恋情 - the treachery -



 暫く、周囲を見回った後、アベルは洞窟に戻って来た。その頃には既に被っていた布も濡れ、身体が微かに震えるほどに雨に濡れて冷え切っていた。それでも、幾分か頭も冷えて冷静さを取り戻すことは出来た。兎に角、早く身体を温めようとぱちぱちと小さな音を立てながら燃えている焚き火に足早に近づき、アベルは思わず目を見開いて足を止めた。
 仮眠を取るようには伝えておいた。もしかしたら起きているかもしれないとも思っていた。だが、焚き火に近付いていくと、その近くで伏せている巨躯の狼に凭れかかってアイリスは眠っていた。その様子に目を瞬かせながら何があったのだろうかと思いつつ、アベルが戻って来たことに気付いたらしく、目を開いた巨躯の狼――フェンリルに視線を向ける。


『地面に寝かすのは可哀想だろう』


 頭に直接、落ち着いた声音が響いた。それは他の誰でもなくフェンリルの声音であり、アベルは特に驚いた顔をすることもなく、「それはそうだけど……」とどこか呆れた様子で溜息を吐きつつ、自分の気配に気づかず眠ったままでいるアイリスを一瞥した。百歩譲って、フェンリルに凭れかかっていることは置いておくとしても、気配に気づかず眠り続けていることには兵士として問題があるのでは、と思うのだ。
 だが、ずっと帝国軍に捕まっていて衣食住は確保されていたとしても、安心して眠ることなど出来ず、ずっと気を張り続けていたはずだ。それを思うと、今になって疲れがどっと出てきたとしても何らおかしなことではない。多少、言いたいことはあるものの、こうして眠り続けているということは少なくとも、この場でなら深く眠っても大丈夫だと思える程度には自分やフェンリルと共にいることに安堵感を覚えてくれているはずだ。


「……もうすぐ帰してあげられるから」


 近くに座ると、アベルはアイリスの頬に掛かっている髪を払う。それから、暫し迷った後に何度かぎこちない手つきで彼女の頭を撫でた。こうして触れることは、もうないと思っていたのだ。言葉を交わすことだってないと思っていた。けれど、ライゼガング平原で、橋で別れた時が最後だと思っていたのだ。だが、鴉に合流してからベルンシュタインの王都ブリューゲルに潜入した時、どうしてもアイリスの姿が見たくて、つい、姿を見せてしまった。
 覗き見れば済むことだった。けれど、気付いた時にはああも表に出てしまっていた。そのために、アイリスを害することにもなった。自分が生きているのだということを知ったら、彼女はまず間違いなく、自分を探し出そうとするだろう。それぐらいのことは分かっていたのだ。カインのことにしてもそうだ。アイリスが動いたとなれば、彼は彼女を傷つけようとすることぐらい、分かっていた。
 腹部をナイフで刺され、苦しげに顔を歪めながらも、ごめんと呟いた自分に彼女は目を見開いて酷く悲しげな顔をした。その顔を見ていられなくて、これ以上、カインと会わせたくなくて、すぐにその場から離れた。けれど、それからずっと、その時のアイリスの顔が脳裏に焼き付いて離れなかったのだ。
 もう、悲しい顔も辛い思いもして欲しくはなかった。そうさせている一端を自分が担っていると知りながらも、そう願わずにはいられなかった。アベルは僅かに顔を歪めながらも、せめて今はゆっくりと休めるようにとアイリスの頭を暫くの間、撫で続けた。


『これからどうする』


 焚き火に当たり、身体を温めながらパンを齧っていたアベルは頭に響くフェンリルの声に「雨が弱まるまでは此処かな」と返事をする。今はまだ雨が強い。この雨に紛れて距離を稼いた方がいいのは確かなのだが、アイリスは決して体調が万全とは言えない。そうでなくとも、秋も終わりに近づきつつあり、冷たい雨なのだ。風邪を引きかねないことを思えば、少なくとも雨が弱まるまでは動かない方がいいと思うのだ。


『人は弱いからな』
「そうだね。簡単に体調なんて崩れるし、そんなことになれば余計時間も掛かる。薬が必要になるかもしれないし、厄介だよ。風邪一つ取っても」


 怪我ならばアイリスの回復魔法でどうとでもなる。だが、風邪となると話は別だ。溜息を吐きながらもパンを食べ終えたアベルにフェンリルは身体を伏せたまま問い掛ける。


『王都まで行くのか?』
「……さあ、まだ決めてない」


 袋から厚めの布を取り出し、それを被ってフェンリルの背に凭れかかる。これは確かに温かいし、寝心地も悪くないかもしれない――そんなことを考えながらも、自分はどうしたいのかと考える。
 出来ることなら、アイリスを王都に――ゲアハルトかレックス、レオの元に帰したいところだ。彼らならば信用できるとアベル自身思っているのだ。だが、そこまで辿り着けるかどうかも分からない上に自分はベルンシュタインを裏切っている身だ。手配されているかもしれないことを思うと、アイリスと共にいるべきではないのだ。
 それならば、王都の近くの国境連隊に彼女の保護を求めればいいのだろうが、それではアイリスがちゃんと戻れたかどうかを見届けることは出来ない。遠目に着いて行くことは出来るだろうが、安心できるかと言われれば、頷けないだろう。結局のところ、自分の手でちゃんと帰さなければ気が済まないのだ。その時点で、自ずと自身の手で王都まで連れて行くか、もしくはゲアハルトらに迎えに来させるかしか方法はない。
 とは言っても、次期国王であるレオを動かすことなど出来るはずもなく、司令官であるゲアハルトを呼び出すことも難しいため、自ずと迎えに呼び出す相手はレックスしかいない。だが、彼を呼び出した時点で顔を会わせれば、自分は捕縛されるだろう。それだけのことをしたのだから当たり前だとアベルは目を細める。


「アイリスを帰した後、僕はどうしたいんだろう」


 戻るところはもうない。あの隠れ家を飛び出した時点で、自分の最後の寄る辺も自分自身の手で壊したのだ。ベルンシュタインには戻れず、鴉にも戻れない。どちらからも追われる身であり、逃げ切ることは決して簡単なことではない。分かっていたことだ。その上で行動に移した。けれど、彼女を帰してからのことは少しだって考えていなかった。ただ、捕縛されれば自分は死ぬのだろうなとは思っていた。
 もしかしたら、それでもいいと思っていたからこそ、考えていなかったのかもしれない――アベルは自嘲するように微かに笑った。どうした、というフェンリルの声が聞こえるも、アベルは「何でもないよ」とだけ返して、隻眼を瞑る。こんなに自分にとてもよくしてくれていたアイリスらを裏切り、自分のことを歪んではいたものの、それでも本当に大切に思ってくれていたカインを裏切ったのだ。そんな自分には死がお似合いなのだと、彼は自嘲しながらも、アイリスを帰すまではせめて生き延びなければならず、今は身体を休めるべく、ゆっくりと眠りに落ちていった。









「酷い雨ね……」


 降りしきる雨の中、クレーデル邸から離脱し、追手であるレックスらも撒いたカサンドラは以前、ルヴェルチより与えられていた隠れ家に戻っていた。手早く着替えを済ませると、結い上げていた髪を解き、濡れた髪をタオルで拭きながら彼女は共に王都に再度潜入していたアウレールがいるであろう居間へと足を踏み入れた。
 そこには案の定、壁に凭れかかるアウレールの姿があった。彼もまた、濡れていた。戻って来たカサンドラを一瞥したアウレールは「加勢した方がよかったか?」と口を開く。彼もまた、クレーデル邸の付近にいたのだ。水気の移ったタオルをソファに放り投げたカサンドラは冷えた身体を温めるべく、紅茶の用意をしながら言う。


「終わったことを言っても仕方ないわ。貴方に与えた指示は足止め、そこに相手の殺害を含ませなかった私のミスよ」


 アウレールは言われたことしかしない。足止めをしろと言えば、敵を殺すことなく、その言葉の通りに足止めをするだけだ。命じなければ、誰も殺そうとしないのだ。逆に言えば、命じれば誰であっても殺すのだが――それを知りつつも、言葉足らずな命令を発したのは他の誰でもなく自分自身であるということは分かっている手前、レックスらがアウレールを突破してクレーデル邸に突入して来たとしても、文句は言えない。
 寧ろ、すぐに止めを刺さなかった自分にも非はあるのだ。カサンドラは舌打ちする。どうして無駄口を叩いて、すぐに剣を振り下ろさなかったのだ。振り下ろしていたのなら、たとえゲアハルトの氷の刃がいくら放たれようともそれらを全て攻撃魔法と防御魔法で相殺した上で首を斬り落とすことは出来たはずなのだ。
 まさかかつての仲間の情でも湧き上がったのか――そう思うも、すぐにそのようなことは有り得ないと首を振る。自分にそのような感情はなかった。カサンドラにとって、興味関心の全てはギルベルトにしかなかった。彼の傍にいるためだけに、軍人で在り続けていたようなものなのだ。魔法もナイフの取り扱いも、兵法も、それら全てを磨いたのも偏にギルベルトに認められたいが為だけのことだった。そんな自分が、仲間の情など持つはずがないとカサンドラは口元を歪めて笑った。


「ゲアハルトはしばらく動けないわ。それに、エルンストも捕まる。ベルンシュタインの軍事機能は停止したと言っても過言ではないわ」
「……だが、お前も怪我を負っている」


 その指摘にカサンドラは僅かに眉を寄せた。ゲアハルトと交戦中に剣や攻撃魔法が掠り、彼女自身も決して無傷とは言えない状況なのだ。だが、ゲアハルトやエルンストに比べれば大したことはなく、数日安静にしていれば平気よ、とカサンドラは湯気の立つカップに口を付ける。


「ならばいいが。それで、白の輝石はどうするつもりだ」
「使わせないという意味ではゲアハルトとエルンストを殺してしまえば問題はないわ。白の輝石に最も近しい人間だもの、クレーデル邸の地下研究室もゲアハルトの執務室もエルンストが破壊してくれたから研究資料も残っていないはず。あとはあの二人を殺せば、ベルンシュタインにとっては白の輝石は失われたも同然」


 エルンストも隠し場所を知らなかった以上、白の輝石の在り処を知っているのはゲアハルトだけだ。彼さえ口封じしてしまえば、再び白の輝石の行方は分からなくなる。だが、ベルンシュタイン側も在り処が分からないため、脅威には成り得ない。後は、ベルンシュタインという国自体を手に入れた後、虱潰しに調べればいいだけのことだ。
 何より、たとえベルンシュタインの人間は白の輝石を見つけたとしても、簡単に扱えるようなものでもない。つまり、見つけられたとしてもゲアハルトやエルンストでなければ、扱うことは不可能であり、寧ろ見つけてくれた方がカサンドラらにとっても都合はいいのだ。
 だが、カサンドラにしてみれば、出来るだけ早く手に入れたかった。白の輝石とゲアハルトの首を手土産に黒の輝石を所有しているヴィルヘルムと交渉したいのだ。彼女にはどうしても、黒の輝石が必要なのだ。


「ゲアハルトが動けない以上、白の輝石を回収する為には誰か他の人間を動かさなければならなくなるわ。なら、その回収を命じられた人間から奪い取ればいいのよ」
「どうやって見分けるんだ」
「見分けようなんてないわ。ゲアハルトも馬鹿ではないもの、囮を何人も使うはずよ。……こんなことならもっと人数を連れて来るべきだったわね」


 とは言っても、今は王都の出入りが制限されている状態であり、侵入することも容易ではない。人数が多ければ多いだけ、困難になるからこそ、今回はカサンドラとアウレールのみで侵入したのだ。だが、二人だけでは見落とすかもしれない以上、何人かは捕縛されることになるだろうが、応援が呼んだ方が賢明だとカサンドラはペンと紙を用意するとすぐに暗号文を書き記し始める。
 そして、書き終えると新たに一枚、紙を用意するとヴィルヘルムに宛てた手紙も書き始めた。ゲアハルトを行動不能に追い詰めた今が好機なのだ。今ならばベルンシュタインを落とせるかもしれない――その旨を伝えれば、恐らくヴィルヘルムは出兵するだろう。ヒッツェルブグル帝国とベルンシュタイン王国がついに正面から激突するのだ。
 その好機を作ったとなれば、カサンドラの失態も帳消しになるはずであり、黒の輝石に再び近づくことが出来る。それは、カサンドラがベルンシュタインから帝国に寝返った悲願を成就させる為には必要不可欠なことなのだ。だからこそ、彼女は白の輝石とゲアハルトの首を手土産にしようとしている。手柄を作った上で交渉に持ち込めば、もしかしたらと考えているのだ。


「アイリス・ブロムベルグはどうする」
「殺していいわ。カインに伝えて頂戴、もう用済みだから好きにしていいって」
「了解した」


 アウレールはカサンドラが書き終えたそれぞれの手紙を受け取ると、それらを飼い慣らしている鳥に届けさせるべく居間を後にする。それを見送り、彼女は息を吐く。紅茶を飲みながら、悲願の成就がもう間近であるということに口の端を持ち上げ、そして、形のいい唇からは笑みが漏れる。あともう少し、あともう少しで――くすくすと笑みを洩らしながら、カサンドラは恍惚とした表情で笑い続ける。次第に大きくなる笑い声は降り続く雨の中、響いていた。



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