葉は、恐らくは事実になるだろう。今の自分の状態ならば、それこそ刺し違えなければカサンドラを手に掛けることは出来ない。そして、それは避けるべきことでもある。白の輝石を使って帝国にある黒の輝石を対消滅させること――それが彼の悲願だ。そのためだけに今まで生きて来たようなものだ。ならば、今はどれだけ悔しくとも、カサンドラに対して下手に手を出すことはせず、見逃した方が賢明な判断だ。
 それは分かっている。分かってはいるのだ。けれど、どうしても今この場でカサンドラを取り逃すわけにはいかなかった。どうしても、今この場で彼女を捕えるか、もしくは手に掛けなければ気が済まなかった。それをエルンストが望もうが望まないかなんてことはどうだってよかった。ただ、カサンドラを前にしていると、どうしようもないほどの殺意が沸々と湧き上がって来たのだ。


「俺はお前を許すことが出来ない」
「三文役者の台詞ね。私がギルベルトを殺めたこと、エルンストを追い詰めたことがそんなに許せない?」
「当たり前だろう!」
「そう。確かに私はギルベルトを手に掛けて、エルンストも追い詰めたわ。でもね、その子を追い詰めたのは何も私だけではないのよ」
「何を、」
「心当たりがないなんて言わせないわ。……ゲアハルト、貴方だって気付いていたでしょう?エルンストが貴方に対して歪んだ信頼を寄せていたこと」


 目を細めて口にする言葉に、ずきりと胸が痛んだ気がした。言い返せないゲアハルトに対し、唇の端を持ち上げて笑みを浮かべたカサンドラは「気付いていたのよね、本当は。貴方が汚れ仕事を任せる度に、その子が貴方に依存していたこと」と唇を滑らせる。


「それを知っていて、貴方だって汚れ仕事を任せていたんでしょう?」
「……違う」
「違わないわ。ゲアハルト、貴方はね、エルンストの弱いところに付け入っていたのよ。ずるくて酷いことをしていたの。それなのに、貴方はよくあの赤い髪の子を使うようになってたみたいじゃない。酷いわよね、あんまりよ」


 蔑むような視線を向けてくるカサンドラに、違う、と言いかけるも、言葉にならなかった。エルンストを良い様に使っていたという指摘に対して、言い返す言葉がなかった。分かっていたのだ。気付いてもいた。それでも、気付いていない振りをしていたのは他ならぬ自分自身だ。エルンストならば任せられると思っていた。信じてもいた。信用し、信頼していた。そのことは事実だ。けれど、付け入るような真似をしていたという自覚も、あった。後ろめたさがあったからこそ、信じているからと、頼れるからとそのような美辞麗句を並べ立てた。そして、彼の弱みに――認められたいと感じている彼の弱みに付け入っていた。


「ほら、言い返せないでしょう?貴方は使えるものなら何でも使うものね」
「……っ」
「でもね、それがエルンストを追い詰めていたのよ。憎んで憎んで、殺したがっていた私の手を取ってしまうぐらいに」


 自分の胸に手を当て、カサンドラは微笑む。毒々しいその笑みにゲアハルトは顔を歪めるも、言い返すことは出来なかった。


「ああ、でも……エルンストを追い詰めたのは貴方だけではないものね。アイリス嬢が一番追い詰めていたかも」
「……そんなことは、」
「ないとは言い切れないわよね。あの子はね、自分に縋るエルンストを綺麗事を並べて突き放したのよ。貴方は知らないかもしれないけれど。自分に好意を持っている知りながら、曖昧な態度を取って」
「……」
「それでも、どうしても諦められなかったのね、エルンストは。貴方にだって取られたくなかったのよ」


 貴方だって彼女のことを好いているものね、と嘲笑うカサンドラに言葉に僅かに目を瞠る。誰にも言ったことはなかったし、態度にだってそれほど出してはいないつもりだった。咄嗟に返す言葉が出なかったゲアハルトを見遣り、カサンドラは口の端を吊り上げて笑うと「やっぱりそうなのよね」とせせら笑う。
 そこで漸くカマを掛けられたのだということに気付き、ゲアハルトは舌打ちする。だが、そんな彼を見ながらもカサンドラの余裕は崩れず、寧ろ愉しげに笑うばかりだった。


「マスクもフードも被っていない貴方を見るのは本当に久しぶりだけれど、案外顔に出やすい人なのね。マスクをしている理由も分かるわ」
「カサンドラ、」
「勘違いしないで頂戴ね。私はね、少しだけエルンストの背を押したに過ぎないのよ。その子だって馬鹿ではないもの。普段ならば、私が何を言ったって動じないどころか、殺そうとしてくるはずよ。でもね、エルンストは私の話に聞く耳を持つぐらい、追い詰められていたわ」


 貴方とアイリス嬢が追い込んで追い詰めて、そして最後はエルンスト自身が決めたのよ。
 カサンドラはその言葉と共に取り出したナイフを投擲する。それを剣で捌こうとするも、それを構えた瞬間、前方から突風が吹き荒れる。ぶわりと煽られたナイフが予想の軌道を外れ、ゲアハルトは咄嗟に防御魔法を展開する。だが、黒い刃のナイフは防御魔法に突き刺さり、微かな音を立てながら防御魔法に対して罅を入れる。
 しかし、先ほどと同じように防御魔法を消して直接ナイフを剣で捌こうにも、間髪入れずにカサンドラが操る風の攻撃魔法が繰り出される。この場を動くことが出来れば、まだ打てる手は多くある。だが、東屋の前を自身が離れた瞬間、カサンドラは口封じの為にエルンストを手に掛けることだろう。防御魔法を展開しても同様だ。彼女にはそれを破ることの出来るナイフがある。既に三本使用させているが、あとどれだけその身に隠しているのかは知れない。
 つまり、動けないのだ。ゲアハルトがその場を動いた時点でエルンストの命はない。無論、防御魔法を幾重にも展開し、時間を稼いだ上でその場を離れるということは出来る。その間にカサンドラを仕留めることだって不可能ではないだろう――だが、それはあくまでも万全の状態であれば、の話だ。今は満身創痍の状態であり、魔力にも限りがある。そのような博打は打てないのだ。
 だが、考えているうちにも次々とナイフが投擲され、防御魔法に入る罅が大きくなる。破られないように魔力を注ぎ続けているものの、それでは現状をどうすることも出来ないことは明らかだ。カサンドラは消耗戦に持ち込む気であることは間違いない。ゲアハルトの魔力が尽きた瞬間を待っているのだ。甚振るようなその手段がいかにも彼女の好むそれであり、彼は不快げに顔を歪めた。


「私はね、どうしても貴方の首が必要なのよ」
「……ヴィルヘルムへの手土産か」
「そう。貴方のお陰で私は再三、失敗してしまったもの。貴方を牢に封じた時は、成功したと思ったのだけれど……まさか、シリル殿下に出し抜かれていたとは予想外だったわ」


 肩を竦めるカサンドラに対し、ゲアハルトは僅かに呼吸を乱しながら「お前の目的は何だ」と問い掛ける。自身の首をこれまでの失敗の代償に狙っているのだということは分かる。だが、そこまでの忠義をカサンドラがヴィルヘルムに対して捧げているようにはとてもではないが見えないのだ。何が目的があるからこそ、彼女は今、帝国に属している――その方が余程、しっくり来るのだ。
 問い掛けられたカサンドラも彼が何を探るのかが分かっているからこそ、表情を消し去り、その明るい青の瞳を見返す。けれど、すぐにふてぶてしい笑みを浮かべると「貴方に教えることなんて何もないわ」と嘲った。


「兎にも角にも、私は貴方の首が欲しいのよ。その為の布石だった。まさかここまで上手く嵌るなんて思っていなかったけれど。でも、少しだけエルンストにはがっかりだわ。もっと派手に殺し合ってくれるかと期待していたのに。情を捨て切れないというか、優しいというか、……覚悟が中途半端なのよ」
「カサンドラっ」


 エルンストがどのような気持ちで決断したのかは知れない。だが、少なくとも苦しんでいたのだということは分かる。だからこそ、カサンドラのその言葉を許すことが出来なかった。ゲアハルトは分厚い防御魔法を東屋全体に掛けると、自身を守るべく展開していた防御魔法を消し去り、東屋を背に駆け出す。壁を失い、勢いを取り戻して迫り来るナイフを空中に作り出した氷の刃で撃ち落とし、そのままカサンドラを肉薄する。
 怒りを露に彼女を睨み、ゲアハルトは剣を振り被る。それを傘を放り出したカサンドラはかまいたちを放ち、迎撃する。風の刃が迫り来るも、彼はそれを身を捩って躱す。だが、完全に躱すことは出来ず、手足を切り裂かれ、血が吹き出る。それでも、距離を取ろうとするカサンドラを追撃した。


「防御を捨てるって、貴方らしくないじゃない」


 叫びながらカサンドラは次々とナイフとかまいたちを繰り出す。それらを躱し、ナイフはなるべく剣で捌くも、いくつかは東屋へと向かってしまう。ゲアハルトは防御魔法に回す魔力を増やしながら、後退するカサンドラの足元に氷を現出させる。足元が雨で濡れているということもあり、カサンドラは短い悲鳴を上げながらあっさりと足元を掬われ、体勢を崩す。
 好機だ、と彼は迷わず剣を振り上げた。そして、それを振り下ろす瞬間、「やりなさい、アウレール!」と凄惨な笑みを浮かべ、カサンドラは叫んだ。その叫びに、ゲアハルトの意識が後方の東屋へと逸れる。しかし、そこにいると思った彼女の仲間の存在は見受けられず、――はったりだと気付き、咄嗟に後方へと地面を蹴り出した頃には腹部に痛みが走った。


「……っ」
「目の前の敵から意識を逸らすなんて、前線から退いて鈍ってるんじゃない?ああ、でも咄嗟に飛び退る判断が出来るんだから鈍ってもないのかしら」


 血に塗れたナイフを放り出し、カサンドラは傷口を抑えて膝を付くゲアハルトを見下ろした。急所は免れたものの、ナイフは貫通し、振り抜かれる際には手首を返された。込み上げて来る血が口元を汚し、痛みに視界は明滅する。兎に角、止血しなければと回復魔法を使うのだが、血は止まったと思ってもまたすぐ傷口が開いてしまうのだ。
 厄介な武器を作ったものだと思いながらも、それでも尚、ゲアハルトは自身を見下ろすカサンドラを睨み続けた。そんな彼を見下ろす彼女は酷く愉しげな笑みを浮かべている。


「ゲアハルト、貴方が膝を付いて血塗れになっているところなんて初めて見たわ」
「……、そうか」
「いい光景よ、ぞくぞくするわ。貴方がエルンストを捨て置けば、もしかしたら立場は逆だったのかもしれないのに」

 
 結局、貴方も甘いのね。
 カサンドラは冷え切った声で呟くと、ゲアハルトの手を離れていた剣を拾い上げる。そして、雨に濡れた切っ先が突き付けられた。しかし、それでも彼の目は変わらない。まだ諦めてはいなかった。剣は奪われ、動くこともままならないような傷も負った。けれど、だからといって諦めるわけにはいかなかった。まだ戦える、まだ負けるわけにはいかないのだと、ゲアハルトは血が溢れ出る傷口を押えながら、空中に氷の刃を作り出す。


「足掻くなんてみっともないわよ」
「みっともなくても、最後まで足掻いてみせるさ」
「……ああ、そう。それじゃあね」


 つまらないわ、と言外に含めながらカサンドラは剣を振り上げた。しかし、それを氷の刃が迎え撃つよりも先に、「司令官っ!」というレックスの叫び声と共に駆けて来るいくつもの足音が聞こえて来た。カサンドラは到着した応援に舌打ちすると視線をゲアハルトに戻した。そして、顔を歪めながら「運はいいみたいね」とだけ言うと、剣を放り出してその場を離脱しようとする。
 ゲアハルトはすぐに氷の刃を彼女の背に向けて放つ。そして、駆け付けたレックスらに「すぐにあいつを追え!」と命じた。レックスは一瞬、渋るような様子を見せたが、すぐに「了解です!」と言い残すと大半の兵士を連れて逃げたカサンドラを追撃した。恐らくは逃げられるだろう。逃げ道も用意せずに、カサンドラがこの場に現れるとは思えない。
 手傷を負わせることが出来ればいいのだかと思いつつ、ゲアハルトはこの場に残った兵士の手を借りて立ち上がった。そして、「司令官、無理しないでください!」という兵士の心配を他所に東屋に戻ると、未だ気を失い、先ほどよりもずっと顔色の悪くなっているエルンストの手当を再開した。


「司令官が、血が……!」
「俺はいい……、回復魔法では癒せない傷だ」
「だったら尚更……、とにかく、止血だけでも」


 兵士らはすぐに動き出した。状況報告の伝令を出し、クレーデル邸の馬車を用意する者、止血の為の布を集めに邸に入る者など、それぞれが手分けして事に当たり始めた。それを横目にゲアハルトは自身のことは顧みず、エルンストの手当に集中する。ただ、ぼんやりと聞こえて来る兵士らの声を聞きながら、自分が思っていたよりもずっと、自分で考えて動くことが出来るではないかと口元に微かな笑みを浮かべた。
 視線を硬く瞼を閉ざしたエルンストに向ける。霞んではっきりとは見えないものの、先ほどよりは少し血の気も戻っているようだった。そのことに安堵しつつ、ゲアハルトは彼の身体を改めて見る。衣服は血に塗れているが、傷らしい傷は見当たらない。魔力はもう残っていないため、危なかったと思いながらゲアハルトは壁に背を預けた。
 腹部の傷の痛みは既にない。否、分からなかった。身体中に痛みが走り、それと同時に少しずつ寒気が増していくのだ。寒くて寒くて仕方がない。まだやらなければならないことは多くあるのだ。悲願も成就していない。エルンストとも、まだ話が終わっていないのだ。勝手なことをするなと、気付いていたのに何もしてやれなくて悪かった、と言いたいことはたくさんあるのだ。
 そして何より、もう一度だけ、アイリスに会いたいとも思った。自分で切り捨てておいて、最後の最後にそんなことを思うのだから、自分は虫がよすぎると彼は自嘲する。それでも、思ってしまったのだ。彼女に会いたい、と。けれど、それが叶うことはないのだろうと思いつつも、どうかアイリスが戻って来れるようにと、自分が願えたことではないと知りながらも願わずにはいられなかった。
 次第に目の前が真っ暗になる。寒さも痛みも感じない。ゲアハルトは壁に深く背を預け、自分の名前を叫ぶ兵士らの声を遠くに聞きながら、意識を手放した。



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