恋情 - the treachery -



 アベルが周囲を見回りに行ったため、洞窟にはアイリスと身体を伏せている巨躯の狼――フェンリルが残されていた。先ほどまで彼の背に乗っていたのだが、やはり改めて見てみると身体の大きさに圧倒されてしまう。自分など簡単に丸呑みにされてしまいそうなほど大きな顎を持ち、鋭利な牙が見え隠れしている。触れてみれば、その気がとても柔らかだということも、温かみがあるのだということも分かるのだが、アベルがいないと傍に近寄ることさえ勇気が必要な行動になってしまう。
 そんな彼女の躊躇いなど気にも留めず、フェンリルは瞼を閉じて身体を休めている。異界の生き物だということはアイリスも知っているのだが、こうして瞼を閉じてのんびりとしているところを見ると、体躯があまりにも大きすぎる鋭利な牙と大きな顎を持った犬、という印象も受ける。しかし、いざ目の前に追手が迫ったとなると、その大きな顎で喰い殺してしまうのだろうが――それを思うと、背筋に寒気が走った。


「……出来れば、あんまり使って欲しくないな」


 ぽつり、とアイリスは呟く。フェンリルの存在は恐ろしいが、頼もしくもある。だが、この狼は異界からアベルに召喚されている召喚獣であり、その召喚の代償は契約者の命だと聞いている。それを思うと、詳しくは分からないものの、今この瞬間だってアベルの命が削られているかもしれないのだ。それを思うと、やはりあまり使って欲しくはないと思ってしまう。
 だが、その代わりの移動手段として馬を調達することも簡単なことではないということも分かっていた。閉じ込められていた隠れ家から馬を強奪すれば、まずその時点で隠れ家の帝国兵らと一戦交えることとなってしまう。かといって、近くの村や町から馬を調達すれば、追手が既に放たれているかもしれないことを考えると、自分たちの人相が知られている以上、ある程度、移動経路が割れてしまう。そうなると、ますます王都への帰還が難しくなる。だからこそ、アベルにフェンリルを使って欲しくはないと思いながらも、止めることは出来なかった。何が何でも、アイリスは王都に戻らなければならないと、そう思っているからだ。


「……大丈夫かな、あの人」


 パンを食べ終えると、焚き火に当たりながらアイリスは膝を抱えた。橙色に燃える炎を見つめながら、色々なことを考える。自分たちを逃がしたブルーノは大丈夫なのだろうかと、何だかんだ言いながらも面倒を見てくれていた彼のことを思い出す。
 ブルーノは一宿一飯以上の恩があるから、と言っていた。だが、アイリスにしてみれば、そのような恩を感じられるようなことをした覚えはなく、精々、道案内した程度のことでしかない。それがブルーノにとって一宿一飯以上の恩になるのかもしれないが、それだけではないような気もしたのだ。
 だが、既に彼を置いて遠く離れたところまで逃げて来ている以上、逃がしてくれたブルーノの為にも何が何でも逃げ切らなければならないとは思っていた。それが彼の優しさや気遣いに報いることの出来る唯一のことだと思うのだ。それでも、やはり安否は気になる。だが、知る術がない以上、今はどうすることも出来ないのだ。


「それに、どうしてるんだろう、みんな」


 レックスやレオ、ゲアハルトのことを考える。彼らはエルンストがしたことに気付いているのだろうか――それを考えると、どうしようもなく心が重たくなった。特に、ゲアハルトはエルンストと親しくしていた。とても頼りにしているようだった。そのことを思うと、申し訳なさと辛さ、心苦しさで胸がいっぱいになる。また、レックスのことも気になった。彼の性格を考えれば、最後に顔を会わせたのは自分だから、と責任を感じていそうなのだ。レックスの所為ではないのだからと、出来れば早く戻ってそう伝えたかった。レオやゲアハルト、エマやヒルデガルト、特に攫われる寸前まで共にいたアルヴィンを早く安心させてあげたかった。
 だが、それと同時にふと恐怖も込み上げる。アルヴィンは共にアルバトフ邸にいたのだ。つまり、殺されていたっておかしくはないのだ。寧ろ、カサンドラらにしてみれば、殺さない理由の方がない。そのことに思い至ると、どうしようもない恐怖が身体を駆け巡る。アイリスは震える身体を抱き締め、きゅっと唇を噛み締める。きっと大丈夫、逃げてくれているはず――自分に言い聞かせるように何度も呟いた。
 そんな時、不意にそれまで瞼を閉じて身体を伏せていたフェンリルがゆっくりと身体を起こした。洞窟の壁に照らし出されていた大きな影が動いたことで気付いたアイリスは驚いた表情で巨躯の狼を見上げる。だが、そのどこまでも澄んだ青の瞳は洞窟の外に向けられることはなく、アイリスに向けられていた。その澄みきった瞳を真っ直ぐに向けられ、彼女は息を呑む。


「……え?」


 そして、ゆっくりとアイリスとの距離を詰めたフェンリルに彼女は自然と表情を強張らせ、身体を竦ませていたのだが、擦り寄るように鼻先を一度寄せた後、すぐ近くに再び身体を伏せた。手を伸ばせば、触れられる距離に身体を伏せたフェンリルの意図が分からず、アイリスは困惑した表情を浮かべる。
 だが、その真意を探ろうとするも、ぶわりと吹き込んだ水気を含んだ冷たい風が洞窟に吹き込み、焚き火が大きく揺れる。冷たい風に晒され、アイリスは堪らず、くしゅんとくしゃみをするとぶるりと身体には悪寒が走った。アベルに渡されていた布を身体にしっかりと被り、少し弱くなってしまった焚き火に木をくべながら暖を取るも、やはりそれだけで身体を温めることは難しい。今は体調を崩しているような場合ではないのだと眉を寄せていると、つん、と背中に何かが押し付けられる。
 肩越しに振り向くと、すぐ近くに伏せているフェンリルの鼻先が突っついて来ているのだということに気付く。何か伝えたいことがあるらしく、アイリスは目を瞬かせながらそこで初めて、自分よりもずっとずっと大きな狼と向き直った。ふんふん、と鼻先を自身の身体に向け、じっと青い瞳をアイリスに向けてくる。身体に何かあるのだろうかと思いつつ、恐る恐る触れてみると、毛皮はやはり柔らかく、とても温かかった。


「あったかい……」


 その温かさについ、顔を寄せてしまう。そのままほっと息を付いていると、するりと被っていた布が落ちてしまった。だが、それにアイリスが手を伸ばすよりも先に器用に牙に引っ掛けたフェンリルがそれを彼女の頭の上に被せた。そして、再び鼻先を寄せられ、つん、と突っつかれる。どうやら、自分に凭れかかるようにと伝えたいらしい。
 思わぬ気遣いにアイリスは目を瞠る。だが、そうした少し不器用なところが、アベルを思い出させ、彼女は微苦笑を浮かべた。「貴方、アベルに似てるね」と言いつつ、フェンリルの温かな身体に凭れかかる。あまり使って欲しくはないという気持ちに変わりはないのだが、アベルの傍にこうして誰かを気遣えるような、そんな優しい存在がいたことに安堵もした。


「……アベル、早く戻って来ないかな」


 少し見回りをしてくると言って出て行ったが、本当はこの場にいたくなかっただけなのではないのかとアイリスは考えていた。自分さえいなければ、アベルがカインを裏切るようなことにはならなかったのだ。戻って来て欲しいとは彼女自身、ずっと思っていたことではある。だが、アベルを苦しめてまで、とは思っていなかったのだ。
 アベルはきっと今、とても辛く、苦しんでいるはずだ。一度はアイリスらを裏切り、そして今度は、自身の唯一の肉親を裏切ったのだ。何とも思っていないはずがない。堪えていないはずがないのだ。一度の裏切りでもとても苦しんでいるようだった。アベルが優しい分、その苦しみや辛さは人一倍だったはずだ。それの苦しみや辛さがまた、彼を苛んでいるのだ。
 だが、自分には何も言えないということも分かっていた。声を掛けるべきでもないのだ。自分が誘拐されたが為に、彼はカインを裏切ることとなってしまった。だからこそ、苦しんでいるアベルに対し、思うところはあっても、何かを言うような立場にはないのだ。だからこそ、洞窟を飛び出すようなことは出来なかった。


「アベル、きっと辛くて苦しい思いをしてると思うの。……それはわたしの所為でもあるから、わたしは何も言えないし、言うべきでもないんだけど……貴方だけは気にしてあげてね」


 フェンリルの温かな身体を撫でながら、アイリスは囁くように口にした。ぴくりと耳が動く。どうやらちゃんと聞こえていたらしい。特に返事らしい所作はなかったものの、それでも聞こえていることが分かるだけで十分だった。アイリスは目を細めて笑みを浮かべつつ、やっぱりアベルの傍にいたのがこの大きな狼でよかったと思いつつ、ゆっくりと瞼を閉じた。
 どうしても王都に戻らなければならないのだ。エルンストがどうなったのかは分からない。もしかしたら、まだ自由に動ける状態にあるのかもしれない。だが、どのような状態であれ、王都に戻ってエルンストと顔を会わせなければならないのだ。そうしなければ、エルンストはずっとずっと今と何ら変わらず、傷ついたままになってしまう。
 傷つけたのは他ならぬ自分自身だ。申し訳ないことをしたとも、謝ってどうにかなることではないということも分かっている。嫌われたくはないと思った自分の弱さと甘さが引鉄となったのだ。ならば、エルンストと向き合うことこそが、自分の今しなければならないことだと思った。そのためには、やはりどうにかして王都に戻らなければならず、フェンリルの存在は必要不可欠でもあった。
 なるべく使って欲しくはないのに、自分は矛盾ばかりだ――アイリスはそう思いながらも、今はとにかく身体を休めることが先決だと、柔らかな毛皮に顔を埋めると、程なくして泥に沈むように彼女は深い眠りに落ちていった。








 雨が降りしきる中、カインは隠れ家へと急いでいた。馬の背に乗った彼は前方を睨むように見据えつつ、言い知れない不安感に苛まれていた。もうすぐ隠れ家に到着する。それはカサンドラに命じられた南方での作戦行動中からずっと待ち侘びていたことである。それにも関わらず、どういうわけか隠れ家に戻ってはならないという嫌な予感が脳裏を駆け巡るのだ。
 帰還の途についた頃からずっと嫌な予感が脳裏から離れないのだ。どれだけ別のことを考えていても――もうすぐアベルに会えるのだと考えても、結局のところ、言い知れない不安感に襲われ、隠れ家に戻ってはならないのではにないかという考えに帰結する。だが、隠れ家にはアベルがいるのだ。あの場にいてはならないとすれば、それこそ、弟を置いておけるはずもない。だから、自分はどうしたって帰らなければならないのだということを自分自身に強く言い聞かせる。


「南での作戦、上手くいきそうですね」


 カインの不安に気付いていないのか、一人の兵士が声を弾ませながら馬を近付けて来た。普段ならば、話しかけるなとぴしゃりと言い放つところなのだが、今は話している方が気も紛れるということもあり、「そうだね」と返事をする。
 実際のところ、カサンドラから命じられた任務は面白いぐらいに上手く事が進んだ。それもこれも全てアベルの下準備があったからだということをこの兵士らが知っているのだろうかとちらりとカインは視線を周囲の兵士らに向ける。しかし、任務を終えたということもあって浮足立っている彼らの姿を見るなり、カインは苛立ちを感じ、殆ど何もしていないくせにと内心舌打ちしながら視線を前方に戻す。
 南方での作戦は予想以上に上手くいった。アベルの下準備があったからこそだとカイン自身は思っているのだが、それ以上にベルンシュタインの司令官であるゲアハルトの甘さに反吐が出る思いだった。彼にしてみれば、その甘さは自分自身を追い詰めることにしかならない。だからこそ、甘さなんてものはさっさと捨て去るに限るのだとカインは目を眇める。
 だが、自分はどうなのかと考えると甘さを捨て切れているとは到底言えないことも分かっていた。少なくとも、自分はアベルに対しての甘さを捨て切れていない。甘さしかないと言ってもいい。けれど、それを捨て去る理由もないのではないかとも思っていた。アベルは自分を裏切ることはない――それはカインの中で確固たるものとなっていた。決して揺らがないものであるのだから、自分はアベルに対しての甘さを捨てる必要はない、と思っているのだ。


「……ゲアハルトは嫌いだ」


 ぽつりと呟いた声音は馬が地を蹴る蹄の音に掻き消える。以前から嫌いだったが、今回の任務を通してより嫌悪感を抱いた。彼がヴィルヘルムの血を分けた従兄弟であり、ヒッツェルブルグ帝国の元第一皇子なのだということを改めて考えると、仕えられるはずもないと眉を寄せた。そこにヴィルヘルムに対する贔屓がないとは言えない。だが、カインにしてみれば、ゲアハルトは今のヒッツェルブルグ帝国の人間としてはあまりにも異端な存在だった。
 あいつのやっていることは汚いことも多いのに、綺麗に見えるのが嫌だ――それがカインのゲアハルトに対する印象だった。汚い手だって使っている。少なくとも、ライゼガング平原での戦いの際、奪取したベルンシュタインの食糧には毒が仕込まれ、そのせいで多くの兵士は命を落とした。その指示を出したのは間違いなくゲアハルトであり、彼は本来ならば自分が守るべき兵士を手に掛けたのだ。だが、そのことをベルンシュタインの人間は殆ど知る由もないのだろう。
 彼は様々な手を講じている。だが、それらが露見しないが為に、その統率力だけで恵まれた才能だけで切り抜けてきたと思われている。尊敬されているのだ。汚いところを覆い隠し、綺麗に取り繕っているだけのくせに、とカインは苛立たしくなって奥歯を噛み締めた。


「カイン様、そろそろ到着です!」


 作戦の成功を知らせられることが嬉しいのか、声を掛けて来た兵士の声音は明るい。お前は何もやってないだろう、と反射的に言い返しそうになる気持ちを抑え、カインは冷めた表情で返事を返しながら徐々に馬の速度を落としていく。そして、遠目に木々の奥にひっそりと立つ隠れ家が見えてきた頃、周囲が騒がしいことに気付いた。
 襲撃されたのだろうかと身構えるも、耳に届く騒ぎからはどうやらその可能性はないということが窺える。ならば、他に何があるのか――考えを巡らせたカインは僅かに目を瞠ると、半ば馬から飛び降りるようにして隠れ家に飛び込んだ。ぎょっとした様子で背後から呼び止める声が聞こえるも、今はそれを気にしている場合ではない。


「ねえ、何があったの!?」
「カ、カイン様……」


 隠れ家に飛び込むなり、カインはすぐ近くにいた兵士を捕まえて問い質した。声を掛けられた兵士は顔を引き攣らせると、言葉を濁すように視線を彷徨わせる。その様子に苛立ちを露にしながら「早く言ってよ!」と声を荒げると、顔を真っ青にした兵士は背筋を伸ばし、言葉を詰まらせながらも現状を報告する。


「……そんな……アベルが……」


 アベルがアイリスを連れて逃げた。その途中、逃亡を阻止しようとしたブルーノがアベルにナイフで刺されたのだということを聞いたカインは目の前が真っ暗になり、ふらりと体勢を崩した。そのまま床に崩れ落ちそうになるところを、慌てて報告をした兵士が支える。だが、カインはそのことにさえ気付いていないのか視線は宙を彷徨い、嘘だ嘘だとそればかりを繰り返す。
 ブルーノを刺し、アイリスを連れて逃げたということは、裏切りを意味している。それは分かっている。だが、理解することは出来なかった。これだけの騒ぎになっているのだ。自分が帰還するよりもずっと前に既に事は起きていたのだろう。自分が感じていた嫌な予感というものはこれだったのかと、頭の何処かで冷静な自分が呟く。
 嫌な予感ほどよく当たる――ぼんやりと考えながらも、アベルはそれでもまだ信じたくはなかった。アベルが自分を裏切ったなど、自分よりもアイリスを選んだなど、考えたくなかったのだ。自分にとって一番大切なものはアベルだ。これまでもこれからも変わることなく、そうあると思っていた。アベルだって同じことだと思っていた、信じて疑わなかったのだ。けれど、それは自分がただ信じていただけに過ぎないのだということが、現実が、突き付けられたかのように思えた。
 まだ、自分の目で見ていない――もしかしたら、ただの冗談かもしれない。そんな気持ちでカインは覚束ない足取りでゆっくりと、アベルの部屋を目指して歩き出す。だが、数歩も行かぬうちにその足は止まった。


「いつか裏切ると思ってたんだよ。信用できねーってな」
「ああ。ベルンシュタインなんて温いところに潜入して、頭もイカれちまったんだろ」
「いい迷惑だぜ。お陰でこっちがカサンドラ様にどやされるっての。裏切るんならせめてあの女は置いていってくれねーと」


 苛立たしげに吐き出された言葉が耳に届いたのだ。その言葉に引き寄せられるように、カインの爪先はアベルの部屋から彼の存在に未だ気付かず、罵詈雑言を並べる兵士らへと向けられる。するりと何処からともなく抜き出したナイフを握り、カインは自分よりもずっと上背のある兵士らの背後に立つと、ナイフを上から下に向けて振り下ろした。
 途端に、悲鳴が上がる。背中を深々と斬りつけられた兵士が悲鳴を上げながら倒れ込み、痛みにのたうち回る。その度に床に血が溢れるのだが、それ以上に返り血を真っ向から浴び、丁度斬り付けた箇所に近かった上体が特に赤く染め、ナイフを手に立ち尽くすカインの姿はあまりにも異様だった。
 既に帰還しているとは思いもしなかったのだろう。アベルのことを悪く言っていた兵士らの顔は瞬時に青褪め、がたがたと震えている。逃げたいのに、恐怖故に逃げられないのだろう。ならば、最初からアベルのことを悪く言わなければよかったのに――裏切っているはずがないのに、何を言っているのかとカインはぼんやりとした目を兵士らに向け、ナイフの切っ先を突き付けた。


「ボクの弟の悪口を言わないでくれないかな」


 アベルはたった一人の弟だ。魔法を使うことが出来たが故に周囲から疎んじられ、実の両親からも暴力を振るわれていた。何度も酷い目に遭わされていた。だからこそ、その度に思ったのだ。自分がアベルを守らなければならない、と。だからこそ、今までずっと一緒にいたのだ。これからだってそれは変わらない。だから、許すことなど出来ないのだ。どんなに些細なことであっても、アベルを侮辱する者は許さない。裏切る者扱いなんて以ての外だ、とカインは一歩、足を進める。


「アベルが裏切った?そんなわけないじゃないか。いい加減なことを言わないでよ」
「……お、お許しください!」
「嫌だ」


 涙を浮かべて懇願する兵士に冷めた視線を向けたカインは容赦なくナイフの切っ先をその兵士の腹部に埋めた。柄まで沈み込み、刃先は身体を貫いて背まで及んでいることだろう。込み上げて来た血で口元を汚しながら、兵士は身体を小刻みに震わせつつ、膝から床に座り込む。
 その間にもう一人の兵士が逃げ出そうとした。だが、勿論、逃がす気はなく、カインは手首を捻って抜き出した血塗れのナイフを持ち直すと、背を向けて逃げ出す兵士の心臓目掛けて投擲する。それはまるで磁石に吸い寄せられるようにどくんどくんと動いていた心臓を貫く。血が噴き出し、遠巻きに見ていることしか出来なかった兵士らの間で悲鳴が巻き起こる。
 だが、今はそれも煩わしく思うばかりだった。全てが汚らわしく見えて仕方なかった。カインは頬を伝う返り血を乱暴に掌で拭うと、床を張って逃げようとする最初に斬り付けた兵士の頭を踏みつけた。床に押し付けて踏み躙りながら「裏切り者っていうのはこうして逃げようとしてるお前のことを言うんだよ」と吐き捨てる。


「どうせ他の人たちも思ってるんだよね。アベルは裏切り者で信用出来ないって……思ってる人は出てきてよ、ほら」


 新たなナイフを取り出し、カインは周囲で顔を青くしている兵士らを睨みつける。自分たちもさっきまでアベルのことを悪く言って口さがなかったはずだ。それにも関わらず、今となっては悪口なんて一言も言ってないと言わんばかりの顔をするのだ。汚らわしいのだとカインは舌打ちする。嘘吐きばかりの汚らしい人間たちにどうして自分の弟を悪く言われなければならないのか――そもそも、本当に裏切ったかどうかはまだ分からないではないかと、カインは半ば強引に自分自身を納得させようとする。
 アベルは何か事情があってアイリスを連れてこの隠れ家を離れたのだ、と。もしかしたら、自分も知らないカサンドラの何かしらの任務があるのかもしれない。寧ろ、そうでなければおかいし。きっとエルンストが失敗したからこそ、アベルがアイリスを始末することになったのだとカインは考えた。それならば、納得がいく。否、強引に納得しようとしていた。


「……悪いが……、アベルがあの女を連れて此処を出て行ったのは事実だぞ」


 腹部を押えながら姿を現せたブルーノが階段の踊り場に立ち、口を開いた。一瞬、顔を歪めてからちらりとカインに視線を向けるも、彼が引き起こした惨劇については触れずに、ゆっくりとした足取りで階段を下りて来る。それまで踏みつけていた男の頭部を蹴り飛ばしたカインは腹部を押えながら階段を下りることで既に疲れ切っているブルーノの前に立ち、「……どういうこと?」と震える声で粒や千あ。
 信じたくはなかった。アベルが自分を置いて行ったなど、考えたくもなかった。せっかくまた一緒にいられるようになったのだ。もう離れなくていいのだとそう思っていた。信じて疑わなかった。けれど、事実だと告げるブルーノのその真っ直ぐな視線を見れば、嘘でも冗談でもないのだということが伝わってきた。


「嘘、だ……嘘だ嘘だ嘘だ!」
「カイン」
「アベルがボクを裏切るわけないじゃないか!ボクとアベルは二人で一つなんだ、ずっと一緒だったんだ。これからだってそれは変わらない!それなのに、ボクを裏切るなんて……そんなこと……」


 カインはブルーノを押し退けるとそのままアベルの部屋に向かって駆け出した。足を縺れさせながらも何とか彼の部屋の前に辿り着いたカインは息を整えた後、努めて明るい声で弟の名前を呼びながら扉をノックする。だが、いつまで経ってもアベルの返事はない。
 人の気配もないのだから、返事がないということぐらい分かっていた。だが、それでも、返事があるのではにないかと思った。いつも通り、面倒そうな顔をしながらも少しだけ笑って迎え入れてくれると信じていた。もしかしたら、出掛けに少し気まずくなってしまったから出て来てくれないのかもしれない――そんな叶うことのない期待だと知りながらも、カインは「開けるよ」と声を掛けてから扉を開いた。
 部屋は真っ暗闇だった。かといって、アベルが寝ている気配もない。ただ、暗く、ひんやりとした冷気で満ちたそこは、アベルが離れてから随分と長い時間が経っているのだということが窺えた。カインはふらりとその場にしゃがみ込む。アベルがいない――自分から離れ、自分を置いて、何処か遠くに行ってしまった。自分ではなく、アイリスと共に。


「嘘だ……こんなの、嘘だ……」


 頭を振り、嘘だ嘘だと繰り返す。血に塗れた手で頭を抱えたカインは声の限り、叫んだ。心が悲しみと苦しみと辛さと、そして、痛みに塗り潰されていく。それと同時に、憎悪と殺意が沸々と湧き上がって来る。カインは何度も叫ぶ。声が嗄れるほどに、喉が潰れるほどに、悲しみと憎悪に塗れた絶叫を繰り返した。



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