恋情 - the treachery -



「司令官の具合、どうだ?」


 小雨が降っていた。病室のすぐ傍に椅子を置き、そこに腰かけていたレックスは掛けられたその言葉に顔を上げた。視線を向けると、そこには酷く心配した表情を浮かべるレオがいる。そんな彼に対し、咄嗟にお前こそ護衛はどうしたんだと言おうと口を開くも、廊下の隅に立つ近衛兵の姿を見つけ、口を閉ざした。
 そして、ちらりと視線を閉ざされた扉に向けた。その部屋にゲアハルトが担ぎ込まれてからまだ数時間程度しか経っていない。レックスは扉に視線を向けたまま、「芳しくはない」とぽつりと呟いた。自分がもっと早く到着出来ていたのなら、間に合ったかもしれない。それを思うと、自分の無力さに反吐が出る思いだった。





 すぐに応援に向かうべく、指示を受けたレックスは隊を率いてクレーデル邸へと向かった。しかし、あともう少しで邸に到着するというところで、道の真ん中に立つ人影が現れたのだ。雨が降りしきる未明に、道の真ん中に立ち尽くしているなど普通ではない。怪しいと、目の前にいる人物は敵であると直感した。
 レックスは足を止め、前方の人影に意識を集中させる。率いていた兵士らもその人影の異様さに気付いたのか、それぞれ警戒しつつ、剣の柄に手を掛ける。多勢に無勢ではあるものの、状況が状況である。エルンストがカサンドラと繋がっている可能性が高い以上、目の前にいる者も恐らくは帝国の人間であり、相当の手練であるということが窺える。油断することは出来ない、とレックスは早く行かなければという焦りを感じながらも、剣をゆっくりと抜く。
 だが、いざ駆け出そうとした矢先――視界を眩い雷光が白く焼いた。そして、その瞬間、視界に移り込んだ人影の姿にレックスは目を見開き、駆け出そうとした足から力が抜けた。忘れるはずもなかった。忘れられるわけがなかった。人影の腕に刻み込まれた黒い鳥の刺青――それはレックスが故郷の村を焼き払われた時に見た、仇の腕のそれと同じものだった。


「……っ」


 殺してやる。瞬間的に頭がそのことでいっぱいになる。そのためだけにこれまで生きてきた。目の前の男を殺すことだけを目的にコンラッド・クレーデルに師事し、剣の腕を磨き、軍に入隊した。それからも一心不乱に鍛錬を続けて、敵を斬り続け、ついには第二騎士団で指揮を任されるようになった。それも全て仇を討つためだ。
 それまで幸せだった自分の生活をたった一夜にして破壊し尽くした目の前の男に復讐することを糧にして生きてきた。無論、それだけに囚われていたというわけでもない。軍に入隊してから友人もできた。自分にとって大切な居場所にもなった。辛いことも苦しいこともあったが、同じぐらい楽しいこともあったのだ。
 けれど、目的だけは変わらない。国の為ではなく、自分自身の為に剣を手にしてきたのだ。たった一人の人間を殺す為に、復讐を遂げる為に――その確たる目的は何があっても変わることはなく、アイリスに止められてもそれでも、止めることは出来なかった。どうしても、許すことが出来ないのだ。目の前の仇だけは生かしてはおけない。この男に自分は人生を狂わされたのだと、壊されたのだと思うと、殺してやるとしか思えないのだ。


「おい、レックス……どうしたんだよ」


 自分自身を落ちつけるようにゆっくりとした呼吸を繰り返す。だが、その様子は尋常ではなく、赤い瞳は仇を前にしてぎらぎらと輝き、今にも飛び出していきそうな、そんな危うさが全身に現れていた。さすがにそんなレックスを前にして、周りが何も感じないというわけではなく、近くにいた兵士の一人が前方に視線を向けたまま、声を落として問い掛ける。
 だが、その言葉は届いていても、返事をするような余裕は今のレックスにはなかった。任務中であるということも頭では理解している。けれど、感情を抑えることが出来ないのだ。漸く見つけることが出来たのだ。見えることが出来た以上、この好機を無駄にするわけにはいかないのだとレックスはぎらついた眼つきのまま、姿勢を落とす。
 仇からは動こうとする気配は感じられない。その様子からも恐らくは足止めを命じられているのだろう。ならば、こちらから打って出ない限りは、向こうから動くことはないだろう。だからこそ、機会は一度きりだ。相手のことを、レックスは決して過小評価していない。その一度きりの好機を逃せば、仇を討つことは勿論の事、突破してクレーデル邸に向かうことも容易なことではなくなってしまう。


「なあ、早く行かねーと……っ」
「分かってる。分かってるから」


 早口に告げながらレックスは改めて目の前の鴉の男に視線を向ける。相変わらず動く気配はない。だが、容易に突破出来る隙もない。かと言って、別の道に迂回しようにも背を向けた瞬間、追撃してくることは想像に難くない。そのことを考えると、やはり突破しか方法はない。先にクレーデル邸に到着しているであろうゲアハルトの元に急がなければならないのだ。――だが、それは今のレックスにとっては仇に対して背を向けない大義名分でしかない。
 だが、レックスにとっては丁度よくもあった。こうして漸く運が巡って来たのだ。今しかない。ならば、やるしかないのだ。この時をどれほど待ち侘びていたか――そのことを思うと、漸く自分の悲願が報われたような気がした。家族の顔を脳裏に浮かべる。彼らと過ごした決して長くはない時間のことを思うと、胸が痛くなり、目頭が熱くなる。
 彼らは望んではいないだろう。復讐を望むような、そんな人間ではなかったと思う。けれど、たとえそれが彼らの意に沿わぬことであったとしても、曲げられないのだ。どうしても。曲げてしまえば、それはこれまでの自分の生き方を否定してしまう。家族を奪われ、故郷を奪われ、人生を捻じ曲げられた怒りや恨み、憎悪の感情を抱え込み、じくじくとした痛みを抱えながら生き続けなければならなくなるのだ。
 漸く殺せる、殺せる、復讐してやる――そんな黒い感情が沸々と心の奥底から湧き上がる。そして、レックスはその心のままに駆け出そうとした。地面を蹴り出す。だが、剣を振り被るその前に、鼓膜を震わせる爆発音が届き、地面が大きく揺れた。その予想外の爆発音と衝撃にレックスも、そして、まさに命を狙われていた男も驚いた顔をして爆発音が聞こえ、そして、震源にもなっているであろうクレーデル邸に視線を向けた。


「レックス!」


 もうこれ以上は待てない、とばかりに兵士の声が耳に届き、それと同時に思考が一気に現実に引き寄せられた。殺したい、復讐したいという思考に囚われていたレックスははっと息を飲む。ちらりと視線を声が聞こえて来た背後に向けると、自身が率いていた兵士らの視線が突き刺さるかのようだった。
 その殆どの目は不安や心配げに揺れていた。彼らの殆どが現在起きていることの内容をほぼ何も知らされないままでいるのだ。何が起きているのかを正確に知っている者など、ほんの僅かな人数だろう。不安がないはずがないのだ。それでも文句を言わずに黙って指示に従っているのは、彼ならば大丈夫だろうという信頼があるからこそだ。
 けれど、今のレックスに――目の前の鴉の男への復讐を遂げることだけを考えていた彼に、このまま付き従えるかと言えば、頷くことは出来ないだろう。不安や心配に揺れる目を見て、さっと頭に昇っていた血が引いていく。それと同時に、殺意に満ちていた心がだんだんと落ち着いていく。無論、怒りや憎悪、殺意が消えてなくなったというわけではない。それでも、今この状況においても、冷静に思考することができる程度には落ち着くことができた。


「……悪い。今は突破が最優先だよな」


 これじゃあ指揮官失格だ、と呟きつつ、レックスは一度深呼吸をする。爆発音や揺れから、恐らくコンラッドの地下の研究室が爆発したのではないかと彼は検討をつける。地下の深さはどの程度かは分からないものの、地面が揺れるほどの爆発なのだから早急に救助しなければならない。
 レックスは肩越しに振り返ると、「念の為に回復魔法師を連れて来てくれ」と指示を出す。この場にいるのは剣や攻撃魔法は得意な者ばかりだが、回復魔法を使える者はいない。自分たちでは万が一の時、すぐに対応することは出来ないのだ。もしもの事態も備える為に、指示を受けた兵士はすぐに軍令部に向けて駆け出した。
 それを見送りながらレックスは剣の切っ先を男に向ける。このまま突き刺すことが出来ればいいのにとも思うも、先ほどのように殺意で頭がいっぱいになるということはなかった。だが、気を抜けばすぐにそういった思考に切り替わることは分かっているため、レックスは努めて自分自身を落ちつかせながらどうやって目の前の男を突破するかを考える。
 回復魔法師を呼びに行かせても男は特に反応らしい反応は見せなかった。そのことからも男が請け負っている任務はあくまでもクレーデル邸に向かおうとしている者の足止めであることが窺える。それをどうやって突破するのか――レックスは剣を握り直しながら、僅かに柳眉を寄せる。


「……全員、走るぞ」
「は?待てよ、レックス。そんなことしたら、」
「無理に倒す必要もない。……あいつは回復魔法師を呼びに行かせた時、何も反応しなかった。でも、オレたちがこれ以上先に進もうとすると、」


 そう言いつつ、レックスは数歩進んで見せる。途端に男の雰囲気が代わり、無言の圧力が加えられる。それ以上、進むのならば容赦はしないと言わんばかりの様子である。そんな男の様子に唇の端を歪めながらレックスは視線を切ると、「ほらな、手は出して来ない。威嚇してくるだけだ」と背後の兵士らに言う。


「距離があるからだろ」
「そうかもしれない。でも、もしかしたらそうではないかもしれない。……あいつはきっと、与えられた命令だけを忠実に実行する人間だ。自分の考えなんてない。言われていないことはしない」


 無論、それはレックスの推測でしかない。けれど、こちらを通さないという強い意思は感じるものの、殺意は微塵も感じないのだ。とは言っても、殺意など命令の前にあってないようなものだろうが、それでも剣を手にする気配すらないのだ。そのようなものがなくとも止めきれる、もしくは殺せると思っているのかもしれない。だが、どちらにしろ、レックスが選ぶ方法に変わりはない。


「あいつが殺しの命令を受けていないかなんて分からないだろ!遠回りしてでも裏門から、」
「オレたちが背を向けた瞬間、あいつに追撃されておしまいだ。それこそ、殺されるかどうかなんて分からないが、追撃されればそれを凌ぐことの方が難しい。裏から回るつもりが、寧ろ引き離されるかもしれない」
「それは……」
「だったらこのまま強引に突破する方が余程マシだろ」


 いくらこの男でもレックスら全員を止めることは出来ないだろう。全員が抜けられずとも、少なくはない人数が突破できるはずだ。ならば、裏に回る過程で足止めの為に人数を残すことと結果的には大差はない。どちらが早く邸に辿り着けるか、それだけの問題だ。そうなると、強引にでもこのまま突破する方が余程早く到着出来ることは明らかであり、そう決めたレックスに迷いはなかった。 
 兵士らも顔を見合わせて頷き合うと、それぞれ剣を抜いた。その様子に鴉の男は僅かに表情を動かすも、それでも尚、背中に背負っている大剣には手を伸ばそうとしない。距離があるからだろうかと考えるも、すぐにレックスはその思考を捨てる。剣を抜こうが抜かなかろうが、どちらでも結局のところは同じだ。目の前の敵を押し切ってクレーデル邸に向かう――今はそのことだけを考えていればいいのだ。
 幾度か深呼吸を繰り返した後、「行くぞっ」と声を張り上げた。その号令と共に一斉に駆け出す。レックスは剣を手に、真っ向から仇へと斬りかかる。そこで漸く、男は背負っている大剣へと手を伸ばした。耳障りな金属音が雨音に紛れて響き渡る。かちかちと小さな音を立てながら両者の力が拮抗する。その隙に次々と兵士らが脇を駆け抜けていく。ちらりとそれらを気にする素振りを見せる仇に対し、レックスは「……おい」と感情を押し殺した声で話しかける。


「お前はクナップで自分がしたことを覚えてるか?」
「……クナップ……さあ、覚えが無い」
「……っ、ああ、そうかよ!十年以上前のことだからなっ」


 期待していたわけではない。剣を交わしてみれば分かることだ。目の前の男は、ただ命令に忠実なだけの人間だ。殺せと言われたから殺しただけ、燃やせと言われたから街を燃やしただけ――何も感じていないのだろう。命令だからと、それを淡々とこなしているだけなのだろう。
 レックスも軍人である。命令を受けて人を殺したことだってある。けれど、いつだってそれを終えた後は、苦しさを感じた。苦しさも悲しさも痛みもあった。何の恨みがあるわけでもない相手を手に掛けている自分が、そんな痛みを感じるべきではないと思いつつも、いつだって後から後から苦しさが押し寄せて来るのだ。
 けれど、目の前の仇にはそんな感情がないのだろう。こちらに向けて来る目は湖の湖面のように静かで、少しも揺らがない。そのことに憎しみが沸々と湧いてくる。自分の家族や故郷を奪っておいて、そのことさえも覚えられていないなんて、あまりにも遣る瀬無かったのだ。怒鳴り散らしたい、このまま感情のままに剣を振るいたい――そんな思いで胸がいっぱいになる。


「殺してやる……っ」


 歯を食い縛り、レックスは吐き出すように呪詛にも似た言葉を口にする。どうしても目の前の男だけを生かしてはおけなかった。殺さなければ気が済まない。けれど、圧し掛かるような大剣の重みに腕が震え始める。子どもの頃のような、細腕ではないのに。復讐を誓った日からずっと憎しみを糧に鍛錬を続けて来たのに、それでもまだ自分は目の前の男ほどの力は得ていないのだということを思い知らされたかのようで、情けなさに声にならない叫びが喉の奥から漏れる。
 けれど、再び目的を失う前に「レックス!お前も早く来い!」という先に突破した仲間の声が聞こえた。その声音に改めて周囲に視線を巡らせると、既に仲間は突破し、僅かな兵士らが剣を構えている。つまり、レックスが突破さえすれば、後は彼らがしんがりとなって足止めをしてくれる。その間にレックスが残りの兵士を連れてクレーデル邸に突入するということらしい。
 一瞬、自分がこのまま相手をすると言いそうになった。けれど、腕に痛みが走る。その痛みが、幾分か冷静さを取り戻させた。レックスは悔しげに顔を歪めた後、後方へと飛び退った。それをすぐに追撃して来るも、遮るように後方から剣を構えた兵士らが間合いを詰めて来る。背後からの攻撃に僅かに眉を寄せながらも、レックスに向けていた切っ先を彼らに向け直す。その隙にレックスは兵士らの脇を抜けて仲間と合流する。


「大丈夫か?」
「……悪い。あいつらだけ残して行って平気か?」
「交代の奴らを少し残して、交互に入れ替わりながら足止めする。あいつに今のところ殺す気がないのは明らかだからな。お前の読み通りだよ。だから多分、何とかなるだろ。それより……」


 顔色が悪いぞ、と心配げな顔で言われてしまう。ずっと探していた仇を目の前にしたのだ。顔色がいいはずもない、とレックスは自嘲気味に笑うも、「平気だ」とだけ答える。心配を掛けている場合ではないのだ。決して体調が悪いというわけではないのだから問題はない、と頭を切り換えようとするも、それは容易なことではなかった。
 赤々と燃える故郷が脳裏を過る。家があった場所に戻ると、そこには黒く焼け焦げた人の形をしたものが折り重なっていた。それは今も尚、忘れることの出来ない変わり果てた家族の姿だ。そして、そんな目に遭わせた者がすぐ近くにいるのだ。殺してやりたい、この手で殺してやりたい。そんな衝動が湧きあがるも、レックスはそれを無理矢理、自分自身の中に封じ込めると「急ごう」と言葉を吐き出し、冷たい雨が降りしきる中、クレーデル邸へと急いだ。






「もっと早く到着出来ていたらよかったんだ」
「……お前の所為じゃないだろ」
「いや……」


 何があったのか、全てをレオに打ち明けることは出来なかった。仇が目の前に現れたのだということを伝えれば、きっと心配するに決まっている。ゲアハルトは意識が戻らないままであり、エルンストは捕縛されて牢に入れられ、今では反逆者となっている。その上、アベルは裏切ったままであり、アイリスも連れ去られて行方知れずだ。このような状態で自分のことまでレオに心配を掛けるわけにはいかなかった。
 レオは物言いたげな顔をしている。伏せていることがあるということに気付いているのだろう。だが、問い質す様なことはせず、「それで、エルンストさんが司令官を治療したんだよな」と話を元に戻す。レックスらが辿り着いた、まさにその時、ゲアハルトは止めを刺され掛かっていた。何とか間に合うことは出来たものの、ゲアハルトが負った傷は深かった。
 もっと早くに着けていたなら――仇を前に逡巡していた自分自身が恨めしかった。最優先すべきは任務であり、もっと早くに到着することが出来ていたなら、ゲアハルトが今も意識を失ったままになるような、そんな傷を負うことはなかったはずなのだ。その上、追撃したカサンドラを取り逃がしているのだ。悔やんでも悔やみきれず、ますます情けなさに嫌悪感が募る一方だった。


「……司令官がエルンストさんの治療をした後、すぐに気を失って……それから、意識を取り戻したエルンストさんが司令官を治療したって聞いた。……オレがもっと早くに到着していればよかったんだ」


 その後すぐ、レックスが手配した回復魔法師らも到着したのだが、予想以上にゲアハルトの負った怪我は酷く、回復魔法であっても容易に治癒することは出来なかったのだという。レックスがその話を聞く頃には既に軍令部にゲアハルトの身柄は移され、一命を取り留めていた。エルンストは治療を終えた時点で捕縛され、牢に投獄されたのだという。
 それからというもの、レックスは何度かエルンストが投獄されている牢に足を運んでいるのだが、一度も面会は叶わずにいた。誰とも会いたくないと面会を拒否しているのだという。当初、エルンストの身柄が拘束された時はシュレーガー家からの講義も届いていたが、事の次第が明らかになるにつれて、それも鳴りを潜めた。
 尤も、エルンストの仕出かしたことについて、詳細を知っている者は決して多くはない。それでも、さすがに軍令部のゲアハルトの執務室が燃え、彼自身も意識不明にあるという状況を隠し通すことは出来ず、白の輝石を狙った下手人の仕業ということで表向きは処理されている。エルンスト自身の件に関しても、一切のことを伏せてはいるものの、人の口に戸が立てられないようにいずれは事の次第が漏れ出てしまうことだろう。表向きは一身上の都合で持ち場を離れているということにしてはいるが、それだけで納得する者がいるはずもない。


「お前の所為じゃない。……司令官がそんな簡単にどうにかなるはずないだろ。寧ろ、普段働き過ぎなんだから少しぐらいこうして休んでる方がいいんだ」
「……けど、」
「レックスはよくやった。頑張った、本当に。オレはそう思ってる。だから、あんまり自分を責めるなって」


 そう言ってレオは笑った。その明るい笑みに居心地の悪さをレックスは感じる。自分が仇を前にしてそちらに意識を取られなければと思わずにはいられないのだ。けれど、その者の存在をどうしても告げることは出来なかった。告げれば、レオは心配する。まず間違いなく、心配して、不安にさせる。それだけはしたくなかったのだ。


「……オレのことより、お前こそ大丈夫なのか?明日だろ、即位式」


 レオは明日、即位する。ベルンシュタインの国王となるのだ。今はそちらに集中するべきであり、今だってこうして抜け出している余裕なんて本当はないはずなのだ。だからこそ、心配は掛けたくはなかったし、不安にもしたくなかった。
 ただでさえ、ゲアハルトは未だ意識が戻らず、エルンストも捕縛されているのだ。支えてくれる者もレオにとってはとても限られている以上、彼らの不在は痛手だ。自分がいても、彼の為に出来ることなど高が知れている。それを思うと、歯痒くして仕方なかった。


「延期にはならないのか?」
「その話も出たけど……予定通り、続行することにした」
「……平気なのか?」
「平気だとか、そうじゃないとか、言ってられる状況じゃないから。司令官の意識が戻らない今、帝国にとって今はまたとない好機だ。だからこそ、延期するわけにはいかない」


 こういうときだからこそ、オレは国王に即位しなきゃいけない。
 レオの目に迷いはなかった。真っ直ぐに向けられる碧眼にレックスは小さく息を呑んだ。以前までとは違う様子に目を瞠るも、その後すぐに表情を崩してふにゃりと力無く笑うと「かといって、不安がないわけじゃないけど、ここまで来たらもうやるしかないだろ」と言う彼は普段と何ら変わらなかった。
 支えてやらなければと思う。ゲアハルトの代わりになることは出来ず、シリルやエルザのようにレオを守ることは出来ない。自分にそのような力がないということは分かっている。けれど、今まで親しくしてきたのだ。喧嘩もしたが、それ以上に笑い合っていたことの方が多かった。身分なんて関係ないのだ。不相応なことをしようとしなくてもいい。自分がレオの為に出来ることをすればいいのだ。
 それはとても些細なことかもしれない。けれど、今までと何ら変わらず接することしか出来なくとも、それはきっとレオの支えになれるはずだ。ふにゃりと力の抜ける笑みを浮かべるそんな様子こそがレックスの知る彼の姿であり、そんな姿を晒せる場所こそが自分がレオの為に出来ることなのだとも思う。


「明日、見に行くよ。即位式」
「いいって、恥ずかしいだろ」
「行くからな、絶対」


 間違えんなよ、ちゃんと手順確認しろよ。からかうようにそう言うと、レオは苦笑いを浮かべながらも「分かってるっつの。お前もちゃんと休めよ」と口にする。そうして一頻り笑うと、肩から力が抜けたようだった。だが、それはレオにも言えることらしく、この場に来たときよりもずっと、表情は柔らかくなっていた。
 最後にもう一度、レオを励ますと彼は照れたように笑いながらもどこか寂しげに「出来れば、みんなに見てもらいたかったんだけどな」と呟いた。ゲアハルトやエルンスト、アベルにアイリス――全員揃っていて欲しかったというレオの言葉に、レックスは視線を伏せながら頷く。けれど、そればかりはレックスにもどうすることも出来なかった。出来ることがあるとすれば、祈ることぐらいだ。歯痒いなと思いながらも、「殿下、そろそろ」と廊下の端で待機していた近衛兵がレオを呼びに来る。


「ああ、分かった。……じゃあ、レックス、あんまり根を詰め過ぎるなよ」
「分かってる」
「ちゃんと休めよ。お前まで倒れたら困るんだからな」


 念押しするレオに苦笑を浮かべながらも頷き、レックスは彼を送り出した。そしてまた、椅子に腰かけて物音一つしないゲアハルトが眠る部屋を見つめる。せめて、彼が目覚めてくれたなら――レオも少しは安心するだろう。そして、もしも明日、突然アイリスが戻って来たなら、きっとレオは喜ぶに違いない。自分だって嬉しい。けれど、そんなにうまくいくほど世界が優しくないということも、彼は知っていた。それでも、願わずにはいられない――レックスは目を閉じると、かつては信じていた神に祈った。

  


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