恋情 - the treachery -



 馬の蹄が地面を蹴る度、水たまりの泥水がぱしゃりと跳ねる。鬱蒼と生い茂る木々の隙間から差し込む月明かりが薄暗く周囲を照らし出していた。蹄の音と泥水が跳ねる音、それから時折聞こえるお互いの呼吸音しか耳に届かない。とても静かだった。
 馬を駆るアベルの背中を見ながらアイリスは視線を伏せる。遅くとも明日の昼には街に到着するだろう。そのことを思うと、安堵以上に不安が過った。彼は一体どうするつもりなのか――それが気掛かりであり、聞けずにもいた。面と向かって別れを告げられることが、どうしようもなく怖いのだ。
 洞窟で仮眠を取った後、すぐに夜も明けぬ間に移動を開始した。再びフェンリルの背に跨り、森の中を駆けていく。そうして、朝日が昇り、薄暗かった森の中も幾分も明るくなってからも時折休憩を挟みつつ、移動を続けた。そして、夕方に差し掛かった頃、森の開けた部分にひっそりと佇んでいた民家を発見し、そこから一頭、馬を拝借したのだ。もうすぐ森を出て移動することになる以上、今までのようにフェンリルの背に跨ることは出来ない。どうしても馬が必要であり、アイリスは申し訳なく思いつつも、こっそりと厩から馬を一頭、連れ出した。全てが終わったその時にはちゃんと馬を返しに来ようと決め、彼女はアベルの後ろに跨った。


「……そろそろ、今日の寝床を探すよ」


 事前にアベルが用意してくれていたということもあり、食糧などに困ることはなかった。けれど、だからといって休まずに馬を駆り続けることは出来ない。自分たちが休むことは勿論、移動の足でもある馬を休ませなければならない。アベルはゆっくりと馬の速度を緩めつつ、「フェンリル、探してきて」と呟く。その次の瞬間には空中に魔法陣が浮かび上がり、そこから巨躯の狼が姿を現して並走し始める。だが、すぐに傍を離れて寝床になりそうな場所を探しに行ってしまう。
 自分たちだけで見つけることは難しいということは分かってはいるが、だからといって度々、フェンリルを呼び出すところを見るとアイリスは何とも言えない気持ちになる。召喚獣は契約者の命を削って召喚される異界の生き物だ。アベルに従順であり、アイリス自身、フェンリルにはこれといって悪い感情を抱いているというわけでもない。けれど、アベルの命を削ってこの世界に姿を現しているのだと思うと、やはりその存在には喜べなかった。


「……どうして、フェンリルを召喚したの?」


 だからこそ、聞かずにはいられなかった。その頃には既に馬は人の歩く速度と変わらぬ歩みとなっていた。アベルはゆっくりと馬を歩かせ、暫しの後に「必要だからだよ」と呟いた。寝床を探す為に必要だからだろうかと思うも、口数も少なく言い放った彼の様子を見ていると、何か別の理由があるように思えた。
 けれど、無理矢理、問い質すようなことは出来ず、アイリスは何と言うべきかと言葉を探していると唐突に視界の端を黒い影が過った。何なのかとびくりと身体を強張らせながら目を凝らすと、宵闇に紛れて馬の足元にはフェンリルに比べるとずっと小柄に見える狼がいた。そして、その狼が咥えているモノを見るなり、アイリスは顔を引き攣らせた。狼はだらりと弛緩しきった様子の蛇を何匹も咥えていたのだ。


「……カインが探してるんだ」
「……え?」
「カインは蛇の召喚獣と契約してる。……この蛇はカインの召喚獣の眷属だよ、それを使って僕たちを探させてる」


 アベルは馬から降りると、血を流して絶命している蛇を咥えている狼の傍に膝を付いた。そして、まるで犬にするかのようにその頭を撫でながら、咥えている蛇を地面に置いた。改めて周囲を見渡してみると、木々の隙間からこちらを覗くたくさんの瞳が見え隠れしているようだった。恐らくは、アベルが契約している召喚獣――フェンリルの眷属である狼たちだろう。いつの間にこんなにも周囲に集まっていたのかは知れない。だが、自分が知らないだけでずっと周囲を駆け、カインの追手である蛇から守ってくれていたのだろう。
 彼らがいなければ、既に捕まっていたかもしれない。殺されていたかもしれない。それを思うと、彼らの存在はとても心強く思うのだが、それと同じぐらい、それがアベルの命を代償にしたことだと思うと、心苦しくもあった。何と声を掛けていいか分からぬまま、アイリスはアベルの隣に立つべく、馬から降りた。


「見つかればすぐにカインが追手と共にやって来る。こうして蛇を殺させれば、僕たちが取ってる経路もバレると思う。でも、同時に複数の箇所で同じことをしてるからそう簡単には気付かれることはないよ」
「……それだけ多くの狼が動いてるってことだよね」
「そうだよ。最終的には別の方向に誘導するつもり。それに上手く騙されてくれるかどうかは分からないけどね」


 そう言うと、アベルは狼を一撫でして立ち上がった。そして、馬の手綱を引いて歩き出す。尻尾を揺らしながら森の奥へと戻っていく狼を見送ったアイリスは先を歩きだしているアベルに追い付くべく、早足でその背を追いかける。けれど、その隣に並ぶことは出来なかった。どんな気持ちでアベルは蛇を殺した狼を撫でていたのか――それを思うと、とてもではないが隣に並ぶことなど出来なかった。


「……何も聞かないんだ」


 それから暫く歩き続けた後、唐突にぽつりとアベルは呟いた。何を、とは聞かずとも知れたことだった。カインのことを、アベルが裏切ったことも何もかもを、アイリスは何一つとして聞かなかった。聞こうともしなかった。そのことを言っているのだろう。彼自身が口火を切ったことに驚きつつも、彼女は何も言えなかった。
 聞きたいことは山ほどある。アベルのことを考えれば考えるだけ、知っていることなど殆どないことを思い知っていたからだ。昔のことを少しだけ、聞かせてもらったことはあった。子どもの頃に親に売られた元奴隷。売られた先の貴族に虐待され、飼育されていたと言えるような扱いを受けてきたのだと話していた。そして、ある人物に助けられた彼は恩返しの為に軍に入隊したのだとも教えてくれた。
 その時、アイリスはその助けた人物がルヴェルチだとばかり思っていた。アベルは彼の推薦によって特例措置で軍に入隊していた。だからこそ、恩人はルヴェルチであるとばかり思っていたのだ。けれど、今ならば、それは自分の勘違いだったということは分かっている。ルヴェルチはヒッツェルブルグ帝国の内通者であり、アベルは帝国から送り込まれた間者だった。そんな彼が入隊出来るように取り計らったという関係に過ぎないのだ。


「もっと色々と聞かれると思ってた」
「……聞きたいことは、山ほどあるけどね。何から聞いたらいいのか分からなくて」


 何を聞いても彼を傷つけることにしかならない。それが分かっているからこそ自然と聞けなくなってしまう。もう十分過ぎるほどに傷ついているのだ。気にはなるものの、その傷口に塩を塗り込むような真似にしかならないのなら、聞かない方がいいのかもしれないと思った。
 否、本当は怖いのだ。近付き過ぎれば、傷つけてしまう。距離感を誤れば、容易く人を狂わせてしまう。他人と接するということは、自分で思っているよりもずっと難しく、とても繊細な行為なのだということをアイリスはエルンストのとのことで思い知らされた。同じことがまたアベルと起きてしまったら――そんなことはないだろうとは言い切る自信はなく、だからこそ、彼の中に踏み込む勇気が持てないのだ。
 そんなアイリスの気持ちに気付いているのか、いないのか、アベルはゆっくりとした足取りで馬を引きながら「……前にも話したけど」と酷く落ち着いた、穏やかな声で話し始めた。


「僕は助けてくれた人への恩返しの為に軍に入ったって言ったよね」
「……うん、覚えてる」
「多分、あんたはルヴェルチだと思ってたんだろうけど……僕たちを助けてくれたのはヴィルヘルム殿下だった。いや、もう即位したから陛下、か。司令官とは従兄弟同士だから初めて司令官と会った時はやっぱり似てるなって思ったよ」


 あの人が優しかった頃によく似てる。
 懐かしむような声音が耳に届いた。そのような言い方をすれば、今はもう優しくはないのかと疑問に思うも、以前、ゲアハルトから聞かされたことを思い出す。黒の輝石は人を狂わせる――それがどのようなものかは分からないものの、例えばそれは、アベルが今言ったように、人の優しさが無くなるということなのかもしれない。


「ヴィルヘルム陛下は僕たちを助けてから、色んなことを教えてくれた。字の読み書きから色々と。まともな衣食住にありつけたのも陛下に助けられてからだったな」
「……家族は……」
「帝国の僻地の寒村生まれなんだ、僕は。そんなところでは魔法なんてものは早々目にするものではなかったし、僕も上手く魔力を操れなくて暴発ばかりしていたから気味悪がられるばかりだった」
「……」
「だからだよ、売られたのは。気味悪がった両親に食い口を減らすために、僕は人買いに売られた」
「そんな……」
「事実だよ。……その時、カインも一緒に来てくれたんだ。僕のことなんて放っておけばいいのに。元々、魔法も使えなかったカインは特に嫌われてもなかったんだから……それなのに、僕なんかに付き合って、ここまで来た」


 悔いているような響きが籠っていた。人買いに売られた時にカインを追い返していれば、どうにかして離れ離れになっていたのなら――と、今まで何度も考えて来たのだろう。それは考えずとも知れたことだった。アベルは後悔しているのだ。カインを、自分の兄を巻き込んでしまったことを、悔いている。
 過去は変えられないのだとアベルは言っていた。身体中に残る傷痕を見せてくれた時、彼は言ったのだ。過去は変えられないのだと。けれどそれは、もしかしたら自分自身にも言い聞かせていたことなのかもしれない。どれだけ悔いてもカインを巻き込まないというように過去を変えることは出来ない。だからこそ、受け入れるしかないのだと。


「本当は魔法なんて使えないんだ。それなのに、僕と一緒に……同じになる為に、召喚獣と契約までしてしまった」
「……元々、お兄さんの方が先に契約したの?」
「そうだよ……でも、多分……契約しようと思ってしたわけではなくて、唆されたんだと思う。あの大蛇に」


 拳を握り締めるアベルにアイリスは視線を伏せた。どのようにして召喚獣と契約するのか、アイリスも詳しいことは知らない。だが、少なくともアベルにとって、カインが行った契約は許し難いものであるらしい。それは召喚する代償が契約者の命を削ることだからかもしれないが、それはカイン同様に召喚獣と契約を交わした彼にも言えることだ。
 こうして改めて話を聞き、隠れ家から逃げ出す前に聞いたアベルの話を思い出すと、彼がどれほどカインのことを大事にしているのかが痛いほど伝わってくる。それが分かっているからこそ――分かっているなどと思うことはおこがましいのだろうが――隣には並べないのだ。距離を詰めることすら出来ない。


「……アベル」


 そんな彼女の気持ちに気付いているのか、アベルは不意に足を止めた。馬の手綱さえ手放してしまう。ゆっくりとした動作で近くに聞こえる川のせせらぎの音に誘われるように離れていく馬を横目で見送りながら、アイリスは自分に背を向けたまま立ち止まっているアベルに声を掛けた。それでも、近付くことは出来なかった。
 助けてくれてありがとう、とは言えない。かと言って、一緒にベルンシュタインに戻って欲しいとも言えない。ごめんなさい、と謝ることも出来ない。何を口にしたところで、彼を傷つけることに変わりはないのだ。視線をアベルに戻すと、彼の肩が微かに震えているように見えた。それに気付くなり、言葉が喉をせり上がるも、結局のところ、音にならずに消えてしまう。何を言おうとしたのかは分からない。けれど、何か言わなければという焦りから言葉が湧き上がったのだ。


「……苦しいんだ」


 ぽつり、と一言、アベルは言った。苦しいのだと、彼は微かに震える声で囁いた。ともすれば、風に溶けて消えてしまいそうなほど、小さな弱々しい声だった。


「自分のしたことに後悔はしてない。あんたを連れ出せばどうなるか、ちゃんと分かった上での行動だった。それなのに……苦しいんだ」
「……」
「カインを裏切ることになるって分かってて、それでもあんたを連れ出すことを自分で選んだのに……胸が苦しくて仕方ないんだよ」


 自分の胸を押えて、彼は苦しげに言葉を吐き出す。分かっていた苦しみだとしても、それよりもずっとずっと重く苦しく、痛みを伴って苛んで来るのだろう。アベルにとって、それだけカインの存在は特別なのだ。本当に大切な存在だからこそ、覚悟の上で裏切ったとしても、苦しくて苦しくて仕方ないのだ。
 目の前で苦しむアベルを見やり、アイリスは足を踏み出そうとするも、歯を食い縛って踏み止まる。自分にどうにかすることは出来るだろうか。それを考えても、何も思い浮かばないのだ。月並な言葉さえ浮かばない。それはきっと、罪悪感で胸がいっぱいだからだ。アベルにそんな思いをさせることになったのは他ならぬ自分に原因があるのだ。そんな自分が、彼を慰めるなんてことはあまりにも筋違いに思えたのだ。


「カイン以外に大事なものなんてなかったんだ。そんなもの、欲しくもなかった。大事なものなんてカインだけで十分だから、他にそんなものが出来ないように生きてきた」
「……」
「それが僕にとって絶対的なルールだった。カインは僕の為に色んなものを捨ててくれた。こんな僕のことを大事にしてくれたんだ。だから、僕はカインが与えてくれたもの以上に、与えなきゃいけない。ずっとずっと、そう思ってきた」
「……」
「……なのに、僕は自分で決めた絶対のルールを、自分で破ったんだ」


 自分の為に全てを投げ出してくれた。貧しくとも戦争とは程遠い、危険のない生活を捨ててまで、家族を捨ててまで自分と共にいることを選んでくれた。何よりも自分のことを大事にしてくれたのだから、それと同じことを返したいと思ったのだ。だからこそ、大事なものはカインだけでいいと思っていた。それ以外は要らないし、持つべきではないとも思っていたのだ。
 けれど、自分で決めたそのルールを、自分自身の手で破った。だからこそ、苦しいのだと、彼は悲痛な声音で叫んだ。それはアイリスへの怒りや苛立ちからではなく、ルールを破った自分自身を責め苛んでいた。破らせたのは自分なのだから、自分を責めればいいと言おうとアイリスは口を開く。けれど、言葉が出るよりも先に振り向いた彼の隻眼に浮かんだ涙を見て、言葉は掻き消えてしまう。


「僕は自分で決めたんだ。カインを裏切るって……カイン以外に、大事なものなんて要らないと思ってたのに、カインと……兄さんと同じぐらい大事なものが出来たんだ」
「……」
「あんたが兄さんが僕にするように、優しくしてくれるから……僕と一緒にいてくれるから……それに、あんたは危なっかしいし、放っておいたら無茶ばっかりするし……馬鹿だし、抜けてるし、心配ばっかりさせて……」
「アベル……」
「優しすぎるから、放っておけなくて……傷ついて欲しくないから、傍にいたいと思って、一緒にいたいんだって……そう、思って……いつの間にか、兄さんと同じぐらい、大事になってた」


 耳に届くその言葉はどれも涙で濡れて震えていた。真っ直ぐに胸に届くその言葉に、アイリスはじわりと涙が浮かんだ。優しくしてくれたのは彼の方であり、放っておいたら何処かに行ってしまいそうだから、心配ばかりしてしまって、放っておけなくて、一緒にいたいから、戻って来て欲しいとずっとずっと、思っていたのだ。
 大事なのだ、アイリスにとってもアベルの存在は。大事に思っているからこそ、その言葉は嬉しくもあり、胸が痛みもした。


「それに気付いてから、ずっとずっと苦しかった。痛くて、苦しくて……あんたと一緒にいたくて、兄さんを一人にしたくなくて……」
「……」
「ベルンシュタインにいた頃も苦しかったけど、でも、離れてからの方がずっと苦しかった」
「……」
「あんただけじゃなくて、あの馬鹿二人と阿呆軍医と司令官と……一緒にいられないのが、辛くて辛くて仕方なかった。戦わなきゃいけないのが、本当は嫌で、すごく嫌で……」


 ぽたりと涙が頬を伝う。声を上擦らせて涙を流しながらも話し続けるアベルを前に、アイリスは口を閉ざした。


「敵であろうとしたのに、どうしてもなりきれなくて……だから今、こんなに苦しいんだ」


 片手で目元を覆いながらアベルは言う。形振り構わず涙を流す彼を前にアイリスは駆け寄りたい衝動に駆られる。けれど、彼もそこから一歩も動こうとしないように、彼女もまた、動けなかった。掛ける言葉がないからというだけではなく、彼が距離を詰めるか否か、答えを出さなければならないからだ。
 カインの元に戻るのか、それともアイリスと共にベルンシュタインに戻るのか――それを決めかねているからこそ、彼は今、こんなにも苦しんでいる。どちらも同じぐらいに大事だからこそ、選ぶことが出来ない。どちらを選んでも傷つくことにも傷つけることにも変わらない。どちらを選んでも同じ痛みが残るのだ。


「……兄さんを裏切ったことが苦しくて、あんたが好きだから苦しくて……」
「……」
「こんなに苦しいぐらいなら、……裏切って傷つけるぐらいなら、僕はあの時、死にたかった」


 彼の言葉が胸に突き刺さる。アイリスらを裏切ることも、カインを裏切ることも、それは周りの人間を――大事にしたいと思う人間を傷つけていることに変わりはない。そして、その痛みに耐えられるほど、アベルは強くはない。優しすぎるのだ。だからこそ、彼は言った。死にたかった、と。
 本当はきっと、死ぬつもりだったのだろう。ライゼガング平原での工作任務の最中、橋を落とすことによってアベルはそこで死ぬつもりだった。生きていれば、アイリスらを裏切ることになる。かと言って、彼女らと共にベルンシュタインに戻れば、それはカインを裏切ることにもなる。そのどちらかを選ぶことは出来ず、たとえ選べたとしても今のように苦しむであろうことは分かっていたのだろう。
 だからこそ、死ぬつもりだった。けれど、死に切れなかった。生き残ってしまった。アベルはきっと、そのことを悔やみながらも今日まで生きてきたのだろう。カインの隣で、兄の為に生きていたのだろう。


「……死にたかったなんて、言わないで」


 気付けば、一歩を踏み出していた。アベルが選ぶことだと思っていた。待つつもりだった。そうでなければならないと思っていたのだ。けれど、歩み寄ってしまった。一歩踏み出してしまえば、後は容易く、距離を詰めていた。駆け寄って、自分と然程背も変わらない、痩せた身体を力一杯、抱き締める。


「アベルが生きててくれて、嬉しかったの」
「……」
「またこうして、話せて本当に……嬉しいの」


 ぽたりぽたりと首筋に熱い涙が落ちてくる。さらさらな黒髪を撫でながら、アイリスはきゅっと唇を噛み締める。こんなことしか言えないのだ。精一杯、伝えてくれた彼の想いに答える言葉が見つからない。それが申し訳なくもあり、情けなさと歯痒さでいっぱいになる。けれど、どうしても一言だけ、伝えたいことはあった。


「……アベル、助けてくれて、ありがとう」


 これだけは伝えておきたかった。アベルが助けてくれなければ、殺されていただろう。それこそ、カインに殺されていても何ら不思議なことはない。彼は自分を酷く嫌っている。それは、王都で遭遇した時に、嫌というほど理解していた。その時のことを思い出すと、今でも腹部に残る傷痕が痛む。
 アイリスはゆっくりとアベルの頭を撫でながら、口を閉ざした。それ以上のことは、何も言えなかった。ただ、ゆっくりとアベルが落ち着くまで傍にいて、抱き締めて、頭を撫で続ける。彼は最も大切にしていた兄よりも自分のことを選んでくれた。助ける為に、共に来てくれた。けれど、そこから先、どうするかはアベル次第だと思っている。
 共に来てくれたとしても、彼はベルンシュタインにとっては裏切り者だ。捕縛されることは必至であり、アイリスがいくら庇ったところで出来ることなど高が知れている。だからこそ、アベルが自分自身でこれから先、どうするのかは決めるべきであると思っている。だが、本当に――別れを前にして、自分は今と同じ考えを口に出来るのだろうかとも思った。もう一度、また、彼の手を離すことが出来るのか――アイリスはそこまで考え、ああ、だめだ、と視線を伏せる。堪え切れず、涙が零れた。あんな思いは、もうたくさんなのだ。
 あまりに矛盾し過ぎている。それは分かっていても、簡単に割り切ることも、感情的にならないことも無理そうだった。ひんやりと冷たい風が吹く。けれど、今はそれも心地よかった。零れた涙が乾いてしまえば、涙を流したことも彼に気付かれることはない――アイリスは声を押し殺し、唇を引き結んで、肩に押しつけられ顔から感じるじわりと浮かんでは首筋を濡らす涙が早く止まることを祈りつつ、頭を撫で続けた。



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